「南京虐殺」"証拠写真"を鑑定する

アイリス・チャン本の内容たるやグロテスクの極み。加えて写真の誤用も数えきれず。岩波・笠原十九司本にも看過しえない写真が!

文藝春秋「諸君!」1998年4月号より

秦 郁彦(日本大学教授)


※作者注・・・「南京事件」に関係無い部分については中略させて頂きました。

「ラーベ効果」は渡部氏に及ばず

 順序として本誌2月号に私が書いた「南京大虐殺「ラーベ効果」を測定する」に対し、3月号に渡部昇一氏が寄せた「反論」めいた文章から入ることにしよう。
 「南京の真実」のタイトルで1997(平成9)年10月に講談社から翻訳出版された、いわゆるラーベ日記は次のように書いている。

 中国側の申したてによりますと、10万人の民間人が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。
 我々外国人はおよそ5万から6万人とみています。(317ページ)

 この5〜6万人という数字は、96年12月、「ニューヨーク・タイムズ」や「朝日新聞」がラーベ日記の「発見」を報じていらいマスコミで何度も報道され、いわゆる「大虐殺派」や「まぼろし派」が多すぎる、いや少なすぎると論争してきた争点である。
 
 いわば論議の出発点となる重要な数字なのに、渡部氏は9月の東幼会総会でラーベが「3万、すべて兵士だ」と書いていると紹介したのち「ラーベ日記の現物を見れば大虐殺はなかったことが証明できる」と演説した。
 ラーベ本人が申し立てた「民間人5〜6万」を「兵士3万」と間違えて紹介するたぐいの「放言ぶりには恐れいった」と私は書いたつもりだ。
 
 ところが渡部氏は3月号で今度は4、5万と間違えて紹介しているので、私は「恐れいる」よりも呆れた。
 どうやら氏はラーベ日記を読まずにラーベを論じているらしいとわかったので、渡部氏と南京論争をやるのは打ち止めにしたい。
 ただ南京には無関係だが、
 (中略)
 さて、渡部氏との関わりはこのくらいにしておいて、本題へ向うことにしたい。

右も左もラーベ否定へ

 本誌2月号で私が「「5万人から6万人」というラーベの一石は、複雑な波紋をひきおこす。とくに困惑したのは、「大虐殺派」と「まぼろし派」だった」と書いたのは97年12月12日の時点である。
 その翌日つまり南京陥落から60周年に当たる記念日に、東京、大阪、南京、台北、サンフランシスコなどでいくつかのシンポジウムが開かれた。
 
 東京では「大虐殺派」が主催した「南京大虐殺60周年国際シンポジウム」が2日にわたり開かれ、ラーベの孫娘にあたるウルズラ・ラインハルトさんが挨拶(あいさつ)した。
 傍聴した私の注意をひいたのは、彼女をドイツからエスコートしてきた梶村太一郎氏が、ラーベ日記の資料価値は高いと評価しつつ、講談社版は「意訳の上に削除・加筆までされ・・・・あわれなのは日本の読者であり、ラーベだ」と、奇妙なラーベ批判を展開したことである。
 
 ラーベ日記自体は悪くないが、ベストセラーになっている講談社版は信用するな、という論法と見受けた。
 微細な誤訳(?)ら、行きつく先は全否定しかないだろう。
 
 このシンポではもう1つ面白いシーンが見られた。
 笠原十九司氏が中国代表団に配慮してか、「ラーベは5〜6万と言っているが、彼の目の届かない郊外や彼が南京を去ったあとの犠牲者を足すと30万人ぐらいになるはず」と述べたところ、中国側代表格の孫宅巍氏が異議を申したてたのである。
 
 「30万人は南京城内だけの数次である。地域や時期を勝手に広げてもらっては困る」というのだ。
 そこで私から孫氏へ「今朝の読売新聞に出た新華社電が犠牲者は住民50万人以上と、武装解除された10万人近い中国兵と伝えているが、どう思うか」と質問したところ、「その報道は知りません」との回答。
 
