国民党「対日謀略工作」

ニセ写真のカラクリを暴く

支那事変「日本人=残虐」を決定づけた数々の写真。その背後には国民党の奸計があった。

「諸君!」2002年4月号

松尾一郎(日中問題研究家)

「諸君!」平成14年4月号より


 平成6(1994)年夏、田舎から上京してきた友人と共に生まれて初めて靖国神社へ参拝した時、私は山本建造氏の「大東亜戦争(太平洋戦争)は正統防衛であった!」という小冊子を200円で購入した。
 入り口奥の片隅に置かれていたその冊子が「東京裁判史観」とそれに呪縛された「昭和史」への疑問の始まりだった。
 
 この後、平成10(1998)年2月に自由主義史観研究会にも入り、プロパガンダ写真研究会にも参加した。
 自分なりの研究を進めていきながら、現代史をテーマとしたホームページを開設した。(このホームページの事)
 
 そこでは、訪日したリベラル派のマイケル・ホンダカリフォルニア州議員との対話なども紹介している。
 その後、小林よしのり氏の「戦争論2」(幻冬舎)へのヤラセ写真問題の資料提供もさせて頂いた。(本書の350ページの中で「ご本人の希望で名前は明かせないが国のために地道な研究をしている民間人がこの章(元祖ニセ写真はこうして生まれた)では全面協力してくれている」と過分の言葉も頂いたりもした)。
 
 又、あまり知られていないことだが、中国から行われた日本の省庁ハッキング事件の際には、私のホーム・ページも狙われ攻撃を受けた。
 自宅に対抗するための機器があったため、それに気付き何とか防衛する事が出来たが、情報戦とはかくも壮絶なものであるかと初めて実感した次第である。
 
 従って、匿名者としていつまでも隠れているのではなく、反日的な陰謀と対峙するためにはもっと勇気を持たねばと考え、今回本名を明らかにしたのである。

ニセ写真のルーツ

 ところで、第一次世界大戦において意外に知られていない事実がある。
 残虐行為などの"合成・ヤラセ写真"がこの時初めて流布した事である。
 
 歴史的にみて、最初にそれが登場したのは、フィリップ・ナイトリーの「戦争報道の内幕」などによれば、イギリスの「ザ・タイムズ」誌上である。
 「ドイツ軍は前線の背後に工場を作り、自軍の兵士の死体を煮詰めて、軍事用のグリセリンを蒸留している」などといった記事を写真付きで登場させた。
 
 もちろんこのような事実は一切無く、イギリス軍情報部責任者チャータリスが意図的に流していたデタラメであったことが判明している。
 こういったふうに、敵国に対する憎しみを高める目的で、ニセ情報やニセ写真を流布させて相手への反感を高めるための心理効果を狙う作戦は意外と効果があったようで、ドイツ側のマスコミも同じことを行っている。
 
 例えば、ドイツでは「切り取った指の指輪から作ったネックレスをしているフランス人」であるとか、「目玉をえぐり取られたドイツ兵が沢山いる病院」などといった記事が氾濫(はんらん)している。
 このように大戦中はお互いの国で、ニセ写真、ニセ記事が飛び交っていたのである。
 そもそも、第一次世界大戦といえば、飛行機、飛行船、潜水艦、戦車、毒ガスなどの近代兵器の祖である直接敵陣を狙う兵器の登場ばかりが宣伝されてきた。
 
 しかし、そのような近代兵器以外にも自軍内部や国内の戦意高揚を目的とした宣伝やデマを流布するための情報・心理戦といった戦術も大いに使われていたのである。
 それらは、現代戦においては重要な戦術の1つでもあるにもかかわらず、日本人はその重要性を今も認識出来ないでいる。

 確かに、この戦術は勝敗を決定的に左右するまでの効果は無いかもしれない。
 だが、時と場合によっては対外的に間違った、偏(かたよ)ったイメージを形成することになる恐れがあり、それが戦争の勝敗を分けることも絶無とは言えないだろう。
 
