虚報の真犯人はエドガー・スノーだ

私が「新"南京大虐殺"のまぼろし」を書いた理由

鈴木 明(作家)

「正論」99年7月号

「正論」平成11(1999)年7月号より転載


アウシュヴィッツと南京の違い

 「南京大虐殺」という言葉を、いまでは老いも若きも、日本人の中で知らない人はいない。
 日本人ばかりではない。
 中国、韓国をはじめとして、多くのアメリカ人、ヨーロッパ人でも、知的階級に属する人なら、その名前ぐらいは知っている。
 「南京大虐殺」は「アウシュヴィッツ」と並んで、第2次世界大戦で起ったできごととしてはズバ抜けて世界中の人によく知られている。
 日本とドイツの恥部に当たる事件なのである。
 「アウシュヴィッツ」と「ユダヤ人浄化」についていえば、戦後ドイツの強制収容所で生き残った多くのドイツ人はアメリカその他の連合軍地域内に保護され、数え切れないほどの証言を残した。
 それを裏付ける東欧系中立者の証言もある。
 現に、ソ連がアウシュヴィッツを解放した時のフィルムも残っており、アウシュヴィッツ収容所は原型を止める形で保存され、現在でも世界中の人たちからの訪問が絶えない。
 僕も2回、アウシュヴィッツに行ったことがある。
 ガス室や焼却炉の進んだ技術も目にしている。
 ここには、常時25万人が収容され、4百万人が殺された、と伝えられているが、僕が素人目で見たところでは、それにしては死臭を消すための焼却炉の数が少ないように思えたが、多分それは土中に深く穴を掘り、そこに死体を投げ込んだのだろう、と想像した。
 ユダヤ人である証拠とされた、手に数字の入った入れ墨をされた人は、沢山の映画で南海も出てきたように、それは別に誰が、どのように宣伝しなくても、事実である。
 それに対して、「南京大虐殺」といわれるものは、アウシュヴィッツのように、収容所跡が保存されているわけではなく、証拠のフィルムが残っている訳でもない。
 それに、アウシュヴィッツの場合は、指導者ヒトラーは「わが斗争」のように、ユダヤ人浄化を明記した文書が残っており、その目的がはっきりしている。
 ヨーロッパでは「ユダヤ人蔑視」の伝統は長い歴史のあるもので、アメリカでも戦後3年目に当たる1947年に作られた有名な映画「紳士協定」には、当時アメリカ社会が持っていたユダヤ人への偏見を、ニューヨークという舞台の上で、鮮やかに描いている。
 第2次世界大戦中のユダヤ系アメリカ人に対する差別は、アメリカ随一の人気作家アーウイン・シヨーの「若き獅子たち」を読んでも明らかである。
 ところが、日本には中国人に対する差別というものが、白人社会におけるユダヤ人に対するもののように存在していたわけではなかった。
 「中国人だから殺してもいい、或いは迫害してもいい」という考えは、一般日本人の中にも、或いは政府の政策としてもなかった。
 それにもかかわらず、盧溝橋事件をきっかけとして「日中の全面対決は、日本の強引な侵略的意図によって始まった」という風に日本人は信じている。
 僕自身もそう思っていた。
 そして、この戦いはやがて上海に「飛び火」し、上海戦をへて、日本軍は「南京攻略」へと、戦いを進めていった、というのが、一般の人たちが考える「日支事変」(或は、日中戦争)のはじまりである。
 1972年、僕が始めて「"南京大虐殺"のまぼろし」という作品を書いたときにも、基本的にはこのような認識の上に立っていた。
 しかし、1980年代の後半になり、日本人の中国渡航が比較的容易になると、僕もその中の1人に交じって、まず上海へ、そして南京へと旅行するようになった。
 無論、いわゆる「南京大虐殺記念館」(1985年完成)にも行ったが、建物はアウシュヴィッツに対して、余りにもお粗末であり、展示品は「向井 野田両少尉(当時)」の事を書いた昭和12年の「東京日日新聞」と、郭岐という署名のある「西京日報」という新聞の一部分が展示されているだけで、他にはこれほどというほどの印象的な同時代記録が並べられていたわけではなかった。
 「向井 野田両少尉」については、僕は1972年に60貢近くの貢数を割いて、「向井少尉はなぜ殺されたか」を書いて向井少尉の無実を立証したつもりだったが、それは、1972年は文化大革命のさなかであり、いまや文化大革命が完全否定されているとき、まさかあの話がまだ中国の中に残って「虐殺記念館」にあのような形で展示されているとは考えてもいなかったので、何とも複雑な思いを持ったことは事実である。
 また、郭岐という名前については、もう20年数年も前「日中国交正常化」が行われたとき、台湾で「南京大屠殺」という本が出版されたが、作者の郭岐は「いままでは、蒋介石総統の"怨に報ゆるに、徳を以ってせよ"という対日政策を思い出して、一個人として感情は捨てようと決心していた。しかし今回、日本の田中角栄政府は大恩を忘れ、義に背き、一方的な中日和約を行ったので、この卑怯な行為に、私は怒髪天をつき、悲憤のあまり"南京大屠殺"を書く決心をした」という序文を書いていたのが、他ならぬ郭岐であったことも、僕の頭を混乱させた。

