架空だった南京大虐殺の証拠
謎の「崇善堂」とその実態
阿羅健一(評論家)
「正論」昭和60(1985)年10月号より転載
東京軍事裁判の証拠
いわゆる南京大虐殺は東京裁判法廷において告発されたもので、以後この時の証拠、判決が拠り所となって、日本軍が虐殺した人数は20万人ともいわれ、又ある時は30万人ともいわれてきた。
そしてこの数字は戦後40年間日本人の自信と誇りをことあるごとに失わせてきた。
それではこの東京裁判での証拠・判決ぶんはどんなものであったかといえば、まず昭和21(1946)年8月29日、虐殺人数に関して4種類の証拠が提出された。
検察側書証1702、1703、1704、1706である。
これらの証拠によると、虐殺人数はまちまちであるが、1702の「南京慈善団体及び人民魯甦の報告による敵人大虐殺」によれば26万人、1706の「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告書」によれば34万人とも28万人ともいう。
1703と1704は南京地方裁判所の検察官が作成した埋葬死体数統計表というもので、1703の方が崇善堂埋葬隊埋葬死体数統計表、1704は世界紅卍字会南京分会救援隊埋葬班埋葬死体数統計表である。
2つの埋葬表は死体発見場所、埋葬場所、男・女・小児、月日にわかれている詳細なもので、この統計表によれば崇善堂が埋葬した死体は11万2千余人、紅卍字会が埋葬した死体は4万3千余人、計15万5千人となっている。
この時提出された検察側証拠は全面的に採用された訳ではなかったが、2つの埋葬表は完全に採用された。
そしてこの統計表がどれだけ重要で決定的な証拠力を持っていたかは昭和23(1948)年11月の東京裁判での判決文を見れば一目瞭然である。
判決の中の最も重要な殺害人数確定箇所ではこう述べられている。
「後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上であったことが示されている。
これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千人に及んだ事実によって証明されている」
この様に判決文は述べている。
これを見てわかるとおり埋葬表がそっくりそのまま認定され、南京大虐殺の決定的なきめ手になっていた訳である。
この検察側の証拠提示に対して弁護側が手を拱いていた訳ではなった。
埋葬表に対して弁護側は次ぎの様に反論した。
「各証は南京が日本軍に占領されて後、実に十箇年を経過したる1946年に調査せられたりと称せらるるものにして、その調査が如何なる資料に基き為されたるや判明せず。
殊に死体の数に至りては十箇年後に之を明確にすること殆んど不可能なりといふべく、此処にかかげられたる数字は全く想像によるものと察するの外なし。
占領に際して日本軍の苦闘は頗る激甚にして、此の戦闘に於て彼我の死者は他の戦場に比し多数に及びたり。従って南京城の内外に当時、戦死体の存在したりしことは言わずして明かなり。然れどもその死体を以って直ちに日本軍による虐殺体なりとするのは大なる誤なり。
次に此の証拠の数字につき特に作為せられ、措信すべからずと為す例を示すべし。
法廷証によれば、崇字埋葬隊は一九三七年十二月二十六日より二十八日に至る埋葬作業に於て四〇四箇の死体を埋葬し、一日平均一三〇箇を処置せり。
然るに一九三八年四月九日より十八日に至る間に兵工廠、雨花台の広大なる地域に於て二六、六一二箇の死体を埋葬し、一日平均二、六〇〇箇を処置せり、前後の作業を比較せば、その誇張・杜撰の信憑し難き表示なること明瞭なり。
当時既に日本軍により清掃せられたる地域に於て、然も戦後五ヶ月を経過したる雨花台方面にかかる死体の存在する筈なきなり。
その他、水西門―上河、中山門―馬群、通済門―方山に於ても同様なる矛盾を指摘することを得。
又、崇字埋葬隊の数字中にはすべて男子・女子・小人と適当なる減少率を以って死体数を記入してあるに拘わず、紅卍会の数字には女子・小人は皆無なり。
当時、非戦闘員じゃ殆んど遁走しあり、戦場に残留するものなく、常識としても女子・小人が戦場に介在することは殆んど信ずること能はず。
此の実験則に反する証拠は、是れ後年の為にせんとする作為と解するの他なし」
この弁論は、埋葬表を見た人なら誰もが自然と湧き出る疑問とその矛盾を述べたものである。
弁護側はこの反論で充分と考えていたようだ。
当時は弁護側が南京に行って埋葬表を調べようとしても時間は無かったし、金も無かった。
たとえあったとしても中国は入国を認めなかったであろう。
弁護側が南京に行くことは出来なかったから、常識での反論にとどまったのは当然であった。
しかし、判決で、判事は検察側の証拠を採用し、弁護側の反論を認めなかった。
東京裁判から何年かして中国にはハエがいないということが日本に伝わったが、埋葬表の話はこのハエの話と非常に似ている。
中国にハエがいないという話は誰が考えてもおかしい話である。
