「南京虐殺本」が起こした波紋

中国系アメリカ人ジャーナリストによる告発の書『ザ・レイプ・オブ・南京』が浮き彫りにする史実と歴史解釈の深すぎるギャップ

「NEWSWEEK 1998.9.16」号より


 は歴史を変えられないが、歴史家にはそれが可能である―――19世紀のイギリスの作家サミュエル・バトラーは言った。
 南京大虐殺をめぐる論争は、その言葉の正しさを証明する最新のケースと言えるかもしれない。
 南京大虐殺とは、1937年12月から翌年にかけて、日本軍が当時の中国の首都・南京で無抵抗の市民や敗残兵を大量に惨殺したり、略奪や強姦を行ったとされる事件を指す。
 日本ではその歴史的解釈や犠牲者の数をめぐって70年代から激しい論争が行われ、決着はいまだについていない。
 ナチスのホロコースト(ユダヤ人大虐殺)と異なり、当事者である日本と中国以外の国では、これまでこの事件が広く感心を集めたことはなかった。
 そんな状況を劇的に変えたのが、昨年アメリカで出版された『ザ・レイプ・オブ・南京――第2次大戦の忘れられたホロコースト』という本だ。

マスコミや識者も絶賛

 多くの史料や証言をもとに、南京大虐殺の全容を紹介したこの本の特徴は2つ。
 まず、日本軍による残虐行為を事細かに描写している点。
 そして、日本は事件を隠蔽することで「第2のレイプ」を犯していると主張している点だ。
 本を開くとまず目を奪われるのが、衝撃的な写真の数々だ。
 目隠しをされ、くいに縛りつけられた中国人を銃剣で突き刺す日本兵。
 多くの日本兵が見守るなか、生き埋めにされる中国人捕虜―――。
 「日本兵はレイプだけでは飽き足らず、女性の乳房を切り落とし、壁にクギづけにした」と、著者のアイリス・チャンは書いている。
 読者の心を揺さぶることが彼女のねらいだとしたら、それは大いに、成功したと言っていいだろう。
 実際、チャンの著書は予想外のブームを巻き起こしている。
 昨年12月に出版されて以来、すでに12万部以上が売れ、5ヶ月前にわたってニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストに名を連ねた。
 中国やヨーロッパの国々で翻訳されることが決まったほか、ハリウッドでは映画化の交渉も進められているという。
 ほとんど無名のジャーナリストだった中国系アメリカ人のチャン(30)は、今や日本の戦争責任に関心を持つ人々のスター的存在だ。
 チャンは多くの都市で講演やサイン会を行い、全米ネットのテレビ番組に出演。
 学会やシンポジウムにも招かれるようになった。
 本はマスコミや識者からも高い評価を受けた。
 ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストなど、多くの新聞が好意的な書評を掲載。
 ピュリッツアー賞作家のリチャード・ローズは「パワフルかつ歴史に残る名作」と絶賛した。
 一方で、本の売れ行きが伸びるにつれ、チャンの歴史解釈に疑問を投げかける人々も現れた。
 邦訳(柏書房より11月下旬に刊行予定)がまだ出版されていない日本でも、写真や事実関係の「誤り」を指摘する声が出ている。
 南京大虐殺という、アメリカ人にはなじみの薄い事件を扱った本が、これほどまでに注目を集めているのはなぜなのか。
 刺激的な描写が、予備知識をもたなにアメリカ人の読者にショックを与えたのは確かだろう。
 「世の中には戦争の話しを聞きたいという欲望が常にあり、ある意味で残虐であればあるほど好まれる」と、スタンフォード大学の歴史学者、デービッド・ケネディは言う。

ホロコーストとは違う

 チャンの著書は、南京市民を救おうとするオスカー・シンドラーのごとく戦地で奔走した、欧米人グループの活動に焦点を当てている。
 そのことがドラマチックな話しを好む読者を満足させたと指摘するは、中国問題の専門家で、カリフォルニア大学バークレー校のジャーナリズム大学院長を務めるオービル・シェルだ。
 「今や歴史は、映画に不可欠な要素を満たしている場合にのみ人々に受け入れられているようだ」と、シェルは言う。
 「この事件はまさにそうした要素を満たしている」
 もっと皮肉な見方もある。
 元米国務省の日本問題専門家で、『マッカーサ-と吉田茂』の著書があるリチャード・フィンに言わせれば、副題に『ホロコースト』という言葉を入れた人物こそ、この本をベストセラーにした功労者だ。
 ホロコーストと聞けば、ユダヤ系のみならず、世界中の人々が非人道的な民族抹殺計画をイメージするだろう。
 しかし、チャンが南京事件とそれと同列に位置づけたことには批判が少なくない。
 「南京で起きたことが、日本政府主導の計画的かつ組織的な虐殺だと信じさせる論拠をチャンは何1つ示していない」と、スタンフォード大学のケネディは言う。