 そこまでいかなくとも、世界各国から孤立状態に陥(おとしい)れられる事がありうる。
 戦前の日本がまさしくそうだった。
 
 後でふれる日中戦争時の日本などどの最たるものだったと言えよう。
 たった1枚の写真、その写真のキャプションが歴史を変え、勝者と敗者の位置を変更する時もあるのだ。
 
 例えば湾岸戦争における「油まみれの鳥」の写真。
 実はアメリカによって行われた行為でそうなった可能性があるのだが、イラクが行った重油のたれ流しのためにそうなったと一方的に宣伝したために、イラク=「悪」のイメージが国際世論に決定づけられたことを想起して欲しい。
 
 アフガニスタンの今回の戦争においても、「テロリスト=タリバン」というイメージが、世界貿易センターに突っ込む民間機の映像によって、国際世論で決定的になり、そのためにタリバンは孤立し、崩壊させられたのである。
 そのアメリカにしても、ベトナム戦争の時(1972年6月)、キム・フックの写真(裸の少女キムが南ベトナム軍のナパーム弾による誤爆を受けて、泣きながら逃げまどう写真)が、決定的なマイナス・イメージとなって国内の反戦運動に火をつけた。
 
 この写真と、この少女を反米プロパガンダに道具としてベトナム共産党が、その後最大限に活用したことは、デニス・チョンの「ベトナムの少女」(文春文庫)に詳しい。
 このように、100パーセントのマイナス・イメージは決して持たされたく無いものである。

トリックの手順

「ライフ」1937(昭和12)年10月4日号、H・S・ウオン撮影
写真1

 ところが、過去にそのような100パーセント「悪」の同じ状況下に日本が置かれた時がある。
 昭和12(1937)年7月7日の蘆溝橋事件から始まり終戦まで続く日中戦争当初における上のたった1枚の写真(「ライフ」1937年10月4日号掲載)によってである。
 
 (写真(1)この写真は大月書店刊のアジア民衆法廷準備会編「ジュニア版 写真で見る日本の侵略」より転載。ライフと同一の写真である)。
 この写真については日本工房のカメラマン小柳次一氏も新潮社刊の「従軍カメラマンの戦争」の中で、「あの赤ん坊の写真は、反日宣伝としてはものすごく威力があったと思いますね」と当時の事を回想している。
 
 ちなみに、日本工房のメンバーは戦前から対外宣伝の重要性を認識していた。
 というのも、ドイツ誌「ベルリナー・イルストリールテ・ツァイツング」で活躍し、その後米誌「ライフ」が刊行された後は、「ライフ」と契約を結び、やがては日本初の対外英字写真広報誌「ニッポン」を創刊させた名取洋之助率いるフォトジャーナリズムの先駆者集団だったからである。
 
 その名取洋之助に、「日本もこれだよ。これをやらなきゃ世界が味方してくれんよ。」と言わせたのがこの1品である。
 その1枚は、私自身がプロパガンダ写真研究を進めていくうちにヤラセ写真であることが判明したのである。
 
 日本海軍爆撃機によって瓦礫(がれき)の山となった上海南駅の真中で、赤ん坊が独りで泣いている。
 親は死んでしまったのであろう・・・・。
 かわいそうに、たった1人の孤児になってしまった・・・・。
 
 日本はこの1枚の写真によって「悪」のイメージを、対外的に特に米国において決定づけられたといっても過言では無い。
 この写真が発表されて以降、日本人というのは、残虐であるというイメージが世界中に蔓延していったのである。
 
 この裏にはもちろん当時の中国(国民党)が、反日のためのイメージ操作を行っていた事実がある。
 例えば、写真以外にも、蒋介石夫人、宋美齢は中国における日本軍の残虐行為を米国内で精力的に訴え続けていた。

