特集/歴史裁判――歴史認識を守るたたかい

中国の南京「虐殺」宣伝に風穴を

当事者への取材、名誉回復訴訟に取り組んで

「祖国と青年」『中国の南京「虐殺」宣伝に風穴を』平成15年12月号

近現代史研究家阿羅健一

「祖国と青年」平成15(2003)年12月号より転載


東裁判に中国軍の協力

 ―――阿羅先生をはじめ、さまざまな研究者の努力によって、南京事件の真相はここ数年でずいぶん解明されました。
 ところが、一方ではそうした研究成果を無視したような議論が相変わらず大手を振ってまかり通っています。
 これは、一体どういうことなのでしょうか。

 阿羅 「南京大虐殺」は、単なる1つの宣伝で、政治の手段として中国は使っているんですね。
 例えば、南京事件に関連して、東裁判というのがあって、東史郎という人――彼は今、中国で英雄になっています――が、日本軍が中国人を郵便袋に入れて、手榴弾を3個結びつけて、池の中にほうり込んだと本に書いた訳です。
 しかし、手榴弾というのは、ピンを抜いて7秒後には爆発します。
 普通の人が、50キロの荷物を数秒後に遠くに放り投げるなんて、理論的にはあり得ない。
 それで、地裁ではこちら側が勝ったんです。
 そしたら、高裁では、彼らはその実験をやったのです。
 どこでやったかというと、南京郊外の池です。
 手榴弾などは南京の中国軍が用意した。
 南京市と軍が協力しているわけです。
 これは本当に政治的な関わり方です。
 この東裁判は、はじめは純粋に日本国内の問題で、地裁で判決が出てこちらが勝ったときには、普通の記者会見をやりました。
 それが中国に伝わって、中国はがぜん東側に協力したわけです。
 その前から裁判のことは少し伝わっていましたが、中国はあまり関心を示さなかった。
 それが、東側が負けたというので、熱心になったわけです。
 それで、高裁の判決が出て記者会見をやったら、日本人の記者は10数人なのに3、40人の中国人が押し寄せて、原告と弁護士を糾弾するんです。
 彼らを入れる日本の記者クラブもどうかしていると思いますが。
 その時に、先頭で一番すごい剣幕で原告を責め立てていた女性がいたのですが、それから2年くらい経って、アメリカの元捕虜たちが日本に強制労働の補償を求めて、国連大学などで集会が開かれました。
 その国連大学の集会で指揮をとっていたのが、何と先ほどの中国系の女性だったのです。
 30歳過ぎぐらいで、一番前で原告に対してがなり立てていたので、その顔ははっきりと覚えていました。
 一貫してそうなんです。
 50年経って責められているのだと普通の人は思っていますが、そんなことでは全然無い。
 宣伝戦なんです。
 こういうのを見ていると、それがよく分かりますね。
 南京に虐殺記念館ができたのも昭和60(1985)年ですし、日本はそういう意識に負けているのです。

南京事件は中国国内の引き締めに使われている

 ――昭和60年ということは、やはり昭和57年の教科書誤報事件の影響ですか。

 阿羅 そうです。
 中国が南京事件を政治の手段として使い始めたのはその頃からで、日本にODAを出させるとか、国民を団結させ、共産党独裁政権を強化するための手段ですね。
 南京の記念館には「愛国基地」というプレートが貼ってあるのですが、これは愛国心を養うための研修所とも言うべきところで、そこで中学生や高校生に対して反日教育を施すわけです。
 ですから、中国にとっては、歴史事実よりも内に向けての引き締めという側面の方が重要なのです。
 つまり、南京の問題は基本的には日本の国内問題なのですが、中国のとっての国内問題にもなっているということなのです。
 そして、実際、それは非常に上手くいっている。
 東京裁判で提出された埋葬記録によれば、紅卍字会が4万、崇善堂が11万、合わせて15万埋葬したということになっていますが、私は昭和60年頃、埋葬記録を広範囲に調べて、当時、崇善堂という組織は実際には活動していなかったことをつきとめました。
 そして、そのことは「産経新聞」で紹介されたのですが、台湾、つまり中華民国側からはすぐに反応がありましたが、中共側からは何もありませんでした。
 つまり、中国はまだ南京事件にそれほど関心がなかったということなのです。
 少なくとも私に対しては何も言わなかった。
 そういうことには、むしろ台湾の方が敏感でした。
 最近で言えば、西安の日本人留学生の事件があったでしょう。
 それから、その前には毒ガス兵器の問題や広東省での日本人の買春の問題があった。
 南京の問題も含めて、これらは一連のものと捉えるべきです。
 すべて日本を責めたてるための手段に過ぎない。
 いつまでも南京ばかり言っているわけにはいかないから、次は毒ガスだ、ということなんです。
 しかし、毒ガスについて言えば、ポツダム宣言に「全日本国軍隊の無条件降伏」とあるように、日本軍は敗戦後、武器を中国軍に全部渡しているんです。
 それを蒋介石は、共産党の戦いで使っている。
 ですから、ガス兵器にしても一旦は中国軍の手に渡っているわけです。
 ところが、蒋介石軍はまず満州で負けて、北京に退いて、また南京まで退いてと、どんどん負けていった。
 あのガス兵器は、満州で負けた際に蒋介石がそのまま置いていったものだと思います。
 日本軍が遺棄したなどということはあり得ません。
 南京、南京と言い続けて、通用しなくなると思うと今度は毒ガスを持ち出してくる――それに簡単に乗せられてします日本は、中国から見れば本当にアマちゃんですね。

