検証■告発本を書いたティンパーリーは何と国民党の広報活動員だった

「南京大虐殺」という名の虚構は
国民党による「対外情報戦」の産物だ

小学館「SAPIO」2002年2月27日号の記事

北村 稔(立命館大学文学部教)

「SAPIO」平成14(2002)年2月27日号より


南京の揚子江岸に山をなす死体。揚子江岸では捕虜の処刑が行われ、対岸に逃げようとした兵士を追撃している為に多くの死体があり、これらを虐殺死体とするのは疑問だ。
南京の揚子江岸に山をなす死体。揚子江岸では捕虜の処刑が行われ、対岸に逃げよ
うとした兵士を追撃している為に多くの死体があり、これらを虐殺死体とするのは疑問だ。

 日本の対中外交が弱腰なのも、過度に中国を擁護する人々が数多く存在するのも、その理由は日本が過去に犯した「戦争責任」とそれに伴う中国人への同情にある。
 中国政府が何かというと過去の侵略行為を持ち出すのは、これが日本人のナイーブさにつけ込むのに最高の「外交カード」だからだ。
 その「日本の中国戦略」の象徴として中国人が位置づけているのが「南京大虐殺」である。
 これまで多くの論争が戦わされたが、虐殺が「あった」「なかった」をめぐってすでに神学論争にも似た状況にある。
 そんな中、昨年末、立命館大学文学部教授の北村稔氏が「「南京事件」の探求」を出版、大きな注目を集めた。
 様々な証拠資料を丹念に検証した結果、事件の原点に重大な疑問が生じているというのだ。

 「南京事件」を巡る日本国内での論争は、1971(昭和46)年に本多勝一氏が朝日新聞紙上で口火を切り、72年に鈴木明氏が「「南京大虐殺」のまぼろし」でこれに反論して以来、実に30年以上もの間続けられている。
 各論者は主張の共通点から、「虐殺派」「まぼろし派」「中間派」の3つに分類されるが、それぞれの立場から次々に新たな「証拠」や事実解釈の提示が行われ、論争は深化してきた。
 だが私には、「虐殺派」の人々は始めから「南京事件」の存在を疑うべきでないものとして捉え、虐殺を否定する「まぼろし派」の人々は逆に否定すべきものとして捉えているように思われる。
 これは既に「神学論争」に近く、歴史事実を探求する歴史学の論争から外れているのではないだろうか。
 そこで私は歴史研究の基本に立ち返り、「南京事件」を確定するに至った各種資料を検証検証することにした。
 「南京事件」を確定したのは南京と東京の戦犯裁判の判決書である。
 それゆえ、判決書が証拠として採用した欧米人や中国人の書証や証言を検証し、判決書が「南京事件」として断罪した論理に整合性があるかを検討することで「大虐殺があった」とする認識がどのような経緯から出現したかを確認することにした。
 そもそも「南京事件」とは、1937(昭和12)年12月13日に中華民国国民政府の首都であった南京を日本軍が制圧して以降、翌38年2月下旬までの3か月にわたる日本軍の軍事占領下に起こったとされる中国人虐殺事件を指す。
 日本では「南京大虐殺」とも言われるこの事件が「歴史的事実」として確定されたのは、第2次大戦後に開かれた軍事法廷での判決による。
 戦時中の1944(昭和15)年3月に連合国側は既に連合国戦争犯罪審査委員会を設立しており、戦後は東京とドイツ・ニュールンベルクに国際軍事法廷が設置されたが、南京と東京の軍事法廷において「南京事件」は「大虐殺」として断罪された。
 この判決が下される上で重要な役割を担ったのが、日本軍の残虐行為を記録した「WHAT WAR MEANS」という書物である。
 「南京事件」を最初に世界に知らしめたとされるこの書は、日本軍の南京占領当時に中国に駐在していた「マンチェスター・ガーディアン」紙の特派員、H・J・ティンパーリーが執筆し、1938年に発行されたものだ。
 日本側でも中国側でもなく、第三者の欧米人ジャーナリストという中立的立場から日本軍の南京占領時の蛮行を告発したものとして、戦後の軍事法廷での連合国側の対日犯罪告発の骨子となり、1946(昭和21)年の南京の裁判では判決書の文面にも特筆されている。
 東京裁判では書名は登場しないものの、判決書に記された書証や証言者は、「WHAT WAR NEANS」に登場しているもので、裁判の内容を見る限り、連合国側がこの書に強い影響を受けて裁判の枠組みを作り上げたことは間違いない。
 そこで、私は先ずこの「WHAT WAR MEANS」の原著を手に入れ、著者ティンパーリーの足跡を探ることで、この書が書かれた背景を探ることにした。

