「南京事件」ーー虚構の確認

「事実求是」で歴史を正視し資料を熟読玩味すれば、それこそ「正しい歴史認識」が得られる

文藝春秋「諸君!」2002年6月号

北村 稔 立命館大学教授

「諸君!」平成14(2002)年6月号より


はじめに

 筆者は、2001年11月に文春新書『「南京事件」の探求―その実像をもとめて』(以下、『「南京事件」の探求』)を出版し、「文字資料」に基づいて、日中戦争中の1937年12月から翌年の3月にかけて発生したとされる「南京事件」の実態を、「歴史学の基本原則と常識に基づいて」探究した。
 その結果、第2次大戦終了後の南京と東京における連合国側の裁判で断罪された「南京大虐殺」は、日本の戦争犯罪を裁く中核にしようという政治目的により立ち上げられた虚構であったことが明らかになった。
 日本軍の南京占領戦略が周到性を欠き、多くの混乱をもたらした事実は否定できない。
 しかし「南京大虐殺」を構成する3大要素である、

 (1)計画的に遂行された虐殺行為
 (2)虐殺期間は3ヵ月
 (3)民間人を含む死者は10万人から30万人

 のどれ1つとして、「文字資料」から論理的整合性に証明するのは不可能である。
 以上の筆者の論断に対し、この原稿を執筆中の現在までのところ、正面からの反論は出現していない。
 筆者は、『「南京事件」の探究』の骨子をなす霞山会『東亜』誌上の連載文(1999年10月――2000年1月)終了直後に、立命館大学の同僚から、日本軍の南京占領を記録したビデオ化された記録映画を入手していた。
 この同僚が映画の素性を説明しなかったこともあり特に気にとめていなかったが、今回あらためて丹念に見ると、「百聞は一見に如かず」の思いがこみ上げてきた。
 記録映画とは、東宝映画文化映画部製作による『戦線後方記録映画―南京』である。

