「南京戦・元兵士102人の証言」
のデタラメさ

―テレビ「ニュースステーション」が増幅垂れ流した反日・自虐報道の正体

近現代史研究家・阿羅健一

産経新聞社「正論」2002年11月号より

「正論」平成14(2002)年11月号より転載


 書店には、毎日、100冊以上の新刊がとどく。
 とどけられた新刊は、書店に並べる余裕がなく、多くはそのまま出版社に返される。
 新刊といっても、ひとの目に触れる方がめずらしく、だからどの出版社も、店に並べて欲しい、マスコミが取り上げて欲しいと願っている。
 その新刊で、今年、マスコミからもっとも注目されたもののひとつが、「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて」だろう。
 朝日新聞は、8段にわたって大きく紹介した。
 毎日新聞も、7段で取り上げた。
 テレビ朝日は15分にわたって放映した。
 発売まで、これほどマスコミから取りあげられた本が、他にあっただろうか。
 朝日新聞と毎日新聞が取りあげたのは、発売のひと月も前だったから、その後、私は待ちに待ち続けて、発売の日、早速書店に行った。
 手にすると、370頁の、4400円という高価な本だ。
 すでに新聞報道によって、この本が102人の元兵士による南京大虐殺の告白ということは知っていた。
 どんな生々しい告白が書かれているのか。
 はやる胸をおさえ、家にもどると、すぐに私は本を開いた。
 102人の、一番目には、町田さんという元兵士の告白が紹介されている。
 ただちに、私は読みはじめた。
 真っ先の告白者の、その告白は、こう始まっていた。

 「昭和九年一月十日、三重県久居の三十三連隊に現役で入隊しました。その年の四月から旧満州のチチハルに一年十か月いました。現役で派遣されていましたが、この部隊でその時に伍長に任官されました」

 おや
 私は口をついてそんな言葉が出た。
 この告白は、一体何なんだ。
 私の頭のほうは、そんなことを感じていた。
 そして私自身といえば、それまでのはやる気持ちが、急になえるのを覚えた。
 それはそうだろう。
 当時20歳になると、男性は徴兵検査を受け、多くが2年間服役する。
 と言っても、まるまる2年間服役するすることはなく、その前に除隊となる。
 除隊する時は、ほとんどが一等兵に進む。
 優秀であれば上等兵に進み、まれに伍長勤務上等兵まですすむことがある。
 もちろん、下士官まで進むことは無い。
 ところが、始めの数行を読むと、町田さんは、2年以上も服役していた。
 さらに伍長まで進んでいた。
 こんな事はあり得ない。
 昔の事だからと、告発はウソを語っているに違いない。
 一月も販売を待っていただけに、驚くというより、空しくなってしまった。
 先を読む気力も無くなってしまった。
 しかし、数行だけで、全てを決めてかかってはいけない。
 そう気を取り直し、再び読みはじめた。
 すると、8貢にわたる町田さんの、南京における告白は、おおよそこのようなものだった。

 昭和十二年十二月十三日昼ごろ、下関に向かって掃射を開始し、一段落したのは昼過ぎだった。一兵卒の私にはよくわからないが、下関には第十六師団のほとんどが集結した。
 下関のあるゆう江門は、二人が通れるくらいになっていて、そこから城内に入った、城壁は二十五メートルほどあった。
 租界には外国人がいるので、城内では、撃つのではなく突いて殺せと命令された。難民収容所に入って、隠れている中国兵を剔出(てきしゅつ)した。夜九時頃、南京城外に出た。

 気を取り直して読んだものの、私の気持ちは、最初の数行を読んだ時と変わり無かった。
 歩兵第33連隊の第3大隊にいた町田さんだから、下関に進出したのは13日午後の遅くなってからだ。
 昼には、まだどの部隊も下関に進出していない。
 夕方になっても、下関に進出したのは、第16師団のほどんとが集結したということもない。
 それより、伍長に任官していたはずなのに、ここで町田さんは一兵卒になっている。
 ともあれ13日といえば、ゆう江門はまだ閉ざされたままだ。
 まだこの門から城内には誰も入っていない。
 町田さんも入れないはずだが、入っている。
 さらにいえば、その辺りの城壁の高さは10メートルほどだし、南京に租界は無かった。
 租界があったのは上海、天津、漢口、広東など。
 城内に入れないのだから、城内にある難民収容所に入ることもなく、たとえ翌日城内に入ったとしても、そこは金沢の歩兵第7連隊の掃討地域だから、町田さんが難民収容所から中国兵を剔出できるはずは無い。
 そしていつのまにか、町田さんは閉ざされていた城門から城外に出てしまっている。
 告白は、このような、あり得ないこと、間違いの連続なのだ。
 これでは、告白でもなければ、記憶でもない。
 ウソで塗り固められたダボラだろう。