中国の本にみる数々の新事実

 中国旅行をするようになって、改めて目についたのは、その刊行されている本のバラエティの豊富さであった。
 僕は興味にかられて、これらの本を片っ端から買っていったが、その中で「剣橋中華民国史」上下巻2千数百頁(1991年中国版発行)という巨著があった。
 「剣橋」とは、ボストンにあるハーバード大学の場所を指し、主編者は中国研究家なら誰もが知っている、巨人中の大ボスであるジョン・K・フェアバンク(費正清。文化大革命中の中国を礼讃した)である。
 僕はその中で、ロイド・イーストマン(イリノイ大学教授 中国現代史専攻)の書いた「流産した革命・国民党統治下の1927〜37年」を読んでいるとき、ふと注目すべきいくつかの点に気がついた。
 例えば盧溝橋事件について、
 「当時、北京の近くにいた日本軍隊の数は5千人〜7千人だが、その展開、配置された場所は、盧溝橋に備えたようなところではなかった。
 中国第29軍は少なくともその10倍はおり、この事件が日本側によってあらかじめ計画された事件であるとは考えにくい」
 「蒋介石がその高級官僚をすべて集め、全面抗戦を決定したのは、8月7日のことである。
 蒋介石はその生涯における、最大にして後に議論を呼んだ、大きなギャンブルに打って出た」
 「蒋介石は日中の戦いの主戦場を、華中かた華南、つまり上海に移すことを決心したのである」
 イーストマンはアメリカ人だが、この本が中国で正式の検閲を受け1万9千部もの発行が許された、ということは、中国の改革開放がそれほど進んだ、ということであり、僕が假(かり)に「中国で出版された本による」と書いても、それは決して誤りでないことを意味するであろう。
 そして「中国で許可を得た」この本は、
 「南京占領に際して、日本軍は中日戦を通じて、最も卑劣な暴挙、南京大虐殺を行った。およそ7週間の間に、日本軍は最低4万2千人の中国人を殺害し、およそ2万人の女性が強姦されたが、真の中日戦争は、この時から始まったのである。」
 とも書かれている。
 僕はこれらの文章を読みながら、中国で発行された本の中で、はじめて「4万2千名」というような細かい数字が出てきたことに注目した。
 そして、日本人が日頃から考えている「日中戦は、昭和12年7月7日、盧溝橋事件」からはじまったのではなく、8月7日、蒋介石によって決断されたのであり、また「上海戦」「南京戦」は別個に存在する戦いではなく、あくまでワンセットの戦いとして見るべきものである、ということも理解した。
 その後に読んだ多くの中国側戦記によっても、実際に南京で戦った中国軍の大半は、疲れ果ててやっと南京にたどり着いた軍隊であり、その中の約4分の1は、鉄砲の撃ち方も知らない新兵(中国兵は、すべて金によって仕方なく軍に連れてこられた貧しい傭兵である)であることもわかった。
 「南京戦」で、よく名前が出てくる、最高司令官の唐生智は、戦後毛沢東の側につき、湖南省副省長になっているが、晩年に書いた「南京戦」の回憶録の中で「南京はそもそも守るべき都市ではなかった」といっており「あの戦いは、蒋介石が日本軍を利用して雑牌軍(蒋介石直系軍以外の軍)を整理しようとしたのだ」とまで言い放っている(唐生智は、文化大革命のとき、紅衛兵のつるし上げにあって、それが直接の原因となって死亡した)。
 1990年代に入って、中国でも「売れない本は出さない」という市場原理が入ってきたからであろうか、旧国民党時代に関する本が、書店の主要な部分を占めるようになった。
 特に、国民党の特務のものや、1985年以前「大漢奸汪精衛(兆銘)」という名で呼ばれて、多くの読者を獲得した「漢奸もの」も1995年以降のものは、全貢のうち汪精衛の業績を強調する部分が圧倒的に多く「漢奸」という文字は、全一冊の中でわずかに1個所か2個所出てくるに過ぎない。
 世情は、間違いなく急激に変わったのである。

