“悪書”を斬る

日本恫喝の切り札に使われる
『証言・南京事件』を衝く

伊東 玲(評論家)

ゼンボウ 1985(昭和60)年2月号から


 青木書店から出版された「証言・南京大虐殺」は、まさに“悪書”といってよい本である。
 原文は中国で刊行されたものだが、一連の“南京虐殺キャンペーン”を手助けする、その中身を検証してみた。
 以下、教科書も含め“悪書”を斬ってみた。

南京略図

(1)中国があげる厖大(ぼうだい)な「虐殺数」

 この本は、中国人民政治協商会議南京市委員会文史料研究会編「史料選輯(侵華日軍南京大屠殺史料専輯)代第四輯」(1983年8月刊、内部刊行物)の翻訳である。
 また資料として、南京大学歴史系編著「日本帝国主義の南京における大虐殺」(1979年刊、内部刊行物)も抄訳されている。
 訳者は、加々美光行氏と姫田光義氏であり、両者による詳しい解説も付されている。
 本書における<南京大虐殺>の定義は次のとおりである。
 すなわち、「1937年12月13日、日本侵略軍は南京を侵略占領し、南京の人民に対して6週間に及ぶ人事を絶する悲惨な大虐殺を行った。無辜(むこ)のわが同胞で、集団殺戮に会い、死体を焼かれて痕跡(こんせき)をとどめなかった者は19万人以上に達し、また個別分散的に虐殺され、死体が慈善団体の手で埋葬された者は15万以上、死者総数は計30余万人に達した」(14ページ)と。
 では「大虐殺」の内容を詳しくみてみよう。

(1)下関煤炭港における大虐殺 ・・・ 1937年12月16日。難民区にいた数万人の青年が虐殺。告発者=徐静森と徐珸(親子)

(2)魚雷営の大虐殺 ・・・ 1937年12月15日。一般人と軍人9千余人が虐殺。告発者=殷有余

(3)漢中門外の大虐殺 ・・・ 1937年12月15日。難民収容所にいた警察官・軍人・一般人2千余人が虐殺。告発者=伍長徳 

(4)下関・上元門の大虐殺 ・・・ 1937年12月17日。軍民と労働者3千余人が虐殺。告発者=陸徳

(5)下関中山碼頭の大虐殺 ・・・ 1937年12月16日。難民5千余人が虐殺。告発者=梁延芳・白増栄

(6)下関・草鞋峡の大虐殺 ・・・ 1937年12月18日。城外に逃げた大量の難民と軍人のうち5万7千人余りが虐殺。告発者=魯蘇

(7)漢西門の大虐殺 ・・・ 1937年12月14日。軍人・難民・警官千7百人が虐殺。告発者=仲科

(8)上新河一帯の大虐殺 ・・・ 1937年12月の某日。南京から逃げてきた軍人と一般人2万8730人が虐殺。告発者=盛世征と冒開運

(9)四条港の大虐殺 ・・・ 1937年12月16日。青年200人が虐殺。告発者=謝宝全、呂劉氏、張義魁の家族も証言

(10)三叉河河岸の大虐殺 ・・・ 1937年12月17日。逃げてきた難民と兵士のうち5百人が虐殺。告発者=墨正清

(11)燕子磯江辺の大虐殺 ・・・ 日時不明。逃げてきた難民と軍人のうち5万余が虐殺。告発者=棟万禄

 以上、11件の「大虐殺」の他に、日本軍は「南京で個別分散的に15万人余を虐殺した」(34ページ)という。
 すなわち、
 「雨花台と中華門一帯で日本侵略軍によって殺害された者の数は万を数えた。1947年に戦犯谷寿夫の裁判があった際、毎日つねに数百人が出廷して日本軍の暴行を訴えた。
 法廷に確かな罪状証拠が提供されたものには王福和、柯大才、卓呂同、瀋有男、劉広松、曹文治、余必福、陳肖氏など378件もあった」(37ページ。戦犯谷寿夫の事案附帯文書)
 「戦犯谷寿夫の裁判の時だけで、個別分散的な虐殺の被害者数千人が軍事法廷に出廷して訴えの陳述をした。証拠の確かな告訴事件は、2784件に達した」(42ページ。戦犯谷寿夫の事案)
 「1947年、戦犯谷寿夫の裁判の際、中国軍事法廷の調べで証拠のあがった個別分散的虐殺の数は全部で858件あり、虐殺された者は15万以上に達し、死体埋葬工作は数ヶ月の長きに及んでおこなわれ、証人となったものは1200人に及んだ」(46ページ。同上)