 何しろ、この会議に出席していた新華社の記者が「参加者全員が屠殺された30万人の中国軍民を追悼した」(13日江治記者発、「人民日報」海外版15日付)との記事を送っているくらいだから、政治の思惑と都合に振りまわされる被害者は日中の区別を問わぬらしい。
 似たような事例と言えば、盧溝橋の「中国人民抗日戦争記念館」に日中戦争での中国人死者932万をふくむ被害者2169万人と掲記されていたのが1995(平成7)年、モスクワでの江沢民演説で一挙に3500万人へとはね上がり、記念館の掲示も書き換えられた。
 
 どうやら専門家に相談なしで決められたようなので、誰に聞いても内訳がわからない。
 終戦直後の中国国防部発表は死者175万人(軍人のみ)だったから、驚異的な膨れあがりだが、専門家のなかには「どれも沢山という程度の意味ですよ」と解説してくれる人もいる。
 
 一方、「まぼろし派」の動きを見ると、同じ12月13日にこの派の古顔で松井大将日記を九百ヶ所改ざんした経歴を持つ田中正明氏が、自由主義史観研究会主催のシンポに主役として登場、渡部氏と似た論調を展開、大いに受けたという。
 この会合で、研究会は「ラーベ日記はインチキ」説で通すと申し合わせたとの風評を聞くが、それを裏書きするかのように、会の広告塔役をつとめている小林よしのり氏が「新ゴーマニズム宣言」でラーベ日記を「当時南京に乱れ飛んだデマ宣伝の集大成」と結論づけた東中野教授の偏(かたよ)った評価を持ち上げている。(「SAPIO」98年2月4日号)。
 
 本来は中道でいくはずだった自由主義史観研究会が、「ラーベの本だけですでに30万人大虐殺説は崩壊している」程度では満足せず、右へ右へと牽引され、被害者ゼロの線へ近づいているように変わったのは、やはり運動体への論理に屈したのであろうか。

アイリス・チャンを正誤する

 実はラーベ日記の本質を見誤ったのは、我が国の運動体だけではない。この日記を発掘したのは、アイリス・チャン(Iris Chang)という29歳の女性ジャーナリストとされている。
 「されている」と書いたのは理由があり、彼女と同じ中国系アメリカ人の政治団体(アライアンス)幹部によれば別の人だと言うのだが、この点については詮索しない。
 
 チャンが97年11月に刊行した『レイプ・オブ・ナンキン』(The Rape of Nanking ― The Forgotten Holocaust of WWU,Basic Books p.290)によると、彼女の祖父母は南京に住んでいたが、日本軍侵攻の数ヶ月前に田舎へ疎開し、難をのがれた。父親は1949年中国本土から台湾に脱出、ハーバード大学で学んだのちイリノイ大学の物理学教授となった。
 彼女はそこで生まれ、イリノイ大でジャーナリズムを専攻したが、幼時に南京虐殺の話を聞いた事があるという。
 
 きっかけは不明だが、ラーベ日記を発掘した経過は彼女の説明によると、チャンの手紙を受け取った孫娘のウルズラが伯父にあたるラーベ家の当主オットーの保管していた日記を借り出して読み、『人民日報』の中国人記者と相談して公開を決めたとされる。
 そして複写した日記は、日本の右翼が押し入って破壊するか、大金で買収に来るのを恐れ、すぐに米国へ運びエール大学図書館へ寄託すると同時にマスコミへ発表したと言うが、このストーリー自体がスパイ物小説仕立てではないか。
 
 ところが彼女はこの本を書くためエール大学へ通ったが、ドイツ語が読めないらしく、バーバラ・ジェフ・ハイネン(朝日新聞社)の2人に英訳作業を頼んだと書いている。
 日本語の諸文献もスギヤマ・サトコなど数名の女性ボランティアに英訳してもらったようだが、日本語もドイツ語も読めず、チェックしてもらう一流の近現代史専門家と縁のない女性がこの大テーマと取り組んだのだから、さんたんたる出来栄えになっても不思議はない。

