「南京虐殺」はホロコーストではない

米歴史学者の『ザ・レイプ・オブ・南京』批判
アイリス・チャンが依拠するバーガミニは定評ある歴史家によって退けられているのだ
(『アトランティック・マンスリー』98年4月号より転載 塩谷紘訳)

『南京虐殺はホロコーストではない』(「諸君!」98年8月

デビッド・M・ケネディ

スタンフォード大学歴史学部長

『諸君!』平成10(1998)年8月号より転載


 「残虐行為は、傷付いた獣を追うジャッカルさながらに、常に戦争につきまとうものである」

 マサチューセッツ工科大学(MIT)の歴史学者、ジョン・W・ダワー教授は、太平洋における第2次世界大戦史を論じた自著、『War without Mercy』(1986年、邦訳『人種偏見』TBSブリタニカ)でこう述べている。
 非人間的行為は、第2次世界大戦を戦ったあらゆる軍隊の背後に、死骸に飢えた悪霊のように忍び足でついて回った。
 状況は連合国側も枢軸国側も同じだった。
 独ソ戦にみられた残虐行為は全世界の知るところであり、ヒトラーによるユダヤ人の組織的な抹殺作戦はなかでも最も極悪非道の行為だった。
 ホロコーストは、人類が悪魔的所業を犯す能力の象徴として、われわれが生きるこの時代の恐怖に満ちたシンボルとして定着している。
 ホロコーストの記憶は今なお世界の人々の想像力の中で生きのび、人類の未来を予言する哲学者たちの確信を揺るがせ、教会を司る人々の言行の正当性を問い、芸術や文学に暗い影を落とし、この問題について熟慮するあらゆる人々の心胆を寒からしめている。
 そして、半世紀以上を経た今日、ホロコーストの記憶はまた、諸政府の政策に影響を及ぼし、国家間の関係を決定付けたりさえしているのである。
 事実、ホロコーストをめぐる現代の論議は、残虐の政治学を理解したいと願う人類の近代的衝動の発露であると同時に、人間を残虐行為に導く本能を分析し、そして可能なことならその本能そのものを制御することを目論んだ一時代前の文化的プロジェクトに、規模と熱烈さの点で匹敵する作業なのである。
 現代においては、苦難の政治学をコントロールしようとする努力は、悪の心理学を理解しようとする努力に取って代わりさえしつつあるのかもしれないのだ。
 アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』のサブ・タイトルは『The forgotten Holocaust of World War II(第2次世界大戦の忘れられたホロコースト)』とある。
 これは、世界がアジアにおける戦争をヨーロッパにおける戦争と同一視し、日本軍のサディズムの犠牲者となった中国人にホロコーストの犠牲者と同等の資格を与えよと主張する著者の意図を示すものである。
 確かに、日本軍による1937年12月の南京陥落後に同市で起きた惨事に記録は、冒頭に引用したダワー教授の言葉の正しさを証明するものだ。
 しかし、南京における出来事が果たしてホロコーストと比較するに相応しいかどうかは、別の問題だろう。
 また、日本人によって完全に忘れられてしまったかどうかは、疑わしい。
 日本の中国侵略は、1931年の満州占領から始まった。
 この事件は、上海在住の日本人に対する中国側の報復を招いた。
 これに対し、日本側は上海出兵で応じたのだった。
 日中両軍の激烈かつ戦闘地域が限定された戦いが、1932年の大半を通して繰り広げられた。
 戦火はその後下火になり、数年間の小康状態が続いた。
 その間、日本は満州支配体制の強化を進め、一方中国は、次第に激化しつつあった蒋介石の国府軍と毛沢東の共産軍との内戦に大きく揺れ動いていた。
 西側社会は、大恐慌と増大しつつあるヒトラーの脅威に気を奪われ、アジアで湧き上る危機に対してほとんど打つ手はなく、ただ傍観するのみだった。
 1937年7月、北京郊外の盧溝橋付近で起こった中国軍と日本軍との小規模な衝突が、日中間の本格的戦争に拡大した。
 日本側は中国と公然と戦うことは、救いようのないほど無力と見なしていた中国政権を懲らしめる絶好の機会と考えていたようだ。
 イギリスのある外交官が見た当時の日本の中国観は、次の様なものだった。