(2)歴史的資料として無価値に等しい"谷寿夫裁判"の判決書

 訳者の加々美氏は「中国側が当時の中国人の関係者から聞き書きして、本書のような資料集を刊行したことは大きな意義をもっている」(まえがき)という。
 しかし「19万」とか「15万」とかいう虐殺者の数は1947年の谷寿夫裁判での資料をそのまま使っているようである。
 すなわち、
 「(南京)陥落後、各攻撃部隊は南京市内の各区に分散し、大規模な虐殺を展開、俘虜になったわが軍人、民衆で中華門、花神廟、石観音、小心橋、掃帚巷、正覚寺、方家山、宝塔橋、下関、草鞋峡等の各所で、集団殺戮にあったり焼き殺されて痕跡をとどめなかった者は19万人以上に達した。
 中華門下の碼頭、東岳廟、堆草巷、斬竜橋などの各所で、個別分散的に惨殺され、遺体が慈善団体によって埋葬された者は15万人以上に達し、被害者総数は30余万人におよんだ」(134ページ。判決文)
 しかしながら、BC級裁判においては、一般的傾向として、報復のテロと血を欲するあまりデタラメな裁判がなされる場合が多々あり、人違いによって処刑されたという事例も少なくない。
 そうした裁判における「証言」「証拠」の全てがそのまま歴史的資料として充分に正義であるとは決して言えないのである。
 本書を読む限り、「動かぬ証拠は山のごとく、いいのがれは許さない」(60ページ)とは言うものの、1名ないし2名の「被害者」なるものが証言したという数字(の単純な足し算)以外に、これといった「動かぬ証拠」を見出すことができない。
 どうして、命からがら逃げたという「被害者」が正確な被虐殺者の数を把握できたのであろうか。
 こうした数字が極度に誇張されていることは、皮肉にも、本書に掲載されている中国側の資料(「日本帝国主義の南京における大虐殺」)によっても知ることができる。
 すなわち、言う。

 「われわれの研究によれば、難民区の人口は最も多い時で29万に達した。
 虐殺の末期、日寇が難民に難民区を離れるように脅迫した時、〔日本側は〕25万人だと称していた。
 2ヶ月足らずの間に4万人が減ったのである。
 減少の原因はもちろん数多くあるが、主要な原因は、日寇難民を大量に虐殺したことによるものであることは確かである」(178ページ)と。

 「個別分散的」に虐殺された「15万人」は、南京占領後に南京市内で殺されたとされている。
 「手段的」に虐殺された「19万人」も、占領後に難民区から引きずり出されたか逃亡した先で殺されたとされている。
 29万マイナス25万が、どうして30万余りになるというのであろうか。
 南京は日本軍によって12月13日までに包囲されており、丸一日間、降伏勧告がなされた後に総攻撃を受けた。
 その際の戦闘による死傷者は、軍民あわせて6千から1万とされている。(「ニューヨーク・タイムズ」1938年1月9日号)
 また、南京市内で難民救済にあたっていたスミス教授の調査報告書によると、南京陥落当時の人口は「20万から25万」とされている。
 もちろん、占領までには猛烈な戦闘が続けられ、日本軍・中国軍の双方に多大の戦死者が出たことは明らかである。
 洞富雄氏も言うとおり、「雨花台では2万人が日本軍によって殺されたというが、これはむしろ戦死とみるべき」であり、揚子江河岸における数万人の死者も「日本軍の側からすれば、正当な戦闘行為」によるものなのである(「決定版・南京大虐殺」)。
 また「ライフ」1938年1月10日号が書いているように、中国軍は占領後も南京城内で一般人の服装(便衣)に着替えてゲリラ戦を続けている。
 そうした混乱の中で、一般市民も被害を受けたことは事実であろう。
 しかし、中国兵の中には、「軍服を脱ぎ常民服に着替える大急ぎの処置の中には(中略)着物を脱ぎ剥ぎとるための殺人をも行いうるべし」(米国総領事)といった事態があったことも忘れるべきではない。
 いずれにしても、「29万」(スミスによると「20万から25万」)マイナス「25万」は、絶対に「30万」になることなどあり得ない。
 告発を行ったとされる中国人は、極度の誇張ないしは虚偽の証言をしている。
 谷寿夫裁判の判決書なるものはそれらを何ら吟味することなく、単に足し算しただけのものにすぎない。
 歴史的資料としては、何らの信憑性も無いと言わねばならぬ。
 大量の虐殺をデッチあげるためには、占領当時の人口を水増しするか、虐殺後の人口を過少に修正しなければならない。
 しかし後者の作業は無理である。
 スミス教授が占領直後に人口の実地調査を行っているからである。
 それによると、1938年1月の人口は25万、3月の下旬は25万ないし27万、5月末では40万に増え、11月には50万にもなっている。(「南京地区における戦争被害」)。
 そこで、前者の作業を訳者の姫田光義氏が行っている。
 すなわち、姫田氏は何の根拠を示すことなく、占領当時の人口を「45万人」(197ページ)などと主張しているのである。
 そうすると、45万マイナス25万で、20万人の「大虐殺」をひねり出すことは出来るかもしれない。
 しかし何と空しい作業であろうか。

