これは新しい戦争の典型例だ

アイリス・チャン
「レイプ・オブ・南京」
の恐るべき背景

『アイリス・チャン「レイプ・オブ・南京」の恐るべき背景』「正論」平成10年7月号

軍事評論家・鍛冶俊樹(かじ としき)

「正論」平成10(1998)年7月号より転載


 今、米国で進行している事態は、はっきり言って異常な事態である。
 と言うのも去年末、米国で出版され、ベストセラーとなっている、「レイプ・オブ・南京」(南京虐殺)に関しての事だ。
 本書は、中国系米国人女性、アイリス・チャン女史の著作であり、米国のマスコミも肯定的に取り上げているものだ。
 その内容はと言えば、例によって例のごとく日本軍の蛮行を書き並べ、日本では常に議論の的となる虐殺数も、30万人以上と決め付け、中国人を皆殺しにせよと、天皇が命令したとか、戦後、南京虐殺は、日本政府により隠され、教科書にも書かれていない、などという事実無根の記述の満載である。
 恐らく、自虐史観に慣れ切った、多くの日本人は、「ああ、また旧日本軍の過去の問題か」と顔をしかめ、「また謝罪すればいいのさ」とうそぶくのであろう。
 それに対して謝罪反対派の人々は「事実無根」とばかりに事実関係の調査に乗り出すのであろう。
 しかし、この問題は、決して過去の問題なのではなく、現在の問題であり、決して歴史上の問題ではなく、政治上の問題であり、謝罪をすれば済むものでもなければ、単に過去の史料を吟味していればいい様な事でもあり得ない。
 この問題について「一体、外務省は何をしているのか」といった主旨の投書を新聞で見たが、政府レベルで対応しなければならないという意味で、この指摘は正しい。
 しかし一官庁だけで対応しきれる事柄ではなく、国家レベルの対応が必要なのである。
 何故なら、今、米国で進行しているこの事態とは、20世紀になって生まれた、新しい戦争の形態即ち心理戦の典型だからだ。