1、『戦線後方記録映画―南京』

 〔著名な記録映画〕

 『戦線後方記録映画―南京』(以下、映画『南京』と略記する)の冒頭には、“製作―松崎啓次、撮影―白井茂、現地録音―藤井慎一、解説―徳川夢声”を始め、編集、音楽に携わった人々が紹介されている。
 また、“指導―軍特務部”と記されている。
 記録映像は1937年12月14日の日本軍の南京入城から始まる。
 軍特務部の指導があったとしても、どうみても作為的な場面は見あたらず実写としか思えない。
 回りの人々に片端からこの映画のことを問うてみたが、素性を知る人物は現れない。
 私にこのビデオをくれた当人は国外におりしばらくは帰国しない。
 そこで『諸君!』の編集部に情報提供を依頼する一方で、立命館大学文学部の同僚で映画史研究者の冨田美香助教授に尋ねてみた。
 すると彼女いわく「映画史上に有名な記録映画である」と。
 冨田助教授から提供された田中純一郎『日本映画発達史』第三巻(全5巻、中公文庫、1976年)、同『日本教育映画発達史』(蝸牛社、1979年)によれば、この映画は次のような背景のもとに製作されていた(ちなみに田中純一郎氏は1920年生まれ、本名は松倉寿一、一貫して映画史研究、映画企画、映画評論にたずさわり、1966年には藍綬褒章を受けた)。
 東宝映画株式会社は1937年9月に複数の映画会社が合流して成立したが、その前身の1つで官庁や企業の紹介、宣伝の部門で名声を確立していた写真化学研究所(略称PCL)は東宝の成立と同時にその文化映画部となり、業務の拡充と発展がはかられた。
 映画『南京』は、日中戦争勃発直後に東宝映画文化映画部により自主製作された記録映画3部作の1つで、『上海』、『南京』、『北京』の順に公開された。
 ちなみに『上海』は2月1日、『南京』は2月20日、『北京』は8月23日に公開され、『上海』は空前の成功を収めた。
 このあと東宝映画文化映画部は、映画『上海』のスタッフを動員し、国民政府が首都機能を移した武漢の攻略戦を描く長編記録映画『戦ふ兵隊』(亀井文夫編集)を製作する。
 しかし1939年4月の公開に先立ち試写を見た陸軍参謀本部のスタッフから“公開は好ましくない”との意見表示があり「お蔵入り」になる。
 映像画面には少しの勇ましさもなく、戦地の緊張した苦しい状況が陰隠滅滅とリアルに映し出されていたからである。
 筆者は20年以上も前に、映画『戦ふ兵隊』を見る機会を得た。
 武漢攻略戦には三重県の部隊も参加し、三重大学に職を得ていた関係者から県立の文化会館で公開された『戦ふ兵隊』を見たのである。
 会場には老人となった当時の兵士たちが集まっていたことを記憶している。
 映像の中で強く印象に残っているのは、戦闘中の前線司令所における伝令兵と命令を伝える下士官のやりとり、および側に控える軍用犬のシェパードが織りなす緊張した空気である。
 勇ましさなどは全く存在せず、ひたすら乾き切った甲高い声での無表情な命令伝達と対応であり、その間に聞こえる散発的な小銃音のたびにシェパードが耳をピンとそばだてる。
 「現地録音と一体化した映像というのは、現場の雰囲気をここまで伝えるのか」と、つくづく感じ入った。
 以上の事実から筆者は以下のように考えた。
 「東宝文化映画部製作の日中戦争中の一連の記録映画には軍部の指導があり、写してまずいものは写さなかった。しかし写っている映像には、軍部の意図に基づく〈やらせ〉は少ない」と。
 この矢先に『諸君!』編集部から、映画『南京』の現状に関する資料が到着した。
 インターネットのホーム・ページによれば日本映画新社が戦記映画復刻版シリーズNo21としてビデオを販売中であり、小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL―戦争論2―』(幻冬社、2001年11月15日)の中に映像の信憑性をめぐる論争場面が描かれている、ということであった。

 〔文字で書かれた記録を裏打ちする映像〕

 映画『南京』の映像は、筆者が『「南京事件」の探究』の中で提示した。
 南京の実情を示す「文字資料」の内容を裏付ける。
 南京占領直後(37年12月下旬)の、揚子江に面した南京の外港である下関(シャーカン)一帯の状況と、そこに置かれた陸軍病院の映像がある。
 筆者は『「南京事件」の探究』の87ページに、37年の12月27日に「上海―南京間」の定期航路が復活し上海から下関に到着した日本婦人たちが市街見物に連れていかれ、子供たちにキャンディーを配った、と述べた。
 これは南京に居住した欧米人の目撃証言である。
 映像に見る、のんびりした下関の状況は、この「文字資料」の内容を如実に裏付けている。
 欧米人たちが管理した南京安全区の映像もある。
 そして安全区内の鼓楼で開かれた(38年1月2日)南京自治委員会の設立式典の映像がある。
 筆者は『「南京事件」の探究』の86ページで南京在住の欧米人の記録を引用し、南京自治委員会が日本軍の後押しで南京安全区外の多数の住民に食料を供給した、と述べた。
 映像に見る南京自治委員会の設立式典には日本海軍軍楽隊も参加し、すこぶる賑やかな雰囲気である。
 伝統の礼服である馬褂(マークワ)を着て、会場入口で来賓を迎えるべく立ち並ぶ中国人の姿も写っている。
 調べればこれらの人々の名前も判明しよう。
 まさに「百聞は一見に如かず」である。
 従来の研究では南京安全区ばかりに光が当たり、遥かに広い市街地区を管轄した南京自治委員会の活動解明がおざなりである。
 現在の南京の第二襠案館(公文書館)には南京自治委員会の資料があるはずだが中国側は公開しないだろう。
 このほか画面全体にただよう、「のんびりした雰囲気」に言及しておきたい。
 映画『戦ふ兵隊』に見られる通り、実写の映像はその場の雰囲気を十分すぎるほどに伝えてしまう。
 「お前の錯覚だ」と批判される方は、是非ご覧になるとよい。
 激しい戦闘がすんだあとのほっとした雰囲気が、画面全体から感じ取れる。
 『「南京事件」の探究』の137−38ページで、日本軍占領中の南京に潜伏した軍人の郭岐(カクキ)の手記を引用し、〈意外に平穏な南京市内の状況〉を指摘したが、映像はこれを裏打ちする。
 しかし映画『南京』の映像が、占領下の南京の全てでないことも了解しなければならない。
 『日本教育映画発達史』に引用される白井茂カメラマンの手記からは、別の南京の状況がうかがえる。
 12月14日のことである。

