生き証人■「大虐殺」を見た者は誰一人いなかった

「南京大虐殺」今改めて見直すべき
日本人48人の証言

「南京事件」今改めて見直すべき日本人48人の証言、記事

阿羅健一(近現代史研究家)

「SAPIO」平成14(2002)年2月27日号より


1937年12月、日本軍は国民政府が首都としていた南京を占領した。(写真は12月17日南京に入城する日本軍)
1937年12月、日本軍は国民政府が首都としていた南京を占領した。(写真は12月17日南京に入城する日本軍)

 1937年12月のいわゆる「南京事件」をめぐり、日本軍による大虐殺があったのか、なかったのか、あったとするならその数は数千人なのか、それとも中国側が主張するように30万人なのか、「南京事件」は常に日本、中国双方にとって出口の見えない議論が続けられてきた。
 近現代史研究家の阿羅健一氏は当時、南京にいた日本人の生存者に直接インタビューを試みた。
 軍人からジャーナリストまで自らの言葉で語った「南京」の証言集(「「南京事件」日本人48人の証言」小学館文庫)は当時の貴重な資料である。
 この本が文庫化されたことを機に改めて彼ら48人の言葉が見えてくる「南京事件」の真実を考える。

 「日本人は本当にこんなことをやったのか。」
 私が「南京事件」のことを調べ出したキッカケは、ごく素朴な疑問だった。
 1982年(昭和57年)、教科書問題が起こって「南京事件」が一気に話題となった。
 事件に関する本は何冊かあったが、情報は乏しく、中国側の主張を聞いていると「本当かもしれない」と思えてくる。
 私は当初発表するつもりもなく、とにかく「事実が知りたい」という一念で、当時南京にいた方々に話を聞き始めたのだ。
 何十万という大虐殺が起こったのか、私達の祖父や父たちはそんな残虐なことをしたのか、そのとき南京にいた同胞にぜひとも尋ねたい――――。
 日本人なら、そう思い至るのではなかろうか。
 彼らの証言をつなぎあわせると、ジグゾーパズルのように南京の真実が浮かび上がってくると考えた。
 新聞記者、軍人の中でも南京全体を把握していたと思われる参謀、外交官。
 改めて強調しておきたいのは、私はリストも何もないところから、当時の新聞に登場する方たちを探して尋ね当てたということだ。
 したがって彼らが「口裏を合わせる」ことは不可能である。
 参謀ではない兵隊の方も含めれば、数百人の方にお会いしただろう。
 そして私は確信をもって言える。
 「南京大虐殺」と呼ばれるような事件はなかった、と。

虐殺を作り上げたのは「南京」を知らない記者

南京が陥落した後の市内の様子
南京が陥落した後の市内の様子

 《証言 上海派遣軍参謀 大西一氏
 
 ―――上海派遣軍の中で虐殺があったという話はおきませんでしたか。
 「話題になったことはない。第二課も南京に入ってからは、軍紀・風紀の取り締まりで場内を廻っていました。私も車で廻った」
 ―――何も見ていませんか。
 「一度強姦を見た」
 ―――その他、暴行、略奪など見ていませんか。
 「見たことがない。私は特務機関長として、その後一年間南京にいた。(略)虐殺も見たことも聞いたこともない」》

 上海派遣軍は、南京占領後、城内に軍司令部をおき、2月までとどまった。
 大西氏は、軍人の中では南京に一番詳しい人だと言えるだろう。
 1971(昭和46)年、本多勝一氏(当時、朝日新聞記者)による朝日新聞記事「中国の旅」の中で、「南京大虐殺」が報じられた。
 大西氏は本多氏に抗議した。
 しかし、本多氏に「無かったという証拠を示せ」と言われて、黙って帰るしかなかったという。
 では朝日新聞の記者は、占領時の南京をどう見ただろうか。