心理戦とは平時の戦争

 ジェームス・ディーン主演の名作映画「エデンの東」は、ある年齢以上の人達にとっては必見とも言うべき青春映画であったろう。
 あの物語の背景は、いうまでもなく第一次世界大戦である。
 米国は元来が孤立主義を国是とする国であり、あの当時も欧州各国の戦争に米国は参加するなという意見が多数派だった。
 あの映画の主人公の一家も、平和を愛し戦争に背を向ける敬虔なクリスチャンであり、それは当時の米国の健全な中流階級の平均的な姿だった。
 ところが、映画の最初の方で、公園で集会が開かれ、そこでドイツ軍の残虐行為が次々と披露されると言う場面がある。
 ドイツ系移民と覚しき人物が「そんな筈は無い。みんな嘘だ」と抗議して、却(かえ)って市民の吊るし上げを食ってしまう。
 実は、当時、全米で、ああした世論工作が行われた。
 孤立主義の上に、ドイツ系の移民が多数いるため、米国の参戦は不可能だとさえ言われていたのだが、世論工作、宣伝工作の結果、米国内では全く突如として、異常なまでのドイツに対する嫌悪感と憎悪が広がり、対独参戦に傾いて行ったのである。
 第一次世界大戦は、国家総力戦という点でそれ以前の戦争とは全く違った様相を示した。
 軍事だけではなく、政治、経済、文化、生活の全てが、戦争に総動員された初めての戦いだった。
 例えば、フランスの有名な哲学者ベルクソンは、大戦中、文化使節として訪米したが、目的は米国の参戦を促すためである。
 哲学者、文化使節、そして戦争参加とは、何とも奇妙な取り合わせと思われよう。
 なにしろベルクソンと言えば世界最高峰の哲学者である。
 ノーベル文学賞の受賞者であり、フランスでは、彼の著作を読むことなしには大学に入れないとさえ言われた人物である。
 日本では小林秀雄が、彼の圧倒的な影響下にある事で有名だ。
 それほどの人物が、戦争反対どころか戦争参加を勧めようとしたのである。
 しかし、これこそが国家総力戦の実態なのだ。
 ちなみにベルクソンは母親が英国人であり、英語が堪能だった。
 つまりこのフランスの世界的知性は英米では好感度ナンバーワンの人物だった。
 当時既に、日本を含めて先進国では大衆社会と呼んで差しつかえのない状況が出現していた。
 従って先進国では大衆の同意なしに戦争を遂行するのは不可能だったのだ。
 大衆とは、大衆心理に動かされる人々であるから、大衆心理を操作する事が、戦争遂行の重要課題となった。
 世論工作や宣伝工作は、そのための手段であった。
 テレビはまだ無かったが、当時の新技術と言うべき、ラジオや映画が、その為に一役買ったのは勿論(もちろん)の事である。
 当時の戦意高揚映画を見たことがあるが、そこでは英国の俳優扮するドイツ軍兵士が女性を暴行し、赤ん坊を撃ち殺すといった、例によって例の如き残虐行為を繰り広げるのである。
 こうしたフィルムは英本土のみならず米国更には世界中の英領植民地で上映され、かくて世界中の英語国民は、よくも知りもしなければ、被害を受けたわけでもないドイツに対して燃える様な憎しみをいだいて戦争に参加したのである。
 心理戦とは、こうした戦争の形態であり、これをまとめて言うなら、特定の国に有利な様に大衆心理を操作する為の工作活動と定義付けられよう。
 心理戦は、第一次世界大戦の総力戦の中から生まれて来たが、その後は戦時に限らず平和時にもしばしば現れ効果を発揮する様になった。
 つまり平時の戦争といった趣を呈してきた。
 中でも最も有名なのは、1930年代におけるナチス・ドイツによる心理戦であろう。
 ヒットラーは、第一次大戦の反動から欧州各国に漂う厭戦的気分を巧みに操作して平和主義という政治姿勢に醸成した。
 ここで重要な点は、ドイツ以外の欧州各国に平和主義は蔓延したが、肝心のドイツは平和主義に染まっていない事だ。
 これは現在の中国が他国に平和主義を要求するくせに、自国内は少しも平和主義的でないのと軌を同じゅうしている。
 ちなみに世界平和は後に左翼の専売特許の様になるが、当時はナチスに共鳴した欧州各国の右翼の主張である。
 つまりナチスの心理戦をソ連や中国が見習ったわけだ。
 それはさておき、ヒットラーの術数にはまって大衆が平和主義に染まった各国は、ヒットラーが次々に突き付ける法外な要求に対して対決姿勢を取れなくなり、要求を飲まざるを得なくなった。
 かくてヒットラーは極めて短期間にしかも血を流すことなく領土拡張に成功したのである。
 つまりヒットラーは実戦よりも寧ろ心理戦の天才であったのだ。
 従って、英国が平和主義の呪縛から覚めて、対決したとき、ドイツ第三帝国は動きが取れなくなったのである。