この話は常識から考えて辻褄(つじつま)があわないと反駁(はんばく)は出来るが、中国に行けないから具体的には反証は出来ない。
その結果、中国にはハエがいないということが認められてしまった。
南京大虐殺の話もこれと同じである。
今だもって中国に行って検証することはできない。
もともと東京裁判の起訴状には
「昭和十二年十二月十三日頃、日本軍は南京を攻略し、数万の一般人を虐殺し、且其の他非道なる行為を行いたり」
とあり、ここにある「数万」とは2万人と想定していたふしがある。
起訴状の数ヶ月前に連合軍司令官が発表した資料では、
「証人達の述べる所によれば、実に二万人からの男・女・子供達が殺戮された事が確認されている」
といっていたからである。
ところが、中国が調べたと称して提出した証拠は26万人や34万人の虐殺を示していた。
当時の日本人同様判事団もこれにはびっくりしたであろう。
さすがに26万人とか34万人とかいう数字は信用しなかったが、それでも微に入り細にわたった「崇善堂埋葬統計表」と「紅卍字会埋葬統計表」は信用した。
それが先ほどのように15万5千人は確実だという判決になった訳である。
作られた数字
東京裁判には裁判という名はついているものの、それまでの裁判に見られないようなことが幾つかある。
この起訴状より判決の方の虐殺人数が増えているというのもその1つである。
また、虐殺人数が判決ではまちまちであるということもその1つである。
先ほどの様に20万人以上と述べている部分もあれば10万人以上と述べている部分もある。
この類の数は多ければ多いほど良いという人たちによって虐殺人数は20万人と言われてきたのである。
東京裁判に証拠・判決というものはこのようなものであった。
しかし、現在丹念に様々な資料を集めれば弁護側が反論した常識論を具体的な証拠で肉付けすることが出来る。
もちろん、戦後の資料によってでは無い。
昭和12、3年当時の資料によってである。
その頃はまだ南京大虐殺が宣伝されておらず、南京大虐殺にあわせて資料を誇張したり矮小化する必要は無かった。
さまざまな記録が生のままになっている。
基本的な統計上の誤りをチェックすればほとんど信用出来るのである。
その資料で証拠を検証しようというのである。
さしあたり、11万2千人という最大の埋葬数をあげ、大虐殺の最大根拠となり、しかも度々疑問を投げかけられて来た崇善堂なるものを調べてみた。
まず当時のいくつかの資料を列記する。
〔 〕は筆者が付したものである。
崇善堂埋葬隊埋葬死体数統計表
〔検察側書証1703、東大社研資料室「極東国際軍事裁判記録」より〕
年 月 日 | 「自昭和十二年十二月廿六日至昭和十二年十二月廿八日」 |
取 扱 隊 | 「崇字埋葬第一隊」 |
死体発見場所 | 「沐府西門ヨリ○衣廊ニ至ル」(※HP作者注・○中の漢字は「イ」ニンベンに「占」という漢字です) |
埋 葬 場 所 | 「五台山」 男「九六人」女「二二人」子供「六」計「一二四」 |
年 月 日 | 「自昭和十二年十二月廿六日至昭和十二年十二月廿八日」 |
取 扱 隊 | 「崇字埋葬隊第二隊」 |
死体発見場所 | 「ゆう江門東」 |
埋 葬 場 所 | 「城根」 男「三二四」女「一二」子供「一二」計「三九二」 |
年 月 日 | 「自昭和十二年十二月廿六至昭和十二年十二月廿八日」 |
取 扱 隊 | 「崇字埋葬隊第三隊」 |
死体発見場所 | 「新街口南」 |
埋 葬 場 所 | 「五台山」 男「八三」女「七」子供「一」計「九一」 |
年 月 日 | 「自昭和十二年十二月廿六日至昭和十二年十二月廿八日」 |
取 扱 隊 | 「崇字埋葬隊第四隊」 |
死体発見場所 | 「中華門東」 |
埋 葬 場 所 | 「城根」 男「三五二」女「三四」子供「一八」計「四〇四」 |
年 月 日 | 「自昭和十三年一月三日至昭和十三年二月四日」 |
取 扱 隊 | 「崇字埋葬隊第一隊」 |
死体発見場所 | 「北門橋ヨリ唱経楼ニ至ル」 |
埋 葬 場 所 | 「紅土橋及北極閣」 男「二七二」女「二九」子供「九」計「三一〇」 |
年 月 日 | 「自昭和十三年一月三日至昭和十三年二月四日」」 |
取 扱 隊 | 「崇字埋葬隊第二隊」 |
死体発見場所 | 「興中門ヨリ小東門ニ至ル」 |
埋 葬 場 所 | 「城根」 男「三五〇」女「五一」子供「二二」計「四二三」 |
年 月 日 | 「自昭和十三年一月三日至昭和十三年二月四日」 |
取 扱 隊 | 「崇字埋葬隊第三隊」 |
死体発見場所 | 「老王府ヨリ盧政牌楼ニ至ル」 |
埋 葬 場 所 | 「観音庵ノ東部、身○橋ノ東端」(※HP作者注・○中の漢字は「イ」ニンベンに「火」、した「土」漢字です) 男「二八四」、女「四六」、子供「二五」計「四八八」(※HP作者注・原文通りの計算が合わないママです) |
年 月 日 | 「自昭和十三年一月三日至昭和十三年二月四日」 |
取 扱 隊 | 「崇字埋葬隊第四隊」 |