 「・・・・・・城内にいると左手に支那の戦闘機が逆立ちになって墜落している。中山路は民家の家財などが惨(むご)たらしく散らばり、城内まだ残敵討伐中であるから気をつけるようにとの注意を受ける。・・・・・・」

 この部分の記述はそのまま映像になっている。
 しかし、やがて次のような記述が登場する。

 「・・・・・・高い柵について支那人が一列に延々とならんでいる。傍らを通ると、私をつかまえてシワクチャな煙草の袋や小銭を差し出し、悲痛な顔で哀願する。この人たちはこれから銃殺されるので、命乞いの哀願を、次のような者に向かっても必死になって訴えているのだ。
 それはそうと分かっていても、どうしてもやることが出来ない自分の無力さが悲しかった。
 城壁の上では、日本の兵士がたくさん死んでいる。その兵士たちの火葬の有様をシングル録音で撮影したが、火葬の炎がバリバリ燃える音が、スクリーンを見る観客の胸をえぐることであろう」

 日本兵の死体散乱は収録されていないが、火葬の場面は収録されている。
 しかし「銃殺をまつ悲痛な顔の支那人」は当然のことに収録されていない。
 これらの「支那人」は便衣兵として処刑された人々であろうか。
 ちなみに、便衣兵や捕虜の処刑をめぐる戦時国際法上の論点については、『「南京事件」の探究』の96ページ以下に指摘した。
 『諸君!』4月号で、東中野修道氏がアフガニスタンで米軍に捕えられたアルカイダやタリバンの兵士の取り扱われ方について、興味深い議論を展開している。
 米軍は、「〈捕虜の待遇に関する1949年のジュネーブ条約(第3条約)〉の解釈に基づき、これらの兵士を戦争捕虜ではなく不法戦闘員として認定している」、というのである。
 同条約の第4条は捕虜として扱われる条件として、

 (1)指揮官の存在
 (2)戦闘員とわかる固着の特殊標章を有する
 (3)公然と武器を携帯する
 (4)戦争法規及び慣例の遵守

 を、定めている。
 従来から、先に示した4つの条件を鑑みて「非捕虜」という範疇(はんちゅう)を提起され、処刑された中国人兵士たちは、日中戦争当時の国際法の観点から見て、処刑に裁判を要する「便衣兵」でもなく、また生命を保護されるべき「戦争捕虜」でもなかったと主張してきた。
 そして、南京攻防戦における中国人兵士たちの処刑は、継続していた激しい戦闘行為の延長であると解釈するべきだという見解を提示していた。
 筆者は『「南京事件」の探究』の101ページで、「非捕虜」という範疇には少々無理があると考え、「当時の法解釈に基づく限り、日本軍による手続き無しの大量処刑を正当化する充分な論理は構成しがたい」と述べておいた。
 しかし今回の米軍の態度は、これまでの議論に新たな一石を投じることになろう。
 以上のとおり日本軍占領下の南京には「のんびりした雰囲気」だけが存在したのではない。
 しかし「のんびりした雰囲気」も実在したのであり、いわゆる「南京大虐殺」が存在しなかったことを物語る、