米中の対日共同戦線

 心理戦のための工作活動は、秘密裏に行われるのを常としているから、中国が心理戦を行っているという明確な証拠は捉(とら)え難い。
 しかしながら、いくつかの状況証拠をつなぎ合わせて見れば、おおよその見当は付く。
 1995年東日本ハウスの中村功会長が、南京事件の真相を知って貰おうと、米国のニューヨーク・タイムズに意見広告を出そうとした事がある。
 ところが一旦、掲載が決まってから、直前になってキャンセルされたのである。
 直前にキャンセルという事実から、かなり大きな政治的圧力が働いたと考えるのが当然だが、米国の少なくとも一流紙は、こうした政治的圧力に屈さないのが建前になっており、屈したとなれば信用は大きく傷付くのである。
 しかも今日に至る迄、キャンセルに至った経緯は不明のままだ。
 となると大っぴらな政治的圧力ではなかった筈だ。
 米国の一流メディアのかなり奥まで侵入していると疑わざるを得なかった。
 一昨年の末の事、米国政府が旧日本軍関係者16人を入国禁止処分にした。
 理由は旧731部隊の人体実験に関わった者と従軍慰安婦問題に関与した者だという事である。
 しかし当時免責になっている者を50年近くたってから、こうした処分にするのも奇妙な話だ。
 しかも16人の氏名は公表されず、従ってどう関わったのかも分からない。
 更に言えば、この16人はかなりの高齢と推定され、生死さえも不明である。
 となると、この処分の実効性はほとんど無い。
 では、なぜ、米政府はこの期に及んで、この処置を取ったのか、いよいよわからなくなる。
 興味深かったのは、この直後のワシントン・ポストに「理が通らないという日本の不満は、もっともだが、戦争犯罪については仕方がないのだ」といった趣旨の論説が掲げられた点だ。
 理が通らないのは米国も承知の上での処置だったのだ。
 この処置はナチス関係者に対する処置を、そのまま、日本に適用したとの事であるが、もともと、こうした処置はユダヤ資本やイスラエルが様々な圧力を掛けて米国政府に取らせているものである。
 となると同様の圧力を中国がかけたと見るべきだろう。
 ではなぜ、米国政府は中国の圧力に屈したのか?
 その謎を解く鍵がヒロシマにあると言ってよい。
 実は、この処置が発表される前後に、メキシコのメリダで世界遺産委員会が開かれていた。
 そこでの議題は、広島の原爆ドームを世界遺産として登録するかどうかであった。
 結局登録はされたが、興味深いのは米国が反対し、中国がこれに同調した事である。
 米国では1995年に、原爆切手が、日本の批判により中止に追い込まれたのは周知の事実だ。
 それ以来、米国では在郷軍人会を中心に、広島、長崎への原爆投下が、残虐行為として認定されてしまうのではないかと言う危機感が広がった。
 そのあらわれがスミソニアン博物館の原爆展示の変更である。
 中国は恐らく、この危機感につけ込んだのだ。
 米国の原爆投下は残虐行為ではなく、正当な行為だと流布する事、そして、その見返りに、日本の中国への残虐行為を流布させること。
 米中はこれで手を打ったのである。
 ちなみに日本で「広島・長崎への原爆投下は正当だった」という論調が目立ち始めたのも、調度、この頃からである。
 これは「原爆許すまじ」と叫んでいたかつての平和運動からは考えられない様な論調なのだ。
 つまり、中国は米国との約束を果たすべく、「原爆許すまじ」を「原爆正当化」に日本での論調を変える工作を始めたのだ。
 言うまでもなく、この原爆正当化のために、旧日本軍の残虐行為が強調されているわけである。
 昨年10月の江沢民主席の訪米は、以上の心理戦工作を裏付ける様なものである。
 江沢民は、まずハワイでの真珠湾攻撃の犠牲者に慰霊を行い、その晩の夕食会でも「中国と米国は第二次世界大戦ではファシストを撃退するために肩を並べて戦った」とスピーチし、ワシントンでのクリントン大統領との会談でも、真珠湾攻撃に言及し、米中連携を強調し、更に、その後、対日戦の指導者だった元ペンシルベニア大学教授の顧毓e氏を訪問し、米中の対日共同戦線の過去を誇示している。
 日中に国交が樹立していない時代なら、いざ知らず、日中に国交が樹立して20年以上もたって、50年以上も前の対日戦を突然、持ち出すのは、時代錯誤でなければ、何か特別の意図があるとしか考えられまい。
 それは一口に言うなら、「日本は残虐な侵略者であり、米中こそが真のパートナーなのだ」とのイメージを米国民の心理に焼き付ける意図なのだ。
 そして今回の「レイプ・オブ・南京」の出版である。
 本書はすでに12万部を売り、ペーパーバック化も決まっている。
 中国系米国人達の支援を得て、全米各都市で講演活動を精力的に行っている。
 チャイナ・タウンは大体において中国の情報工作の拠点であるから、間接的にせよ中国の支援があると見て間違いないだろう。
 実のところを言えば、本書の出版自体はどうでもいいことである。
 事実無根の誹謗中傷に満ちた本が出版され、それが一部の勢力によって売り上げを伸ばすのはよくあることだ。
 問題はマスコミの取り上げ方なのだ。
 私は本書の出版直後の昨年12月、ニューズ・ウイーク誌が本書を全面的に取り上げたのを見て、愕然とした。
 日本側の主張を全く顧みず、本書の主張を一方的に事実として扱ったのである。
 「1つの取材については必ず、その裏を取れ」という取材の鉄則を無視した異常な記事だ。
 私は、これを見て「とうとう始まってしまった」と唸らざるを得なかった。
 つまり、これまでの心理戦の準備段階は完了し、遂に攻撃の段階に至ったのだ。
 私の悪い予感は的中した。
 ワシントン・ポスト、ニューヨーク・タイムズといった一流紙、そしてテレビまでもが、本書の内容を事実として報道し始めたのである。
 日本に全面的な謝罪と補償を求める法案も既に提出されており、政界工作も整っている。
 日本は完全に心理戦の爼上にのせられたのである。