付表『THE RAPE OF NANKING』の正誤
ページ
 タイサ・イサモ 40 長勇中佐
 1937年8月、上海で
  中国砲兵隊は良子
  (ながこ)皇后のイトコ
  を含む数百人を殺した 
33 該当の事実なし
 裕仁天皇の前秘密警
  察(Secret Police)
  長官中島中将
37 中島は前憲兵
司令官
 谷寿夫中将みずから
  南京で20人の女性を
  レイプした
50 起訴状・判決に
言及なし
 永富ドクターの告白と、
  診療室で患者に南京の
  ビデオを見せていること
  を紹介
59 永富博造は当
時国士舘の学
生、現在は鍼
灸師
 受験戦争下の現代日
  本では子供たちは午
  後9時から午前6時ま
  で勉強させられる
205 意味不明
 民間人の被虐殺者数
  は26〜35万、レイプの
  被害者は2〜8万
4、6、
102
別に検討
 残虐写真13枚のほと
  んどが偽造または出
  所不明
グラビア 同上

 付表はパラパラとめくって目についた初歩的ミスの数例を列挙したものだが、たとえば1の「タイサ・イサモ」なる人物は、松井軍司令官の制止を無視して捕虜の大量虐殺を命令したとされる長勇(ちょういさむ)中佐を指すのはたしかである。
 中佐を大佐と間違えるぐらいはご愛敬だが、イサムを姓と思い違いするのは、クリントン大統領をウイリアム(ビル)大統領と書くたぐいで、日本育ちの日本人ならまずやらない。おそらくは3世か4世の日系人あたりの英訳ミスだろうと想像するが、タイサを姓、イサモ(イサムではない)を名と思い違いした可能性も捨てきれない。
 
 ついでに言えば、この翻訳ボランティアは軍事知識にうとく、「歩兵連隊」(Regiment)を「大隊」にしたり「ウイング」(航空隊)と訳したりもしている。
 付表7では26万、35万という初見の数字が登場する。102ページにはわざわざ26万の積算式まで載せているが、東京裁判の記録から重複を物ともせず目についたものを足してみたという代物で、この種の推計を見なれている私も唖然とした。
 
 35万のほうの根拠は「ある専門家によれば」とあるだけで、注記を見ても誰なのか触れていない。
 それでも、秦の4万人説を、ラーベの5〜6万人説と並べて1行ずつ紹介してもらったのは光栄の至りだが、守護神扱いしてきたラーベの数字さえ紹介だけにとどめ、検討を避けたのは、彼女にとって「見込みちがい」に少ない数字だったからだろう。
 
 2〜8万というレイプの統計も同じように腰だめ計算であるが、彼女が1月11日の米衛星放送に出演した時は、さすがにアナウンサーが「どうしてこんなに差があるのですか?」と聞いた。するとチャンは平然と「事柄が事柄だからはっきりさせるのは無理なんです」と軽くかわしていた。
 最後の写真問題(付表8)は、後でとりあげることにしたいが、意外だったのは、アメリカの読書界が彼女のこの本を熱烈歓迎したことである。
 
 私が目にした書評は、『ニューズウィーク』(97年12月1日号)、『ワシントン・ポスト』(12月11日)、『ニューヨーク・タイムズ』(12月14日)の3本だがいずれも長文で扇情的な見出しを乱発して持ち上げたから、たちまちベストセラーの座に加わった。