2、南京事件の虚構性の確認

〔文字で書かれた記録を裏打ちする映像〕

 以上概観してきたように、文字資料だけではなく映像資料によっても、「南京大虐殺」の虚構性は揺るがない。
 『「南京事件」の探究』に対する正面からの反論は確かめている。
 虐殺派に近い信条を持つ人々の反応は、概ね「興味深く拝見しました」というものである。
 笠原十九司氏からは御著書『南京事件と日本人』(柏書房、2002年2月)を戴いたが、同封の私信には拙著への意見は述べられていなかった。
 『「南京事件」の探究』の序論に述べた通り、虐殺派の「南京大虐殺」批判には、日本軍国主義を批判しそれを生み出した明治憲法体制を批判し、さらに今日も残るその残滓(ざんし)を批判しようという思いが込められている。
 それゆえ「南京大虐殺」が存在しなくなると、この批判に勢いが欠けることになる。
 かくして、筆者の主張する「歴史学の基本原則と常識に基づく」研究手法に反論はしないが、研究の成果の全面的肯定には躊躇(ちゅうちょ)せざるを得なくなり、「興味深く拝見しました」という態度になるのである。
 しかしながら、「南京大虐殺」が存在しなければ軍国主義批判に勢いが無くなるのではチト寂しい。
 「自前の論理」で日本軍国主義を批判しないからそういうことになるのである。
 意識するとせざるとに関わらず、中国の戦時対外宣伝戦略やアメリカ占領政策に沿う形で日本軍国主義を批判してきたからこそ、「南京大虐殺」が無くなると勢いが無くなるのである。
 筆者は「南京大虐殺」など無くても、いくらでも「自前の論理」で日本軍国主義を批判できると考える。
 ただしその際には、『「南京事件」の探究』のエピローグに述べたとおり、事実に基づいて真理を検証する「事実求是」が必要である。
 偏りのない立場から「日本軍国主義」の実態を探求するのである。
 これは筆者にとっての今後の課題でもある。

〔まぼろし派の攻勢〕

 「まぼろし派」の研究者には、『「南京事件」の探究』は好意的に受け入れられた。
 筆者がティンパーリーを核とする国民党の対外宣伝工作の枠組みを明らかにし、「南京大虐殺」が虚構であった事を大筋において証明したからである。
 しかし「南京大虐殺を最初に告発したティンパーリーは国民党のスパイであった。だから南京大虐殺などでっちあげだ」という取上げ方を過剰にされると、筆者の本意とずれてしまう。
 筆者には、ティンパーリーを殊更に非難する意図はない。
 却って確信犯的な使命感に感動を覚える。
 キリスト教文化における宣教師(ミッショナリー)の伝統であろうが、かくも確固とした人格を日本人は持ちえたのかと問いただしたい思いに駆られる。
 見事に悪者にされてしまった不甲斐なさを反省すべきであり、「あいつはスパイだったから南京大虐殺などとんでもない話だ」とかたづけるだけでは、再び同じ目にあわされる危険がある。
 戦略の欠如や成り行きで事柄を処理する日本人の体質を反省する、契機にすべきである。
 『諸君!』4月号には東中野修道氏(前出)や松尾一郎氏による国民政府側の戦時対外戦略の構造を、さらに一歩進んで解明した文章が掲載されている。
 南京の金陵(南京)大学歴史学教授で宣教師であったマイナー・ベーツが、日本軍の南京占領に対して真偽とりまぜた情報を匿名で提供し、南京事件の虚構を構成するうえで極めて重要な役割を果たしたことを跡付けている。
 筆者は『「南京事件」の探究』の52-53ページで、笠原十九司氏が収集したイエール大学所蔵のティンパーリーとベイツの往復書簡の内容分析に基づき、ベイツは国民党の宣伝工作に直接関係していなかったのではないか、という判断を示した。
 しかし東中野氏はイエール大学に赴(おもむ)いてベイツ関係の資料を調査し、国民党の宣伝工作におけるベイツの重要な役割を確認された。
 さらに松尾一郎氏に至っては、戦争に際し敵の残虐イメージを作り上げるニセ写真が如何に活用されるかを、第一次世界大戦の事例から説き起こし、日本軍を貶める国民党おニセ写真工作のカラクリを暴いている。
 ご覧になった方も多いと思われるが、『ライフ』の1937年10月4日号に載った爆撃の廃墟(上海南停車場)で泣く赤ん坊の写真は、巧みなトリックなのである。
 松尾一郎氏は、「写真、噂、文献」の三位一体の宣伝工作により、日本軍=悪のイメージが如何に巧みに作られたかを強調して筆をおいている。
 以上に見られるとおり、目下のところ「まぼろし派、ますますの攻勢である」と言えようか。