死体発見場所 | 「小○府ヨリ運子営ニ至ル」(※HP作者注・○中の漢字は不明) |
埋 葬 場 所 | 「城根」 男「四三二」女「三一」子供「二五」計「四八八」 |
年 月 日 | 「自昭和十三年二月五日至昭和十三年三月六日」 |
取 扱 隊 | 「崇字埋葬隊第一隊」 |
死体発見場所 | 「鼓楼ヨリ大石橋ニ至ルノ間」 |
埋 葬 場 所 | 「鼓楼及倒鐘場附近其他」 男「三五四」女「一三」子供「八」計「三七五」 |
年 月 日 | 「自昭和十三年二月五日至昭和十三年三月六日」 |
取 扱 隊 | 「崇字埋葬隊第二隊」 |
死体発見場所 | 「御史楼ヨリ高橋門ニ至ル」 |
埋 葬 場 所 | 「城根及南城」 男「三五四」女「一三」子供「八」計「三七五」 |
年 月 日 | 「自昭和十三年二月五日至昭和十三年三月六日」 |
取 扱 隊 | 「崇字埋葬隊第三隊」 |
死体発見場所 | 「花牌楼ヨリ洪武門ニ至ル」 |
埋 葬 場 所 | 「三条巷・大中橋・城根其他」 男「五二九」女「二四」子供「十五」計「五六八」 |
年 月 日 | 「自昭和十三年二月五日至昭和十三年三月六日」 |
取 扱 隊 | 「崇字埋葬隊第四隊」 |
死体発見場所 | 「長楽路ヨリ半山園ニ至ル」 |
埋 葬 場 所 | 「城根」 男「八七八」女「三六」子供「二八」計「九四二」 |
年 月 日 | 「自昭和十三年三月七日至昭和十三年四月八日」 |
取 扱 隊 | 「崇字埋葬隊第一隊」 |
死体発見場所 | 「太平門ヨリ富貴山ニ至ル」 |
埋 葬 場 所 | 「城根及山脚」 男「六一〇」女「二二」子供「十六」計「六四八」 |
年 月 日 | 「自昭和十三年三月七日至昭和十三年四月八日」 |
取 扱 隊 | 「崇字埋葬隊第二隊」 |
死体発見場所 | 「大樹荘ヨリ藍衣荘ニ至ル」 |
埋 葬 場 所 | 「城根」 男「四七二」女「三九」子供「一七」計「五二八」 |
年 月 日 | 「自昭和十三年三月七日至昭和十三年四月八日」 |
取 扱 隊 | 「崇字埋葬隊第三隊」 |
死体発見場所 | 「石坂橋ヨリ尚書街ニ至ル」 |
埋 葬 場 所 | 「公園ノ東側及浮橋ノ北」 男「七一五」女「四八」子供「三五」計「四七四」(※HP作者注・原文通りの計算が合わないママです) |
年 月 日 | 「自昭和十三年三月七日至昭和十三年四月八日」 |
取 扱 隊 | 「崇字埋葬隊第四隊」 |
死体発見場所 | 「城内東半地区」 |
埋 葬 場 所 | 「各荒地及菜園」 男「三八五」女「五四」子供「三五」計「四七四」 城内 男「六、七四一」女「五二二」子供「二八五」計「七、五四八」 |
年 月 日 | 「自昭和十三年四月九日至昭和十三年四月十八日」 |
死体発見場所 | 「中華門外兵工廠雨花台ヨリ花神廟ニ至ル」 男「二五、七五二」女「五六七」子供「二九三」計「二六、六一二」 |
年 月 日 | 「自昭和十三年四月九日至昭和十三年四月廿三日」 |
死体発見場所 | 「水西門ヨリ上河ニ至ル」 男「一八、四二九」女「三三六」子供「二三」計「一八、七八八」 |
年 月 日 | 「自昭和十三年四月七日至昭和十三年四月廿日」 |
死体発見現場 | 「中山門外ヨリ馬翠ニ至ル」 男「三三、六〇一」女「一九一」子供「三六」計「三三、八二八」 |
年 月 日 | 「自昭和十三年四月九日至昭和十三年五月一日」 |
死体発見現場 | 「通済門外ヨリ方山ニ至ル」 男「二四、八三九」女「四七五」子供「一七六」計「二五、四九〇」 |
城外 男「一〇二、六二一」女「一、五六九」子供「五二八」計「一〇四、七一八」 城内 男「六、七四一」女「五二二」子供「二八五」計「七、五四八」 |
|
計 男「一〇九、三六二」女「二、〇九一」子供「八一三」 総計「一一二、二六六」 | |
南京市崇善堂々長 責任者 周一漁(印)(官印) |
世界紅卍字会南京分会救護隊埋葬班埋葬死体統計表
〔検察側書証1704、東大社研資料室「極東国際軍事裁判記録」より〕
地区別 | 埋葬場所 | 死 体 数 | 月 日 | 備 考 | |||
男 | 女 | 小児 | 合計 | ||||
城内地区 | 清涼山後山 | 129 | 129 | 12月22日 | 収兵橋一帯ニ在リシモノヲ納棺 | ||
金陵大学農場 | 124 | 1 | 125 | 1月26日 | 西橋ノ他ノ中ニ在リシモノヲ納棺 | ||
五台山荒山 | 17 | 2 | 19 | 2月2日 | 漢中路一帯ニ在シリシモノヲ納棺 | ||
城内地区 | 清涼山墓地 | 49 | 49 | 2月6日 | 竜蟠里一帯ニ在リシモノヲ納棺 | ||
韓家毬西倉山上 | 147 | 2 | 149 | 2月7日 | 西倉ノ池ノ中ニ在リシモノヲ納棺 | ||
五台山荒山 | 16 | 4 | 20 | 2月11日 | 上海路一帯ニ在リシモノヲ納棺 | ||
古林寺山上 | 107 | 2 | 109 | 2月14日 | 古林寺山上ニ在リシモノヲ納棺 | ||