中国人の知識人も知らなかった大虐殺

 多分その頃、今から7、8年前のことからではないかと思う。
 漠然とではあるけれど「僕には"南京大虐殺"の続編、ないし、新篇を書く義務がある」と考えるようになった。
 しかし、それだけでは唯、現在なお行われている"南京大虐殺論争"に加わるだけである。
 僕はそのことを避けるため、資料(史料)として使うのは、日本で既に日本語として書かれたものは一切使わず、過去に日本文として刊行された本にも一切ふれることはなく、中国内で公式に刊行されたもの、或いは英文から中国語に翻訳されたものだけを使用して、全く新しいアングルから、「南京大虐殺」の根幹に迫ってみよう、と決心した。
 もっとも、僕がこのような決心をしたのは、目の前に山のように積み重ねられた中国出版による「国民党時代の本」だけではない。
 それより数年前、正確にいえば「天安門事件」が起きる1年前、ふとしたことから中国作家連盟の重鎮であった著名な王若望氏と、延べ十数時間の会話を持つ事ができたのも、大きなきっかけの1つである。
 その王若望氏は「天安門事件」後、1年ほど上海で自宅軟禁されていたが、その後アメリカに「亡命」し、身の安全を保障されていることが確認されているので、敢(あ)えてここで王氏の名を出すことにする。
 王若望氏は偶然のことだが、昭和12年(1937年)20歳で中国共産党に入党し、上海から南京を通って延安に行き、そこで基礎的な勉学をやり直した後、抗日戦を通じて、八路軍の1人として、華北の日本の被占領地帯で「抗日宣伝班」に入って活動していた。
 そしてこのとき、王若望氏との会話の中で、僕は自分の代表作の中に「"南京大虐殺"のまぼろし」がある、と彼に告げた。
 王若望氏はその内容に興味を持って、まずその題名の意味から質問があったが、僕は遂にその「中国語訳」を正確に表現することはできなかった。
 どのような漢字を使っても、この極めて日本的、或いは情緒的ともいえる題名を説明する文字が見当たらず、改めて「同文同種」とはいえ、外国語に日本語を翻訳することのむずかしさを痛感させられた。
 それと同時に、僕が王氏に対して「王先生は"南京大虐殺"という言葉を、何時頃から知っていたでしょうか」という質問に対する王氏の答えにも、大いに驚かされた。
 王氏はしばらく考え、「抗戦八年」の50年前の事を思い出そうとしていたが、少し間をおいて慎重に、
 「どう考えても思い出せない。少なくとも、戦争中のことでない。戦後しばらく経ったあとか、共和国誕生のあとか、それも正確ではない」
 といったのである。
 王氏は他人や政府に気を使ってものをいう人ではないから、彼のいったことは充分信用できるだろう。
 しかし、僕は
 「南京大虐殺のことを知らなかったのは日本人だけで、諸外国ではこの"事件"のことはよく知られていた」というのが平均的日本人であるとすれば、僕は文字通り日本人そのものであり、何回も読み直したことのあるエドガー・スノーの「中国の赤い星」は中国共産党であるならば、昔から知らない人はいないほど有名な人であると、心から思い込んでいた。
 王氏は「スノー」についても「戦争中、毛沢東伝という小冊子を読んだことはあるが"中国の赤い星"(戦前の中国語翻訳本では「西行漫記」現在は「中国の赤い星」と訳されている)を読んだことはない」といった。
 僕は「中国の赤い星」の熱烈な愛読者であり、エドガー・スノーの背景をよく知っている現在では、その内容や読み方についてはかなりの疑問を持っているが、それでもなお「中国の赤い星」が20世紀ノンフィクション文学の大傑作であることを認める点では、少しも変わってはいない。
 しかし、僕がエドガー・スノーに関する知識が余りにも多いのには、王氏の方が驚いていた様子であった。
 よくよく考えてみればこれも無理もないことかもしれない。
 僕は戦後の日本にいて、1964年、よくよく考えてみれば「東京オリンピック」が行われたその年に、初めて「中国の赤い星」を読み、胸がふるえるほど感動したのに対して、王氏は「南京事件」が終わった次の年ぐらいに「中国の赤い星」の中にある「毛沢東伝」だけが小冊子になったものを(いまでもわかっているだけで、3、4種類ある)読み「西行漫記」はたしかに出版はされたが、実際に中国内で全部を読んだ人はごくわずかで、その後数十年も経た1984年にやっと「斯諾(スノー)選集」が出版されたが、これもそれほど強く中国人の心を打ったとは思えず、特に王氏のように、文化大革命を心から憎んでいた人は、1970年10月1日「建国二十一周年記念日」に、百万人の紅衛兵に対して、毛沢東とともに天安門前の舞台の上に立って手を振ったスノーに、良い感情を持っていなかったのは当然であろう。
 僕はこのとき、日中2つの国の2人の人物が、スノーという1人のアメリカ人に対して持った知識、感情などが全く違うのが当然である、という、至極当たり前なことに気がついた。
 そして、王氏が「抗日八年」を通じて「宣伝」という仕事に携わりながら「南京事件を聞いたことがない」といったことも、決して不自然ではない、と思うようになった。
 僕を王氏のところに案内してくれた35歳ぐらいの中国青年は、もと紅衛兵の出身だが「南京大虐殺」については、その名称以外には、全く知らなかった。
 学校で習ったこともなく、教科書にも出ていなかった、といった。
 日本での「南京大虐殺論争」のことを話すと、彼は「信じられない」といい更に「南京大虐殺記念館」の話をすると、
 「あれは主として台湾同胞に対して作ったもので、それ以外にも香港や海外華僑を対象にしたものです
 私は行ったことはありませんが、私以外でも、あの記念館に行った、という人は聞いたことがないし、その存在を知っている人すら少ないでしょう」と答えた。
 「日本人が暴行した南京事件を伝える記念館」が、日本人をターゲットとして作られたものではなく、何故「台湾同胞」であったのか。
 この疑問に答えることは、実は大変な努力と貢数を必要とするので、これは僕の最新作である「新"南京大虐殺"のまぼろし」をお読み頂きたいが、われわれ日本人の多くが「南京事件」のことを知ったのは、敗戦直後の昭和21年から行われたいわゆる「東京裁判」であったことは間違いない。