理解する国際友人を捜して我々の代弁者に

1938年2月の南京郊外。計画的大虐殺が行われたとされる時期だが、それとは矛盾した風景。事実、当時の南京の様子を記した資料には「大虐殺」にあたる事件は見受けられない。
1938年2月の南京郊外。計画的大虐殺が行われたとされる時期だが、それとは矛盾した風景。事実、当時の南京の様子
を記した資料には「大虐殺」にあたる事件は見受けられない。

 結論から言えば、「南京事件」を確定させた根幹、中国側が大虐殺の動かぬ証拠だとするティンパーリーのこの書は、第三者による中立的立場からの著作ではない。
 国民党の戦時外交戦略として、日本軍の非道ぶりを世界に訴えるために執筆されたものなのである。
 これまでの「南京事件」研究では「WHAT WAR MEANS」の中身については議論が戦わされてきたものの、彼自身の素性についてはほとんど考察されないできた。
 「オーストラリア国籍を持つマンチェスター・ガーディアン特派員」という共通認識はあるが、彼がどういう共通認識はあるが、彼がどういう経緯でこの本を書いたのかという動機は本の「前言」に記された「日本軍の中国人市民に対する暴行を伝える電報が、上海電報局の日本人検閲官に差し止められたから」という理由が信じられてきた。
 その隠された素性を調べるために、私が最初に注目したのは、原著の赤色のハードカバーに刻まれていた「LEFT BOOK CLUB」という表記だった。
 「LEFT BOOK CLUB」とは1936年にイギリスで設立した左翼知識人の団体で、背景にはイギリス共産党やコミンテルンの存在がある。
 この事実から「ティンパーリーは一介の新聞記者ではなく、何らかの背後関係を持っている人物ではないか」と推測し、イギリスを中心に当時の人名録などにあたってみると、中国社会科学出版社から発刊されている「近代来華外国人名辞典」の中に彼の名前があった。
 「第一次大戦後来華、ロイター社駐北京記者、後マンチェスター・ガーディアン及びUP駐北京記者。1937年盧溝橋事件後、国民政府により欧米に派遣され宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任した」とある。
 つまり、同書によれば、ティンパーリーは国民党の宣伝活動に従事する「広報活動員」だったということになる。
 この事実を裏付けるために、次に私は当時の国民政府の対外宣伝工作の実態を中国側の資料から読み解くことにした。
 ティンパーリーが中央宣伝部顧問まで務めた人物であれば、必ず当時の資料のどこかに彼に関する記述があるはずだと考えたのだ。
 これを知るための資料として、中国から重慶抗戦叢書編纂委員会編「抗戦時期重慶的対外交往」が、台湾からは王凌霄「中国国民党新聞政策之研究」という2つの研究所が発行されていつことを突き止め、それにより日中戦争当時の国民党の対外宣伝の実態が明らかになった。
 そして王凌霄の書の中には、国民党中央宣伝部で国際宣伝処長を務めた曾虚白の自伝が引用されていた。
 この曾虚白の自伝は1988年に台湾で出版されており、早速台湾の友人からこの書を手に入れ紐解いて見ると、そこにはティンパーリーやスマイス(当時、南京の金陵大学教授だったアメリカ人。南京市内の死者数に関する「スマイス報告」を記した。東京裁判でも証言者として出廷)と国民党国際宣伝処との関係が明確に記されていたのだ。
 「我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔を出すべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際的友人を捜して我々の代弁者となってもらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的な人選であった。
 かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として2冊の本を書いてもらい、印刷し発行することを決定した」
 つまり、虐殺が行われた証拠とされた「WHAT WAR MEANS」も、大量の死体が存在した証拠とされた「スマイス報告」も、国民党の外交戦略に基づいて故意に歪められた情報であり、裁判において「大虐殺」行為を立証するに足るものではなかったのだ。