NYタイムズの熱烈歓迎

 ここでは代表格として、アメリカの良識を支えてきたとされる『ニューヨーク・タイムズ』の例を取り上げてみよう。評者のオービル・シェルは、名門カリフォルニア大学バークレー校ジャーナリズム大学院の院長と紹介されている。
 書評は「近代史で他に例をみない日本軍による大虐殺(マッサカー)」という大上段の定義に始まる。そして東京裁判は26万の民間人が殺害されたと算定したが、「多くの専門家は今や35万と判断している。捕虜全員を殺害せよとの秘密命令は天皇の伯父である朝香宮司令官から発せられ、兵士たちの間に殺人競争が起きた」とつづく。

 チャンが「ある専門家」(some experts)と言葉を濁したのが評者によって「多くの専門家」(many experts)へすり替わり、著者が「朝香宮が自身で命令したかクリアーではないが」と保留し、長参謀の私的命令らしいと示唆しているのに、シェルは朝香宮を犯人と断定しているのだ。執筆者の熱狂を割引きして伝えるのが書評の常識だから、この改変はケアレスミスなんかではなく、故意の歪曲と見ざるをえない。

 書評は、原著のハイライト部分を要約引用して読者に紹介する場合が多いが、シェル教授がチャンの6ページから引いたのは次のくだりである。

 兵士たちはレイプしたばかりでなく、女の腹を断ち割り、胸をスライスし、生きたまま壁に釘で打ち付けた。
 父親たち(以下はすべて複数)は自分の娘を、息子は母親をレイプするよう強制され、それは家族の面前で実行された。生き埋め、去勢(castration)、器官切開ばかりか、集団的に火あぶり(roasting)するのも日常的シーンとなった。
 より悪魔的な残虐行為――たとえば鉄のフックを人々の舌にひっかけて吊すとか、腰のあたりから下を土に埋め、ドイツ種のシェパードに噛みつかせバラバラに引き裂くのを見物するとか――も見られた。

 さて、中世の魔女裁判も顔負けのこの劇画的シーンを彼女がどこから仕入れたのか、注を引いてみると、簡単に「著者による生き残りからのインタビュー」としか書いていない。
 チャンという女性はよほどグロ趣味の強い人らしく、前後して「南京の死者が手をつなぐと200マイル向こうの漢口まで届く。死者たちの血液を計量すると1200トン、貨車に積むと2500両分、上下に重ねると74階建のビルの高さになる」という奇想天外な試算も登場する。

 私もエンピツをなめなめ何回か試し算をやってみたが、南京―漢口はマアマアとしても、上下に積めば人体の厚みを10センチと仮定して1000人で100メートルの高さになってしまう。計算ミスか?と首をひねっている間に鉄のフックやシェパードの顔が浮かんできて試し算は中止した。
 それにしても、名門パークレー校の大学院長ともおろう学者が、こんなバカバカしいおとぎ話を真に受けるとは。
 
 だがチャンの本を真に受けたのはシェル教授だけではない。『ニューズ・ウイーク』も『ワシントン・ポスト』も大同小異、書評を集めた『アマゾン・コム』誌には、有名大学の教授やピューリッツァー賞受賞者などが「すばらしい」「迫力がある」「きわめて重要な学術的業績」「20世紀でもっとも重要な本の一つ」などと絶賛ばかり、例外は「情熱は買うが歴史書としては不適切」「中共も同じ事をチベットでやった」とチクリ付言したのを1、2見かけた程度だ。
 
 お歴々がなぜ彼女にこんなに甘くなってしまったのか?思い当たったのは、書評子たちが一様に「パワーフル」と表現したチャンのカリスマ的迫力とフェミニスト風レトリックである。
 私は97年11月、プリンストン大学で中国系米人組織のアライアンスが主催した「南京シンポ」で、アイリス・チャン本人を間近に眺める機会があった。圧倒的な迫力のスピーチに気圧されたようにシーンとなった聴衆を見やりつつ「誰かに似ている。そうだ上野千鶴子さんかな」と、私は思案していた。
 