同時期の記録がほとんどない南京の虐殺記念館

 ――南京の虐殺記念館は、実際、どのような様子なのでしょうか。

 阿羅 私は南京記念館が出来て数年後、初めて見に行きましたが、その時に一番驚いたのは、私たちから見ればニセ写真であることが明らかな写真ばかりが並んでいるということです。
 ところが、その写真を18、9歳の中国人の女の子が、見つめたままじっと動かないのです。
 それはもう、後姿から「日本が憎い」という感じがにじみ出ている。
 私が見れば、日本で何度も見ている中国人が斬られているようなニセ写真なのですが、何も分からないで正しいと思って見ているわけですね。
 それで、あちこち展示を見てまわって戻ってくると、その少女はまだ見ている。
 ああいうふうにして教育されているのかと実感しましたね。
 2回目に行ったときには、今度は南京記念館の前で大学生、高校生、中学生、小学生の南京市のエリートが100人くらい、襟にスカーフを巻いて、1番上の者が旗を振って、愛国の教育を受けていました。
 そういうふうに中国は使っているのですね。
 記念館自体は、基本的な事実を知っている人から見れば、本当にチャチなものばかりです。
 既に誤りが指摘されているような怪しげな写真ばかり展示している。
 私たちが新たに見る写真などは1枚もありません。
 それと、みんなびっくりするのが人骨ですが、そもそも記念館が建てられた場所は元監獄だったんです。
 しかも、南京戦では12月13日の早朝、鹿児島の45連隊が激しい戦闘を繰り広げたところですから、骨はいくらでもあると思います。
 また、映写室があって、そこで10分間ほどの映像フィルムを流しているのですが、南京の場面がほとんど出てこないんです。
 城壁を乗り越える場面でも、北支那の小さな5メートルぐらいの城壁を日本兵が乗り越えているようなものが流れている。
 寺内大将と畑大将が徐州で祝勝会をやっている場面だとか、知っている人から見れば、南京に関係のあるものは何も無い。
 それから、途中で増えた展示として、東日記があります。
 東裁判の東史郎の日記ですね。
 彼が中国で講演している写真などがあって、英雄扱いです。
 日本語の日記、中国語訳の日記がずらっと並べてある。
 しかし、東日記は「戦後になって書かれた内容がある」と判決で指摘されたような代物で、そんなものを見たってしょうがない。
 その後、ラーベ日記が出たら、今度はラーベの記録を展示するようになりましたが、同時代の記録はほとんど無い。
 それらしきものとしては、昭和13(1938)年頃の崇善堂の埋葬記録がありますが、これだって実際は戦後になって作られたまがいものです。
 ただ、この間行ってみたら、さすがにこれはまずいと思ったのか、映写室で放映するフィルムは少しまともになっていましたね。
 マギーのフィルムが出てくるようになった。
 しかし、それにしたって、南京戦後、病室のいろいろな人を映しているだけの話で、証拠というわけでもない。
 せいぜいそれぐらいですね。
 そもそも、完全に南京虐殺の証拠を撮れるものなどいないわけですから。
 ところが、展示を見て、同世代の証拠など1つもないということを日本人がわからないんですね。
 それで、びっくりしたのが、そういうところに日本人が作った千羽鶴がわっとあるわけです。
 日教組の某支部のものとか、高校生が謝罪文を書いていたりする。
 もう、中国の宣伝に完全に負けているんです。
 もちろん、一部の反日の日本人が、中国へ行って日本の新聞にフィードバックさせているということもありますが。