J・キャンベル・入江昭監修・小林章夫監訳「20世紀の歴史[15]第二次世界大戦(上)戦火の舞台」より
写真2

 さらに、国民党から資金を得て、ティンパーリーが「外国人の見た日本軍の暴行」(The Japanese terror in China. Compiled and edited by H. J. Timperley. New York, 1938. 220 p.)を出版したし、またその後親中派ジャーナリストのエドガー・スノーの「アジアの戦争」(The Battle for Asia. Random House New York., 1941.)が刊行されたことも日本に不利な状況を強めていった。
 
 その上、連日、米誌には日本軍による残虐行為を特集した写真記事やイラストが掲載され、日本のイメージはもはや中国を侵略する残忍な国家としてしか紹介されなくなっていたのである。
 そのために、参戦こそはしないものの、義勇空軍(フライング・タイガース)等がアメリカで組織され(現在ではアメリカ政府が秘密裏に組織させた正規軍として判明しており、国際法違反であったことが明白である)、"援蒋ルート"を通じて中立に反するような直接的な反日・親中援助政策が行われても米国民の多くは反対はしなかった。
 
 これらの根底には、米国民は日本に対して持った「悪」のイメージが強く働いたからであろう事は否定出来ない事実であろう。
 過去(1924年)に反日的な「排日移民法」こそ可決されていたが、大多数の米国民は「ライフ」の赤ん坊写真及びそれ以降の反日記事によって反日感情を高めていったのである。
 
 その後、昭和16(1941)年12月8日、日本は米国との戦争に突入し昭和20(1945)年8月15日の敗戦に至る事は誰もが十分承知している。
 ところで、この赤ん坊によるトリック写真を撮影した中国系米国人H・S・ウォンなる人物らしき姿が当時の写真に映っている(写真(2)。J・キャンベル・入江昭監修・小林章夫監訳「20世紀の歴史[15]第二次世界大戦(上)戦火の舞台」より転載)。
 
 白いシャツを着ている人物である。
 この時代は、写真と映画フイルムを同時に撮影する事が多かった。
 当時のライカは映画用の35ミリフィルムを短く切って使うため互換性があり、映画用フィルムを印画紙に焼き付ければ写真としてもプリントする事が可能であったのだ。
 
 そのため昭和12(1937)年8月から始まった第二次上海事変の戦いにおける映像資料は意外と多いのだ。
 それらの動画映像の中に、H・S・ウォンらが赤ん坊を抱き上げてホームへ向かうシーンも映っているものが残されている(フランク・キャプラ監督「バトル・オブ・チャイナ」1944年、ジャパンホームビデオ「激動日中戦争史録」)。
 
 そのおかげで、断片的ながらもそれらの動画とこの写真を比較研究を行ってみるとヤラセ写真である事が判明したのである(小林よしのり氏の「戦争論2」にこのあたりの経緯が詳しく描かれているので拙文とあわせて参考として欲しい)。
 トリックは以下のように行われていた―――。 

 まず、日本海軍爆撃隊が上海南停車場を8月28日午後3時に爆撃した。
 それから、1日以上隔てた後であるにもかかわらず、いかにも爆撃があったばかりで被害をうけた恰好(かっこう)に扮装させた赤ん坊をホームへ連れて行く。
 
 発煙筒を準備し赤ん坊をカメラ撮影をする際に死角となる赤ん坊の左側に置く。
 これはあたかも爆撃直後でまだ煙が出ているかのごとく装うためである。
 
 ところが発煙筒の燃焼時間が短いためか、セットに時間が掛かりすぎてしまったのかは分からないが、発煙筒が倒れてしまった。
 その瞬間、赤ん坊は泣き止み、発煙筒の方に振り返ってしまうのである。
 
 その一連の流れが「激動日中戦争史録」に丸々映像として収まっていたのである。

 これらの映像を見る限り、「ライフ」の写真が事実上都合よく切り貼りしながら意図的に作られたモノであることは疑問の余地がない。
 なにしろ、その赤ん坊の脇には、その父親らしき人物も登場しているのだ。
 
 こうなると子役タレントと付き添いのマネージャー役の親といった構図も想像可能であろう。
 とにかく、全くの"作りごと"なのだ。
 
 だが未だ不思議な事がある。
 何の為に、なぜこのようなヤラセ撮影を行ったのだろうか?