事件の鍵を握るエドガー・スノー

エドガー・スノー(1938年夏に中国にて撮影)
エドガー・スノー(上)

 これは、まぎれもない事実で「東京裁判」であれだけ強いショックを日本人に与えた大事件を、中国人の、それも知識階級エリートに属する王若望氏のような立場の人が「戦争中は知らなかった」というのは、普通の感覚でいえば不自然である。
 現に「南京大虐殺」という言葉が出れば、それに反応するように、第一次資料として出てくるのはオーストラリア人ティンパーリーが1938年に編集完成して出版した「日人在華的恐怖」或いは「中国人目賭中之日軍暴行」原文は「What war means: The Japanese Terror in China」日本語訳文として通常使われるのは「中国に於ける日本軍の暴行」で、僕もこの本の中国語訳原本は、エール大学の王正廷(1937年当時の、駐アメリカ大使)コレクションの中で発見しており、扉のところには、たしかに「1938年 漢口」の字が見える。
 しかし、この本も、どこまで中国人に読まれたであろうか。
 当時の一般的中国人は、まず字が読めず、読めても面白い小説本以外には殆ど売れることはなく、「日本軍の暴行」が何部出たかは不明だが、この本を出版した「庁」にいた郭沫若は、その日記の中で
 「不幸にしてこの本の多くが、長沙の大火で焼かれてしまったが、それでも探してみれば、いくらかは残っているかも知れない」
 と書いているところを見ると当時、4億数千万といわれた中国人の中でこの本を見つけるのは、砂丘の中に落ちた1円玉を探すほどの困難さであったと思われる。
 王若望がこれを知らなかったとしても、知らない方がむしろ自然である。
 現在「国際化」やインターネットが当たり前のように使われている時代からは想像もつかないが、当時の中国におけるコミュニケーション方法の困難さは、現在からは想像も出来ないほどのものがあった。
 例えば、いまわれわれは「年表」を見ながら「1931年、11月9日、瑞金に中華ソビエト政府樹立」という文字を見ることができる。
 何も知らない若い人は、この「政府樹立」は十数時間後、遅くても数日後には、新聞、ラジオなどのニュースによって、上海市民が知るところとなる、という風に思うかも知れない。
 しかし、それはとんでもない錯覚である。
 瑞金は江西省の南、福建省との境にある仙霞嶺山脈の中腹にある貧しい町で、江西省はその北側に石炭のとれる坑山があったため、わずかにこの付近にまで鉄道は通っていたが、そこから瑞金までは、標高千メートルもある山々を越え、更に標高二千メートル近くの高地まで4百キロもの道を歩いてゆかなければならない。
 ここで「4百キロ」といったのは直線距離のことで、公路とはいってもデコボコの土の道を、もし瑞金を攻め落とそうと思ったら、重火器をかつぎ、周辺の草むらから狙っていくる共産軍の攻撃に耐え、途方もない犠牲を覚悟しなければならない。
 無論電話があるわけでもなく、手紙などを運ぶ通信手段もない。
 今回僕が書いた「新"南京大虐殺"のまぼろし」の主要登場人物の1人である潘漢年は上海から瑞金にゆくとき、まず便船で香港に行き、そこから更に船で汕頭(スワトウ)に逆行し、韓江を4百キロもさかのぼって、その上流から仙霞嶺山脈を越えて瑞金に着いている。
 瑞金と上海とを結ぶ唯一の線は無線による通信だったが、そのために上海の共産党地下党員は、いつも暗号表を持っていた。
 一般市民が「瑞金で共産党がどのようにしているか」などというニュースは、実質的には上海では誰も知らなかったのである。
 このようなニュース伝達の困難な状況は、日中戦が始まった1937年当時でも、基本的には変わっていない。