軍隊に関する基礎知識の欠如

 この本には102人の告白が紹介されている。
 ほとんどが1回の取材によるものだけれども、3回取材が行われた人が3人だけいる。
 町田さんはそのうちの1人だ。
 勘違い、あやふやな告白、記憶違い、あるいは間違って話したことがあれば、その3回のあいだに訂正されたであろう。
 102名の1番目に並べられたということは、しっかりした告白と考えられていたからだろう。
 それでも町田さんの告白はこのようなものだ。
 他の人の告白は、おして知るべし。
 そのような町田さんが最後に「女の子を捕まえるんです」と告白する。
 強姦をしたというのだ。
 最後の、強姦という告白だけは事実だというのだろうか。
 誰も信ずる人はいまい。
 ウソで塗り固めたような、その責任は、すべて告白書にあるのか。
 そうとは思えない。
 いま冒頭の数行をそのまま紹介したけれど、その数行を改めて読むと、告白者だけでなく、聞き取りをした人たちにも責任があるとわかる。
 例えば「伍長に任官されました」とあるが、本当に町田さんはそう話したのか。
 伍長だったかどうかおくとして、「任官されました」とは普通言わない。
 自分に敬語をつけることはないから、「任官した」と言うはずだ。
 これは聞き取りをした人が、任官を命ぜられた、とでも考えて記述したのだろう。
 また「現役で入隊しました」「現役で派遣されていました」と記述されているけれど、入隊するのは現役だし、予備役を駐屯部隊に派遣することは無いから、普通なら「入隊しました」「派遣されていました」と言う。
 聞きなれない、こなれていない日本語が使われているのは、聞き取りする人に軍隊の基礎知識が無いからだろう。
 紹介した冒頭の数行のあとに、

 「昭和十二年八月末、大召集を受けて、九月に久居を出発し、大阪港から出航しました」

 ともある。
 召集と言い、大動員とは言うけれど、大召集という言葉は聞いた事が無い。
 読んでいて、背中が何となくむずがゆくなる言葉だ。
 そういえば、「隠れている兵を剔出することにしました」とも記述しているけれど、外科手術であるまいし、中国兵をどうやって剔出するのか。
 この場合、摘出ではないか。
 日本語がみだれ、漢字が誤って使われるだけでなく、雑な記述もある。
 「下関にいる敵に向かって掃討を開始しました」とあるが、歩兵第33連隊が下関に向かっているとき、まだ南京は陥落せず、遭遇戦、追撃戦が繰り返されている時だ。
 本当に町田さんは「掃討」と語ったのだろうか。
 もしそう語ったのなら、2度、3度の聞き取りで、確かめる必要があろう。
 こんな記述では、追激戦、遭遇戦が続いていた南京の戦いが正確に伝わってこない。
 歴史をぼやかしていくだけだ。
 このように、町田さんの告白を読んでも、聞き取りをした人に相当の責任があることがわかる。
 それは、町田さん以外の告白でも同じで、かつての兵士が語ったとは思われない言葉が途切れることなく続く。
 代表的ないくつかをあげる。
 「ソ連製のチェッコ」とある。
 支那事変が始まった時、日本軍を悩ましたのは中国兵の持っているチェッコ軽機関銃だった。
 チェコスロバキアが製造した軽機関銃で、中国に大量に輸出され、中国兵の強力な武器となった。
 日本軍はこれに苦しめられたから、支那事変に出征した日本兵で、その軽快な発射音とともに、チェッコ軽機関銃の名前を知らないものは無い。
 チェコスロバキア製だからチェッコと言っていたので、ソ連製のチェッコなどという日本兵はひとりもいない。
 機関銃といえば、「重機関銃を半時間も連続発射」とか「重機関銃は歩兵とは別」という記述もある。
 重機関銃は、数分も撃てば銃身が熱をおび、無理してさらに射撃を続ければ、使い物にならなくなる。
 半時間も連続発射は出来ない。
 その重機関銃は歩兵の持つ武器で、だから、「重機関銃は歩兵とは別」などと、日本兵が言うはずが無い。
 それと似たような記述で、歩兵の兵士が「わしら砲兵」と語っている。
 重機関銃は歩兵が持つものだから、歩兵が「重機関銃は歩兵とは別」と言う事が無いように、歩兵と砲兵は別だから、歩兵が「重機関銃は歩兵とは別」と言うことが無いように、歩兵と砲兵は別だから、歩兵が「わしら砲兵」などと言うことは無い。
 重機関は50キロほどの重さだけれど、大砲となると、山砲は500キロ、野砲なら千キロを越す。
 重さからしても歩兵と砲兵は別だと分かるだろう。
 その大砲でも、砲身の長い、重量のあるものを重砲と呼ぶ。
 その重砲を、「馬車が重砲を積む」と記述している。
 重砲は馬車に積めない。
 そんな事も兵士なら知っているはずだ。
 きりが無いから、もうひとつだけで止めておく。
 告白している兵士たちは、揚子江の下流に上陸したので、しばしばその上陸の様子が語られる。
 そこでは「鉄舟から垂直に縄梯子で降りた」と記述されている。
 鉄舟は10人ほどが乗る舟で、その小さい鉄舟から垂直に縄梯子を降りて、一体どこに行くというのだろう。
 このような記述が延々と続く。
 このようなことを元兵士が語ることはないから、聞き取る側に間違いがあったとしか言い様が無い。
 もし、元兵士がそう語ったのなら、告白自体が価値の無いものだ。