日本の外交下手が「大虐殺」を創り出した

南京大虐殺記念館で学生は虚構を学ばされている。
南京大虐殺記念館で学生は虚構を学ばされている。

 軍事法廷による判決で確定された「南京事件」の概要は「6〜7週間にわたる計画的大虐殺」「南京での残虐行為は各国から批判の声があがっていた」「日本軍による放火・略奪・暴行の蔓延」「死者は10万人から30万人」という4点である。
 当時の南京に関しては1939年に国民政府から出版された「南京安全区襠案」という報告書があり、そこには日本軍による様々な行為についての告発、報告が記されている。
 その内容は、日本軍兵士による放火・略奪・強姦・殺人と、民間人になりすましていた中国人兵士を逮捕し集団処刑したことの2種類に大別できる。
 このうち、兵士による犯罪行為は報告書を読む限り決して計画的に行われているものではなく、告発している欧米人たちもむしろその無秩序ぶりを批判するこそすれ、それが計画的であるとの判断は下していない。
 また、集団処刑が虐殺にあたるか否かはともかく、処刑自体は12月中には終了しており、「6〜7週間にわたる計画的大虐殺」には当たらない。
 しかも、38年1月には日本軍が中国人住民に米を供給していたことを第三者の外国人が書き残している。
 また、国民政府の情報宣伝活動における公式文書である「英文中国年鑑」1938年版には、欧米で行われた中国への支援活動とそれに伴う各国の対日批判運動などについての報告が記載されているが、そこには南京での「大虐殺」に関して抗議行動が行われたという報告は無い。
 仮に判決で言われたような長期にわたる大虐殺が行われていたのだとすれば、他の欧米メディアによる告発があって然るべきだし、各国政府も何らかのリアクションをとったはずだ。
 それが何も無いということは、第三者として監視の役目を負っていた欧米側に「南京で大虐殺があった」という共通認識は存在しなかったといえる。
 そもそも、国民政府自体が日本軍の南京占領直後に南京での日本軍の蛮行を批判して以降、日中戦争中には「南京事件」に関する告発をしておらず、「大虐殺」は戦後に作りあげたと考える方が自然だ。
 確かに、個々のレベルで南京住民に対する略奪・強姦・殺人等の日本人兵士による犯罪行為はあり、これは告発されて当然である。
 だが、これを9年後の裁判で「世界中が非難した6〜7週間にわたる計画的大虐殺」とするのは事実誤認であり、捏造といわざるを得ない。
 今まで述べてきた以外にも日本軍占領当時の南京の事情を伝える各種の英文資料があるが、そこには大虐殺があったことを裏付けるようなものは見当たらない。
 「30万人」という数字についても、詳細はここでは割愛するが、数字が一人歩きした経緯は説明できる。
 ゆえに私は「南京大虐殺」は虚構であると考えている。
 だが、だからといって、日本人が「これは虚構である」と言うだけでは問題は一向に解決しないだろう。
 私は長年、国共合作の研究をしてきたが、中国人はたとえ嘘だとわかっていても政治的に意味があると考えれば主張し続けるメンタリティーを持っている
 彼等の政治的パフォーマンスは伝統であり、文化でもある。
 そこを理解することなく「嘘だ、嘘だ」と言ったところで水掛け論にしかならず、発言に怒るだけでは相手のペースに乗せられることにしかならない。
 彼等の主張に対しては、その背後にある政治的意図を冷静に理解し、丁寧に反論していかねばならない。
 また、「南京大虐殺」という虚構が成立してしまった背景には、日本人の外交下手という側面もある。
 南京占領に対する国民政府と国際世論の反応を予想し、無用な反発を押さえ込むための説明の論理と施策を外交戦略の一環として全く準備していなかったのである。
 今日の中国に対する外交も過去の出来事に対する日本人の「説明責任」意識の低さに基づいている。
 欧米語において「責任をとる」とは、広義には「申し開きをする」ことを意味している。
 事実を確認し何故そのような事態に至ったのかを先ず相手に説明するのである。
 物質的な、或いは精神的な償いの必要性が生じるのは、相手方との議論を通じてであることを肝に銘じるべきである。
 この認識がない限り、いつまでたっても日本は真の「外交」が出来ない国として、中国を始め世界からなめられ続けるに違いない。
 田中真紀子前外相と外務省との最近のゴタゴタは、「説明責任」を含む戦略の欠如という日本人の特性が何一つ変わって無い事を再確認させた。
 外務省改革を実行するには、長期的な視野に立つ戦略を持って当たる必要がある。
 誠を以って臨めば策など不要と前外相は邁進し、自滅してしまった。
 残念なことである。

SAPIO」平成14(2002)年2月27日号掲載


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