(3)工作員によって加工された情報を編集した「日寇暴行実録」

 一体、訳者も含めて中国側は何故、こうした稚拙(ちせつ)なやり方で「30万人大虐殺」を執拗に押し付けてくるのであろうか。
 その回答は、同じく訳者の加々美氏が明らかにしている。
 「香港のわたしの知人の1人がこの間の経緯について若干知っていて、私に語ってくれたところでは、内部告発の形であれ、本書を中国側が刊行した理由は、将来日本が、再び「軍国主義」傾向を強めるようになれば直ちに刊行して対日批判の用に供しようとの心積りがあってのことだという」(まえがき)
 「軍国主義」とは何か。
 現在の中共は対ソ連戦略上の都合から日本の自衛力の強化を力説し、日米安保条約さえ是認している。
 したがって、中共にとって日本の「軍国主義」化とは「反中国」化と同義である。
 彼らはきわめてご都合主義的なプロパガンダを行っているに過ぎない。
 すなわち、中共は日本が「反中国」的になったと判断した時には、「直ちに」、南京大虐殺というカードを出して日本を批難する。
 日本人は30万人もの「南京大虐殺」を行ったのであるから、未来永劫、中共に反する政策を行ってはならない、というわけである。
 相も変わらず、中共の「対日宣伝戦」は実に見事であり、黒を白と言いくるめる技術は驚嘆(きょうたん)に値する。
 しかしながら、そもそも、何十万という規模の「南京大虐殺」なるものは、陥落後南京から武漢に逃れた国民党政治部の宣伝工作によってデッチあげられたものである。

郭沫若
郭沫若

最も初期に「南京大虐殺」を告発した文書=「敵寇暴行実録」(1937年7月刊)出版について、郭沫若は「抗日回想録」(中央公論者)の中で、その内部事情を次のようにバクロしている。
 (国民党政治部は陳誠を部長に、周恩来と黄h翔を副部長に任じ、その下に4つの庁があった。
 総務省の他に1、2、3の各庁があり、1庁は軍中の党務を掌(つかさど)り、2庁は民衆組織を掌り、3庁が宣伝を掌る。
 郭沫若はこの3庁の庁長であった。)

 「(2庁長)康沢が命令を受けてニセ警報でわれわれ(3庁)の拡大宣伝の大行進を解散させてから、この英雄は3庁の仕事に対し、競争者として事あるごとに口を出し始めた、
 たとえば、「敵寇暴行実録」の出版のごとき、これは疑いもなく3庁第7処の対敵宣伝処でやるべき仕事なのに、2庁が横取りしようとした。
 康沢の別働隊が被占領区(南京)で多数の資料を集めたからというのが理由だ。(中略)
 対敵宣伝物の編集を奪いとるということはおかしいことだが、しかし、それよりももっといろいろな名目をつけた奪いとりが行われ、(1938年)5月中の活動のほとんど全部が2庁にもっていかれてしまった」(61〜62ページ)

 中共系の郭は国民党系の康沢のやり方がよほど腹にすえかねたと見える。
 郭は康沢らのデマ宣伝について次のように嘲笑している。

 「宣伝週がはじまって3日目に、台児荘の大勝利にぶつかった当時の軍事ニュースは次のように伝えていた。
 台児荘当面の敵は、6日夜の我軍の総攻撃によって、狭撃された。
 (中略)我軍は(中略)敵を一挙に殲滅、かくて空前の大勝を得た。この戦闘における敵の死傷2万、捕虜無数。
 今日からみると、このニュースは噴飯ものだ。
 事実のところ、敵は台児荘一帯から戦略撤退をし、全面的進攻に備えたのだ。
 それをわが方の「軍師」たちが誇大にしたので、それこそまさに「拡大宣伝」だ。
 これはもともと「軍師」たちの慣用句だが、それにしても当時は一般人を勝利の陶酔に巻き込んでしまった」(50ページ)