200を超える間違い、食い違い

 そういった本をまとめたのは、松岡環さんという、大阪で小学校の教諭を務めている女性である。
 20年ほどまえから南京事件に関心を持ち、「銘心会南京」をつくって、毎年8月には南京に行って追悼集会を開いてきた。
 その謝罪旅行は、すでに20回近くを数えている。
 また12月になれば「ピースおおさか」などで集会を催す。
 5年ほど前からは、南京事件の否定論が強くなったと危機感を強め、聞き取りを始めている。
 その本の中で松岡さんは、「いきなり訪ねて行く方法をとった」「(告白させるために)心理的なかけひきも必要であった」と聞き取りについて語っている。
 私も20年ほど前に、南京戦に参加した兵士数百人から聞き取りをしたことがある。
 栃木県から宮崎県まで、全国をまわった。
 20年ほど前のことだから、証言者は沢山いて、証言者の記憶も確かだったけれど、その当時でさえ、兵士の語る話にはあやふやな部分があった。
 後日、「この前の話ですが、○○さんはこう話しています」と改めて尋ねる。
 そうやって一度話してもらったことを確かめ、勘違いや記憶違いがあるなら取り除いて行く。
 そうでなければ、聞き取りにはならない。
 そもそも体験を語るか語らないかは、その人の自由な判断だ。
 だからまず手紙で依頼し、電話で確認し、承諾してもらって初めて訪問する。
 どんな理由をつけようと、聞き取りする方に聞き取る権利がある訳ではない。
 いきなり訪ねて行く方法など私には考えもつかない。
 何度も会い、納得してもらった上で、聞き取りが出来上がるのだから、かけひきなどもあるはずが無い。
 心理的なかけひきと松岡さんは言っているけれど、それは、引っ掛けてやろうという事だろう。
 いかに嘘をついて強姦や殺害を語らせるかに腐心していたか分かる。
 そんな聞き取りでは、例え何かが語られても、別の人が聞き取れば、それまでとは違った話になる。
 告白書は、すべて匿名で、その所属は大隊までの表記になっている。
 そうしたのも、告白が反対尋問にさらされて、告白が崩壊するのを恐れたからだろう。
 ある日のこととして松岡さんは、「今日の調査は南京レイプに関わった元兵士の記録が二本も取れ、緊張と充実感に満ちていた。こんな日は疲れたと思っても、心地よい充足感と疲労感が混じりあって、後に引くことはない」とも述べている。
 その時聞けた告白が事実かどうか、普通なら、さらに、まわりの兵士から聞き取りをし、確認を取り、裏を取ることが続けられるけれど、それらには全く関心が無いことがここからわかる。
 ひたすら強姦や殺害の告白を求め、強姦や殺害を語らせれば、それで聞き取りは終わりなのだ。
 告白の中では、「従軍慰安婦」はもちろん、「慰安婦」や「パンパン」などという言葉がしばしば使われている。
 そのころ兵士のあいだで慰安婦などという言葉は使われていなかったし、パンパンが、敗戦後、米軍が来てから使われ出した言葉であることは言うまでも無い。
 聞き取りの基本的姿勢があまりにも欠けている。
 その様な聞き取りの姿勢では、いくらでも間違いが続くだろう。
 そんなことでさっきからあげた間違い、食い違い、そういうものをざっと数えると、200を越す。
 テレビ朝日の「ニュースステーション」で紹介された元兵士が、従軍した時、11歳だったように、生年と入隊の食い違っている人が20名ほどいる。
 それらのいくつかは誤植だと大目に見ても、記録などと言うものにはほど遠い。
 この本で語られた強姦、殺害、略奪などをどう判断すればよいかは、これまで見てきたところから、自然と答えが出てくる。
 一言でいえば、信用の出来ないものだ。
 そう言える例を、さらに一つ示したい。
 南京攻略時、歩兵第33連隊第8中隊長は、士官学校出身の、天野郷三という予備役中尉だった。
 出征時の中隊長が戦死したのを受けて中隊長となり、昭和13年の1月までつとめた。
 この中隊長、現役を退いてからすでに12年、43歳になっていた。
 素行が悪く、中隊長でありながら強姦と略奪を行い、まもなく軍法会議にかけられ、禁固刑を科せられる。
 将校が軍紀を犯し、それがたまたま南京攻略戦時とかさなったため、このことは、南京事件と絡んで取りあげられて来た。
 この本の中でも、天野中尉のことは取り上げられるのだが、6人もが天野中隊長について語っている。
 ところが、語られている内容は、それぞれ違う。
 天野中隊長は野田連隊長と陸軍大学校で同期だった、成績は連隊長より上だった、成績が良かったため野田連隊長の言うことを聞かなかった、陸軍大学校を主席で出ている、成績優秀で恩賜の軍刀を拝領した、憲兵が南京に来たのは天野中尉を連れていくためだ、12月末に拘留された、などと語られる。
 5人に共通して、しかも正確なことは、強姦などで軍法会議にかけられたということだけで、それ以外は根も葉も無いことだ。
 野田連隊長は天野中隊長より3期上であり、天野の士官学校時代の成績が優秀だった訳でもなければ、陸軍大学校に進んだことも無い。
 だから、野田連隊長と陸軍大学校で同期であることも、天野中隊長の成績が野田連隊長より上であることも、天野が陸軍大学校を主席で出たことも無い。
 もちろん天野中隊長が恩賜の軍刀を拝領した事も無い。
 5人が語っていることは、その当時聞いた話なのだろう。
 戦地で聞いた話は、おもしろおかしく、あり得ない方向でつくられて、戦後、事実として語られていることがこのことでわかる。
 連隊には多くの将校がいるけれど、陸軍大学校を出ているのは、連隊長くらいで、他にいても1人か2人。
 その陸軍大学校出身者までもが強姦する。
 しかも主席で出た者が、野田謙吾と言えば、連隊長のあと、陸軍省人事局長、教育総監代理、軍司令官をつとめた陸軍の逸材。
 その野田連隊長より成績が良かった。
 だから連隊長の言うことを聞かなかった。