 《証言 東京朝日新聞記者 足立和雄氏
 
 ―――南京で虐殺があったと言われてますが、どんなことをご覧になってますか。
 「虐殺が全くなかったとはいえない。南京に入った翌日だったから、14日だと思うが、日本の軍隊が数十人の中国人を射っているのを見た。塹壕を掘ってその前に並ばせて機関銃で射っていた。場所ははっきりしていないが、難民区ではなかった」
 ―――そのほかにご覧になりましたか。
 「その一か所だけです」
 ―――大虐殺があったと言われていますが・・・・・・。
 「私が見た数十人を射ったほか、多くて百人か二百人単位がほかにもあったかもしれない。全部集めれば何千人かになるかもしれない。」》

足立氏は、退社後に朝日新聞に紙面をにぎわすようになった「南京大虐殺」について、さらに率直に語ってくれた。

 「非常に残念だ。
 先日も朝日新聞の役員に会うことがあったのでそのことを言ったんだが。
 大虐殺がなかったことをね。
 朝日新聞には親中共・反台湾・親北朝鮮・反韓国とういう風潮がある。
 本多君一人だけじゃなく、社会部にそういう気運がある。
 だからああいう紙面になる。」

 終戦後30年間、朝日新聞も含めた大新聞は「南京大虐殺」を記事にしなった。
 これは、足立氏のように従軍して南京に行った記者が社に大勢残っていたからだ。
 若い記者が、虐殺があったという記事を書こうとしても、「俺はこの目で見てきたんだ。南京でそんな虐殺などなかった」となる。
 他社のジャーナリストも、朝日新聞の報道には憤りを感じたという。

 《証言 東京日日新聞(現・毎日新聞)カメラマン 佐藤振壽氏
 「(前略)十年ほど前にも朝日新聞が「中国の旅」という連載で、南京では虐殺があったといって中国人の話を掲載しましたが、その頃、日本には南京を見た人が何人もいる訳です。なぜ日本人に聞かないで、あのような都合の良い嘘を載せるのかと思いました。
 当時南京にいた人は誰でもあの話を信じてないでしょう。
 それ以来、私は自宅で朝日新聞を購読するのをやめましてね」
 ―――虐殺があったと言われてますが・・・・・・
 「見てません。
 虐殺があったと言われてますが、(12月)16、7日頃になると、小さな通りにも店が出てました。
 また、多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集まってましたから、とても残虐行為があったとは信じられません」
 ―――佐藤さんはなかったと言っても、その時の写真(編集部注・南京で佐藤氏が撮った写真)には残虐行為という説明がついていますね。
 「ええ、写真は説明一つでどうにでもなりますから。(後略)」
 ―――南京事件を聞いたのはいつですか。
 「戦後です。
 アメリカ軍が来てからですから、昭和21(1946)年から22年頃だったと思いますが、NHKに「真相箱」(「真相はこうだ」1945年12月9日〜。
 後に「真相箱」と改題。企画・脚本・演出をGHQ民間情報局が手がけたもの)という番組があって、ここで南京大虐殺があったと聞いたのがはじめてだったと思います」》

 佐藤氏は、私が話を聞いた数十人の中で最も記憶が鮮明であり、詳しい証言をしてくれた方だ。
 佐藤氏に、「南京を見た人」が社内にいるうちは、新聞社が「南京大虐殺」を真実として書く訳がなかったのだろうと確認すると、「そうだ」とおっしゃった。
 南京を見ている人が新聞社からいなくなったのが、ほぼ昭和40年代の半ば。
 その後「中国の旅」のような記事が生まれた訳だ。

 ここで紹介した証言にあるように、殺戮が暴行がまったくなかったとは誰も言っていない。
 ただし、戦時中であるから兵隊を殺すのはあくまで「戦闘」だ。
 また、戦場でなくとも犯罪はある比率で起こるもので、当時の南京でも、その程度のものだったと推測される。
 もちろん、戦争というのは異常な状態であり、その比率は高かっただろう。
 しかし、当時人口約25万人の南京で、30万人もの人を殺したとは、私が集めた証言からも到底考えられないのだ。

「多大な犠牲者」が「三十万人」という“事実”に

 「南京大虐殺」は、「あった、無かった」という事実関係を離れ、政治問題化してしまっている。
 政治家が「虐殺がなかった」などと言えば、たちまち日中問題に発展する。
 そのような政治的な関係で、「中国との友好は進めたい。南京では何も見てないが、「虐殺がなかった」とは証言できない」という方もいた。