南京市にある『南京大屠殺記念館』内の展示
南京の虐殺記念館の「百人斬り」の展示

4度内容が変わった「百人斬り」

 ――今、向井敏明・野田毅両少尉の「百人斬り」の名誉回復訴訟が行われ、阿羅先生も百人斬り訴訟を支援する会の代表を務められていますが、「百人斬り」についての展示も当然あるのでしょうね。

 阿羅 「百人斬り」は最初の頃からありましたね。
 やはり、あれが彼らとしては一番分かりやすいテーマなのでしょう。
 当時の毎日新聞に載った、南京の手前の常州で撮った2人の写真を等身大に引き伸ばしたパネルを展示しています。
 この「百人斬り」は虚報に虚報が重なっていて、毎日新聞は、2人の将校が戦闘でどちらが先に百人の敵を斬るかを競争した――それ自体が嘘だったのですが――と書いたのを、戦後、中国は「市民を虐殺した」と作り替えたのです。
 敵を百人斬るというのは戦闘行為ですから、これは罪にはなりません。
 ところが、2人は市民を百人虐殺する競争をしたとされて、処刑されたのです。
 しかし、「百人斬り」など嘘だということは、少し考えれば分かることです。
 まず第1に、刀は2、3人斬れば刃こぼれして使い物になりません。
 第2に、2人の任務を見れば、2人とも前線にはいない人なんです。
 1人は大隊砲の小隊長ですから、2千メートル先を撃つ大砲の後ろから命令を下す人で、まわりに中国兵などいません。
 もう1人は、大隊長の命令を伝える役目ですから、ここにも中国兵がいるはずがありません。
 本多勝一さんは、昭和46(1971)年に書いた『中国の旅』で、中国側の作り替えをさらに作り替えて、「実は大隊長が命令して、2人のどちらかが早く百人の中国人を斬るか競争させたのだ」と書いたのですが、刀で百人は斬れないということが分かったものですから、その後は「この2人は捕虜の(注)すえもの斬りをした」と言い換えています。
 ですから、同じ百人斬りでも、内容は4回くらい変わっているんです。
 この間虐殺記念館に行ったときは、ラーベの展示がまた無くなっていて、展示物はその時々で変わったりするのですが、「百人斬り」は常に目玉展示です。
 その目玉展示にしてからがそんな作り話なのですから、本当に単なる宣伝なんですね。

※(注)すえもの斬り・・・土壇などに罪人の屍などを置いて刀剣の切れ味をためすこと。

南京大屠殺記念館に掲げられている「犠牲者30万」の文字 南京大屠殺記念館内に展示されている人骨
「犠牲者30万」の文字 怪しげな人骨

資料的裏付けが進む南京研究

 ――南京事件の究明はここ数年で目覚しい進捗(しんちょく)を遂げていると思いますが、今、研究はどの程度進んでいるのですか。

 阿羅 南京事件というのは、東京裁判で10万、20万という数字が出てきて、それが検証されずにずっときたわけです。
 未だ占領下で、そういうのをまともに相手にしてもしょうが無いという気持ちがあったと思いますし、そもそも10万とか20万という数字を信用している人もいなかったと思います。
 しかし、当時を知っている人がだんだん亡くなっていき、新しい世代が出てくると、東京裁判で10万、20万という判決があったことだけが残って、それを信じ始める人が出てきたわけです。
 それに対して、実証的にハッキリそうでないという反論をしなかったことは、我々も含めて1つの責任だと思っています。
 しかし、最近、鈴木明さんが『新「南京大虐殺」のまぼろし』で、ティンパーリーがどういう素性だったかをはっきりさせ、立命館大学教授の北村稔さんが『「南京事件」の探究』で、当時南京にいた欧米の宣教師なども蒋介石の関係者だったと資料ではっきりさせました。
 南京にいた欧米人は第三者だから、彼らの言うことは正しいのではないかと思われがちですが、彼らは中国人の立場に立っていたということが、台湾やアメリカの資料でどんどん明らかになってきた。
 そういう意味ではここ2、3年ですごく研究が進んで、みんなが変だと思っていたことが、実際の資料でどんどん解明されていると思います。
 ただ解明されたからといって、マスコミがそういう情報を流すかというと、そうでは無いんですね。
 例えば、教科書誤報事件で、後で「侵略」を「進出」に書き換えさせた事実は無かったという事が明らかになって、では、それをみんな認めたかというと、認めないわけです。
 新聞は産経新聞以外は訂正記事を出しませんでした。
 当時の宮沢官房長官は、書き換えが無かったと知っていながら、「近隣諸国に配慮する記述にします」と言って、検定基準を変えさせたわけです。
 南京事件についても同じことで、みんな知っているけれども、それを言わない。
 マスメディアの主要な人たちは反日で、中国の意向に反するものは、いくら事実であっても認めないのです。