陰陽営南秀村 | 650 | 2 | 20 | 672 | 2月19日 | 城北各箇所ニ在リシモノヲ納棺 | |
古林寺後山 | 154 | 154 | 2月20日 | 竜池庵ニ在リシモノヲ納棺 | |||
古林寺後山 | 29 | 1 | 30 | 2月22日 | 城北各箇所ニ在リシモノヲ納棺 | ||
陰陽営北秀村 | 337 | 337 | 2月27日 | 同上 | |||
城外地区 | 中華門外望江磯 | 100 | 9 | 109 | 12月22日 | 城内各箇所ニ在リシモノヲ納棺 | |
中華門外高輦柏村 | 250 | 11 | 261 | 同上 | 同上 | ||
中華門外普徳寺 | 280 | 280 | 同上 | 同上 | |||
6466 | 6468(ママ) | 12月28日 | |||||
上新河黒橋 | 966 | 2 | 966(ママ) | 1月10日 | 上新河一帯ニ在リシモノヲ納棺 | ||
中華門外望江磯 | 407 | 21 | 3 | 431 | 1月23日 | 城内各所ニ在リシモノヲ納棺 | |
水西門外二道桿子 | 843 | 843 | 2月8日 | 水西門外各箇所ニ在リシモノヲ納棺 | |||
上新河太陽宮 | 457 | 457 | 2月9日 | 水西門外各箇所ニ在リシモノヲ納棺 | |||
水西門外南傘毬 | 124 | 1 | 125 | 同上 | 死体腐敗セル為現場ニテ納棺 | ||
上河鎮二堰 | 850 | 850 | 同上 | 死体腐敗セル為現場ニテ納棺 | |||
上新河江東橋 | 1860 | 1850(ママ) | 同上 | 江東橋一帯ニ在リシモノヲ納棺 | |||
上新河綿花堤 | 1860 | 1860 | 同上 | 死体腐敗セル為現場ニテ納棺 | |||
漢西門外広東共同墓地 | 271 | 1 | 272 | 2月11日 | 漢西門外一帯ニ在リシモノヲ納棺 | ||
水西門外大王廟 | 34 | 34 | 同上 | 水西門外一帯に在リシモノヲ納棺 | |||
下関渡固里 | 1191 | 1191 | 2月12日 | 死体腐敗セル為現場ニテ納棺 | |||
中央体育場共同墓地 | 82 | 82 | 2月14日 | 体育場付近ニ在リシモノヲ納棺 | |||
上新河中央監獄 | 328 | 328 | 同上 | 中央監獄内ニ在リシモノヲ納棺 | |||
上新河観音庵空地 | 81 | 81 | 2月15日 | 該処火場内ニ在リシモノヲ納棺 | |||
上新河鳳凰街空地 | 244 | 244 | 2月16日 | 該処西街ニ在リシモノヲ納棺 | |||
漢中門外ニ道桿子 | 1123 | 1123 | 2月18日 | 該処河辺ニ在リシモノヲ納棺 | |||
上新河北河口空地 | 380 | 380 | 同上 | 北河口一帯ニ在リシモノヲ納棺 | |||
下関丸家坪 | 480 | 480 | 同上 | 下関沿岸ニ在リシモノヲ納棺 | |||
下関魚雷軍営旁 | 524 | 524 | 2月19日 | 死体腐敗セルタメ現場ニテ納棺 | |||
下関草鞋閘空地 | 197 | 197 | 2月20日 | 魚雷営碼頭ニ在リシモノヲ納棺 | |||
同 上 | 226 | 226 | 2月21日 | 同 上 | |||
下関魚雷軍営碼頭 | 5000 | 5000 | 同 上 | 死体腐敗セルタメ現場ニテ納棺 | |||
幕府山下 | 115 | 115 | 同 上 | 草鞋閘後方ニ在リシモノヲ納棺 | |||
上新河五福村 | 217 | 217 | 同 上 | 五福村電台等ニ在リシモノヲ納棺 | |||
下関草鞋閘空地 | 151 | 151 | 2月22日 | 魚雷営碼頭ニ在リシモノヲ納棺 | |||
下関魚雷軍営碼頭 | 300 | 300 | 同 上 | 死体腐敗セルタメ現場ニテ納棺 | |||
中華門外普徳寺貧民墓地 | 106 | 106 | 2月23日 | 城内各箇所ニ在リシモノヲ納棺 | |||
下関姜家園 | 85 | 85 | 2月25日 | 下関各箇所ニ在リシモノヲ納棺 | |||
下関石榴園 | 1902 | 1902 | 2月26日 | 幕府山旁ニ在リシモノヲ納棺 | |||
下関東砲台 | 194 | 194 | 同 上 | 煤炭港碼頭ニ在リシモノヲ納棺 | |||
下関上元門外 | 591 | 591 | 2月27日 | 上元門内一帯ニ在リシモノヲ納棺 | |||
中華門外望江磯貧民墓地 | 87 | 87 | 2月28日 | 城北各箇所ニ在リシモノヲ納棺 | |||
下関石榴園 | 1346 | 1346 | 3月1日 | 幕府山旁ニ在リシモノヲ納棺 | |||
三叉河西南空地 | 998 | 998 | 同 上 | 三叉河一帯ニ在リシモノヲ納棺 | |||
和平門外水清寺旁 | 1409 | 1409 | 3月2日 | 該処大渦子ニ在リシモノヲ納棺 | |||