上海、そして南京へ

 「中国は文明国ではなく、定形を欠く民族集団に過ぎない。
 その政府は秩序の維持が不可能なほど無力である。
 共産主義の嵐が荒れ狂い、国家は競い合う軍閥の率いる軍隊や共産軍、そして盗賊の群れによる略奪の餌食となっている」
 一方、国府軍の将軍たちや中国共産主義者たちの圧力下にあった蒋介石は、日本の侵略者たちと対決して決着をつける機会を待ち兼ねていた。
 しかし蒋総統は、北京周辺で日本軍の主力と戦うよりも1932年のシナリオを再現させることによって戦闘の舞台を中国南部に移すことをもくろんだのである。
 蒋は、上海の約3万人の在留邦人に脅威を与えることによって、北支の日本軍を、蒋介石の主たる政治基盤であり最も安全と考えられていた揚子江下流の地域におびき出せると読んだのである。
 この囮(おとり)作戦は成功した。
 日本軍部は目を南に向け、8月23日、当時の日本軍司令官、松井石根大将は上海攻撃を開始した。
 松井大将は中国側の激烈ながら散発的な抵抗(当時蒋の将軍たちは、臆病だという理由で数百名の国府軍兵士を処刑している)に遭いつつ、ジグザグのコースをとりながら上海に向かって前進した。
 兵士の3割死傷者を出した後の11月上旬、ついに上海を占領した。
 蒋にとってこれは深刻な軍事的敗北であったと同時に、その後直ぐに起こることになった、それ以上に規模の大きい惨劇の序曲だったのである。
 日本軍は猛烈な絨毯爆撃の後、揚子江流域に向かい、国府軍の首都南京へと進撃を続けたのだった。