 郭はその他にも、国民党のデタラメさ加減を徹底的にバクロしている。
 2、3の事例を見ることにしよう。

 「当時、黄河の堤防は、開封西北の五荘、京水鎮、許家堤などが一時に決潰した。
 わが方の対外宣伝は敵の盲爆によるものといっていたが、実はわが方の前線将領が上部の命令をうけて堀りくずしたのだった。
 これはわが国の伝統的な兵法―――「水滝六軍」である。
 だが、(中略)わが軍の民間の生命財産の方がむしろ想像以上の犠牲をこうむった。」(68ページ)

 「乞食かとまごうその一群の人々は、実は乞食ではなく、乞食にもおよばぬ壮丁たちだった。
 それは悲惨な光景だった。
 彼らはみんなシャツ1枚きりだったが、いうまでもなく暑いころ着せられたもので、(中略)大部分はズボンがない。(中略)これが「壮丁」なのだ。
 こちらが「于戈を執って社稷を衛る」われわれの同胞兄弟なのだ。
 (中略)
 宣伝局へ帰ってから私は何とか(このことで責任者に)干渉を加えるように求めた。
 しかし彼らは経費のないせいにしているという。
 経費は四川の連中に着服されてしまったのだ。
 (中略)
 抗戦8年の間に、いわゆる壮丁から弱丁へ、病丁から死丁へというふうにして踏みにじられた同胞の数は、戦死したり日本の侵略者に虐殺されたりしたものの少なくとも百倍以上はあっただろう。
 私はそういいきることができる」(163〜165ページ)

鹿地亘
鹿地亘

 ちなみに、1938年から鹿児亘という日本人が第三庁第七処(対敵宣伝処)の顧問となって活動を開始した。
 また、青山和夫氏も同じように反日活動に加わった。
 郭いわく。

 「対敵宣伝をうまくやるためには、日本帰りの留学生に頼っていたのではだめで、どうしても日本の友人の助けを借りねばなりません。
 たとえば、私自身、日本に20年もいて日本人とほとんど同じ生活をしましたが、それでも日本語はものになりませんでした。」(45ページ)

 鹿地と青山の両氏は、1938年7月に出版された「日寇暴行実録」(※HP作者注・ティンパーリー著『外国人の見た日本軍の暴行』の中国語版)に序文を書いている。
 幸いなことに、私は青山氏の知人を知っていて、その知人を通じて青山氏に当時の事情を伺うことができた。
 青山氏は私(伊東)あての手紙で、次のように述べている。

 「写真をあつめたり南京に残っていた外人と連絡したのは康沢系の人物です。
 この時のちの漢口政治部第三庁に集まった左翼のほとんどは南京陥落の時はまだ上海に残っていたのですが、この中に誰一人も日軍の暴行について知っていたのはおりません。」(昭和59年9月26日付)

 以上を総合すると次のように言えるのではないか。

 「19万人の集団殺戮」を「告発」したという中国人はそれぞれ「1名」ないし「2名」は、ひょっとすると康沢系の工作員かもしれない。
 そうでなくても、工作員によって犠牲者の数などが著しく誇張されていることは動かしがたい事実なのである。
 中国側の「(ニセ)勝利」についてあれだけのダボラを吹いた康沢らが、「日寇」の残虐性に限って「正しく宣伝」(?)すると考えることなど不可能であろう。
 そして、政治部が出した「日寇暴行実録」やティンパーリーの「外国人の見た日本軍の暴行」は、工作員によって加工された「情報」を何ら吟味することなく、ただ収集しただけのものである。
 その後たくさん出版された「南京大虐殺」に関する文書(エドガー・スノーの「アジアの戦争」など)は、先の2書等をネタ本にして脚色しただけのものにすぎない。
 当時外交官として南京にいた福田篤泰氏は、国際委員会の事務所に次から次へと駆け込んで来て外人にウソ八百を訴える不審な中国人を目撃し、これを何ら検証することなくどんどんタイプする神父ら(※HP作者注マギー牧師)に抗議している(「日本の戦争」(3)毎日新聞社)。
 この中国人たちはおそらく康沢系の工作員であったに違いない。
 このように見てくるならば、1名ないし2名の「告発者」なるものが、何故「2万8千7百30人」とか「5万7千人」とかの細かい「証言」をすることができたのか、よく理解できるのである。
 また、南京には「(日本軍の)残虐な行為を描いた壁画」があったとのことで、本書に写真を提供した村瀬守保氏は「このような事実は各地で見うけられた」(199ページ)と述べている。
 当然であろう。
 専門の対敵宣伝隊がいて活動していたのであるから。