下関石榴園 | 768 | 768 | 3月3日 | 幕府山旁ニ在リシモノヲ納棺 | |||
下関煤炭港江辺 | 1772 | 1772 | 3月6日 | 死体腐敗セルタメ現場ニテ納棺 | |||
下関海軍医院後方堤辺 | 87 | 87 | 3月14日 | 該処及び怡和碼頭ニ在リシモノヲ納棺 | |||
三叉河検辺 | 29 | 29 | 3月15日 | 該処一帯ニ在リシモノヲ納棺 | |||
上新河甘露寺空地 | 83 | 83 | 同 上 | 該処一帯ニ在リシモノヲ納棺 | |||
中華門外華厳山寺頂 | 100 | 100 | 3月19日 | 安徳門一帯ニ在リシモノヲ納棺 | |||
中華門外普徳寺西安黒堂 | 799 | 799 | 3月25日 | 城内各箇所 | |||
太平門外城壁根 | 500 | 500 | 3月27日 | 死体腐敗セルタメ現場ニテ納棺 | |||
上新河甘露寺空地 | 354 | 354 | 3月23日 | 該処一帯ニ在リシモノ納棺 | |||
中華門外安徳里西山上 | 135 | 135 | 3月24日 | 上新河付近ニ在リシモノヲ納棺 | |||
中華門外普徳寺貧民墓地 | 1177 | 1177 | 4月14日 | 城南北各箇ニ在リシモノヲ納棺 | |||
上新河賢家桑園空地 | 700 | 700 | 4月16日 | 上新河各箇ニ在リシモノヲ納棺 | |||
三叉河空地 | 282 | 282 | 4月19日 | 三叉河口一帯ニ在リシモノヲ納棺 | |||
下関煤炭港空地 | 385 | 385 | 4月27日 | 江辺水上ニ在リシモノヲ納棺 | |||
下関兵站処江辺 | 102 | 102 | 4月29日 | 下関沿江辺ニ在リシモノヲ納棺 | |||
中華門外普徳寺 | 486 | 486 | 4月30日 | 兵工廠及城内ニ在リシモノヲ納棺 | |||
下関石榴園 | 518 | 518 | 5月1日 | 兵站処江辺ニ在リシモノヲ納棺 | |||
老江古硬辺 | 94 | 94 | 3月15日 | 同 上 | |||
下関口灘辺 | 65 | 65 | 5月18日 | 江辺水上ニ在リシモノヲ納棺 | |||
上新河黒橋 | 57 | 57 | 5月20日 | 上新河江辺ニ在リシモノヲ納棺 | |||
中華門外普徳寺山上 | 216 | 216 | 5月26日 | 城内各箇所ニ在リシモノヲ納棺 | |||
下関煤炭港 | 74 | 74 | 5月31日 | 該処江辺ニ在リシモノヲ納棺 | |||
中華門外普徳寺山上 | 26 | 26 | 6月30日 | 城内各箇所ニ在リシモノヲ納棺 | |||
同 上 | 29 | 5 | 1 | 35 | 7月31日 | 同 上 | |
同 上 | 14 | 4 | 18 | 〔8月〕31日 | 同 上 | ||
中華門外普徳寺 | 31 | 8 | 9 | 48 | 9月30日 | 同 上 | |
同 上 | 42 | 13 | 7 | 62 | 10月30日 | 同 上 | |
附 記 | 総 計 4万3千71人 |
〔資料1〕――――――――――――――――
「24年度南京市政府行政統計報告」
南京市政府秘書処 発行
中華民国26年4月 発行
南京市公益慈善団体一覧表(24年10月調査)
名 称 | 成立年月日 | 事 業 | 主持人 | 地 址 |
崇善堂 | 清嘉慶2年 | 施材・恤○・保嬰 | 陸晋軒 | 金沙井 |
世界紅卍字会南京分会 | 民国11年 | 施医・施薬・掩埋・戦時救済 | 謝冠能 | 小火瓦毬 |
世界紅卍字会南京下関分会 | 民国11年 | 施診・施薬・掩埋・施衣米及救済 | 葉楚良 | 下関群泰里 |
〔24年度とは中華民国年のことで、昭和10年にあたる。
この報告書は支那事変のおこる3ヶ月前、国民政府行政院に直属する南京市から発行されたものである。
「南京市公益慈善団体一覧表」には支那事変前南京にあった46の慈善団体があげられている。
一部をピックアップした。〕
南京市慈善団体概況(24年度)
名 称 | 団体数 | 経辮事業 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
育 嬰 | 恤 ○ | 施医薬 | 施 材 | 掩 埋 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
総 計 | 27 | 4 | 7 | 12 | 14 | 7 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
〔「南京市慈善団体概況」は、27の慈善団体の事業内容を区分している。
事業内容は19に分類されているが、ここには主なものだけをリストアップした。
掩埋を事業内容としている慈善団体は7つあるが、崇善堂は含まれていない。〕
〔資料2〕――――――――――――――――
「中華民国27年度 南京市政概況」
督辨南京市政公署秘書処 編輯
中華民国28(作者注・昭和14)年3月出版