南京を捨てた国府軍

 血の揚子江・・・・・・。
 それより1世紀弱前のことになるが、14年の長きに及んで続き、合計2千万人の犠牲者を出した太平天国の乱(1850−64年)でも壮烈な戦闘のいくつかが、揚子江のこの豊かな流域で繰り広げられた。
 日本の侵略が始まる前の10年間に、蒋の軍隊は揚子江下流地域で共産主義者や労働組合員たちを情け容赦なく皆殺しにした。
 彼らは同時に、イギリス、アメリカ、日本などの領事館を襲撃して略奪を行い、数名の外国人を殺害している。
 松井大将麾下の兵士たちは、煮えたぎるような憎悪と頻発する暴力に満ちた“歴史のボイラー”の中で前進を続けたのだった。
 主戦場である南京城の城門に近づくにつれて、大混乱の中で敗走を始めた蒋の兵士たちはパニック状態に陥り、散り散りになって行った。
 日本軍が接近すると国民政府の役人たちは南京を捨てて逃亡した。
 蒋介石自身も、12月8日、自ら制定した首都から退散している。
 後に残されたのは、可能な限りの後衛を託された唐生智将軍指揮下の、体裁ばかりの部隊だった。
 唐将軍は抵抗する気配すら見せなかった。
 12月12日の夕刻、日本軍の進軍のペースを落とす策として南京市の城壁の外にある家屋に放火することを命令した後、唐は大型ボートに乗って逃亡し、揚子江上流に向かった。
 南京防衛隊の残兵と、揚子江下流地域から南京市に退却してきた兵士たちは、指揮官たちに見捨てられ、市を包囲する火の海に行く手を封じられることを恐れて、可能な限りの安全を求めて暴走した。
 何千もの兵士たちは揚子江の凍て付くような流れの中に身を投じたが、遠い対岸に安全を求めたこの行動が自殺行為だったことは、たちまち証明されたのだった。
 さらに多くの兵士たちは変装して、包囲された市内に潜入することを目論んだ。
 彼等は接近しつつある侵略者の追及をかわすために狂気の争奪を繰り広げた。
 軍服をかなぐり捨て、民間人用の衣服を求めて商店の略奪や市民の襲撃を行い、戦友を踏みにじり、手斧で襲い、機関銃で撃ったのである。
 12月13日、信じ難いほどの混乱現場に、日本軍の先発部隊が侵入してきたのだった。
 当時の南京の中国人居住民たちは、10年にも及ぶ民生の混乱、国府軍による略奪、反政府的暴動、そして本来なら自分達を守ってくれるべき中国人兵士たちによる際限なき暴威に痛め付けられていた。
 だから市民の多くは、流血と火炎の地獄と化した混乱の都市南京に少なくとも一応の秩序をもたらしてくれるかもしれない規律ある軍隊として、日本軍を歓迎したのだった。
 だが、日本軍は南京市民のそのような期待を断然かつ冷酷にふみにじったのである。
 日本軍は南京市内でただちに、国府軍指導部に見捨てられ地下に潜入した中国人兵士の徹底的な捜索を開始した。
 この措置は、国際的に承認された戦争のルール下で認められるものだったが、松井大将の軍隊はそれを目を覆わんばかりのどう猛性をもって実行したのである。
 兵役の年齢に達したすべての青年を一斉検挙して、大規模な機関銃掃射や、連続的な首切りによる処刑を行ったりした。
 こうした処刑は、ときには恐怖に怯えた傍観者の眼前で行われた。
 さらに悪質な行為が続いた。
 市内を徘徊する日本兵の群れは、民間人を手当たり次第に殺害し始めた。
 老若男女のみならず、妊婦の胎内にいる胎児までもが、棍棒、銃剣、小銃、松明(トーチ)、そして日本刀などで無差別に襲撃されたのである。
 松井大将配下の兵士たちは、銃剣訓練のために生身の中国人や、その死体を使っている。
 彼等は数え切れないほどの中国人を拷問にかけ、手足を切断するなどして、不具にしているのだ。
 著者チャンの記述によると、日本兵は中国人の舌に鉤(かぎ)をかけて宙吊りにしたり、酸に漬けたり、手足を切り離したり、手榴弾で殺害したり、刺し殺したり、焼き殺したり、革を剥いだり、凍死させたり、生き埋めにしたりした。
 また、日本兵は無数の婦女子を強姦することによって、南京虐殺のこの不名誉なエピソードに「ザ・レイプ・オブ・南京」という、この事件が以後永遠に知られるようになった名前を授(さず)け、それがチャンの著書にタイトルとしても使われたのである。