(4)中共軍最高首脳・朱徳はなぜ「虐殺」について書かなかったか

 次に中国軍の「勝利」と日本軍の「残虐性」を極度に誇張して大々的に宣伝する中国側は、戦後の南京軍事裁判に至るまで(10年間も!!)なぜ「南京大虐殺」非難の大キャンペーンをやらなかったのであろうか。
 この問題はさすがに本書の筆者たちも疑問に思ったようで、次のように頭をひねっている。

 「蒋介石集団(国民党と国民政府)は日寇の罪行を調査した時、50万という見積もり数字を提出したが、実際上は(この数字)を重視せず、かえって戦犯に対して優遇措置をとり、罪をのがれさせてやった。(中略)
 1945年2月14日、南京大虐殺の8周年にあたり、南京城内で一方では「わずかに数軒だけが死者に供物を捧げ、故人を追慕し、また戦禍に生きのびた自分の僥幸を想い、涙を流して当時の悲惨な出来事を語る」(1945年12月15日付、上海「大公報」という状態だった)(130ページ)

 本当に中国側が言うような「南京大虐殺」は存在したのであろうか。
 「50万」も虐殺されて、戦後はじめての12月14日に「供物」を捧げた家が「わずかに数軒」論者たちはこぶしを振りあげて言うに違いない。
 「日本軍は南京の住人(20〜25万人)をほとんど皆殺しにしたのだ。
 だからこそ、「数軒」しか供物を捧げられなかったのだ」と。
 しかしながら、そうした主張はスミス教授の人口調査の数字(減少なし)を見るだけで、誤りであることはすぐわかる。
 もっとも、2年後の南京軍事裁判では国民党の温度取りがよろしかったのか、続々と日本を糾弾するために押し寄せた「被害者」(の遺族)なるものは、何と「数千人」にも達したという。
 この落差(数軒と数千人)はいかんともしがたいのではないか。
 訳者の姫田氏も、この問題ではユニークな意見を開陳している。

 「南京大虐殺のニュースは当時の中国ではそれほど大きな反響をおこしていなかったように思われる。
 日本の報道管制がこのニュースを一般中国人に知らせなかったことが一番大きな理由であろう」(217ページ)

 姫田氏の説によると、一般中国人の最大のニュースソースは何と「日本の報道」だった(!?)らしい。
 中国人は国民党や中共の報道を知る機会がなかったのであろうか。
 姫田氏に聞いてみよう。

 「当時の中国政府(国民党政府)も、首都南京の陥落=中国の大敗北の意味をできるだけ小さい出来事として国民に伝え、ショックをやわらげようとするねらいがあったように思われる」(217ページ)

 姫田氏は「日寇暴行実録」を1938年7月に出版したのが国民党自身であったことを知らないのであろうか。
 姫田氏は更に主張する。

 「中共側がこの事件を大々的にとりあげていないのは、抗日民族統一戦線ができたばかりなので、国民党にたいする政治的配慮があったからだと思われる。
 南京大虐殺から3、4年たって発行された中共側の抗日戦争にかんする比較的まとまった書物の中にも、この事件のことは依然として触れられていない」(218ページ)

 全く姫田氏の「解説」のバカバカしさには、引用しているこちらの方が恥ずかしくなってしまう。
 いやしくも首都を取られ「30万」とか「40万」とか「50万」とかの民衆を虐殺されて、その事を秘密にして国民に知らせないような政府・政党がありえるだろうか。
 また、そのような事実がもしあった場合に、国際的に日本軍を大々的に糾弾しないような政府・政党があり得ようか。
 中共軍に従軍したA・スメドレーの「中国は抵抗する」(岩波書店)は1938年に出版されたが、ここにも「南京大虐殺」の記述は一行もない。
 彼女は言う。