アイリス・チャンも悪用

 私はこのシーンを撮影した(ねつ造した?)H・S・ウォンの用意周到な準備ぶりを見て、単純な特派員として派遣されたのでは無いだろうと判断している。
 なぜなら、普通のジャーナリストであるならば、例えば進撃する日本軍と共に撮影を行うであるとか、中国(国民党)軍と共にその激戦ぶりの様子を撮影しているはずである。
 
 実際、同じ報道員であった米国パラマウント・ニュース映画社のアーサー・メンケンなどは、上海戦から南京陥落直後の様子を克明にレポートしているし、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーティン記者も中国軍と共に南京城内からいくつものレポートを発している。
 ところが、そのような戦地がらみの写真をH・S・ウォンは全く撮影していないのだ。
 
 この赤ん坊写真が唯一の作品であり、それ以外の作品は全くといって登場しない。
 従って、私には最初からあの映像を撮影する事を目的として行動したのだとしか考えられないのだ。
 
 となると、北村稔氏の「「南京事件」の探究」(文春新書)の中で明らかにされたように、ティンパーリーが国民党中央宣伝部の顧問として活動し、「外国人の見た日本軍の暴行」を国民党の資金援助によって作成していた事実が気にかかって仕方が無いのである。
 
 ウォンもまた最初から上海において、第二次上海事変の悲惨なイメージを高めるための赤ん坊写真を撮影して、米国世論を中国側に有利に導こうとする事が目的ではなかったのか?
 
 これは蒋介石の意図そのものではなかろうか?
 ウォンは国民党宣伝部とは全くの無縁であったのだろうか?
 
 疑問は次から次へと出てくるのだ。
 当時、ドイツの軍事顧問団は、蒋介石軍に対して各種の指導を行っており、1928(昭和3)年から1938(昭和13)年までの10年間、軍事に関する助言、または援助を行っている。
 
 1937(昭和12)年8月の第二次上海当時、ドイツ軍の軍事顧問団長にはファルケン・ハウゼン等がいた。
 彼らが先に述べた第一次世界大戦での情報・心理戦に関する経験を生かして色々な助言を中国側に提供していたであろうことは容易に想像できよう。
 
 その上で、ウォンによる1枚の写真が、米国において絶大な効果があったと知った国民党が、その後全力をあげて日本軍による残虐行為を強調するようになっていったのではなかろうか?
 この他にも、当時の中国で流通されていた写真は、佐々木元勝氏がその著「野戦郵便旗」(現代資料センター出版会)に書いているように、「エロ写真の他に残虐写真がある。無残な死体のさまざまな写真である。支那女が泣きながら立って下半身裸になっているものもある」といった代物が多かった。

 何しろ、支那(中国)大陸にはとりたてて珍しくも無い、こんなありふれたエロ写真ですら、日本軍により行われた残虐行為のものだとして対外的に宣伝の材料として使われていったのである。
 こういったニセ写真の対外効果に注目した国民党宣伝部は、事実上の"国民党の広報新聞"である「申報」(昭和13年3月15日)に次のような広告を掲載した。

 「敵軍の暴行及び戦区の写真を求める。申報は全面抗戦が始まって以来、敵軍の諸々の暴行及び戦区の一般の壊された状況(もし破壊される前の写真があればなおよし)及び、我が同胞が困難にあって各地に流浪している一切の写真を求める。詳しい説明を郵便で漢口・湖南23号に送られたし。本館(申報)で適切だと認めたものは報酬を支払う。合わなければ返却する」

