反日プロパガンダに使われる日本の"謝罪金"

村山元首相がばらまいた金の行方

産経新聞社「正論」99年6月号から

阿羅健一(作家)

「正論」平成11(1999)年6月号より転載


 平成6年夏、村山内閣が成立したこの夏は、おわび、反省、つぐない、とそういった言葉が毎日のようにとびかっていた。
 8月すえに村山総理大臣は、これから10年間にわたって、1千億円を支払う、とまで言い出した。
 半世紀という歴史的時間を経過しているにもかかわらず、つぐないに1千億円の巨費を支払うという。
 年のくれになり、2千46億5千万円の予算が計上され、総理大臣がいいだしたその要求は削られることもなく、大蔵省によってそっくりそのまま認められた。
 あれから5年、計算からすればすでに半分の5百億円は使われたことになる。
 慰安婦に対して当初7億円ほど使われたことはよく知られているが、そのほかはどう使われたのだろう。
 新聞やテレビで報道されなければ、国民は知る手立てがない。
 山に降った雨が地中深く染みこんで、杳(よう)として知れないように、あの巨額の行方を把握することは、国民にはとてもできない。
 少なくとも私にはそれがどう使われているのかわからなかった。

オランダからの手紙

 戦争中、幹部候補生出身の将校として、インドネシアのスマトラ島にいた池上信雄さんは、昨年夏、オランダから1通の手紙を受け取った。
 オランダ国立戦争資料館からのものであった。
 読んでみると、戦争中インドネシアにいた日本人、オランダ人、インドネシア人はどのような体験をしたのか、それを記録したものなど集めて展示会を開きたいから協力してくれないかとあった。
 戦いに負けて日本に引き揚げた後、何年かして池上さんはスマトラ島を訪れている。
 インドネシア独立とともに本国に引き揚げたオランダ人のなかにもしばらくしてからスマトラ島を訪れる人がいて、そういったオランダ人と池上さんはスマトラ島で知り合いになった。
 そういったオランダ人から伝え聞いたらしく、オランダ国立戦争博物館が協力要請の手紙をよこしたのである。
 インドネシアにいたのは4年だけだったけれど、池上さんはいまでもインドネシアに強い愛着を持っている。
 インドネシアにかかわる集まりがあれば顔を出す。
 書物、新聞、テレビなどインドネシアに関するものならつとめて目を通す。
 映画も舞台もインドネシアのものなら足を運ぶ。
 だから、オランダ国立戦争資料館に協力するのにやぶさかではない。
 協力しましょう、とふたつ返事で引き受けた。
 そう返事をしてまわりに話てみると、同じような要請はすでに日本の学者たちにもいっていて、かれらとオランダ国立戦争資料館との間ではすでにやりとりのあることがわかった。
 そこで池上さんは困ってしまった。
 すんなり協力できないなと思ったのである。
 日本が負けてインドネシアから引き揚げるとき、書類記録の類は一切オランダ軍から持ち出しを禁止された。
 記録がなければ正確な歴史は消えてしまう。
 そんな消える可能性があった日本軍のインドネシア占領期について、まもなくすると早稲田大学のなかで記録の収集と研究がはじまった。
 そんなことから、いまでもインドネシア現代史の研究は早稲田大学が中心となっている。
 そういったインドネシア現代史の研究者のなかのひとりを挙げるとするなら、後藤乾一教授であろう。
 戦後つづいてきた早稲田大学のインドネシア研究における現在の責任者である。
 その後藤教授が十数年前に「ブキチンギの穴」というレポートを新聞に発表した。
 戦争末期、要塞を作ろうとした日本軍は、その際インドネシア人を強制的に労務につかせ、そのときの酷使から死亡したインドネシア人を穴に投げ込み、その数はおびただしい数に達した、というレポートである。
 現地で聞いた話をもとにしたレポートであったようだが、後藤教授の書いたその記事はやがて要塞を建設したという責任者にとどき、実態が判明した。
 それによると、要塞建設の指揮にあたった日本人はわずか3人で、インドネシア人がその仕事をするもしないも自由で、従事すれば毎日日給をもらい、だから過酷な労働で死亡した人はもちろん、怪我したひともまったくいなかった、というものである。