日本の歴史を知らない

 日本軍の残虐さを示した部分についても、事実の「誤認」や解釈の偏(かたよ)りを指摘する声が出ている。
 日本兵に付き添われた中国人の女性や子供が、橋を渡っている様子を撮影した写真もその1つ。
 チャンの本では、「日本軍は何千人もの女性を駆り立てた。大半はレイプされるか慰安婦にさせられた」という説明文が添えられている。
 だがこの写真は、実際には南京事件の2ヶ月前に、上海郊外で撮影されたという説が日本では定着しつつある。
 農作業の後、日本兵に守られながら帰宅する村人を撮ったもので、東京大学の藤岡信勝教授によれば、他の文献に掲載されたケースでは女性や子供が笑っているものも確認できるという。
 藤岡によれば、この本にはこれ以外にも事実と異なる説明文が添えられていたり、「やらせ」と思われる写真が数多く含まれているという。
 写真以外の部分についても、日本軍の残虐性をことさらに強調するのは公平さを欠くと、獨協大学の中村粲教授は指摘する。
 「女性の乳房を切り落としたり、生き埋めにするのは中国古来の処刑法だと中国の本に書いてある」と、中村は言う。
 「日本人が中国人に虐殺される事件も、戦争中には数多く起きている。(チャンの本は)怪しげな伝聞をもとに、自分たちがやったから日本人もやったと語っているにすぎない」亜細亜大学の東中野修道教授に言わせれば、問題はチャンが「日本や中国の歴史にあまりにも無知なこと」だ。
 東中野によれば、この本には基本的な史実の誤り80ヵ所もあるという。
 なかでも東中野が問題視するのは、チャンがデービッド・バーガミニというアメリカの歴史家が書いた『天皇の陰謀』という本の見解をもとに、南京大虐殺を命令したのは昭和天皇である示唆している点だ。
 『天皇の陰謀』は、史実をねじ曲げたとして日米の歴史家から酷評された本である。
 「もとの史料を調べないまま、当時の日本軍の命令系統を強引に変えてしまうというバーガミニのミスを、チャンはそのまま引き継いでいる」と東中野は言う。
 こうした批判に対しチャンは、問題のごく一部に議論を集中させて、大虐殺の重要性から目をそらせようとするのは「ホロコースト否定論者の常套手段」だと反論する。
 「収容所へ送られるユダヤ人の少年が、途中で写真を撮られたときに笑ったからといって、それをホロコーストが起きなかったことの証拠とはみなせない」
 議論を巻き起こしているもう1つのポイントは、日本人は事件を意図的に覆い隠そうとしていることだ。
 その例として彼女は、日本の政治家が虐殺を否定する発言を行ったことを紹介。
 日本の教科書は事件にほとんど触れておらず、研究者による分析も十分にはなされていないと指摘している。
 これについては、事実に反するという声がアメリカでも聞かれるものの、「日本が国として、たとえばドイツがホロコーストに関して行ったのと同じ意識で(南京大虐殺を)認めているかどうかは別問題だ」と、カリフォルニア大学バークレー校のシェルは言う。

驚きが率直に表れた本

 本の序文を書いたハーバード大学の歴史学者ウィリアム・カービーに言わせれば、チャンの著書は「学術的に価値の高い本」であり、「日本が戦争を通じて中国にもたらした被害の大きさを考えれば、ホロコーストという言葉が強すぎるとも思わない」と言う。
 若い中国系アメリカ人ジャーナリストがこの本を書き上げたことには、それなりの意味がある。
 そう指摘するのは、駿河台大学の井上久士助教授だ。
 「知らなかった事件への驚きがこの本には率直に表れている」と、井上は言う。
 「事件を英語圏の人々に衝撃を持って知らせ、後世に伝えたという意義は評価しなくてはいけない。そのなかで著者が、自らのアイデンティティーを再確認していったという気はする」
 だが日本の一部には、執筆の動機には別にあると疑う声もある。
 東京大学の藤岡は1つの「推測」として、この本に書かれた背景にはある種の「陰謀」が存在するのではないかと主張する。
 「日本人は野蛮で非人間的というイメージを広めることで、国際社会における日本の発言権を封じる。そんな思惑で一致したアメリカと中国が結託し、チャンを操って本を書かせたのではないか」

政治の道具にされる歴史

 この本を書いたのは「こうした事件が二度と起きないようにするため」であり、「日本人を悪魔のように書くためではない」というのがチャンの説明だ。
 彼女は本の中でも、「日本人の性格は遺伝的な気質」と虐殺を結びつけるつもりはないと書いている。
 動機はともかく、60年前の事件にスポットを当てることで、この本が多くの人々の心を揺さぶったことは確かだ。
 チャンの本に批判的な日本のいわゆる「歴史見直し論者」は、学術的な議論より大衆の支持を得ることに興味があるように感じると、コロンビア大学の歴史学者キャロル・グラッグは言う。
 「彼らの目的は国民に(自分たちの主張を)信じさせること。いわば愛国主義運動だ」
 程度の差はあれ、そうした意識はチャンの本にも感じられなくはない。
 「この本は抗議であって分析ではない」と、スタンフォード大学のケネディは言う。
 もっとも、過去の出来事が常に学問の視点から論じられるとはかぎらない。
 「歴史はこれまでも政治の道具にされてきた」と、日本大学の秦郁彦教授は言う。
 「(チャンの本をめぐる)今の議論も、歴史論争ではなく政治論争だ」
 乱暴な言い方をすれば、歴史とは歴史家―――あるいはそう名乗る者が「創造」するものだ。
 その意味では歴史家の数だけ歴史があると言ってもいい。
 どの歴史が最も「理にかなっている」のか。
 それは、私たち1人ひとりが判断するしかない


武田圭吾、川口昌人、コリン・ジョイス(東京)、ローラ・シルバーマン(ニューヨーク)

関連項目:[1] [2] [3]
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