「ザ・レイプ・オブ・南京」
中国の陰謀を見た

アメリカを巻き込んだ中国のプロパガンダ工作に日本はなすすべもない。
目を覚ませ、ニッポン!

浜田和幸(国際政治学者)

平成10年9月特別号「文藝春秋」180、181ページ

「文藝春秋」平成10(1998)年9月特別号より転載


 この(HP作者注・平成10年)6月末から7月初め、クリントン大統領が千人近いお供を連れて中国を訪問している頃、筆者は再開発で小奇麗になったワシントンのチャイナタウンで旧知の中国系アメリカ人たちと青島(チンタオ)ビールの杯を重ねていた。
 米中関係の将来や、それが及ぼす日本への影響などについて、いつ果てるとも無い議論を続けるうち、ホワイトハウスで働くひとりが、「これからちょっと変わったパーティがあるから来ないか」と言い出した。
 連れて行かれた所は、何のことはないポトマック河の対岸の別の中華料理店であった。
 すると店の前に人だかりが出来ている。
 不思議に思いながらエスカレーターを下ると、目の前にショッキングなパネル写真が飛び込んできた。
 20枚ほど並べられたポスター大の写真はすべて南京虐殺事件とおぼしきものばかり。
 中国人が惨殺されている横で日本軍兵士が刀を掲げているようなシーンの連続である。
 更に驚いたのは、これらの写真や、その解説文をメモに取ながら食い入るようにして眺めている集団の存在である。
 年齢もばらばらで、杖を頼りによろよろ歩く老人もいれば、オフィスから直行したとおぼしき背広姿のサラリーマンやタキシードとイブニング・ドレスで着飾った男女のペアもいる。
 そのそばには、ウオークマンを耳にあて体をくねらせながら写真に見入っている若者もいるといった具合である。
 彼らの共通点は皆、中国語を話していることであった。
 これは20万部のベストセラーとなった「ザ・レイプ・オブ・南京」の著者として、一躍有名人の仲間入りをした、若き中国系アメリカ人ジャーナリスト、アイリス・チャン女史の支援団体が主催するディナー・パーティであった。
 彼女の活動を応援しようとする動きが、アメリカやカナダの中国人社会を中心に活発化しているという話は聞いていたが、まさにその会合に行き会った訳である。
 友人に言わせると、クリントン大統領の訪中に照準を合わせて、ワシントンだけでなく、ニューヨークやロサンゼルスなど全米各地で、第二次大戦中の日本軍による残虐行為を糾弾し、日本政府に正式の謝罪と賠償を要求する集会を開催しているとのこと。
 確かに、「変わったパーティ」に呼んでくれたわけだ。
 そこで「一日警察署長」ならぬ、「一晩限りの中国人」になって、何でも見てやろう、と覚悟を決めた。
 先ずは、店の前に展示してあるパネル写真をもう一度ゆっくり見て回る。
 ぼやけた写真が多い上に、出所は一切明記していない。
 周囲からは「よくこんな酷いことが出来る」「日本人は鬼だ」「この恨みは忘れるわけにはいかない」といったひそひそ声が聞こえてきた。
 こんな写真を何枚も見せられれば、誰でもそう思うであろう。

虐殺を忘れないための一夜

 この中華料理屋の入っているビルは、アメリカ唯一の全国紙「USAトゥデイ」の本社のすぐ隣。
 店は貸切だが、その前は結構人通りが多く、この日本人糾弾集会に関係の無い、通行人も思わず足を止め、これらおぞましい写真が目に飛び込む仕組みになっている。
 写真に添えられたアピール文を読むと、更に驚かされた。

 「日本軍による残虐行為の犠牲者は南京での30万人にとどまらない。
 アジア全体で見ると、日本の非人道的殺戮行為に犠牲者は三千万人に達する。
 日本軍の狡猾さは真珠湾攻撃で実証されている。
 このような極悪非道を重ねながら、日本政府は公式の謝罪を拒み、被害者に対する補償も全く行っていない。」

 「戦後、ドイツ政府はナチスのユダヤ人迫害に対する責任を認め、その賠償に積極的に取り組んでいる。
 アメリカ政府も、戦争中、日系人を捕虜収容所に強制連行したことの非を認め、公式の謝罪と補償を行った。
 それに比べ、日本政府はアジアにおける残虐行為の責任を認めるどころか、そのような事実を隠蔽することに血眼になっている。」