 スピーチが終わったあと、2、3質問してみようかなと思ったが、やめにした。下手をすると、セクハラだと一喝されそうな気がしたからだが、向こうも私に近ずいてこなかったので、ニアミスに終わった。「ホロコースト」に「レイプ」が重なれば、心ある人は沈黙せざるをえないという心理状況は、アメリカも日本も大して変わりはない。
 チャンはその隙間を巧みについて反日イメージを盛り上げ、自著を「ロング・アンド・ベスト・セラー」(ワシントンの友人からの手紙)に仕立ててしまったのだ。

朝日米総局長の「一読」

 しかしプロパガンダとわかれば、国益擁護の観点からそれなりの対策を講じるのが国際常識と思うのだが、知ってか知らずか外務省もマスコミも傍観しているだけである。
 何よりも、多数の特派員を常駐させている大新聞にプロパガンダの仕組みを速報してもらいたいものだが、音無しの構えに近い。近い、と書いたのは理由がある。

 プリンストンのシンポに中堅記者を派遣していた『朝日新聞』が97年12月26日の紙面に「米総局月月録―不人気だけならよいけれど」というエッセー風署名記事(筆者は岩村立郎アメリカ総局長)で、チャンの本について紹介しているからだ。
 ただし、こんな記事なら書かないほうがマシ、と思わせるレベルの報告である。参考までに一部を引用してみる。

 2年間にわたって、米中日独4カ国の史料を探査し、元日本兵から取材し、生き残った人の話を聞いて、全容を解明しようとした本だ。首切り、性犯罪の記録写真も添えられている・・・・一読して、容易じゃないなあ、と気が重い・・・・重いのは、著者が繰り返し、「虐殺を否定し、歴史をゆがめようとしている日本という国」への怒りをぶつけているからだ。

 「忘れられたホロコースト」という副題が示唆的だ。ニューヨーク・タイムズ紙は書評欄で「注目すべき一冊」に挙げた。南京大虐殺を、英語で書いた初めての本、ともいう。米国人が日本を見る目に、「歴史の後始末をしてこなかった国」という見方が、じわり、と広がっていくかも知れない。(強調部分は秦)

 一読して、よくもこれだけ当たりさわりのない作文が書けるもの、と感心してしまうが、逆に言うと、日本がらみの会合をいくつかのぞいたが米人がほとんど来ない状況を延々とレポートした前半部分をふくめ、中味は空虚そのものなのである。
 少なくともチャンの本と、『ニューヨーク・タイムズ』の書評は、「一読」しているようだが、著者の誤った言い分を何の疑問も持たずにサワリ部分をつないで受け売りしているのは、いかがなものか?

 たとえば「虐殺を否定し・・・・・」のくだりは、石原慎太郎や数人の政治家の私的発言をチャンは日本国全体にすりかえているのだが、日本国政府が虐殺を否定した事実はない。少数例外だから話題になったのを日本人記者なら知っているはずだ。
 「忘れられたホロコースト」のくだりも、あくまでチャンの意図的誇張であることは、引用されている多数の公刊文献リストを見ても明らかだ。わが国ではすべての中高校教科書にも出ているし、大虐殺派からマボロシ派まで「南京産業」と呼ばれるほどおびただしい数の本や論文が存在する。そこを指摘しておくのが、ベテラン総局長の役割ではあるまいか。

 長文のタイムズ書評を「注目すべき一冊」だけで片づけたのも、無責任だろう。私は末尾のあたりから拾ってきたのだろうと見当をつけ、原文に当たると「Chang's disturbing book」とある。私なら「お騒がせの本」とでも訳したいが、「注目すべき」とは語感が正反対に近い。
 しめくくりの「歴史の後始末・・・・」は主語の判然としない言い方だが、アメリカ人に持ち出されたら「ごもっともで」と相槌を打ちそうな気配である。「じわり」という副詞の語感が何ともやりきれない。

