国民(中華民国)政府宣伝組織


昭和13(1938)年当時、支那(中国軍)側宣伝組織図以下参照。
※松尾一郎著『プロパガンダ戦「南京事件」』光人社刊58 - 59ページより

松尾一郎著『プロパガンダ戦「南京事件」』光人社刊58-59ページ

※なお、国際宣伝処「秘書科」は誤植であり「秘書室」が正しい。第三庁第六処所長「田寿昌」の字(あざな)が「田漢」。


(国民政府)軍事委員会政治部第三庁と
(国民党)中央宣伝部国際宣伝処

 昭和12(1937)年7月7日に勃発した盧溝橋事件時に、宣伝活動を行っていたのは、国民党宣伝部のみであった。
 それから約1ヶ月後に上海に飛び火し、第二次上海事変が起きる。
 その後の戦いにおいて、上海、当時の首都・南京が陥落するに至り、形勢不利に落ちいった蒋介石率いる国民政府軍は、中国共産党との第二次国共合作を行った。
 その際に、政治宣伝(プロパガンダ)を行う組織である政治部を復活させた。(※国民(中華民国)政府宣伝組織図)

 当時の国民政府には、大規模な宣伝組織が2つ存在していた。

 (国民党)中央宣伝部国際宣伝処は主に対外宣伝を行っており、米写真雑誌『Look』1938年11月22日号(以下写真)などに掲載されている、この有名な写真は国際宣伝処の雇われ外国人によって『Look』編集部へ送付した可能性が高い。

『Look』1938年11月22日号掲載

 (軍事委員会)軍事委員会政治部第三庁は昭和13(1938)年7月7日の抗日戦第1周年を記念して100ページほどもある抗日写真集『日寇暴行実録』を上梓した。(以下写真表紙)

軍事委員会政治部『日寇暴行実録表紙』


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