 「我々は日本軍が行った非人道的行為を歴史の闇から蘇らせ、その責任を全うさせる目的でこの掲示を行っている。
 この趣旨に賛同される方は、是非とも募金をお願いする。
 集まったお金で、日本軍の残虐行為を後世に伝えるためのホロコースト歴史館を建設する計画である。
 今こそ、全世界の良心に訴え、日本の戦争責任を追及する時である」

 南京事件の犠牲者数については、中国政府が一方的に30万人という数字を誇大宣伝しているために、いつの間にかアメリカのマスコミでも、この数字が定着してしまった感がある。
 それに追い打ちをかけるように、「三千万人ものアジアの民の命を奪った日本軍」というキャンペーンである。
 歴代の総理や日本政府が有効な手立てを講じてこなかったツケが、ここにきて一挙に噴出したようだ。
 なぜなら、日本人の戦争責任があっという間に、百倍に跳ね上がってしまったからである。
 これは由々しき事態だと思っていると、突然カメラのフラッシュがたかれ、テレビカメラ用の照明が輝いた。
 ハッとして振り向くと、大勢の報道陣に囲まれて、いかにも今晩の主賓といった風情の中国人がチャイナドレスの婦人を従え、会場に向かっていくではないか。
 「いったい誰か」と好奇心にかられ、後を追ってみた。
 ところが会場の入り口には胸に「工作員」と名札を付けた誘導係員が10人ほど立ちふさがり、あらかじめ決められたテーブルに出席者を案内していた。
 このまま行けば、中国大使館から派遣されたとおぼしき「工作員」に阻止されるのは火を見るより明らかだ。
 そこでとっさに思いついたのが、学生時代に中国語劇で毛沢東主席の警護官の役を演じた時の台詞であった。
 先を行く「大物」らしき人物の前に進み出て、大きな声で「譲開点儿(ランカイティアー)」(どいて下さい)と叫んでみた。
 入り口付近で滞っていた人並みがさーっと横に引いて、進路が開かれた。
 後は、この一行とともにメインテーブルまで行き、適当な頃合を見計らって、会場の奥まった一角にあるバーに腰掛け、高みの見物を決め込んだ。
 改めて会場を見渡すと異様な光景が目に入った。
 先ずは、ステージ上に掲げられた大きな大弾幕。
 真っ赤な文字で「日本による南京虐殺を決して忘れないための集会」と書かれている。
 入り口近くに張ってある会場案内図を見ると、30ほどあるテーブルのホスト団体の名前が読み取れる。
 在米華僑商工会、ワシントン中国人商工会、中国系アメリカ人作家協会、中国人スポーツ愛好会、中日戦争の歴史を正しく記録する会等々。
 400人は入る会場はすでにほぼ満員状態である。
 さまざまな団体が12人がけのテーブルを各々買い取り、会場に提供しているようだ。

支援した財団の正体

 先ほど、主賓席まで同行した夫妻のもとには出席者が盛んに挨拶に訪れている。
 バーテンに聞くと、華僑商工会の会長夫妻とのこと。
 しばらくすると、一足先に会場に入っていた友人が連れの女性と共に現れた。

 「上手くもぐり込んだね」
 「アイリス・チャン女史の姿が見えないが、来ないのかい?」
 「そのようだな。彼女は中国人社会ではいまや大スターさ。今晩だって、アメリカ中で似たような集会が開かれている。いちいち顔を出すのは不可能だよ。」