〔中間派の反応

 「南京大虐殺」を頭から否定もできず、しかし「虐殺派」にも同調できない人々は数多く存在する。
 拙著の出版後、「溜飲がさがった」式の同意を表明した人々が、回りの研究者に相当数見うけられた。
 普段は「南京大虐殺」など心に留めているのかと思われた人物に多くみうけられ意外の感じを受けたが、一種の「原罪意識」として日本人の心に定着しているのかと思い、問題の根の深さを思い知らされた。

〔中国への対応〕

 『「南京事件」の探究』出版後に、筆者は、『諸君!』(1月号)等複数の雑誌で、対談をしたりインタビューを受け、繰り返し述べた事がある。
 中国人にとっての「歴史」とは、国内問題であれ国際問題であれ自らの正当性を主張する媒体なのであり、「歴史事実」は二の次に置かれているということである。
 「南京大虐殺」の虚構が証明されても、「南京大虐殺」を主張することが政治的に必要であれば、彼らはこの「政治主張」を繰り返す。
 これに対し我々は、事実認識をしっかり持って自らの見解を冷静に発信すればよい。
 「どうしてウソをいうのか」という感情的対応は禁物である。
 彼らの「政治」にからめとられるだけである。
 中国における「歴史事実」と「政治主張」の葛藤を示す、恰好(かっこう)の例がある。
 蒋介石の上海クーデターと呼ばれる事件である。
 1927(昭和2)年の4月12日に、3年間以上も協力関係にあった(第一次国共合作)国民党と共産党は、上海で決裂する。
 その際、蒋介石が上海で共産党員を逮捕し、街頭で処刑したというのである。
 そしてまことしやかな青竜刀による斬首場面の写真が証拠とされるが、この写真はいまだ合作中の国民党員と共産党員に対して上海を支配していた軍閥が行った斬首の場面であり、蒋介石は当時は平和裡に共産党と袂を分かとうとしていた。
 そしてこの後4月18日に、ソ連顧問団を招待して新しい国民政府の樹立を宣言するのである。
 ところがこういう「歴史事実」は無視され、中国共産党の正史はもとより、その強い影響下にある日本の中国近現代史研究においても、蒋介石の血塗られた「上海クーデター」として「歴史の常識」になっていた。
 これに対し国民党側は、共産党の「政治主張」を黙殺し、自らの歴史観をもって共産党の行動を批判し続けた。
 筆者は『第一次国共合作の研究―現代中国を形成した二大勢力の出現』(岩波書店、1998年4月)の第5章で、蒋介石の上海クーデターの実態を解明したが、この作業は中国共産党が1980年代以降に解禁した資料に基づく。
 1981年に当時の全国人民代表大会委員長の葉剣英は、台湾統一という政治目的の布石として、国民党との第3回目の合作を呼びかけた(第2回目の合作は日中戦争中の国共合作)。
 そしてこれ以後、国共両党の歩み寄りのネックとなる蒋介石の「上海クーデター」に対する、「歴史認識」の修正が開始される。
 当時の実情を記す共産党の議事録などの資料が続々と刊行され、幾冊もの研究書が現れた。
 「歴史」を政治目的に合うように修正するのである。
 台湾の国民党は共産党のラブコールを無視し続けたが、皮肉なことに日本の研究者には中国共産党の新しい政治的狙いが理解されず、蒋介石の血塗られた「上海クーデター」が依然として信じられている事実がある。
 中国人は大変に大仕掛けな方法で、「歴史認識」に戦略をたてるのであり、これは欧米においても同様かもしれない。
 ひとり日本人だけが、性急な態度で「歴史認識」に取り組もうとしているのではないか。