心理戦が重要視されない一因

 第一次世界大戦において英国の行った心理作戦は米国を参戦させるのを目的としていた。
 1930年代のドイツは、勢力範囲の拡大を周辺諸国に認めさせる為に、これを用いた。
 第二次大戦後のソ連は、米国の核戦略を抑制する為に心理戦を行った。
 現在の中国は一体何を目的としているのだろうか?
 それは日米離間であり米中接近であろう。
 米国の御墨付き得て日本の頭を押さえれば、東アジアの覇権は中国に転がり込んで来る。
 見やすい理(ことわり)である。
 ところが、日本の一部のエリート達は、この「日米離間、米中接近」という図式を認めたがらない。
 それも奇妙な事に親中国派ではなく、親米派の人々に顕著なのだ。
 彼らは、米中が接近している事実は認める。
 しかし日米関係は常に米中関係に優先していると言う。
 米国は常に中国よりも日本を重視していると言うのだ。
 ひどいのになると、「ワシントンの友人に電話したら、そう言ってた」などとのたまう米留学帰りもいる。
 私は、このように二言目には、ワシントンの友人のご託宣を持ち出す人達を「ワシントンの友人達」と呼ぶ事にしている。
 当人達は、「ワシントンに友人がいる」と自慢するが、何の事はない、米政府の情報工作に容易に操られていると言う意味で彼ら自身が「ワシントンの良き友人達」なのだ。
 当然、彼らは、自分達がワシントンに重用されている事こそが、存在理由であるから、日米離間を認めたがらない。
 「米中接近は、中国を国際社会に引っ張り出すための戦略である」などともっともらしく解説する。
 確かに米国は「エンゲージメント」と称して、そうした戦略を発表している。
 だが日本が、その戦略に協力しているとなると、果たして如何なものであろうか。
 日本は自分の墓穴を掘っていることになりはしないだろうか。
 ともかく英会話ばかりが得意で、少しも実情が見えていないのがワシントンの友人達の通弊だ。
 今、米国で進行している心理戦の実状が余り重要視されてない一因はこれであろう。
 もっとも、私は、全ての親米派や留学組のエリート達をバカにしている訳では無い。
 冷戦期、特にとの後半において、彼らの活動はめざましいものがあった。
 軍事を含めたバランスの取れた国際情勢への理解を、我々は彼らから教わったと言っても過言ではない。
 だが、今日、彼らの講演などを聴いてみるがいい。
 かつてと比べて、如何に精細を欠いている事か。
 国際情勢についても新たな認識など殆ど得られはしない。
 かつて米国は日本を対ソのための同盟国として重視していた。
 それ故に貴重な情報を日本に渡していたのだ。
 米ソ対立が終わり、日本を重視しなくなれば、情報は渡らなくなるのは当然であろう。
 彼らの活動が精細を欠いている事こそ、日米離間の証左であろう。

 「日米が少しばかり離間していても、米国が反日になる筈はない」とお思いの方もいよう。
 だが昨年翻訳された『平和はいかに失われたか』(原書房)を読んでみるが良い。
 原作者のジョン・マクマリーは、戦前のアメリカ外交官で、中国公使を務めた人物であるが、そこには、1920年代、米国民が中国に幻想とも言える程の親近感を、そして日本に対して根拠なき嫌悪感をいだいた結果、日本が次第に孤立していく様子が詳述されている。
 客観的に見ても、この十数年間で米国の反日の度合いは確実に増大している。
 1980年代、反日傾向はまず議会に現れた。
 しかし米政権は一貫して親日的であった。
 クリントン政権になって、政府に国家経済会議が設置された。
 これは対日経済不均衡を是正する機関である。
 つまり反日の拠点が1つ政府内に生まれた訳だ。
 また、クリントン1期目の中間選挙で親日と言われる議員は殆ど落選した。
 これで議会における親日の拠点は失われた事となる。
 そしてクリントン政権2期目に至って、今まで、親日的であった国務省がそお傾向を明確に改め始めた。
 それは現国務長官のオルブライトが日本に来た回数と欧州への数を比較すれば直ぐにわかる。
 今、明確に親日と言える官庁は、国防総省だけなのだ。
 そして、それも在日米軍を維持したいだけであって、戦略上の変更があればどうなるかわからない。
 この様な状況下で、米国民の心理の中に対日嫌悪感と対中同情心が広がりつつあるとしたら、事は少なからず重大であろう。

 「正論」平成10(1998)年7月号より


関連項目:[1] [2] [3]
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