 そこで、出版社に勤めるという友人のガールフレンドが口を挟んだ。

 「それに彼女の役割はもう終わったも同然ね。
 もともと、例の本に書いてある中身に目新しいものは何も無かったわ。
 ただ、アメリカに生まれ育った新世代の中国人にとっては、新鮮な驚きだったわね。
 アメリカで中国といえば、天安門事件以来、人権無視の非民主国家といったイメージが強く、若い中国系の間では、何かと肩身の狭い思いをしている連中も多かったのよ。
 この本が出たお陰で、アメリカのマスコミが、日本軍というもっと酷い存在に関心を向け始めたことで大いに溜飲を下げたってところね。」
 「まぁ見方を変えれば、アメリカ国内で力を増してきた中国人への警戒心を和らげ、中国とアメリカが手を握るためには、共通の敵が必要なわけで、日本をスケープゴートとして上手く使ったってわけだ」
 「おいおい。それじゃあの本は米中結託の産物ということかい」
 「そうとも。アイリス・チャンは真面目な動機で資料を漁り、正義感に燃えて、芥川龍之介の小説「藪の中」にヒントを得て南京大虐殺を、被害者(中国)、加害者(日本)、傍観者(アメリカ)の三者三様の立場から書き上げたと自画自賛しているが、とんだお笑い草さ。
 彼女は自分の知らない大きな政治組織によって操られていたことに全く気付いていない、お人好作家のタマゴってわけだ。」
 「いったいどういうこと?」
 「南京事件については幼い頃から関心を抱いて、あちこちかぎまわっていた中国系アメリカ人のフリー・ジャーナリストに美味しい餌をぶら下げればどうなるかを十分承知している連中が仕組んだことさ。
 悪魔のような日本軍の残虐行為を暴く、若くて美人の中国系アメリカ人となれば、アメリカのマスコミはこぞって取り上げる。三年前の失敗から教訓を得たわけさ」
 「というと?」
 「当時、我々は戦後50年を目前に控え、アメリカによる広島、長崎への原爆投下について国際的な批難の声が再燃することを懸念していた。
 そこで、何らかの中和剤を前もって用意しようということになった。
 そこで思いついたのが、日本軍によるアメリカ人捕虜の取り扱いが国際的に見て余りに残虐非道であったのとのキャンペーンをオーストラリアの歴史学者を使って展開したってわけだ。
 ところが、残念ながら、期待したような成果は上がらなかった。」
 「確か、アメリカ兵にとって、太平洋戦線で死ぬ確立は20人に1人。
 ナチスの収容所では25人に1人。ところが日本軍の捕虜収容所では3人に1人が殺された。
 しかも、筆舌に尽くせぬ残酷な方法で・・・というキャンペーンだったね。あの時も、今回と同じように、日本政府の謝罪と補償を要求したが、あまり盛り上がらなかった。
 やはり、主役をアイリス・チャンという若い女性に代えたのがヒットした原因なのか。」
 「そういうことだ。
 「「日本軍捕虜収容所」を書いてもらった大学教授には申し訳ないが、「ザ・レイプ・オブ・南京」と比べると、同じ内容でも、マスコミの取り上げ方が百倍はインパクトがあった。」
 「ジャンヌ・ダルク気取りのチャン女史は知るすべもないでしょうが、彼女は最初に接触をした「南京大虐殺の犠牲者を追悼する連帯」や彼女の講演をお膳立てしている「アジアにおける第二次世界大戦の歴史を保存するための世界同盟」は、中国政府が裏で糸を引く組織よ。
 その上、彼女が旅費を提供した「太平洋文化財団」は、中国とアメリカの諜報機関が関与していると言われているわ。