 前任者なら、そんなときには「それなりの後始末はしてきましたが、まだ足りないと叫ぶ日本人や中国人もいます」と解説するだろうが、この総務局長氏には「ないものねだり」か。
 しかし、岩村レポートの「首切り、性犯罪の記録写真も添えられて」の部分にヒントをもらって、チャンの本に収録された40数枚のグラビア写真を眺め直しているうちに、とんでもないトリック写真ばかりと気づいた点では感謝せねばなるまい。

 歴史家は文書資料やヒアリングには細心の注意を払うものだが、写真はチラと眺める程度、本を書くときには「適当な写真を身つくろってくれ」と編集者に任せる人が少なくない。一般読者のほうも、写真や映像ほど確かな記録はないと信じがちだが、心ある近現代史家は写真ほど危ないものはないと自戒している。キャプションやトリミングでどうにでも料理できるからだ。

 手もとにアラン・ジョベール『歴史写真のトリック―政治権力と情報操作』(朝日新聞社、1989年)という本がある。権力者によって写真がいかに偽造されたか数百枚にのぼる実例を集録し、手口を解説したぜいたくな写真帳で、主役はレーニン、スターリン、ヒトラー、毛沢東など、一番多いのは集合写真から粛清された幹部を消し去るケースだ。

 虐殺シーンの写真で、加害者と被害者が入れかわる二種類の説明文も紹介されているが、「いずれが真実かは永久にわからないだろう」と解説がつく。この種の事例は主として全体主義国家に集中する。訳者の村上光彦氏は「豊富な情報に自由に近づける社会では、苦労して巧妙な偽写真をつくっても検証されてしまう」からだ、と述べているが、アメリカや日本のような自由社会でも偽写真は横行するし、検証してもすぐ次が出てくるという点ではさほど変わらないともいえる。

「支那女が泣きながら」

写真(1)

 そこで『レイプ・オブ・ナンキン』の写真を検証してみると、40数枚のうち「首切り」のカテゴリーが7枚、「性犯罪」の関連が4枚である。いずれも、あちこちで見かけるもので専門家には珍しくも何ともないが、初見の人はかなりのインパクトを受けるだろう。

 一応写真の出所は記してあるが、台湾(中国)政府軍事委員会政治部が3枚、新華社通信が4枚、UPI/ベットマンが2枚、アライアンスとフイッチの遺族が各1枚というところで、撮影者の名や日付が記入されているものは1枚もない。つまりクレジットは写真(おそらく複写)の借用先を示すだけで、出所は不明なのである。

 もっとも、昔から出まわっているもので、原写真の出所が突きとめられた事例もある。たとえば生首が10個前後並んでいる写真は(組写真の1つ)は、チャンの本には「南京の犠牲者」と説明してあるが、1930年に中国官憲によって処刑された匪賊の首であることが判明している。

 結論から言えば11枚の写真は「やらせ」「すりかえ」「合成」が多く、1937年の南京周辺と推定出来るものは1枚もないと断言できる。そうはいっても、断言の根拠を知りたいと言う人もいようから、2、3の写真について説明を加えよう。
 写真(1)には、南京陥落直後に数十人の日本兵集団が見守っているなかで、数人の中国兵捕虜が、銃剣で刺殺されているシーンとの説明が付してある。
 チャンの本には「写真の信憑性だが、撮影者は日本兵で、上海の日本人写真屋で現像した際、中国人の助手がひそかに焼き増ししたのを漢口のW・A・ファーマーが入手、米国の『ルック』誌に送ったもの、提供はUPI/ベットマン」と詳しく由来を説明している。

 実は和多進氏が1987年、南京でヒアリングした呉旋から似たような話を聞いた。上海でなく南京の写真屋とのことだが、7枚の写真を終戦直後に国民党政府へ提出、その複製が今も南京の大虐殺記念館に展示していあるという。