俗説に加えてセンセーショナル

 血なまぐさく、ぞっとするような話を好む読者は、この本に決して失望すまい。
 著者はあからさまな残虐行為の多くを堪(た)え難いほどの詳細さで描写しており、グロテスクな光景を言葉だけでは表現出来ない一連の写真を掲載することで、記述を補足している。
 南京大虐殺は、いかなる尺度で考えても破局的な恐怖の事件だが、著者はその恐怖の度合いを計る自分なりの尺度を読者に提供している。
 例えば、中国人の死体を積み上げたらどれ程の高さに達しただろうかを詮索し、日本軍の狼藉によって流された中国人の血の総重量まで紹介しているのだ。
 しかし、俗説を信じ込む傾向と相まって、センセーショナルな表現に走る傾向が、残虐行為に関する記述を特徴付けてはいるものの、著者が引用する証拠の数々が、日本軍の振る舞いに対する決定的な告発であることに疑いの余地は無い。
 南京大虐殺、戦争と戦争犯罪の悲しむべき記録の中で、極端に悪質な怪異的事件として突出している。
 当時の日本の外相、広田弘毅ですら、1938年の南京視察旅行のあとでこう述べている。
 「日本軍は、フン族の王アッチラ大王とその部下を思わせるように(残虐に)振舞った。少なくとも30万人の中国人市民が殺害されたが、多くは冷酷な死を遂げた」
(末尾注・参照)
 当時、南京市には、皮肉にも「安全地帯」と名付けられた一角があった。
 これは、同市在住の20数名の外国人によって慌しく結成された「国際委員会」のいささかな頼りない保護の下で運営されており、何万人もの難民が避難しいていた。
 しかし、残虐行為はこのゾーンでさえ繰り広げられたのである。
 委員会はこの暴虐の饗宴について日本当局に繰り返し抗議し、委員達が表現をいくぶん和らげて“無秩序の事例”と呼んだ暴虐を正式に文書にまとめる作業を開始した。
 1939年、同委員会は南京虐殺の425件の事例をまとめた、厳粛かつ法的手続きに基づく記録を発表した。
 委員会によるこの証言に、チャンはさらにその他の事件を加えている。
 それらのうちのいくつかは、戦後行われた極東国際軍事裁判の記録、1937年に南京に取り残された数名のアメリカ人宣教師が帰国後エール大学神学校の図書館に保管した書類、さらにチャン自身が発掘した驚くべき文書・・・・つまり、南京の「安全地帯」を管理した国際委員会の委員長、ジョン・H・D・ラーベが残した日記・・・などから引用されている。