 それに論文執筆中の活動費を負担したジョン・アンド・キャサリン・マッカーサー財団といえば、有名な左翼支援団体よね。
 その上、彼女の本の出版社は中国市場への参入を虎視眈々(こしたんたん)と狙うマスメディアの大物ルパート・マードックの傘下にあるときている。これだけ言えばおわかりでしょう。」
 早速、この話の裏を取るべく、米議会の調査局や中国に詳しい民間の研究所を回り調べることにした。
 その結果、議会調査局で判明したことは、中国の人民解放軍が1982年の「軍事統合政策」のもとで、1万社を越える企業を発足させ、対外ビジネスに本格的に参入したこと。
 特に、1985年に軍事予算が大幅に削減された後は、あらゆる手段を講じて外貨を獲得する必要性に迫られ、軍の関連会社の多くがアメリカで非合法ビジネスに従事するようになったという。
 もちろん、シティバンクやバキスタン・ロビンス・アイスクリームなどアメリカ企業と正規のジョイントベンチャーを組む場合もあるが、中には麻薬や兵器の密輸、騒乱工作、情報や技術のスパイ活動に関与するケースも後を絶たないようだ。
 AFL-CIO(アメリカ労働総同盟産業別組合会議)やランド研究所での調査を見ても、そのような非合法活動を行っている中国政府のダミー会社がアメリカには800近く存在する。
 そこで1997年11月の上院外交委員会の決議を受け、アメリカ政府はその中でも特に危険な動きを見せる200社余りについては常時監視下に置くようになった。
 そのような中国系組織を巡る人、物、金の動きをモニターする専門家筋の情報として、チャン女史に資料提供を行い、講演会を企画している2つの団体は確かに、中国政府から資金提供を受けていることが確認された。
 また、旅費を負担した財団の実態は不明な点が多いが、その財源に中国がアメリカで行って非合法ビジネスの資金が流れていることは、ほぼ間違いが無いようだ。
 更にその活動にアメリカも関与している点では、複雑な背景が隠されているのだが、要は、日本に批判的な諜報機関の一部が中国と手を握っているようなのである。
 またマッカーサー財団については、これまで資金援助をした研究論文などを調べてみると、確かに旧ソ連や中国の国際関係に関するものが多く、しかも、これら共産圏の政策を評価する傾向があり、確かに「左寄り」と判断されても致し方ないといえよう。
 このように中国当局の隠れた支援もあって、いまやこの日本の戦争責任を追及する市民活動は、アメリカ各地で十分一人歩き出来るまでに成長しつつあるように見える。
 「過去の歴史を認めようとせず、意図的に塗りつぶそうとしている日本の企みは許せない、何としても阻止すべき」という大義名文を掲げて、北米全域の中国人社会で、このような日本糾弾集会が組織的に展開されているとしたら、決して放置しておくべきではないだろう。
 すでに、アメリカ議会では戦争中の日本軍による捕虜の扱いに対する非難決議と正式の謝罪と賠償を求める法案作りの動きが加速化している。
 これら政治的な動きに対して、日本政府はあたかも「見ざる、聞かざる、言わざる」を基本戦略としているかのようである。
 これでは、国際的に「日本は自らの非を黙認した」と受け取られてしまう。
 日本では、現在の経済状況に対してもそうであるが、じっと黙して堪え忍んでいれば、そのうち事態は自然に良い方向に改善していくだろう、という根拠無き楽観論が根強いように思われる。
 果たしてそう上手くいくものだろうか。