数百人にも取材、誰も「虐殺」を見た人はいない

 ――阿羅先生は、当時南京にいた方々の証言を丹念に取材してこられました。

 阿羅 あれも昭和57(1982)年の教科書誤報事件がきっかけなのです。
 当時、南京大虐殺の本がいくつか出ていましたが、本多さんの本にしても中国人の話ばかりで、当時そこにいた日本兵の話はほとんどなかった。
 それで、私は実際に南京にいた人に聞きたいと思って、兵隊から何から何百人も聞きました。
 そういう人が、当時はいくらでもいたのです。
 宇都宮、京都、三重、長野、大分、宮崎――南京戦に出た部隊はたくさんあって、当事者を探すのが大変ということは全くありませんでした。
 私の計算では、当時南京にいた人は1万人ぐらいいました。
 兵隊は自分の行ったところしか分からないから新聞記者とか外交官といった人たちにも聞きました。
 毎週聞きに行ってましたね。
 でも、何人も聞くばかりではしょうがないから、その中から80人くらいをまとめました。
 1人に3、4回インタビューして、それをまとめたものをまた見てもらって。
 いないのですよ。
 虐殺を見たという人は。
 「見た」という人を除外したわけでは無いのですよ。
 また内容を変えたりしたわけでも無い。
 「ニュアンスが変わっていませんか」と、私が書いた原稿を見てもらって、言われた通りに直したんです。
 それでもいない。
 その中からまとめたのが『「南京事件」日本人48人の証言』ですが、私が南京事件をライフワークとしているのは、そこが1番の根拠になっていますね。
 ですから、『南京戦・元兵士102人の証言』なんて、もう嘘だということが分かるわけです。
 千ヵ所くらいの間違いがある。
 城内に入っていないのに入ったと言ったり、まだ兵隊になっていなかったり、通用しない武器を持っていたり――本人が高齢でボケていることもあるし、聞く側が自分に都合よい方にばかりリードして書いているということもある。
 例えば、昭和46(1971)年に、南京の下関(シャーカン)で中国人の耳をそいだり、鼻をそいだり、民家に火をつけて焼いたりという証言を本で書いている人がいて、昭和59年ごろだったと思いますが、その人がまだ生きていたので、私は話を聞きに行ったのです。
 すると、彼は水戸の兵隊だと言うわけです。
 水戸の部隊は南京に入って4、5日で杭州の方へ反転していますから、下関に入っているわけがない。
 ところが、証言は、南京に1ヶ月半ぐらいいて下関まで行った、と書いている。
 それでよくよく聞いたら、「あれは全部ウソだ。何か中国で日本兵が悪いことをやった話はないかと聞きに来て、そういう話を欲しがっていたから作りごとをしゃべった」と言うわけです。
 その人は、実際南京戦には行ったけれど、下関どころか城内にも入っていませんでした。
 しかし、これが単行本になり、アイリス・チャンも引用してる。
 そういうことがたくさんあるわけです。