3、歴史を正視する

〔自己保存のエネルギーは否定できない〕

 個人であれ団体であれ民族であれ、生命的には自己保存のエネルギーが内在している。
 そして自己保存のエネルギーそのものには善も悪も無い。
 このエネルギーがどのように発揚されたかに対し、その時点での様々な価値観により善か悪かの判断が下されるのである。
 それゆえ自己保存のエネルギーを肯定することは、その展開のすべてを肯定することではない。
 自己保存のためには何をしても問答無用というわけではない。
 しかし自己保存のエネルギーが旺盛に発露され他の存在に対する加害行為という結果をもたらしたとしても、自己保存のエネルギーを持つこと自体は否定できない。
 これを否定すれば生命体としての存在は不可能である。
 このような場合、当然のことながら加害された存在も自己保存のエネルギーを発揮しているはずである。
 いささか「哲学の道に迷い込んだ」ようであるが、以上に述べた命題は、世界各地で抗争が繰り返される民族問題の内実を熟考すれば、実感を伴って理解できると思われる。
 以上の観点からすれば「虐殺派」の人々は軍国主義を批判するあまり、大日本帝国という明治の新興国家が自己保存のエネルギーを持ったこと自体を否定しているように見える。
 しかし外圧を凌(しの)いで生存をはかるべく新体制を作り上げた明治の日本にとり、自己保存のエネルギーを持つこと自体は善悪の判断をされることではない。
 そのエネルギーの向かった方向が問題にされるべきなのである。
 ところがエネルギーを持つ事自体が、最初から他者への加害を運命づけられている「原罪」のごとくに扱われるため
、自己保存のエネルギーを肯定しようとする人々の直感的な反感を招くことになる。
 いわく「自虐的である」と。
 「虐殺派」の人々にとって「自虐的」などと形容されることは不本意であろう。
 問答無用として、折角の議論が顧みられなくなるからである。
 この状況から脱却するためには、まずもって自己保存のエネルギーの存在を肯定し、その上で進むべきであった道の是非を検討すべきである。
 そうすることによってこそ、建設的な議論が展開される。
 面倒な議論を避けたければ、江戸時代の鎖国を継続するのが一番である。
 外界との軋轢(あつれき)を生じないからである。
 しかしそれが不可能であったことは、歴史に明らかである。
 幕末から明治の日本の取るべき道は、座して植民地化されるのを待つか、あるいは開国して国内体制を一新するかしかなかった。
 そして日本は後者の道を選んだのである。
 前者の道を選べばどうなったかは、筆者の想像力の及ぶところではない。
 しかし生命体の存続という観点からすれば、「自らの意思で死を選ぶべきであった」というも同然である。
 そして後者の道を選んだ先に朝鮮・中国への侵略と太平洋戦争の勃発があるにしても、進んだ方向が批判の対象になるのであって、前に進もうとしたこと自体は善悪の判断をさしはさしめることではない。
 この観点から歴史の研究を進めなければならない。
 そして進んだ方向を批判するならば、「自前の論理」で、「進むべきであった別の道」についての対案を提示しなければならない。
 そうでなければ、歴史との苦しい葛藤を放棄し「歴史に対し駄々をこねている」だけである。
 進むべきであった方向の模索からこそ、歴史の教訓を学べるのである。
 筆者は『「南京事件」の探究』のエピローグで、歴史に責任をとるとは「ひたすら謝る」ことでも、「一方的に自己の正当性を言い募る」ことでもなく、出来事の由来(なぜそのようなことが起こったのか)について「申し開きをする」ことであろう、と述べた。
 そしてそのためには、正確な「事実認識」から出発しなければならず、資料を丹念に読み直すことが必要である、とも述べておいた。