写真 (2)−1
写真 (2)−2
「諸君!」平成10年4月号掲載写真 「諸君!」平成10年4月号、掲載写真

 7枚のうち2枚はチャンの本にも集録されているので、同じ話である可能性が高いと思うが、和多田氏は「南京事件の証拠とすることには大きな危険がある」と結論する(洞・藤原・本多編『南京大虐殺の現場へ』朝日新聞社、1988年)。
 改めてこの写真を見直すと、見物人の中に上衣を脱いだ白シャツ姿の兵が10人以上はいる。また銃剣をふるっている日本兵の影が短い。真冬の南京でないのは確実で、本物だとしても、季節や場所が違うと断定できそうだ。しかし真偽は別として、迫力に富む構図のせいか、『ニューヨーク・タイムズ』も『ニューズウィーク』も書評にこの写真を添えた。

 次に写真(2)−1は「レイプしたあと被害者とポルノ風記念撮影をする日本兵」(チャン)のキャプション入りで、出所は南京の難民区国際委員会で働いていた米人フィッチの遺族とある。
 この組写真もあちこちで見かけるが、エルビス社の『写真集・南京大虐殺』(1995年)は、これをふくめほとんどが「南京大虐殺記念館提供」と表示している。ところが何枚かの同じ写真を眺めているうちに奇妙な点に気がついた。

 写真(2)−2は、私が台湾で入手してきた『鉄証如山』という写真集に出ていた同じ写真だが、他の版と異なるのは、右方に中国人らしい男が立っていることだ。ついでに中央の兵士をしげしげ眺めると、服装が民間人のジャンパー風で帽子も顔も日本人には見えない。
 ここで思い出したのは、逓信省から派遣され、野戦郵便長として南京戦に従軍した佐々木元勝氏の回想録であった。37年11月22日、司令部で郵便物の検閲に当たっていた憲兵から当時、残虐写真やエロ写真が出まわっていてカツラをかぶってのやらせシーンは内地からの逆輸入説もあり、版元は不明との話を聞いている。

 佐々木はその種の写真を見せてもらい、「支那女が泣きながら立って下半身裸になっているのもある。支那軍か日本軍のどちらが撮ったかわからない」(『野戦郵便旗』1973年、178ページ)と日記に書きとめている。 

慰安婦強制連行の怪

写真 (3)−1
(アイリス・チャン本)
写真 (3)−2
(左のハレーションに注目)
写真 (3)−3
(アサヒグラフ版)

 佐々木は「憲兵から兵が内地へ送るこの種の写真はすべて焼却処分にしているが、いいのがあったらお取り下さい」と言われているから、問題の写真が(2)とは断定できないにせよ、みやげ用に大量に出まわっていたことらしいこと、適当なキャプションがついていても不思議はないことがわかる。

 だが、写真(3)シリーズともなると、(1)や(2)に比べて一段と悪質の度を増す。幸い手のこんだトリックの過程が明らかになったので、手口分析をやってみよう。まずアイリス・チャン本(A)の写真((3)−1)に付してある説明文は次のとおり。

 「日本軍は何千人もの女性を狩りたてた。大多数が集団レイプされるか、軍用慰安婦にされた(出所は台北の軍事委員会政治部)」

私の知る限りで同じ写真を掲載している文献を列挙しておく。
 B 『鉄証如山』(台北、1982)
 C 『侵華日軍暴行総録』(北京、1995)
 D 笠原十九司『南京事件』(岩波新書、1997)

 説明文の主旨はいずれもAと似たりよったりだが、出所を明示しているのはD(写真(3)−2)だけなので、次にそのキャプションをかかげる。

 「日本兵に拉致される江南地方の中国人女性たち。国民政府軍事委員会政治部『日寇暴行実録』(1938年刊行)所載」(第三章扉)

 どうやらAとDは出所が同じらしいと見当はつくが、疑問に思ったのは写真のトリミングや鮮明度に微妙な格差が生じていることだった。あとで説明する『アサヒグラフ』版の原写真と比較すると、B、Dはトリミングが同じだが、AとCは右端の荷車を引くオバさんをカットしている。鮮明度が全般的に落ちているのは当然だろうが、気になるのは先頭の女児につづく妙齢らしい女性のあたりがDだけハレーションを起こしたようにぼやけている。
 