 この広告により、かなりの数に上る写真が集められたに違いない。
 金めあての、日本軍と何ら関係の無いニセ写真やエロ写真も相当数あったに違い無い。
 
 そして、それらの中から米国の雑誌などに掲載された写真も多数あったようだ。
 例えば、昭和13(1938)年8月に撮影された便衣兵処刑の写真が、なぜか南京陥落直後の虐殺写真として、1938年11月22日、米写真雑誌「ルック」に掲載されている。
 
 この写真には、W・A・ファーマーの署名がある。
 送付元は漢口となっている。
 
 これらの写真を、国民党は「日寇暴行実録」という形で、1冊の本にまとめ上げ、昭和13年に出版した。
 そして、これらの写真が内外に大々的に公表されていったのである。
 
 そしてそのまま何ら検証される事無く、いまだもって悪用され続け、やがてアイリス・チャンが悪用していったのである。

中国側の「逆宣伝」の(たく)みさ

 ところで、ここで一旦上海に話を戻したいと思う。
 興味深い話がある。
 
 私(松尾)は、上海で海軍陸戦隊に初年兵として勤務された経験者から「昭和13(1938)年の1月から赴任した際に、南京でかなりやった(殺害)という話を人づてに噂として聞いた記憶がある」と話して頂いた事がある。
 その他にも似たような事を述べる人が結構いた。
 
 ただしその人たちは南京へと行った事が全く無いのである。
 当初、私は不思議に思っていたが、「東京裁判」で南京事件があったと言われた事により、その風潮に何となく同調して言っているのではないかという程度に考えていた。
 だが、田中正明著「南京事件の総括」(展転社)の中で当時、読売新聞の上海記者だった原四郎氏の証言があり「世界日報」の記者にこう述べている(57・8・31)。
 
 
「わたしが南京で大虐殺があったらしいとの情報を得たのは、南京が陥落して3ヶ月後のこと。当時、軍による箝口令が敷かれていた訳ではない。なぜ今頃こんなニュースが、と不思議に思い、各支局に確認をとったが、はっきりしたことはつかめなかった。また中国軍の宣伝工作だろう、というのが大方の意見だった。」
 
 これと同じ意味のことを東京日々新聞特派員五島広作氏も書いている。
 
 
「自分が南京戦を終えて上海に帰り、しばらくすると、南京に虐殺事件があったらしいといった噂を耳にした。おどろいて、上海に支局をもつ朝日や読売や同盟など各社に電話を入れてみた。どの社も全然知らぬ、聞いたこともないと言う。おそらく敵さんの例の宣伝工作だろうというのが話のオチであった。」

 さらに不思議な事もある。
 南京陥落から半年後以上経った1938(昭和13)年夏に15・6名ほどの外国人記者達が、突如として陥落後の南京へ行き取材をしたいと要望を日本軍へ打診し、実際取材を行っている。
 
 当時の記者達は一体何を根拠にそのような要望を出し、取材をしたのか?
 記者団がどうしてわざわざ陥落後の南京へ行きたがったのだろうか?
 
 何らかの根拠もしくはニュースソースがあったのか?
 と、考えていたが、その疑念は先の「申報」を読んで初めて理解出来た。

 つまりこういう事である ――――――――。

 南京陥落後、翌昭和13(1938)年2月頃から、「申報」の紙面で、南京における日本軍による暴行事件の記事が掲載され始める。
 記事の内容としては「昨日数人の人が南京から逃れてきて漢口に着いた。その話によると敵軍(日本軍)による強姦、略奪、暴行・・・・」といった内容が数日おきに掲載され、具体的な被害者数さえ明示している。
 
 まさに、今言われている「南京虐殺」の内容そのものである。
 これは何を物語っているか。
 
 「申報」は上海において容易に入手する事が出来た新聞であり、私のような中国語が十分に出来ない者でさえも、漢字をながめていれば一応大意を理解することは可能なのである。
 従って、上海における日本の海軍陸戦隊の隊員の中には中国語が出来る者もいただろうし、そうでなくとも、南京へ行かずとも「申報」によって"虐殺"の噂が人づてに語られていったのだった。
 