 要塞というのも、単なる防空壕であることが判明した。
 歴史学の教授が、しかも専門の領域で、裏付けをとることもしなかった。
 学究としての第一歩すら踏まないうえ、大学教授の肩書きで公表する。
 これでは歴史家としても教授としても失格であろう。
 それに輪をかけたのが「ブキチンギの穴」がウソであると判明してからの後藤教授の態度である。
 間違いだという指摘に反論する材料をもっていたわけでなかったのだから、後藤教授として取るべき道はひとつしかない。
 レポートを正式に撤回することである。
 しかし教授は撤回しなかった。
 さまざまな発表の場を持っていながら。
 インドネシア現代史の研究には、戦争中インドネシアにいた軍人軍属の協力が不可欠であるけれど、それまで後藤教授に協力してきた人たちは、このときの後藤教授の態度をみて、協力は無駄なことだと思うようになった。
 そういった後藤教授にオランダ国立戦争資料館からの協力要請がいっているという。
 もし後藤教授が協力するなら、展示会は歪められたものになる恐れがある。
 それだけではなく、インドネシア研究家としては後藤教授以上に名前の売れている倉沢愛子慶応大学教授にも同様の要請がいっていることがわかった。
 倉沢教授は、後藤教授以上にインドネシア関係者に信用がなかった。
 たとえばいま述べた「ブキチンギの穴」について、建設の経緯を記したものをさきほどの建設責任者が倉沢教授に直接渡し、流布されている間違いを正して欲しいと要請したことがある。
 それからしばらくして倉沢教授はインドネシア現代史を扱った本を上梓(じょうし)したのだが、その中で「ブキチンギの穴」は事実だと改めて書いたのである。
 「ブキチンギの穴」が事実だとする科学的根拠をまったくもっていないのにもかかわらず。
 その前後、NHKテレビや名古屋テレビで倉沢教授はインドネシアに関する番組の実質的な企画者となり、日本軍を誹謗したり、歪曲した番組作りをやっていた。
 インドネシア関係者の間での倉沢教授への不信感は爆発寸前にあった。
 池上さんは倉沢教授とは顔見知りだったので、あるとき、その事を質問した。
 すると倉沢教授は、テレビ局が仕組んだことで、私の意図じゃありません、私は日本軍の良いことも言ったんだけど、カットされちゃったのよ、と釈明したという。
 この伝でいえば、「プキチンギの穴」は出版社が勝手に書いた、ということになろうか。
 戦争中にインドネシアにいた人達の集まりはいくつかあったけれど、その多くは「日本インドネシア友好団体協議会」という組織に統合されている。
 オランダ国立戦争資料館からの要請にどう対応したものか迷った池上さんたちはこの組織に相談する。
 池上さんからの相談に早速集まりがもたれ、その集まりでは、後藤教授や倉沢教授らが関わっているのならば協力すべきでないという意見が大勢をしめた。
 協力しても展示会が歪曲されるだけで、それだけでなく、軍人軍属も協力したとして展示会にお墨付きを与えることすらなる。
 そんな答えが出ると、反対の意見が出された。
 「関西インドネシア友好協会」の代表である久保芳和(関西学院大学元総長)氏たちから、協力しないといっても、それでは歴史がますます歪められるだけではないか、との反対の意見があがったのである。
 ふたたび集まりがもたれ、その結果、事実にもとづいた展示をするよう申し入れて、オランダ国立戦争資料館が客観的な展示をしようとするなら協力しよう、と決定する。
 そのため、「日蘭戦時資料保存委員会」という組織をつくり、そこがこの問題に対応することも決定された。
 新たにつくられた組織では、元法大臣の林悠紀氏が委員長、東京医科歯科大学名誉教授の総山孝雄氏が副委員長となった。
 ともに大戦中、インドネシアとかかわりあった人である。
 しかし、この2人をふくめて戦争中にインドネシアと関わった人は少なくとも70代後半になっていて、連絡などの事務処理が迅速にできない。
 そのため、戦争経験はないけれど、戦後、新聞社のジャカルタ支局長をつとめていて、インドネシア語と英語に堪能な加藤裕氏は事務局長に就任して万全を期することになった。