南京市慈善団体調査表
名 称 | 地 点 | 主持人 | 主要工作 | 成立時間 | 現在情形 |
崇善堂 | 金沙井 | 周一魚等 | 恤○・保嬰・施材・施診・施薬・惜字・散米 | 清嘉慶2年成立 | 工作進行範囲狭小 |
紅卍字会分会 | 小火瓦巷 | 謝冠龍等 | 施粥・施米・施材・施診・施薬・惜字・振済・掩埋・収容・医薬 | 民国11年成立 | 工作進行 |
南京の慈善団体は事変後、責任者が不明になったり、経費が足りなくなって多くは活動が止まった。
紅卍字会と紅十字会だけはますます忙しくなり活動している。
〔南京が陥落した4ヵ月後の昭和12年3月に成立した維新政府の南京市が編集、発行したもの。
陥落後の1年間の南京の復興の様子を行政統計から記述している。
この「南京市慈善団体調査表」には15の慈善団体があげられており、ここにはその一部だけをあげた。
このうち7団体が「掩埋」を主要活動の1つにあげている。
崇善堂は埋葬を行っていない。〕
南京市政公署振務委員会収支表
中華民国27(作者注・昭和13)年5月至12月分
収 入 | 適 要 | 支 出 | ||||||||||
15万元 |
|
|
〔この表は南京市の予算の一部で、15万元の市の収入のうち振務委員会から慈善団体への補助金支出を示した表である。
この表によれば、ここにあげた紅卍字会、崇善堂のほか明徳慈善堂など7つの慈善団体にも各々二百元が支出されている。〕
埋葬隊の組織
〔埋葬〕
事変の後、城壁の内外いたるところに屍体があった。
最初、自治委員会救済課、現在は紅卍字会が埋葬に尽力したが、いたるところ荒地となって遺漏を免れない。
埋葬隊はもとの16人に戻った。
屍体とまだ埋めていない棺を埋めるため人をやった。
城内の無縁仏の墓と修理すべき墓の数を詳しく調べると2万6千4百余ある。
これらは修理した。
城内いたるところに縁故者の棺が安置されている。
期限を決めて埋めた。
無縁仏は中華門の外にある安里堂に運んで埋めた。
5月、6月のことであった。
修理すべき墓は石灰で強固にした。
合計千4百七十余であった。
年末までさらに百余体を埋葬し、千余の墓を修理した。
民国二十七年の五月から十二月まで埋葬した棺と屍体及び修理した墓の統計表は次の通りである。
〔棺の手配〕
無縁仏の死体が見つかると、いつも孝善導で棺材を求め、城外に運んで埋葬した。
後に振務委員会が埋葬費の項目で五百元を支出し、棺百個を備えて援助した。
〔資料3〕――――――――――――――――
「南京」
南京商工会議所 編
昭和十六年八月 発行
第二項 救済
第一目 事変前
慈善団体
南京市公益団体一覧表
名 称 | 成立月日 | 事業 | 主持人 | 持祉 |
崇 善 堂 | 清嘉慶二年 | 施料・教恤・哺嬰 | 陸晋軒 | 金沙井 |
世界紅卍字会南京下関分会 | 民十一年 | 施薬・埋葬・戦時救済 | 葉楚良 | 下関祥秦里 |
世界紅卍字会南京分会 | 民十一年 | 施診・施薬・施衣米・埋葬 | 謝冠能 | 小大瓦毬 |
〔日本軍が南京を占領して三年半後。
すでに汪政権が成立し、南京には多数の日本人が来て商売をしていた。
この頃、南京の商工会議所が南京で入手した資料をもとに編集したのである。
ほとんどの資料が中国によってまとめられている。
この一覧表には四十六の慈善団体があげられている。
このうち埋葬・葬儀などを事業としてあげているのは世界紅卍字会など十六団体である。〕
第二目 事変後
慈善団体
南京市にあった民間各種慈善団体は事変の為、資金難に陥り一時停頓したが、振務委員会の補助を受け漸次復旧し民国二十八年度に於ける市政府調査に依れば左の如きものがある。
(団体名) | (開設年月日) |
衆志復善堂 | 二十七年五月 |
崇善堂 | 二十七年九月 |
〔ここには二十六団体があげられている。
最も早く復旧したのは衆志復善堂である。
崇善堂が復旧したのは民国二十七年(昭和13年)九月である。〕
〔棺桶及び屍体の処理〕
城の内外に散在した屍体は、卍字会及び自治委員会救済課で埋葬隊を組織して処分し、又事変前から未だ埋めてなかった棺桶は管理者に埋葬せしめ、管理者無きものは南門外に運搬して埋葬した。
〔資料4〕――――――――――――――――
「大阪朝日新聞」
昭和13年4月16日 北支版
南京便り
戦いのあとの南京でまず整理しなければならないものは敵の遺棄死体であった。
壕を埋め、小川に山と重なっている幾万とも知れない死体、これを捨て置くことは、衛生的にいっても人心安定の上からいっても害悪が多い。
そこで紅卍会と自治委員会と日本山妙法寺に属するわが僧侶らが手を握って片づけはじめた。
腐敗したのをお題目とともにトラックに乗せ一定の場所に埋葬するのであるが、相当の費用と人力がかかる。
人の忌む悪臭をついて日一日の作業はつづき、最近まで城内で一千七百九十三体、城外で三万三百十一体を片付けた。
約一万1千円の入費となっている。
苦力も延五、六万人は働いている。