チャン本の根拠はあのバーガミニ

 ラーベはあらゆる点で特筆に値する人物だったが、思いがけず英雄の役割を演ずることになった。
 南京が修羅場と化している真っ只中で、日本人将校がラーベに尋ねた。
 「君はなぜここに留まったのか。ここで起こっていることは、お前にとってどのような意味があるのだ。」
 これに対してラーベは、「私の子供たちも孫たちも、全員ここで生まれた。私はここに住んでいて楽しいし、成功もしている」と答え、次のようにくけ加えている。
 「私は中国の人々にいつも大切にしてもらってきた」と。
 ラーベはドイツ人のビジネスマンで、1882年にハンブルグで生まれている。
 中国には1908年から住み、主としてシーメンス社に勤務していた。
 中国語を学び、中国を愛するようになり、中国人の社員を非常に丁寧に扱った。
 また、ラーベはナチ党員でもあった。
 自分の監督下で働いていた数名の外国人と共に、ラーベは数え切れないほどの中国人を日本軍の絶対的な権力から守ったが、時には自分の権威を誇示するためにハーケンクロイツを描いた腕章を日本兵の方に押しやったり、ナチの勲章をちらつかせたりした。
 著者がラーべを“中国のオスカー・シンドラー”と呼ぶのも、理由が無いわけではないのである。
 普通では有り得ないようなこの話は、確かに人間性の持つ善悪両面と、計り知れない神秘について読者に考えさせるものではある。
 しかし、南京大虐殺がなぜ起こったかについて説明するチャンの努力には、事件の裏に潜む、ラーベの場合と同じように複雑な背景を理解しようとする意識は感じられない。
 日本軍の規律がどのような形で乱れ、あのように信じ難いほど堕落することになったか。
 日本軍の行動は、中国人を恐怖に陥れるために高度のレベルで下された意図的な政策決定の結果だったのか。
 日本帝国陸軍が犯した残虐行為は、日本人の民族的性格に見られる何らかの道徳的欠陥に起因するのか。
 それとも、中国人に対する民族的憎悪を掻き立てた、陸軍の計画的な教化のせいか。
 あるいは、正気を失った現地司令官たちの屈折した心情の産物なのか。
 教育不十分で酷使され続けた兵士たちの、上官たちに対する大規模な不服従の結果か。
 または、揚子江のそれまでの長い歴史と環境・・・・、特に上海から揚子江流域上流に向けて展開され、1937年12月13日の南京の悪夢で頂点に達した日本軍の血塗られた作戦・・・・これらが、人間の心に宿る悪魔を偶然解き放ったということなのだろうか。
 チャンはこれらの解釈のいくつかについて考察するものの、いずれも厳密に探究していない。
 南京虐殺は日本政府の最高首脳部が下した正式な政治的決断だと主張したがっているのは明らかだが、この議論の事実唯一の支持者が、彼女が文中で頻繁に引用しているデビッド・バーガミニである。
 バーガミニは、明らかに奇抜な論点に基づいて書かれた自著、『天皇の陰謀』(1971年)で、南京虐殺とその他の残虐行為を正面から天皇ヒロヒトの責任であると決め付けようとした。
 しかしチャンは「不幸にして、バーガミニの著作は定評ある歴史家たちの痛烈な批判を浴びている」点を認めざるを得なかった。
 だが、これは控えめな表現というものだ。
 現に評者の1人は、バーガミニの記述は、「歴史ドキュメンタリー作成のあらゆる基準を無視した場合にのみ信用できる」と述べているのである。
 歴史家のバーバラ・タックマン女史は、バーガミニの主張は、「ほぼ完全に、著者の推論と悪意ある解釈を好む性向の産物である」と述べている。
 だが、それでもチャンは、少なくとも「ヒロヒトは南京虐殺について知っていたに違いない」との結論を下すことを自制できなかった。
 天皇が南京事件を起こしたと言っているわけでは無い。
 だが、それでもこの主張には、長期にわたって信憑性を否定されてきたバーガミニの主張に対するチャンの心酔の度合いの、わずかではあるが決して疑う余地のない残滓(ざんし)が見られるのだ。
 別の箇所でチャンは、「本書は日本人の性格について論評するために書かれたものではない」と宣言しているが、その直後、千年の歳月を経て培われた「日本のアイデンティティ」の探索を始めているのである。
 彼女の判断では、それは軍人たちの巧妙争い、サムライの倫理、そして、武士道というサムライの行動を律する恐ろしい規範からなる、血なまぐさい所業であり、先の否定宣言にもかかわらず、彼女は明らかに「南京への道」は日本文化のまさに核心を貫いているに違いないと推論しているのである。
 結論を言えば、この著作は南京虐殺がなぜ起こったかについての解説よりは、虐殺事件の描写の点ではるかに優れた作品である。
 こうした欠陥の一部は、チャンが依存した情報に起因する。
 いくつかの例外を除けば、チャンは南京の中国人犠牲者と「安全地帯」に残った白人たちの観点からのみ事件を語っているのだ。
 彼女が引用する証拠は、加害者達の精神性に関するいかなる洞察の根拠も、ほとんど提供していない。
 また、日本陸軍の研究に取り組む2人の研究者が「帝国陸軍が中国人に加えた残虐な行為の海に残した最高水位点の1つに過ぎない」と表現した、南京を中心としに繰り広げられた残虐行為に焦点を絞ったことは、日本軍の振る舞いに関して包括的な解明を施そうとする彼女の努力に水をさすことになっている。
 彼女は、クリストファー・ブラウニングの『Ordinary Men(普通の男たち)(1922年)』や、オマー・バートフの『The Eastern Front, 1941-1945(東部戦線、1941-1945年)』(1985年)のような作品に読者が見る、ナチの残虐性の動機に関するニュアンスに富んだ慎重な分析に匹敵する考察はほとんど行っていない。
 また、結果的にドイツ民族全体にホロコーストの犯罪があるとした、ダニエル・ゴールドハーゲン著の平板ながら挑発的な『Hitler's Willing Executionaers(ヒトラーの意欲的な死刑執行人たち)』(1996年)のように広い視点でドイツ人をとらえた議論に匹敵する考察さえも行っていないのだ。
 そのようなわけで、南京虐殺のショッキングな描写にもかかわらず、南京で起こった事件はホロコーストに見られる組織的な殺戮と同一視されるべきであると結論を下す理由を、チャンは読者に与えていないのである。
 ホロコーストがヒトラーの意図的政策忌まわしい所産として発生したエピソードであることには議論の余地がない。
 それは、戦争につきもののありきたりの事件でも、個人による残虐行為の異常形態でもなかったし、規律の不徹底な軍隊が血に飢えて荒れ狂った結果として起こった事件でもなかったのだ。
 ホロコーストでは、近代的官僚国家のあらゆる機構と最先端を行く殺しのテクノロジーが、冷酷な大量殺戮に応用されたのである。