自国の"犯罪"知らぬオランダ

 それにしても、なぜオランダはこのような展示会を企画したのだろうか。
 そんな疑問が残ったまま、オランダ国立戦争資料館の資料部長であるエリー女史がやってきて「日蘭戦時資料保存委員会」のメンバーと会ったのは、それから3ケ月ほど経った(平成10)11月7日であった。
 「日蘭戦時資料保存委員会」からは十数人が参加し、すでに決めていた申し入れをした。
 その申し入れに対して聞き手に回っていたエリー女史は、倉沢教授のかかわる展示会は歪められたものになるだろうと「日蘭戦時資料保存委員会」が言い出すや、それまでにない表情を見せ、「倉沢教授からもひとりの学者として意見を聞きたい」と、倉沢教授を擁護する意見を述べだした。
 すでにエリー女史と倉沢教授の間には行き来があり、エリー女史はそうとう影響を受けているらしい。
 そこで「日蘭戦時資料保存委員会」は、2年前に「ピースおおさか」が行った「戦争はインドネシアでどのように伝えられているか」の展示を例にあげて説明した。
 その展示は倉沢教授がかかわり、「インドネシアにおける戦争」と称しているものの、インドネシアの立場から描かれた戦争でもなければ、日本の立場からのものでもない。
 単に抑留されたオランダ人からみた日本軍を描いたものにすぎず、そこに付されている説明は、オランダ側の戦時プロパガンダそのもので、日本軍が残虐だったことをひたすら強調しているだけである。
 そもそもオランダ国立戦争資料館は「ピースおおさか」の性質を知らないようだ。
 館長を共産主義者の勝部元氏がつとめていることがわかる通り、「ピースおおさか」は共産主義の立場に立つあまり、事実を歪曲して展示し、そういった歪曲は、府民からきびしく指摘され、府議会でも取上げられ、その後何度か修正を行わざるを得なくなっている。
 修正をおこなったいまでも「三光」や「万人坑」などの歪曲展示が残っているという展示館なのである。
 「ピースおおさか」のそういった姿勢は、日本の問題であり、エリー女史の前にもちだしても問題を複雑にするだけである。
 そのため「ピースおおさか」の性格について説明することはしなかったが、倉沢教授のかかわった一方的な展示は日本になにももたらさないことを説明した。
 説明をしたものの、それまでのオランダ国立戦争資料館は、倉沢教授の関わった展示に協力しているだけではなく、加害の立場に立った展示はすばらしいと「ピースおおさか」の姿勢を評価もしていた。
 日本と戦ったオランダとしては、抑留されたオランダ人の考えを一方的に展示したり、日本すべてが悪かったといった姿勢は心地良いものであろう。
 これまでそんな経験をしているから、今回も意のままに資料を集められ、同様な展示ができると思っているらしかった。
 しかし、オランダにとって心地よい展示が自己満足以外なにももたらさないことは、常識を持ち合わせた人なら容易に理解できる。
 「日蘭戦時資料保存委員会」の説明がつづくうちに、常識を持ち合わせていたのだろう。
 エリー女史は納得だし、やがて「日蘭戦時資料保存委員会」の考えに同意し、全面的な協力をあおぎたいと発言するまでになった。
 このあと、何人かから戦時中の体験を聞いて、エリー女史は帰国する。
 そのとき、おってオランダ国立戦争資料館から証言と資料の収集に来ることも決まった。
 さしあたりオランダ側は理解してくれたが、しかし、ウソを記述して恬として恥じないような日本の学者たちは一筋縄でいかない。
 いつ、どこで、介入してきて、展示を歪曲するかもしれない。
 そのため「日蘭戦時資料保存委員会」は、外務省、オランダ大使館、インドネシア大使館を訪問し、あくまでも正確で客観的な展示を目指すように求めた。
 年が明けて、3月には展示企画部長のソーメルズ氏がやって来た。
 その間、「日蘭戦時資料保存委員会」ではかつてインドネシアにいた軍人軍属にアンケートを発送し、資料の提出を呼び掛け、さらには何人かに上京して証言することを求めていた。
 集まりも何度かもたれた。
 そういったある集まりで、日本から一方的に虐待されたとオランダでは考えられているようだが、それならオランダ人がどのように日本人を虐待してきたかも知らせることも必要ではないか、という意見が出された。
 日本側が日本軍の使命を美化しがちで、それとともにオランダでは日本軍からひどい扱いをうけたことを強調しがちなことはだれにでもわかる。
 しかし、昭和天皇がオランダを訪問した時の反応からわかる通り、オランダのほうにそれが強いことが想像され、そのような意見が出されたのである。
 そういった意見が出された時、かつてインドネシアで憲兵曹長を務めていた青木正文さんが反対した。
 青木さんは、中国や韓国のようにいつまでも歴史認識ばかりを言っては二国の関係が前に進まず、親善関係をつくるためにはあるところで加害被害に線を引く事が必要で、だからオランダの実態を証言することは必ずしも日本とオランダの親善にはつながらない、と反対したのである。