しかしなお城外の山のかげなどに相当数残っているので、さらに八千円ほど金を出して真夏に入るまでにはなんとか処置を終える予定である。
以上の資料をもとに崇善堂とその埋葬死体統計表を検討してみたい。
その前に、また東京裁判の問題点をあげておく。
前に述べたように昭和二十一年八月二十九日、東京裁判法廷において検察側は四点の証拠を提出した。
このうち「南京慈善堂団体及び人民魯甦の報告による敵人大虐殺」(検察側書証一七〇二)と「紅卍字会埋葬統計表」を見ると、一七〇二にも紅卍字会の埋葬統計表がある。
二つの紅卍字会埋葬統計表を比べると、一七〇四の城外地区のうち冒頭の「中華門外望江磯」から「水西門外二道桿子」までの七ヶ所、九千三百八十八人が一七〇二ではまるっきり抜けている。
そして、抜けている七ヵ所のうち三ヶ所が、結局提出されなかった「民国二十六年(一九三七)南京大虐殺死難者埋葬処の撮影」(検察側書証一七〇一)では崇善堂が埋葬したことになっている。
しかもていねいに撮影者まであげている。
一体これが証拠なのであろうか。
東京裁判の一つの実体としてあげておく。
崇善堂と慈善団体
さて崇善堂である。
崇善堂は清の嘉慶二年(一七九七年)に成立した慈善団体である。
数多い慈善団体の中でも古い部類に入る。
南京陥落時、既に百四十年の歴史を持っていた。
中国には慈善団体が数多くあり、民国二十四年(昭和十年)に柯象峰が著した「支那貧窮問題研究」には慈善団体について次のように書いてある。
「中国の救済事業でも組織的なものもあった。例えば南京の慈善機関は清代から存したのであり、雍正十一年両江総督趙某が南京城外三里のトウ(HP作者注・「にんべん」に「冬」という字ですが変換出来ませんでした)園に設立した江寧普育堂がこれである。
この外に各種団体の経営する救済事業として貧児養育院、仏教慈幼院、紅十字会、慈善惜字総会、寧郡義倉、広豊備倉、代葬局、金陵義渡及び各種の「善堂」(楽善堂、修善堂、崇善堂、同善堂、普善堂、広善堂、合善堂、崇仁堂、厚徳堂等)があり、何れも嬰児愛護、資材給与、埋葬、施米、施薬、施診、施衣、施粥等を行っている」
このように中国では多くの慈善団体があり、崇善堂はそのうちの一つであった。
中正路と昇州路の交叉差に近い金沙井にあり、崇善堂のある金沙井は南京城内の南部に位置し、漢門路、中華路、城壁に囲まれたこの地域は清の時代には繁華街であった。
その頃崇善堂はこの繁華街で活躍をしていたものであろう。
しかし長い歴史の間に南京も少しずつ変わり、国民政府が出来た頃、この地域は単に人口の密集した貧民が多いところに変わっていた。
資料一・三によれば支那事変前、崇善堂は南京にある四十六の慈善団体の一つとして施材、恤リ、保嬰などを行っていたのである。
昭和十二年、支那事変が勃発した。
日本軍の南京空爆、上海戦線における中国軍の総くずれが続き、南京市民は次々疎開をした。
百万をほこる人口のうち八十万人ほどが南京から去っていったという。
国民政府は遷都を宣言した。
馬超俊南京市長はじめ市の関係者も南京から去っていった。
南京市の機能は混乱し、そしてあっという間に停止した。
そういった中で資料一・二に見られる通り崇善堂の機能も麻痺した。
関係者など疎開してしまったからであろう。
まもなく日本軍が占領し、そして南京には自治委員会が出来た。
疎開した人たちも戻って来て市の機能が再び動きだす。
自治委員会が発足したのは昭和十三年一月三日で、治安、難民救済などを行い、4月24日に市政公署に事務一切を引き継いだ。
崇善堂の機能が再開したのは、昭和十三年九月である。
もちろん紅卍字会のように陥落直後から活動していた慈善団体もある。
この年の後半、市は慈善団体に補助金を与えた。
崇善堂には三百元の補助があった。
大きい紅卍字会には千元の補助があったが、崇善堂など七つの団体には二百元であった。
復善堂などのように二百元の援助を受けながら活発に機能している慈善団体もあれば、崇善堂のように活動範囲は限られているものもあった。
復旧しても崇善堂は余り活発でなかったらしい。
この頃、崇善堂の責任者が陸普軒から周一漁に代わった。
「維新政府概史」(南京特別市行政院宣伝処発行)によれば、このあとすぐに甘仲琴に代わっている。
再開後の崇善堂の活動内容は資料二でわかるとおり事変前とほぼ同じで、埋葬活動は行っていない。
崇善堂が埋葬活動を行っていないということは資料三の「棺桶及屍体の処置」、資料四によっても裏づけられている。
以上の資料から、崇善堂は南京陥落で機能を失った。
再開したのは昭和十三年の九月である。
しかし埋葬活動はやっていなかったということがわかる。
当時のどんな資料を見ても南京陥落後から崇善堂が埋葬活動を大いに行ったという記録は出てこない。
活動停止の崇善堂
南京陥落後、日ならずして南京を訪れた人の見聞録などを見ても崇善堂の名前は見当たらない。
例えば木村毅氏「江南の早春」、林芙美子氏「南京行」、小林秀雄氏「杭州より南京」、杉山平助氏「南京」、佐々木元勝氏「野戦郵便旗」などである。