 《証言 新愛知新聞記者 南正義氏 (証言当時・東海ラジオ社長)
 ―――南京にはどの方向から行きましたか。
 「中山門から入りました。(中略)中山東路を進むと、街路樹のプラタナスに日本兵が吊るされていて大騒ぎになりました」
 ―――日本兵がですか。
 「そうです。
 後でわかったのですが、通済門か光華門で戦いがあり、そこで捕まった日本兵らしいのです。(中略)下から火であぶってありました。」
 ―――何体くらいですか。
 「私が見たのは2、3体です」
 ―――城内で虐殺らしきことを見ていませんか。
 「見ていません。すべて戦闘です。
 一部の兵がカーッとなっていることはありますが戦闘です」
 ―――戦後南京に行ったとおっしゃっていますが、いつのことですか。
 「(前略)名古屋市が南京市と姉妹都市になって日中友好をやろうとういうことにになった。(中略)
 東海ラジオでも友好のために何かをやろうということになったとき、私が率先して南京に行きました。(中略)
 日中友好ジョギングをしようという案を出して、ジョギング大会を始めた。(中略)
 私も去年Tシャツを着て南京市長と走ったよ」
 ―――南京に行って中国側から虐殺の事を言われませんか。
 「一度も無い」》

 南氏は当時「日中友好」を進めていた関係で「(証言の)公表は見合わせてほしい」とのことだった。
 南京市と名古屋市が姉妹都市であるという関係からすれば、南氏の要望はもっともだ。
 今回の文庫化がなければ、南氏の証言も未発表のまま終わったことだろう。

98年11月、毅然とした態度で江沢民主席に対し、共同宣言の署名を拒否した小渕首相。
98年11月、毅然とした態度で江沢民主席に対し、
共同宣言の署名を拒否した小渕首相。

 1985年(昭和60年)、南京大虐殺記念館が設立された。
 ケ小平が書いた「侵華日軍記念館」という看板があり、そのそばに「30万」という数字がある。
 中国では「三」という数字は、「後宮三千人」「白髪三千丈」というように、「多い」という意味として使う。
 いわば、犠牲者「30万」も「多大な犠牲者」という意味で書かれたものだったと思われる。
 しかし、記念館が建てられ、「三十万」と書かれた時点で、「犠牲者数30万人もの虐殺があったこと」は、政治的な事実となってしまったのである。
 そして、それが対日外交の切り札になることに中国は気づいた。
 円借款など、ここぞというときに中国側は「南京大虐殺」を持ち出す。
 そうすれば、日本が何も言えなくなることを悟ったのだ。
 いわば「伝家の宝刀」である。
 証言者の一人、当時企画院事務官岡田芳政氏はこのようなことを語っている。

 「南京事件というのは、中国がそれまでやってきた宣伝戦を戦後も行ったまでのことです。
 日本は宣伝戦に負けたのです。
 それに、中国人は面子を重んずる国ですから、いったん言ったことを取り消すことは絶対にありません。宣伝に負けたとあっさり兜を脱ぐことです。
 それしかありません。」

 岡田氏は当時中国攻略の謀略担当、中国と中国人を最も知り抜いた一人だと言えよう。
 そして中国を愛し、証言当時、日中友好のために飛び回っていた。
 しかし、氏が言うように日本は兜を脱いで、いつまでたっても「南京」という札を出され続けるしかないだろうか。
 私はそうは思わない。
 1998年に江沢民主席が来日した際、ODAなど日本側の中国に対する援助について評価はしたものの感謝の意は表さず、それどころか台湾の独立を認めないことと、過去の歴史認識に対する謝罪を共同宣言に盛り込むよう日本側に強いた。
 しかし故小渕首相はこれに毅然とした態度を見せ、日本の姿勢を貫いたのだった。
 その後の中国側の対応は軟化し、日本側の援助に感謝すると表明し、態度が変わったではないか。
 詳しい調査もせずに「謝れば済む」という日本的対応は、いつまでたっても腰が引けたままだ。
 日本側が毅然とした態度を積み重ね、中国側の態度を変えていくしかない。

SAPIO」平成14(2002)年2月27日号掲載


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