〔日中関係史―満州史へのまなざし〕

 以上のように述べてくると、まず一番に検討しなければならないのが満州問題である。
 満州問題こそが、中国との確執のみならずアメリカとの対立という、日中戦争から太平洋戦争にいたる日本の歩む方向を定めたのである。
 そしてこの問題を理解するためには、日露戦争の時点から考えなければならない。
 信夫清三郎・中山治一編『日露戦争の史の研究』(河出書房新社、1959年初版、1972年改定再版)によれば、日露戦争の最大の原因は、国家防衛の観点から朝鮮を勢力下においておきたいという日本の要求を、義和団事件を口実に満州を占拠していたロシアが朝鮮にも勢力を伸長しようとして受け入れなかったことにある。
 当時の日本には、積極的には満州に進長しようとして受け入れなかったことにある。
 当時の日本には、積極的に満州に進出しようという意図は乏(とぼ)しかった。
 しかし、ロシアの勢力伸長を牽制する目的で1902年に成立していた日英同盟と、満州への進出を課題としたアメリカの思惑のもとで、日本はやむを得ずロシアとの戦争に踏み切ったのである。
 『日露戦争史の研究』は、筆者のいう自己保存エネルギーを肯定して書かれている。
 そして「再版への序文」には、1959年の初版に対して加えられた批判への「申し開き」が記述されている。
 誌面の都合で詳細は割愛するが、筆者の見るところでは、批判の多くは日露戦争を対外侵略戦争という明治日本の「原罪」としてとらえ、正確な「事実認識」を得ようとしてなされた論述に対し短絡的な拒否反応を示すものであった。
 これに対し信夫清三郎・中山治一の両氏が、「性急な誤読が多すぎる。日本において論争がみのりを持たない理由の1つは誤読の横行にある」と看破しているのが印象的である。
 以下に、日露戦争による満州問題の発生とその後の日中関係の展開を、日本国民の自己保存エネルギーの発露という側面に焦点を当て分析しておきたい。
 筆者は「百年来の日中関係について思うこと」(『問題と研究』第29巻3号、1999年12月)において満州問題の発生とその後の展開をより多面的に論じている。
 以下はこの論考に一部分の要約に過ぎない。
 「百年来の日中関係について思うこと」を参照いただければ幸甚である。
 日露戦争での日本の勝利はアジア人の誇りを高揚させ、日中間に大きな交流をもたらす契機となった。
 しかし一方では、日露戦争の結果として日本がロシアから譲渡された満州における権益が、以後の日中関係を一貫して不安定ならしめる最大要因となる。
 日本は日露戦争の講和条約であるポーツマス条約で、遼東半島の旅順と大連の租借権と、ロシアが満州に敷設した鉄道のうち長春―旅順間の線路の租借権を獲得した。
 そして1905年12月の「満州に関する日清条約」により、これらの権益が日本に引き継がれたことが中国(当時は清国)との間で確認された。
 しかし中国とロシアとの元来の協定では、旅順と大連の租借権は25年であり、鉄道は36年後に中国側が買収できることになっていた。
 日本にとりこれらの権益を半永久的なものに変えることが焦眉(しょうび)の課題であった。
 そしてこの課題の実現は、ひとり日本の政府のみならず、日本の国民の願望であった。
 すでに日露戦争の講和条約締結に際し、民衆は血と戦費の代償(特に賠償金)を十分に獲得していないと反発し、東京の日比谷では講和条約に反対する大規模な反政府暴動が発生していた。
 そして、満州の権益は日本の生命線でありゆるがせにできぬという考えが国民の間に定着してゆく。
 かくして1914(大正3)年に勃発した第一次世界大戦を好機とみた日本は、西欧列強が戦争に没入する隙に脆弱な満州権益をより確固たるものにしようとし、清朝崩壊後の1912年に成立していた中華民国北京政府(大統領は袁世凱)にいわゆる「21箇条要求」を突き付け、租借期限を99ヵ年に延長させた。
 これに対し中華民国側は受諾日の5月9日を国恥記念日と定め、日本への敵対心が固定化される。
 このように満州権益を擁護しようとする日本の国民的ヴェクトルが、清朝崩壊後に勃発し始めた中国のナショナリズムと正面から衝突することになる。
 軍国主義が民衆を先導したのではなく、民衆が軍国主義を推進した側面を軽視できない。
 この観点が日本軍国主義の解明には不可欠である。
 1931年の満州勃発時に、『文藝春秋』がアンケート調査した人々の意見を紹介する(『「文藝春秋」にみる昭和史』第1巻、文藝春秋、1988年)。