 但し上海戦という舞台だけを見れば、日中戦を行った「上海」という場所は、いまわれわれ日本人旅行者が普通に「上海」と呼んでいる場所とは全く違っていた。
 上海市の中心部は、当時フランス租界、共同租界に分かれていたが、共同租界は、俗にイギリス租界と呼ばれていた地域と、上海北側に流れていた蘇州河(現在、呉淞江)を南北にわけて、その北側が俗にいう「日本租界」であった。
 そして、フランス租界は美しい石畳みとアカシアの並木に包まれており、下水道もあり、水道の水源地は黄浦江であったのに対して「日本租界」の大部分は泥道であり、雨が降れば足首までぬかるんでしまうという悪条件の下にあった。
 しかし、水道のある場所は、大変少ない。
 それも、フランス租界の下水道から流れ出る汚い水を含んだ蘇州河を水源として利用しているので、真夏に行われた上海戦の日本軍の戦いは、文字通り泥沼との戦いであったことがわかる。
 一番重要であったのは、日本租界内で行われている「日中の戦い」で、双方の撃ち合う弾丸は、イギリス、フランス租界の中に絶対に落としてはならない、ということであった。
 上海の中国人市民、イギリス人、アメリカ人などは、蘇州河の「イギリス側」から日中の戦いを「見物」していて、中国側将官の中には、英仏租界区の中にいて、電話で蘇州河北部で戦っている部下に指令を出していた者もいる、と、新しく出版された中国側の本には書かれている。
 当時、この「上海戦」を、競馬場(現・市政府及び博物館)近くにある24階建の国際飯店の屋上から眺めていた欧米人の中の1人に、エドガー・スノーがいた。
 スノーは後にこの戦いの様子を、
 「それは世界最大のショウでもあった。
 いま思い出してみても、それはヒトラーの電撃戦ですら思いもおよばなかったほど、ユニークなものであった。
 何と百万に近い人間が参加する殺人試合を、何の心配もなくリングサイドで眺めることのできる大都会は、もうどの世界にも、二度とは出現しないであろう」
 と書いたのである。
 この文章を書いた本「アジアの戦争」は、日本が真珠湾攻撃を行った同じ年の春、つまり半年余り前に、アメリカの大出版社であるランダムハウス社から出版され、一部の知識人を中心にして、アメリカでは強い反響があった。
 無論大部分のアメリカ人は中国のことなどにはほとんど関心はなく、この年の3月、ルーズベルトは「武器貸与法」に署名し、日本流にいえば「金(武器)は出すけれども、人は出さない」という行動にふみ切ったが、その貸与した武器の97パーセントまでは対イギリスであり、当時、アフリカ系アメリカ人(黒人)のことなど眼中になかったルーズベルトは、中国に対しても同じように、パール・バックの描いた「大地」(ノーベル文学賞受賞作)の「チャイナ」のことは知っていても、エドガー・スノーが頭に描いていた「毛沢東・蒋介石の連合勢力による、日本との戦い」には、それほどの関心はなかった。
 アメリカに帰っていたスノーは新聞記者たちと何回もインタビューを行い、
 「ヨーロッパで起こっている事件は、やがてアジアに波及するであろう」
 「米日戦は、少なくとも1年以内に、必ず起るであろう」 
 と、くり返しいい続けた。
 しかし、これも僕が感じていた「錯覚」の1つだが、エドガー・スノーのこのような言動は、日本には全く伝えられなかったし、日本人の誰1人として、スノーの「アジアの戦争」が出版されたことに対しての重大な意味を理解した人もいなかった。
 その最大の原因は、スノーの「アジアの戦争」が、日米戦のわずか数ヶ月前に出版され日本語としては全く伝えられなかったという偶然であろう。
 僕は今回「新"南京大虐殺"のまぼろし」を書くに当たって、その第1頁目の扉に当る部分に、本文より少し大きな活字で、こう書いた。