スマラン事件

 それに対して反論がでる。
 戦争に負けたため、日本はなにも言わないできたが、言わないからオランダ人は何も知らない。
 オランダの残虐ぶりを展示しろという訳ではなく、事実を知れば「ピースおおさか」を評価するようなことも無くなるだろうし、これから開かれる展示会も客観的なものになるだろう、今回はいい機会だ、という意見である。
 結局、その意見が大勢を占め、最後は青木さんも納得し、戦争中の体験を話すことになった。
 予定されていた日、ソーメルズ氏の前で青木さんが話したのはスマラン事件に関するものであった。
 日本の敗戦から1ヶ月もすると、ジャワ島中部の都市スマランに険悪な空気が広がりだした。
 オランダからの完全独立を果たすため、インドネシアの青年は日本軍から武器をもらおうとしていたのだが、やがて共産主義者を中心とした集団がインドネシアの青年達を扇動し、それに煽られた青年達が日本軍から強引に武器を奪おうとする。
 それだけで済まず、軍人軍属を襲いだす。
 そうしているうち、邦人を誘い出して、刑務所に閉じ込めるという事件が起こった。
 それまで一切の武力行使を控えていた日本軍であったが、こうなっては仕方が無い。
 武力行使を決意し、救出に向かう。
 10月16日夕方、刑務所に飛び込んだ日本軍がそこで見たのは、百数十人の惨殺された日本人であった。
 奥に進むと、処刑におののいている900人のオランダ人を発見した。
 インドネシア側は、まず日本人を処刑し、次にオランダ人を処刑する手はずにしていた。
 日本軍の出動があと半日遅れていれば900人のオランダ人も日本人同様惨殺される運命にあったのである。
 救出されたオランダ人は、日本軍の恩は一生忘れません、と泣いてお礼を述べた。
 この時日本軍の先頭になって飛び込んだのは、和田憲兵隊長を中心とする40人の憲兵隊であり、青木さんもその一人であった。
 やがて連合軍が本格的に上陸してくる。
 それと同時に戦争裁判が始まる。
 その裁判において、スパイ容疑でオランダ人を拷問したとして処刑されたのは、先頭になって飛び込みオランダ人を救出した和田隊長以下の3人であった。
 日本に負けた時、オランダはスパイを残置した。
 そのスパイ摘出は憲兵隊にとって重大な任務であり、任務遂行のためには拷問することもある。
 その憲兵隊に死刑の判決が出た時、任務を忠実に遂行した為に処刑されるのかと同僚は悔しがり、それと共に、救出された時泣いてまで感謝したオランダ人の変身ぶりに驚いた。
 やがて戦争裁判も終わり、日本軍は引き揚げ、それから何十年か経ち、青木さんがスマランを再び訪れる時がやって来た。
 スマラン事件に対する日本とインドネシアの見方に違いはあるけれど、そこで命を落とした人たちを弔(とむら)う気持ちは一緒である。
 7年前には、スマランで行われる慰霊祭にも出席するようになる。
 日本の元憲兵が慰霊祭に出席したことは、ニュースとしてインドネシアの新聞に載り、それはオランダの新聞にも転載された。
 その記事を見たオランダ人の中に、事件当時10歳だった少年がいた。
 母親と共に刑務所に閉じ込められ、日本軍に救出され、まもなくしてオランダに戻り、少年はその頃文部省の役人となっていた。
 新聞を手にした時、母親は既に亡くなっていたけれど、日本の憲兵隊にはお礼を述べたいと常に言っていた事を少年は忘れていなかった。
 かつての少年はすぐに青木さんに手紙を書く。
 以来、2人は毎月のように手紙をやり取りするようになり、それは今も続いている。
 そんな話を青木さんはソーメルズ氏にした。
 スマラン事件をソーメルズ氏は知っていたけれど、その時900人ものオランダ人が救出されたことや、救出した和田隊長以下が処刑されている事は知らなかった。
 青木さんとオランダ人の交流もはじめて聞いた。
 青木さんの話が終わった時、「日蘭戦時資料保存委員会」は一つの統計をソーメルズ氏に示した。
 その統計とは、戦争裁判についての統計である。
 日本が負けてからアジア各地で行われた戦争裁判によって日本人は984名も処刑されたが、処刑された人数を裁判国ごとにあげると次のようになる。