まぼろしのテレビ討論

ニュース番組討論の際の映像
斉藤邦彦大使(上)
TV討論の際の映像
アイリス・チャン(上)

 実は、この「ザ・レイプ・オブ・南京」については、CNNテレビから著者のアイリス・チャン女史と斉藤邦彦駐米大使との間で対談をしてはどうかとの申し出があった。
 というのも、この本が各方面に波紋を投げかけることになったことから、事態を重視した斉藤大使はことあるごとに「チャン女史の本の中には、史実の誤った記載や一方的すぎる解釈があり、バランスを欠いている」との発言をしていたからである。
 斉藤大使の発言をまたずとも、日本のマスコミの一部でも、その問題箇所についてはいろいろと指摘がされている。
 しかし、いくら日本の新聞や雑誌で、その引用や解釈の誤りを指摘しても、アメリカの大衆には届かない。
 日頃から「サムライ大使」と異名を取る斉藤大使がアメリカの人気テレビ討論番組に登場し、チャン女史とちゃんと議論をすれば、日米の相互理解に大きな効果があるだろうと期待されるのもうなずける。
 この申し出に対し、斉藤大使も「またとないチャンスだ。受けて立つ」と内心決めていた様子だ。
 しかし、、念のため、事前に大使館の幹部会(「シニア・スタッフ・ミーティング」と呼ばれ、各省庁から派遣されている公使、参事官クラスのトップだけで構成)で、意見調整をすることになった。
 出席したのは、外務、法務、大蔵、通産、農水、科学技術、防衛など十省庁の責任者。
 やる気満々で会合に臨んだ大使に対し、幹部会のメンバーが各々意見を述べた。
 ところが、大使のテレビ出演に賛成し、チャン女史の誤りをきちんと正すべきだと主張したのはひとりだけであった。
 残り全員が反対意見を述べたという。
 これには大使も意気消沈してしまった。
 反対理由の主なものは、「史実の解釈に関する議論は堂々巡りに陥りやすく、泥沼化する恐れが強い」「中国政府の反発を招く可能性が高い」「表現の自由を弾圧する行為と誤解されかねない」「今でも中国系市民団体から斉藤大使の罷免を要求するデモが大使館に押し掛けているのに、全米や世界中に放送されているような番組に出れば、世界中の日本大使館が中国人デモに襲われる危険性が懸念される」といったものだった。
 あまりの反対意見の強さに、結局、この申し出は丁重に断ることにし、大使の考えは文書でテレビ局に伝える事となった。(HP作者注・ただし、その後98年12月1日に斉藤、チャンのニュース討論が行われた
 CNNに文書を送りつけて採用されると思っている外交感覚にも驚かされるが、中国に対して「戦う前に位負け」しているとしか思えない精神構造が外務省のみならず、日本政府全体に蔓延していると思わざるを得ないような事態の方がより深刻である。
 これでは、いくらチャン女史の後ろに中国政府が睨みを利かせているとはいうものの、誤りであろうとも「ご説ごもっとも」と、何でもかんでも頭を下げる「陳謝外交」の域を全く脱していないのではなかろうか。
 最近も、日米間で合意された防衛協力のための方針(ガイドライン)における「周辺事態」の解釈を巡って、中国政府の反発を招くような発言をしたとの理由で、外務省北米局長の首のすげ替えが行われるあり様である。
 このままいけば、南京で犠牲となった30万人分に加えて、アジア全体で犠牲になった三千万人分の補償請求書を突きつけられるのも時間の問題に違いない。
 日本は中国に対して、情報宣伝戦において常に黒星続きになってしまっている。
 斉藤大使がテレビ対談を断ったことで意を強くしたチャン女史や中国系市民団体は、対日非難を一層エスカレートさせている。
 「ニューズウイーク」誌(1998年7月20日)に寄稿したチャン女史は「斉藤大使は私の著作を歴史的に不正確な記述が多く、一方的な内容であると公式の場で非難しながら、その根拠を問われると、何一つ具体的な反証をあげることができなかった」と勝手な勝利宣言をするほどである。
 自ら主張すべき意見があれば、あらゆる機会をとらえて主張するのが国際広報の原則である。
 ましてや、日本国民のプライドがかかっているテーマである。
 自分自身の胸に聞いてみればいい。
 「あなたはほんの半世紀前に三千万人ものアジアの同胞を虐殺した日本人のひとりと思われて平気でいられるのか」と。
 日本国民の名誉と国益を蔑(ないがし)ろにされつつある問題である。
 この事態を正しく認識するには、この本の裏に秘められた中国という覇権国家の野望を冷静に読み取ることが不可欠であろう。
 そのためには、中国の対米情報戦略の尖鋭化を見て取る必要が有る。
 それらの努力無くしては、数年前、李鵬前首相が述べたように、日本は21世紀半ばを待たずして、地球上から抹殺されかねない瀬戸際に立たされているのである。
 中国は勝手な放言を撒き散らすような国では無い。
 遠謀深慮に基づく国家戦略を常に優先する国であり、その伝統は三国志の時代でも今日の共産党政権下でも変わらない。
 この点を、戦略思考の乏しい日本は、ともすると誤解しているようである。

ペンタゴンは中国に怯えた

 今回のクリントン大統領の訪中に関しても、アメリカ政府は盛んに「中国を国際社会に関与」させるために、アメリカが音頭を取っているような宣伝をしているが、クリントンの側にどうしても訪中し、中国の面子を立てねばならない理由がいくつもたまっていたからであった。
 そのことを十分かった上で、中国政府はクリントンを迎え入れているのである。
 言い換えれば、クリントンが訪中せざるを得ないような環境を作ってきたのである。
 であるからこそ、中国のスタンスは人権問題でも核戦略でも、これまでと全く変わっていないのである。
 変わったのはあくまでアメリカの方である。
 そのような対米戦略を考案したのは、江沢民国家主席自らが1995(平成7)年に誕生させた「アメリカ議会対策中央作業グループ」で、中国共産党の最高指導機関である中央政治局の有力メンバー7名に対してだけ報告する極秘の組織である。
 彼らはアメリカの議会、政府のトップを個別に籠絡するために必要な情報収集や働きかけの作戦を日夜練り上げ、ワシントンの大使館へ指示を出している。
 国家主席から特命を受けた対米議会工作班は近年その陣容を大幅に強化しており、日本大使館の動きと対照的である。
 いずれにせよ、クリントンにとっての訪中の理由は次の三点に要約できる。