もちろんこれらの見聞記は慈善団体の調査報告ではないから見当たらなくて当然である。
しかし、崇善堂の実体がなかった事を積極的に証明する見聞記もある。
前記の見聞記が昭和十二年十二月末から翌年一月にかけての南京ルポであるが、昭和十三年四月の南京ルポがある。
陥落からおよそ五ヶ月、四月十日には上海―南京間の鉄道が一般にも開放され、十一日の鉄道で詩人の草野心平氏と「事業の世界」の社長、野依秀市氏が一緒に南京に入った。
期せずして二人とも見聞記を書いている。
二人の見聞記が崇善堂はこの時期活躍していなかったことを示している。
特に野依秀市氏の「楽土激土」から主なところを引用する。
「午前九時から自動車をとばし有名な中山門を抜け中山陵に行った。
中山陵を一瞥した我々はその直ぐ近所にある支那革命戦史の廟に入ってみた。
その辺を歩くのに運転手の兵隊さんが注意せんといけません。
この道を歩きなさい。
あの辺は地雷火が方々に埋められてあったりしますから危ないですよと注意してくれた。
それから明孝陵の見物に行った。
〔この後、北極閣、玄武湖、中華門を廻り光華門に行く〕
付近一帯が何となく臭気がしていささか鼻をつかれる。
聞くところによると、相当地下に埋められた者があるらしい」
以上が「楽土激土」(秀文閣書房、昭和十三年十月発行)からの引用である。
草野心平氏も野依氏に同行しているのでほぼ同じことを書いている。
草野氏の「支那点々」から引用する。
「支那点々」は昭和十四年十二月に発行されているが、昭和十三年五月に「新愛知」に発表したものの再録である。
「城内では中華門と光華門と中山門とに行ってみた。
城内にはもう死骸などは勿論一本の骨も見当たらなかったが、地の底から湧き上る臭気はひどかった」
これが二人の南京ルポである。
光華門は南京城攻略戦で最も激戦を演じたところで、十二月九日脇坂部隊が城壁にたどりついてから完全に制圧する迄四日間も要した所である。
日本軍は伊藤大隊長以下多数が戦死し、中国兵も相当たおれた。
戦死した中国兵は光華門の近くに埋葬され、その臭いが残っていたのであろう。
ところで崇善堂の埋葬統計表によれば四月七日から二十日まで、中山門から馬群に至る間で三万三千人の死体があって埋葬したことになっている。
一日当たりにすれば二千四百人を埋葬した計算になる。
二千四百人の屍体を埋葬するのに何人ほど必要だろうか。
資料四から憶測するに述べ四千人位は必要と思われる。
延べ四千人として、実際は千人位で働いていたものであろう。
つまり、崇善堂の埋葬表は中山門と馬群の間で千人もの人が埋葬活動していたことを示している。
もし千人が埋葬活動をしていれば当然目につくはずである。
しかし、「楽土激士」にも「支那点々」にもその様な光景はあらわれない。
二人とも中山門と馬群の間の中山陵、支那革命戦士の廟、明孝陵に行っているのである。
光華門の様子を、地の底から湧き上がる臭気、と書いている位である。
千人もの人が埋葬活動しているようなら目撃して記述しているであろう。
そのような記述がないということは二人ともたまたま見逃したのではなく、もともとし屍体などなかったし千人が埋葬活動をしていなかったことを物語っているのである。
この様に崇善堂が昭和十二年十二月二十六日より昭和十三年五月一日まで十一万二千二百六十六人を埋葬したという検察側んぼ証拠はことごとく架空であることがわかる。
中国側の資料も日本の資料もすべてそのことを証拠だてている。
当時弁護側は、
「此処にかかげられた数字は全く想像によるものと察するの外なし」
あるいは
「欲する数字を置きたるにすぎざるもの」
と言ったが、それはまさしくその通りだったのである。
ここで先ほど検察側資料一七〇一、つまり埋葬写真に戻ってみよう。
検察側は埋葬統計表と同じ日にこの埋葬の写真を法廷に提出することになっていた。
崇善堂の埋葬は架空だから写真は一枚もないはずである。
そこで紅卍字会の三ヶ所を崇善堂の埋葬写真とした。
この工作のため、先ほど述べたように、提出した証拠が辻褄(つじつま)のあわないものになってしまった。
もともと作った証拠だから当人たちは気軽に作り変えたのであろう。
崇善堂は埋葬写真のほかにもう一枚計四枚用意された。
もう一枚とは中華門外普徳寺のものであるが、中華門外普徳寺では紅卍字会も埋葬しており紅卍字会の写真を転用できるものである。
結局、当然であるが崇善堂独自の写真は一枚も無いことになる。
結論として、東京裁判に検察側が提出した「南京地方裁判所の検察が作成した崇善堂埋葬隊埋葬死体数統計表」は架空のものであった。
一見してあまりに綿密な資料であったため、判事団はだまされてしまった。
東京裁判では架空の埋葬表が採用され、採用によって埋葬統計表はオーソナイズされ、四十年たって今だに暴威をふるっている。
この時の判決をかさに二十万だ、いやそれ以上だと数字をつりあげる人があとをたたない。
関連項目:[1] [「南京事件・関連資料」項目ページへ]