 オランダ       236 
 イギリス   223
 オーストリア   153 
 中 国   149 
 アメリカ   147 
 フランス   20
 フィリピン   17

 オランダの繁栄を支えていたインドネシアを失う事になった、という腹いせが大きい要因となっていると思われるが、それにしても、この数字は、いかにオランダが日本に厳しく当たっていたかを示している。
 その統計を手にしたソーメルズ氏は驚いた顔を見せたまま、黙ってしまった。
 蘭領東インドと呼ばれていた今のインドネシアをめぐる戦いについては、日本よりオランダで多くの記録が上梓(じょうし)されているという。
 しかし、知日家と思われるエリー女史にしても、ソーメルズ氏にしても、知っているのは、オランダ人がいかに虐待されたかという事だけで、オランダ人がどんなに残酷だったかを全く知らない。
 将校全員をフルチンにして、かつての部下の前を行進させたり、墓地の腐乱死体を掘り起こした上、運搬をさせたり、というオランダ人の行った話をソーメルズ氏に紹介することは控えたが、そんなことまで知ったら、どういう対応をしたのだろうか。
 といって、青木さんたちの証言がすさんだ雰囲気の中で行われた訳では無い。
 数十人に及ぶ証人が「日蘭戦時資料保存委員会」により準備されたけれど、サンドイッチをほおばり、日本酒をくみ交わしたりといった場でのやりとりもあり、なごやかに行われたのである。

水源は村山首相の"謝罪金"