歴史やあの戦争を学ぶべきは誰なのか

 このように、面白く、どんどん拡大していく。
 そして、あり得ない話が事実として定着する。
 聞き取りをしただけでは、いかに危険か、このことからもわかる。
 この本の中で語られる強姦、殺害、放火、強盗なども、このような、面白く、あり得ない方向で作られた話だったのだろう。
 当時、歩兵第33連隊第5中隊の第1小隊長だった市川治平さんは、歩兵33連隊の生き字引とも言われ、野田連隊長をも、天野中隊長をも知っていて、戦後になって書かれた「歩兵第33連隊史」の刊行では中心的な役割を果たした。
 その市川さんが、この本をこう語る。

 「本当にばかばかしい本です。私のところに聞き取りには来ませんでしたが、元気なり2人の戦友に尋ねたら、2人にも来なかったと言っています。まともな話をする人には行かないようです。確かに予備役には悪い事をする人もいましたが、この本をざっと読んだところ、強姦などの話は、創作8割、本当2割でしょう」

 聞き取りの実態がどんなものか、まだ私は告白書から直接聞くことは出来ていないけれど、市川さんの分析はほとんど間違いないだろう。
 このような本を朝日新聞や毎日新聞は取り上げたのだが、中でもお粗末だったのは、テレビ朝日の「ニュースステーション」だった。
 「ニュースステーション」での紹介は、(平成14)年8月15日の終戦の日に行われた。
 そこで「ニュースステーション」は、日本の若い人にあの戦争を伝えるのに失敗したが、その責任は私たち上の世代にある、このような告白をもっと語るべきだ、と述べながら、その一方で、下関(シャーカン)を「げかん」「げかん」と言っている。
 地名もまともに読めないで、若い人に戦争の事を伝えられるのだろうか。
 何人かの告白を紹介しながら、その人たちを久米宏キャスターは「80代を過ぎたような方も多い」と説明している。
 南京戦は65年前の事だから、すでに兵士は80代の後半になっている。
 80代を過ぎたような方も多いどころでは無いだろう。
 このキャスターは、南京戦がいつ起こったか知らないようだ。
 さらに久米宏キャスターは、102人の中から選んで、次のような告白を紹介した。

 「中に若い嫁さんが隠れとったんじゃ。纏足(てんそく)で速く逃げられんで、そいつを捕まえて、その場で服を脱がして強姦したんじゃ」

 昭和12年と言えば、中華民国26年だ。
 その時、纏足(てんそく)の若い女性がいたかどうか、少しでも歴史を学んだなら、分かりそうなものだ。
 歴史やあの戦争を勉強するのは、久米宏キャスターを始めとする「ニュースステーション」の出演者でありスタッフだろう。


関連項目:[1] [2] [3]
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