 「(1938年1月1日、八路軍総司令部で)朱徳はノートのなかに、内外の最も重要な事件を書き込んであるんです。(中略)
 彼は、中国の防衛に関係のある国際的な運動のニュースなら、たった一行だって書き落としたりしません。(中略)
 日本軍が(南京付近の)揚子江上で米英の砲艦(パネー号)を撃沈した事件に対するイギリスとアメリカの反応については、つよい関心を示しました」(249〜250ページ)

 「(1938年1月9日、漢口で)けさ、私はアメリカ大使館を訪ね、(中略)ジョンソン大使の方から、上海付近で戦った中国兵の英雄的行動について話してくれました。(中略)
 私はパネー号が撃沈された事件についてアメリカ政府はどんな処置をとったのですかと聞きました。
 すると、大使は、「あの事件はすでに解決した。日本軍がアメリカの要求を受け入れたのだ」と答えました」(272ページ)

 「南京大虐殺」の直後にもかかわらず、「たった一行だって書き落とさない」中共軍最高首脳=朱徳も、外国人ジャーナリスト=スメドレーも、漢口のアメリカ大使館でさえも、「パネー号」のことを話題にするだけで、「30万」も「40万」も「50万」もの中国人が虐殺されたという大事件については、全く問題にもしていないのである。
 加々美氏の説によれば、「類的存在としての人間存在を根底的に危うくするような現象」(訳者まえがき)がまさに目の前で起こった直後であるにもかかわらず、彼らは何の反応も示していないのである。
 もちろん、3年後の1941(昭和16)年には例のエドガー・スノーの「アジアの戦争」によって「南京大虐殺」は世界的に有名になるのであるが、「スノーの記述は二次資料であり、したがって、間違いもある」(洞富雄)。
 というよりも、スノーは反日プロパガンダのために康沢らの誇大宣伝を利用したにすぎぬ。
 さすがの朱徳氏もこの本のことはノートに何行か書いたであろう。
 しかし、当事者としては何とのんきなことであろうか。

(5)南京虐殺キャンペーンは中共の心理謀略戦

 以上で、「証言・南京大虐殺」の検討を終えるが、同書の無内容な誇大宣伝の意図・目的について付言しておきたい。
 同書は、日本が将来「反中国」的になった場合に、心理的に日本を恫喝するために作成された。
 さらに、中国は自己の国力が日本を凌駕した時に、日本(の一部)を奪取するという(潜在的)意図をもっていることも、同書は明確に披露しているのである。
 すなわち、

 「1974年4月、日本は琉球と台湾の漁民の間にたまたま起きた衝突を口実として、琉球と台湾が従来からともに中国に帰属してきた事実を無視して、台湾への派兵と進攻をおこなった。
 清朝はその腐敗の故に、琉球が日本の属国となるのを黙認した。」(3ページ)

 沖縄が中国に帰属していたなどという主張は、「南京大虐殺」など問題にならない位に誇大妄想的であるが、彼らの帝国主義的本性からすれば当然の帰結なのかもしれない。
 中国数千年の歴史は、漢民族による建国以来、四方の「夷狄」を征服し支配し同化させて版図を拡大し続けるという、帝国主義そのものの歴史であった。
 近くは、赤色帝国主義者中共自身、チベットを侵略し今なお植民地主義的支配を続けている。
 中国帝国が弱体化したのは、たかだかこの百年余りのことである。
 中国の大陸的な長期的展望からすれば、沖縄が中国に侵略され、支配される可能性も決して皆無とは言えない。
 昭和12(1937)年に発行された「私の見た支那」という本の中で、雨宮巽氏は次のように述べている。

 「市井で売っている支那の地図を見ると、満州や朝鮮又は台湾や琉球には赤色のスタンプを押して、失地を恢復せよと書き込んである。」(44ページ)

 現在でも沖縄は中国の地図によると自国領土になっているという。
 このような中華風赤色帝国主義たちに、未来永劫、日本民族全てが悪魔でもあるかのごとく糾弾され続けなければならぬ言われは毫もない。
 国民党軍民の屍をもてあそび、日本を恫喝する道具にしてしまっている中共の狡猾な心理謀略戦は、絶対に許されるべきでは無い。
 「南京大虐殺」キャンペーンは、、中共の反日心理謀略戦に一環と言ってよい。


関連項目:[1] [2] [3]
[「南京事件・関連資料」項目へ]