 第一に、欧州企業に押され気味であった中国市場におけるアメリカ企業のビジネス開拓戦略を支援すること。
 中国は国内のインフラ整備のために道路、港湾、飛行場、鉄道、発電所など総額一兆ドル規模の公共投資を今後3年間で行うと発表し、世界のビジネス界から熱い注目を集めている。
 このような中国の潜在的市場性に引きつけられ、アメリカの大手企業上位五百社の半数がすでに中国に拠点を構え、ビジネスチャンスを狙っている。
 中国の凄まじい点は、自国の外貨には極力手をつけず、アメリカの輸出入銀行や政府の開発資金をうまく引き出すことを考えたり、アメリカの投資銀行を通じて必要な資金調達に成功していることである。
 クリントン政権に政治献金をしてきたアメリカ企業は、訪中の機会に大型商談がまとまるように、ここぞとばかりホワイトハウスに強力な圧力をかけてきた。
 クリントン大統領としては、何としてもアメリカ企業のために一肌脱がねばならなかったのである。
 ボーイング、ゼネラル・エレクトリック、カーギルなど対中進出企業の集まりである「中国との関係正常化行動委員会」の加盟企業が、今回二十億ドルを越える契約調印にこぎつけたことで、クリントンもほっと一息ついたことだろう。

 第二は、インド、パキスタンの核実験を受けて、核拡散や核戦争の危険を回避するためにはどうしても中国を取り込んでおく必要があったこと。
 特に、1996年の台湾海峡での中国によるM-9弾道ミサイル発射は、アメリカにとって「米中核戦争」という悪夢のシナリオを想起させた。
 昨年秋の江沢民訪米が実現し、今回のクリントン訪中につながったのも、中国は核戦争も辞さない危険を秘めた国であるとの思いが、軍関係者の間で強くなっていたからである。
 実はペンタゴンでは1994年、台湾海峡で武力衝突が起こり、米中対立に発展したと仮定した戦争シュミレーションを実施していた。
 その時のシナリオでは緊急事態発生は2010年。
 8人の海軍大将と40人の海軍大佐に、政策立案スタッフが加わり、状況を変えて5回のシュミレーションを行ったが、どうやってもアメリカ軍は中国軍に勝てなかった。
 その悪夢が1996年に早くも実現しそうになったわけで、太平洋司令官のプルハー海軍大将は「あの時は最悪だった。二度とあんなのは御免だ」と語っているほどだ。
 今回の米中合意の第一項目に戦略核ミサイルの相互の照準外しが上げられているのも、こうしたアメリカ側の深刻な危機意識を反映した結果である。
 たとえ、照準の再設定には15分しかかからないとしても、危機的状況においては1分の時間的余裕さえあれば危機が回避できることもあるので、これはクリントン大統領にとって重大な成果といえよう。

 第三に、クリントン政権にまつわる中国からの献金疑惑を打ち消す必要があったためでもある。
 もし、議会共和党の反対に押し切られ訪中を延期ないし中止するようなことになれば、献金疑惑を認めたとも受け取られる可能性があったのである。
 この献金疑惑とは、中国の人民解放軍の女性中佐が民主党の選挙資金調達担当のジョニー・チュン氏に1996年のクリントン再選キャンペーン中に、10万ドルの違法献金をしたという容疑。
 中国政府は否定をしているが、中国の女性軍人が自分のポケットマネーから献金できる金額でないことは誰の目にも明らかである。
 しかし、中国のクリントン大統領に対する懐柔作戦はアーカンソー州知事時代に遡るのが実態のようだ。
 意外に思われようが、中国共産党は国内の経済社会基盤を整備するために、海外で資産を築いた有力華僑との関係を大切に維持発展させてきている。
 特に華僑の百五十財閥との関係には神経を注いでいる。
 具体的には、中国政府はこれら華僑財閥が政情不安な海外市場で築いた資産の避難場所を常に提供してきたのである。
 そのような華僑財閥のひとつが1977年にアーカンソー州に進出したリアディーズ財閥だった。
 この財閥はクリントン知事時代の1984年に、州最大のウォーセン銀行を買収した。
 その過程で、同財閥は2つの法律事務所と密接な関係を築いた。
 ひとつは地元のローズ法律事務所。
 いわずと知れたヒラリー夫人の所属する事務所。
 後に大統領の法律顧問を務めながら不可解な死を迎えたビンス・フォスター弁護士もこの事務所の出身である。
 もうひとつはロサンゼルスに本拠を構えるマナット・フェルブス法律事務所。
 マナットといえば民主党全国委員長を務めた実力者。
 日本でもお馴染みの通商代表を務めることになったミッキー・カンターの所属する事務所でもある。
 米議会調査局がまとめた中国政府の非合法ビジネスや対米情報工作の実態調査報告書などを分析すると、リアディーズ財閥がこれらクリントン知事に近い法律事務所のチャンネルを使って、莫大な政治献金を行うようになった経緯がよくわかる。
 そして1992年にクリントン大統領が誕生すると、中国政府はこのリアディーズ財閥のクリントン・コネクションを通じて、ホワイトハウスにおける情報ルートを確保する。
 その結果、クリントン政権の外交政策に関する極秘情報を入手したり、時には中国に有利な方向で影響力を行使するようになっていった。
 これは中国政府が在外華僑や人民解放軍のダミー会社を使って行っている対米情報活動の氷山の一角にすぎない。