 こうして池上さんに手紙が舞い込んだ夏以来、戦争中にインドネシネアと関わりのあった人は、各地から集まり、中には不自由な体を運び、お互い会場代を負担し、あるいは資料をコピーしたりとオランダからの要請に対処してきた。
 だれもかれもインドネシアに限りない愛着を持っているからで、しかもほとんどの人が敗戦となってオランダから虐待を受けているにも関わらず、協力してきた。
 日本政府がそれに対して何かをしてくれたということは無く、自弁でこれらをやってきた。
 なぜオランダはこんな企画を、と思いながらそんな奉仕を続けているうち、展示会そのものの全体像が見え出し、そしてそのうち、このような展示会が企画されるきっかけは日本政府にあることが明らかとなってきた。
 だれもが複雑な気持ちになったことは言うまでも無い。
 5年前、村山総理大臣は、おわび、謝罪をしばしば口にした。
 そして1千億円を支払うと言い出したのだが、しばらくすると、それらは世間の話題から消えてしまう。
 そして消えたところ、平成6(1994)年度以降に「日蘭歴史資料編纂事業拠出金」という名目がつけられて7200万円がオランダに支払われ、それを手にしたオランダは、戦争中の展示会をやろうと考え出し、池上さんに協力を求めて来たのである。
 地中深く染み込んだ雨水は、回りまわって数年後、予想もしない所に湧き水となって現れる事があるという。
 地下にもぐって行方の分からなくなった雨水が、突然、目の前で噴出したように、村山総理大臣の言い出したお金が4年経って、池上さんの前に顔を見せたのである。
 最初は、それがあのお金の一部であることが分からなかったけれど、確かに日本から支払われたお金であり、回り回って日本に顔を見せたことが分かったのである。
 あのお金が顔を見せたのは、池上さんだけではなかった。
 オランダからの手紙を池上さんが受け取って数ヶ月、ちょうど「日蘭戦時資料保存委員会」がエリー女史と会っている頃、財団法人「国際教育情報センター」にもオランダから手紙が舞い込んだ。
 これもオランダ国立戦争資料館からのもので、こちらの手紙には、日本のインドネシア占領期間中、どのようなことが起こったのか、その資料を探しているので協力してもらえないか、とあった。
 そのような資料を集めてどうするのか、という疑問に手紙は、オランダ人戦争犠牲者の体験を日本人に知らせるためであり、日本人に利用してもらえるように本やCD-ROMを作るから、と述べている。
 財団法人「国際教育情報センター」は、日本を正しく理解してもらうため、世界各地に日本についてのさまざまな資料を送る仕事をしている。
 そんなことから、資料の請求を求めてきたのであろう。
 しかし、オランダが制作した本やCD-ROMを使ってなぜ日本人が歴史を学ばなければならないのだろう。
 オランダ人の戦争犠牲者については、彼らが詳しいとしても、エリー女史やソーメルズ氏から分かる通り、彼らが知っている戦争体験は偏(かたよ)っている。
 今のオランダに伝えられるものは偏ったものだけなのだ。
 それを日本人が学ぶ必要があるのだろうか。
 そのような日本からの批判を予想していたのか、「戦争を理解することは、歴史の人間的側面に重きをおき、近代及び現代史に注目するという文部省の新学習指導要領に沿ったものでもある」ともその手紙は説明している。
 本を作ったりCD-ROMを作るというお節介を、どこのお金でやろうとしているのか。
 その疑問にもオランダは答えている。
 「日本政府の援助で行っている」と。
 それでは、一体日本のどのようなお金なのか。
 それをたどって行くと、これもやはり村山内閣の1千億円に行き当たった。
 財団法人「国際教育情報センター」は本来の任務におわれ、オランダからの要請に対応しきれないだろう。
 一体、オランダでどんな内容の本やCD-ROMが作られ、日本の図書館で貸し出されるようになるのか、心配になるのは私だけではあるまい。
 それに、これら以外にも、国民の知らないところで、あのお金は噴き出しているのかもしれないのだ。
 村山総理大臣がばらまいた巨額なお金は、ばらまいてそれで終わるはずだったが、どういう名目であれ、実質はおわびだったから、その一部はつけとなり日本に回ってきた。
 しかもそのつけは政府が支払うのはなく、70代、80代といった老人達が払っているのである。
 自分達の小遣いと労力を提供して。
 「国共合作」という歴史用語がある。
 それが何を意味するのか村山富市総理大臣は知らなかったという。
 それほどの知識で「過去から目をそむけない」と言っているのだから、こんなことになるのは当然だろう。


関連項目:[1] [2] [3]
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