小坂己之助(美容術業)「・・・・・・我軍の迅速な活動により支那各地を占領でき、在留邦人に危険を感じさせなかったことは同胞として大変うれしく思っています。・・・・・・満州に対する諸懸案を平和的に早く解決できますよう望みます」

 三浦白羽(会社員)「・・・・・・満蒙における日支の交戦は、我々が、永久に日本の権益を保持する最後の決心であることを、中国と外国にすすんで知らせる事なのである」

原浦蔵(理髪業)「今度の日支衝突は穏やかにすまさずに・・・・・・卑怯なる支那人を、日本人に手向かい出来ぬように取っちめてやりたいと思っております」

 柴山啓一郎「今回の日本軍の行動は当然であると思う。・・・・・・失敗であろうとも成功であろうとも問うところではない。国家には生存の権利がある」

沢柳猛雄(実業家)「日支衝突につき、是であると信じます。理由は、日本民族自活権のため、3千万の満蒙在住中華民人(ママ)の幸福のため、東洋と世界平和を脅かす禍根を絶つため、です。・・・・・・わが国はさらに進んでこの問題の解決のためには、国連を賭けてでも極力頑張ることを中国と外国に宣言すべきである」

島本龍太郎(東京市議会議員)「私は幣原外交に多大の信任を払っております。外相がもつ大方針に基づいて行動されることが、もっともわが国に有利であろうと思います」

 荒川仙吉(魚商)「私は軍部の行動は少しも悪くないと思っている。何の罪も無い邦人を虐殺したり、か弱い女性に暴行を加えたりする暴虐無道な支那人に対しては、将来の懲らしめの為に、遠慮なく制裁をくわえるべきである」

 松下保(下宿業)「私の下宿の学生さんは、皆幣原外相を非難しておられます。私も外相の行動は悪いと思います。日本国民全体の思想が幣原外相の無能のために世界に誤解されつつあることを私は悲しく思っております」

 (引用は一部表現を現代文風に変えてあります)

 以上のように、日本軍による満州の占領を多くの民衆は正等な要求の貫徹として支持した。
 このあと1932(昭和7)年には満州国が成立し中国側の抗議とこれに同調する国際世論の反発に直面した日本は、翌33年国際連盟を脱退する。
 すでに日露戦争後の1906年に、日本は南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立し満州権益の独占をめざしたため、アメリカとの緊張を惹起(じゃっき)したのは当然である。
 日露戦争終結直後の日本政府内にはアメリカとの満州共同開発を追及する政策が存在した。
 しかし実現に至らずに消滅する。
 かくして中国の反日ヴェクトルと、アメリカの反日ヴェクトルは合成して日本に向けられることになる。

おわりに

 筆者は先頃、正確な「事実認識」を得ることを目的に満州問題を分析した研究書に遭遇した。
 軍事史学会編『再考・満州事変』(錦正社、2001年10月)である。
 内容についてはいずれ論じてみたいが、読者諸氏にも一読をお勧めし、映画の話から些(いささ)か逸れてしまった本稿の結びとする。

諸君!平成14(2002)年6月号掲載


関連項目:[1] [2] [3]
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