目を覚ませ、ニッポン

 最後に、これほど露骨ではないが、江沢民政府がアメリカの政治に対して影響力を行使するために静かにバックアップしている作戦がふたつある。
 ひとつは中国系アメリカ人の政界入り工作である。
 アメリカの人口に占めるアジア系の比率は年々増加しており、今では約3%に達している。
 その大半が中国系であるが、彼らはこれまでもっぱら経済や科学、芸術の分野でのみ、頭角を現してきた。
 しかし、このところ政治の世界に進出する中国人が急増している。
 ボーイングやマイクロソフトの本社があるワシントン州でワン知事が誕生したのを始め、アメリ政治史上初めてのことだが、カリフォルニア州では共和党から中国系の連邦上院議員候補が出馬を表明して活動中である。
 このようにアメリカ各地の州や郡、市レベルでの首長や議員の民族的背景を調べると、中国系が他を圧倒するようになってきている。
 数年前までは日系の連邦議員が活躍していたが、いまや議員の親日・知日派は潰滅状態である。
 中国系と対照的に日系の新世代は政治に無関心となっている。
 まだまだ不慣れな手口もあり、人民解放軍による不正献金などはその最たるものであろうが、「ザ・レイプ・オブ・南京」を通じて宣伝工作の浸透ぶりを見ると、じきにアメリカ式の草の根市民活動をマスターし、政治への影響力を飛躍的に拡大することになるように思われる。
 ワシントンの中国大使館では、アメリカ屈指のコンサルタント&PR会社ヒル・アンド・ノートンを雇い、アメリカや世界における中国のイメージ改善のための指南を仰いでいる。
 もうひとつは、そのような政治的影響力の受け皿である。
 アメリカ連邦議会の内部に中国シンパを急速に増やしていることである。
 その方法は招待外交である。
 どちらかといえば、従来、あまり日の当たらない部署で、議会の立法活動を支えて来た委員会スタッフや調査会の専門スタッフをこの十年余り、毎年百人近い規模で中国に招待している。
 しかも、飛行機はファースト・クラスというもてなしぶり。
 これには、皆感激してたちまち中国ファンになって帰ってくる。
 日本政府もかつてこの分野に力を入れていた時期もあったが、最近は緊縮財政のあおりで、外務省も通産省もアメリカ議会スタッフの招聘プログラムの規模を大幅に縮小し、年間20人程度になってしまった。
 大切なことは、中国政府が「アメリカを取り込む」という戦略的発想をもって、アメリカの中に中国シンパやエージェントを増やす工作に余念が無いということである。
 そのため、議会の日本専門スタッフを中国に招いても、本人たちの希望に反して、行き帰りに日本に立ち寄ることは禁止しているのである。
 このような構図の中で、アイリス・チャン女史のスター化や日本政府に謝罪や補償を求める市民運動の背後関係を理解し、対策を講じなければ、日本は21世紀最後の情報戦争の敗者として歴史に汚名を残す事になりかねない。
 今の日本はアメリカと「同盟国」という美酒を愛でている間に、中国という「仮想敵国」に毒薬を盛られていることにさえ気付かないほど酔っぱらってしまった悲劇の主人公になろうとしている。
 この(1998年)9月には江沢民国家主席が来日する予定である。
 中国の深慮遠謀に太刀打ちできるよう、小渕新総理には一刻も早く目を覚ましてもらいたいものである。

 「文藝春秋」平成10(1998)年9月特別号より


関連項目:[1] [2] [3]
[「南京事件・関連資料」項目へ]