名誉回復訴訟への道すじ

 ――そして、阿羅先生は、南京事件に関する訴訟にも当初から携わってこられました。

 阿羅 教科書誤報事件によって教科書検定に近隣諸国条項ができてから、教科書に「南京大虐殺30万」と書いても、検定官が何も言えなくなってしまったんですね。
 普通ならば、この数字は何を根拠にしているのか、といったやりとりがあるのですが、その根拠を示さなくてよくなった。
 それで、これはもういくら言っても状況は変わらない、裁判で何とかしなければだめだと、半本茂さんが事務局長になって裁判所に訴えたのです。
 私も半本さんのお手伝いをしました。
 南京戦に行った人たちが、自分たちの名誉が傷つけられたという理由で裁判所に訴えたわけですが、そのときには正しいかどうか以前に、「そういうことを訴える権利はない」と退けられました。
 それで、今度は子供がおかしな教育を受けるからと、親が50人くらいで訴えたのですが、それも認められませんでした。
 半本さんが裁判に取り組み始めたのは昭和59(1984)年ごろからですが、その時には協力してくれる弁護士もそれほど多くありませんでした。
 その後、平成3(1991)年になって高池勝彦弁護士が協力してくれ、今では大阪の徳永信一弁護士や稲田朋美弁護士も出てきた。
 高池さんが協力してくれて以降ですよ。
 東裁判をやって、李秀英裁判――今、最高裁で争っていますが――があって、今度は百人斬りで訴えた。
 しかし、こういう訴訟に関する運動の流れを作ったのは半本さんなんです。
 いくら政府に正面から攻めても、教科書は好きなように書かれて埒(らち)があかない。
 それを、裁判という方法で攻めるしかないと考えたのは半本さんです。

向井・野田両少尉の名誉回復を

 阿羅 今回の「百人斬り」裁判についても、みんな「百人斬り」はおかしいと思っていながら、ではどうしたらよいのかという方法がなかったわけです。
 「上官の命令で2人は殺人ゲームをやった」と書いた本多さんに遺族が抗議しても返事はこないし、会いに行こうにもどこにいるのか分からない。
 あの人は抗議が怖いらしく、常にサングラスをかけた1枚の写真しかない。
 どうしたらよいかというよりも、もう諦めていたんですね。
 でも、野田さんの妹・マサさんと向井少尉の娘・田所千恵子さんの2人は、常に何とかしたいという気持ちを持ち続けていました。
 遺書も資料も全部持っている。
 南京にいた日本兵で戦犯から釈放されたような人たちが、全部持ってきてくれたんですね。
 そこへ、稲田さんがアドバイスをして、これは名誉毀損で訴えられるのではないかという法律的な組み立てをしたわけです。
 これは法律の専門家でなければできないことです。
 それで、すぐに訴訟を起こした。
 人を殺していないのに殺されたとされるのは、本当は2人の将校が名誉毀損で訴えるべきですが、2人は既にいないのでその妹さん、娘さんの訴えという形です。
 毎日新聞、朝日新聞、そして「すえもの斬り」と書いた本多勝一氏と出版元の柏書房も訴えました。
 『中国の旅』の発行差し止めや訂正記事を出させるなど、具体的に勝ち取れると思います。
 「支援する会」には、今、7百人は会員として賛同してくれています。
 そんなに強引に集めたわけではないですよ。
 もちろん呼びかけはしていますが。
 東裁判の時は3百人ほどでしたが、その倍以上の人々が支えてくれています。
 公判は今年7月に始まったばかりですから、最終的には千人以上いくのではないかと思っています。
 9月には、鹿児島で「野田少尉の名誉を回復する集い」が開かれました。
 鹿児島市内と野田少尉の生まれた田代町の2ヵ所で行われたのですが、両方とも百数十人が集まりました。
 特に、田代町は3千人ぐらいの町なのですが、そこで百数十人が集まった。
 この支援の輪は、今後どんどん全国的に広がっていくのではないかと思います。
 一方サヨクはサヨクでどんどん訴えて、もう百以上は戦後補償の訴訟を起こしています。
 これらは、ほとんど「賠償問題は条約で決着済み」という形で国側が勝つのですが、判決文を見るととんでもない内容のものが多い。
 ひどいものになると、向こうの言い分を全て認めている。
 本当は、弁護士が歴史認識についても1つ1つ相手の言う誤りには反論しなければならないのですが、政府は歴史認識を守るということに関心がないのです。
 条約を根拠にすれば勝つので問題ないと思って、それ以外のことは何も反論しません。
 歴史裁判は歴史認識を守る戦いでもあります。
 向井・野田両少尉の名誉を守るため、「百人斬り」裁判に多くの方々のご支援をいただければと思います。
 (平成15年11月6日インタビュー)

 ●「百人斬り訴訟を支援する会」(会長・阿羅健一)
  【連絡先】 〒103-0027 東京都中央区日本橋3-5-12吉野ビル4階 TEL 03-3271-0262
  【支援先】 郵便振替口座 00150-5-462592

 「祖国と青年」平成15(2003)年12月号より


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