「誤っている」より「誇張」

 チャン本の主要なモチーフは、分析と理解というよりは、むしろ非難と憤激である。
 そして、憤激は南京虐殺に対して道義的には確かに必要だが、知的には不十分な対応なのである。
 チャンの怒りはどのような目的に向けられているのだろうか。
 要するに、日本を「国際社会の世論という審査の場」に引き立てて、戦争犯罪を認めさせることなのだ。
 彼女は南京虐殺に関する西側社会の無知と主張する状態と、数名の日本の政治家が虐殺事件を否定した事実を、手厳しく非難する。
 日本は「今日に至るも変節的国家であり続ける」と彼女は書き、その理由を「(日本は)ドイツがあの悪夢の時代のおぞましい行為の責任を取るために認める事を余儀なくされた、文明社会による道徳的審判をうまく回避しているからである」、と述べている。
 南京虐殺に関する西側の無関心と日本による否認は、「(南京の)2度目のレイプ」であり、死者の尊厳を汚し、歴史の主張を冒涜する行為だと彼女は言う。
 『シンドラーのリスト』に匹敵するものが南京にないのはなぜか、と彼女は問う。
 『「No」と言える日本』の著者の石原慎太郎のような日本の国粋主義者が、なぜ南京虐殺を「中国人がでっち上げた・・・嘘」と言ってのけられるのか、と言うチャンは、次のような結論を下している。
 「日本政府は、少なくとも犠牲者に対して正式な謝罪を表明し、日本軍の狂奔の最中に生活を破壊された人々に補償金を支払い、そして最も重要なこととして、次の世代の日本人に虐殺に関する真実を教えることが必要である」、と。
 彼女の要求は誤っているというよりは、むしろ誇張されているのである。
 同様に、現代日本に対する彼女の諸要求は、正当ではないというよりは、むしろ少なくとも部分的にはすでに満たされているという点で“言い過ぎ”なのである。
 事実、西側社会は当時もその後も、南京虐殺事件を無視していない。
 1937年12月、アメリカの関心は揚子江下流地域に集中していたが、これは単に南京攻撃中の日本軍航空機がアメリカの砲艦「パネー」号を撃沈したことだけが理由ではなかった。
 避難民を満載した450トンで2階建てのこの砲艦は当時、南京のすぐ近くに停泊中であり、艦首と艦尾のデッキ、そしてすべてのマストに取り付けた大型の米国旗から、アメリカ艦籍であることは一目瞭然だった。
 アメリカの大衆は当時は知らなかったことだが、実は「パネー」号は、衰退の一途にあった南京市の守備隊と南京脱出を果たした蒋介石との間の電波通信の中継地点という、あまり潔白とは言えない役割を果たしていたのである。
 撃沈をめぐるアメリカ国内の騒ぎは、国際的に大いに宣伝された日本の外務大臣による一連の謝罪、事件を起こした飛行士達の上官の更迭、攻撃で命を失った犠牲者に対する礼砲発射を伴う日本海軍の謝罪、日本政府による合計220万ドルの賠償金の支払いなどが行われた後、漸(ようや)く下火になった。
 これらの行為はすべて、熟慮の結果なされたものであり、日本側の公式な自責の念と、中国各地の日本軍司令官ならびに個々の兵士たちを統率する能力に関して日本政府関係者が抱いていた深刻な懸念の証だった。
 同じ頃、アメリカの新聞は南京虐殺について、身の毛もよだつような報道を広範に行っている。
 ニューヨーク・タイムズの中国特派員、F・ティルマン・ダーディンは、1937年12月17日、同紙一面に大見出し付きで掲載された記事の中で、「大規模な略奪、婦女暴行、民間人の殺害、住居からの住民の追い立て、そして健康な男性たちの強制的徴用は、南京を恐怖の都市に変貌させた」と報じている。