 「日本、中国、アメリカという、東アジアだけではなく、二十一世紀の世界に最も大きな影響を与えるかも知れない重要な三つの国の中で、いまも喉もとに突き刺さったままでいるような大きな歴史的課題が、まだ未解決のままである。
 いわゆる"南京大虐殺論争"である。
 この不可解な事件の鍵を握っていた人物は一体誰なのか、僕は長い間考え続けてきた。
 そしてその人物こそは、実は二十世紀ノンフィクション文学の中でも特に名作として知られる"中国の赤い星"を書いたアメリカ人作家であり、第二次大戦のときには、アメリカ大統領ルーズベルトと数回にわたって、2人だけで、対中、対日に関する話し合いを持った著名なジャーナリストでもあった、エドガー・スノーであることを、僕は最近まで気がつかなかった」

 スノーが日中戦のとき南京に行ったことは一度もなく、第一次資料を残したこともないことはよく知られている。
 それにもかかわらず敢(あえ)て僕がこう書いたプロセスが今回出版した「新"南京大虐殺"のまぼろし」に、5百頁以上の内容を必要とした原因であり、ここでは到底このことにふれることは出来ないので、すべて割愛することを許して頂きたい。

日中米で話し合いの第一歩を

 僕は王若望が、中国人でありながら「南京大虐殺」について、戦争中は何も知らなかった、と書いた。
 考えて見れば、毛沢東も周恩来も、国民党軍内の最高の地位にいた何応欽も、長期間にわたって日記を書き、「南京戦」のとき、軍事委員会委員長の職にあった徐永昌も(徐永昌は、東京湾内ミズーリ号甲板で中華民国を代表して日本の降伏文書にサインした)南京戦当時副参謀長で、日本軍に対しての感想文を残した白崇禧も、その他多くの著名な高官を含めて「南京大虐殺」にふれた中国人は、1人もいなかったのである。
 「南京大虐殺記念館」に展示されている同時代資料の中で唯一と思われる、台湾で「南京大屠殺」を書いた郭岐は、その文章の中で「南京大虐殺を証言する者がなく、私は当時新疆ウイグル地区に勤務していたが、裁判のためにわざわざ南京まで呼び戻され、法廷の証人となったのである」と書いている。
 「南京大虐殺」の火の元は、中国よりも、むしろアメリカの中にある、という考えはその頃から僕の中に芽生えてきたのである。
 僕が今回「何故いま"南京大虐殺"について考えようとしたのか」は「南京大虐殺論争」は、何とか「20世紀」といわれている期間のうちに、その決着とまではいかなくても、せめて日中米の間で、よりオープンな形で「歴史を反省」し、「南京大虐殺とは、本来はこういうものであった」ということを話合い「南京大虐殺記念館」を「平和記念館」と名称を変えてほしい。
 幸か不幸か、いまアメリカでも「南京大虐殺」が話題になっている、と伝えられている。
 南京の「記念館」の方も「拉貝(ラーべ)」という新しい人物が参入し、まるで「拉貝記念館」であるかのように、ラーべの顔写真は特別の額縁に飾られ、7百20頁にもなる「拉貝日記」が、うず高く積まれている。
 僕は率直にいって、このような状態を正常な状態とは思えない。
 このテーマを中心にして今回書いた新しい本が、1999年の半頃になってやっと発表されるようになったのは全く偶然のことだがそれだからこそ、この偶然の機会を僕は無駄にはしたくない。
 僕が今回新しい本を出したのは、喧嘩(ケンカ)を売るためではなく、冷静な話し合いの第一歩を作るためであったことをここで改めて強調したい。


関連項目:[1] [2] [3]
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