 こう考えれば、旧日本海軍陸戦隊の方々の話は丸っきりの作り話では無かったのである。
 中国側の逆宣伝に、当の日本軍兵士まで引っかかったのである。
 
 こう見ていけば、上海における"虐殺"の噂の元がどこから生まれたか自明であろう。
 その噂が、南京陥落後から翌年にかけて流れていき、外国人記者達もこの「申報」の記事を読んでいたからこそ、南京に関心を持つ事となり、現地への取材を申し込んだのではないだろうか?
 
 さらに先に述べたティンパーリーの「外国人の見た日本軍の暴行」は1938(昭和13)年7月に発刊されている。
 この文献により、南京における暴虐事件が"The Rape of Nanking"として、欧米に活字として始めて紹介された。
 
 この本によって"虐殺"の噂が、確固たる根拠らしきものが存在する文献として欧米や米国において蔓延していったのである。
 ちなみにティンパーレーは、北村稔氏の「「南京事件」の探究」の中で、国民党中央宣伝部の顧問であった事が証明されているが、後の東京裁判においても、ティンパーリーの編集したこの本は、大きな影響を与え、政治的な役割を担う事となる。
 
 それこそが「南京大虐殺事件」と呼ばれる事件である。

「写真、噂、文献」三位一体の工作

 以上、長々と論じて来たが、私が述べたい事は、第一次世界大戦中に欧米で写真や目撃談のトリックを使った報道・心理戦という概念が開発され、それが1つの国家戦略として活用されたということである。
 このテクニックを中国国民党にもたらしたのが、ドイツ顧問団だったのか、もしくはティンパーリー等の報道に関わる専門家が伝えたのかはまだこれからの研究課題であろう。
 
 そもそも国民党宣伝部がこのあたりのいきさつをきちんと承知していたかどうかは分からないが、H・S・ウォンなる中国系米国人の撮影した1枚の写真がもたらした効果の大きさは十分に認識したはずだ。
 だからこそ、「申報」の広告をみても分かるように、昭和13(1938)年から写真による宣伝・報道合戦を行うようになったのである。
 
 さらに写真だけでは無く、集めた噂を「申報」などを使い流布し、時には、事実上の"スパイ"とも呼ぶべき欧米のジャーナリストや学者の名を使って日本軍による暴虐行為を対外宣伝文献としてまとめ発表していくのである。
 まさに見事なまでの三位一体(写真、噂、文献)の宣伝工作と言えよう。
 
 その上、戦後になっても、支那(国民党)側の思惑以上の効果も発揮していくのである。
 何しろそれは極東国際軍事裁判(東京裁判)において日本軍を「悪」と位置付ける罪状としての役目までも果たしたのである。
 
 戦勝国の米国にとって、大東亜戦争における日本のスローガンである「アジア解放」は目障りであったに違いない。
 自分たち米軍が行った、無差別爆撃の東京大空襲、広島・長崎の原爆などの国際法違反の民間人大量殺戮を隠蔽(いんぺい)するには、日本軍によるそれ以上のインパクトのある罪状が必要であったに違い無い。
 
 そのためには何か事件が必要であったに違いない。
 だが日本について全く知識の無いGHQの目に止まった事件は何であろう。
 
 かくいうティンパーリー、もしくはエドガー・スノーが書き上げた英文著作であった事は想像に難くない。
 そして、日中の和平を心から望んでおり、日中両戦死者のために興亜観音まで作り、中国文化に深い理解を持つ松井石根大将がスケープゴート役として、処刑台の露として消えて行ったのである。

諸君!平成14(2002)年4月号掲載


関連項目:[1] [2] [3]
[「南京事件・関連資料」項目へ]