 その後、南京虐殺は戦時反日プロパガンダの中核となり、特にフランク・キャプラ監督が製作し、全米の軍事教練基地にいる百万人ものアメリカ兵や一般映画館に詰め掛ける何百万人ものアメリカ市民のために上映された『我々はなぜ戦うか』シリーズの1つ、『バトル・オブ・チャイナ(中国における戦闘)』はその顕著な一例である。
 また、日本政府は戦時中の犯罪を認めることを頑強に拒否しているとのチャン氏の主張は、丸ごと正しいとは言えないし、日本は戦争犯罪に対して遺憾の意を表していないという指摘も誤りである。
 こうした非難は近年における西側の対日批判の常套句(じょうとうく)になっているが、それが恐らく最も如実に示されているのが、ドイツと日本における戦争の記憶に関する研究書として1994年に発表された、作家イアン・プルーマの『Wages of Guilt』(1994年、邦訳『戦争の記憶』TBSブリタニカ)だろう。
 同著の総合的な主張は、「(戦争犯罪を)記憶に止める度合いは、ドイツは過度であり、日本は過少である」という点に要約できよう。
 1980年代の前半、日本の文部省は中学校の教科書が南京虐殺や戦時中のその他の不祥事を取り上げることを阻止しようとしたし、1988年には日本の映画配給会社がベルナルド・ベルトリッチ監督の『ラスト・エンペラー』の中の、南京虐殺を描いた30秒間にわたるシーンを削除しようと試みたが、これは現実には不首尾に終わっている。
 また、戦犯を含む戦没者を祀る東京の靖国神社への参拝は、右翼政治家たちにとっては今もって義務であるのは確かだ。
 しかし、日本の左翼は事件について声高に語る事によって、南京虐殺の記憶を長いこと絶やさずにきているのである。
 そして、ジョン・ダワー教授が最近指摘した通り、1995年6月9日、衆議院は第2次世界大戦中に日本が他民族に及ぼした苦痛に対して“深い反省”の意を表明し、2人の総理大臣が他国に対する帝国日本の侵略についてはっきりと謝罪していることもまた、事実なのである。
 ダワー教授はさらに、「戦争責任・・・に関して民衆のレベルで日本人が話すことの内容は・・・国外で一般的に理解されている以上に多岐にわたるもの」であり、「日本以外のマスコミは、保守的な文部省が承認する現在の教科書は、1980年代末までの状態と比較すれば、日本の侵略や残虐行為についてより率直に記述している点を報道することを総じて怠っている」と指摘している。
 残虐行為が戦争を追いかけるように、歴史もまた、戦争を追いかける・・・・チャン本はこの教訓を執拗に立証するものである。
 しかし、日本ほどに無言を美徳とする文化の中にあっても、悪事はいつか必ず露見するのだ。
 だが、南京虐殺事件の背景について万人が納得するような説明はいまだなされていないのであり、チャン本も極めて不完全な説明しか施していないのである。

編集部注 著者が引用しているこの文書は、1938年1月17日付で外務省からワシントンの日本大使館に広田外相の名前で発信された暗号電報を解読したものとして、1994年にアメリカ公文書館によって解禁され、以来中国側は同文書を「広田電」として宣伝している。
 しかし、広田外相は当時国内におり、南京視察は行っていない。
 実はこの文書は、イギリスの「マンチェスター・ガーディアン」紙中国特派員、H・J・ティンパーリーが書いた記事を現地の日本当局が検閲・押収したものであり、「アッチラ大王」や「フン族」などへの言及からしても日本人らしからぬ発想であり、「広田電」では無いとみられている。)


関連項目:[1] [2] [3]
[「南京事件・関連資料」項目ページへ]