 ともあれ、慰安婦の強制連行写真にしては、のんびりとした風情で、赤ん坊を抱いた女性もいれば、子供が少なくとも4人、にこにこ顔の少年も1人見える。兵隊は行軍時と同様に肩に鉄砲をかついでいるが、銃剣はつけていない。
 久しく疑問を抱いていたこの写真が、実は写真週刊誌『アサヒグラフ』の1937年11月10日号に掲載され、翌年3月に朝日新聞社から発売された『支那事変写真全輯−中−上海戦線』にも転職されていることに気がついたのは、今年の1月になってであった。
 
 問題の写真、「硝煙下の桃源郷−江南の『日の丸部落』」の標題で、熊崎玉樹特派員が撮影した4枚の組写真のうちの1枚である。
 全体の説明文を見ると、日付は10月14日、舞台は上海郊外の宝山県で「我が軍の庇護によって平和に還った2つの部落がある。その1つは『日の丸部落』とといわれる盛家橋部落で・・・・約400名の村民は、我が軍の保護によって敗残支那兵の略奪をまぬがれ、意を安んじて土に親しんでいる桃源郷」とある。
 
 ここは綿作が盛んで、組写真には日本兵がつきそい老若そろって秋日和のなかで民謡を歌いながら綿をつみ取るシーンも入っている。問題の「連行写真」(写真(3)−3)には我が兵士に護られて野良仕事より部落へかえる日の丸部落の女子供の群」というキャプションがついていた。
 そう言われて見直すと、先頭の女児も次の姑娘(クーニャン)も、そして兵隊と並んだ少年もニコニコと笑っている。少年の肩にもう1人の兵隊が手をかけている。右端の小肥りのオバさんが引く荷車には、綿が積んであるのも知れる。念のため朝日新聞社のOB会に問い合わせてみたら、このすばらしい構図の写真を残した熊崎カメラマンは3年前に惜しくも80歳で亡くなったことがわかったが、記事の通りにちがいないと私は確信している。
 
 それにしても、写真のキャプションを正反対に書き換えた犯人は誰なのか。私は熊崎カメラマンに代わって追跡してみようと思いたった。まずはD((3)−2)の写真を使った岩波新書の担当編集者に電話で問い合わせた。やりとりの要旨を次に紹介しよう。

  私が買った新書の写真にハレーションがあるが。
  どの本も同じで、印刷工程上のミスではない。
  何からとったのか。
  著者の笠原氏が中国語の原本からコピーしたものを届けてきたので複写した。キャプションも原本通りだ。
  アサヒグラフに元写真があるのだが――― 
  当社には責任はない。疑問があれば著者に聞け。
  通常は扉写真にコピーから複写した欠陥写真は使わぬと思うが。
  行程上の問題は出版社の自由裁量だ。忙しいから切る(ガチャン)。

 この間の問答は10分たらずと思うが、官僚式受け答えに終始したこの編集者は、アサヒグラフに元写真が――と聞いても何の感心も示さないので私はがっかりした。近所の八百屋でも、この大根の傷は・・・・と聞けばもう少し誠実に答えてくれるのに、編集者のモラルも日本軍同様に頽廃してしまったのかもしれない。  

もぐら叩きか

 だが、写真にまつわるこの種の不感症的反応は岩波書店だけではない。長崎の原爆資料館や大阪国際平和センター(ピースおおさか)で、南京事件を中心とするニセ写真や偏向ビデオが槍玉にあがっているのに、もぐら叩きのように同種のトラブルが各地の公立博物館で続発するのはなぜか、私は不審に思っていた。
 『産経新聞』(2月6日夕刊)によると、自治体設置の戦争博物館は約20カ所あるが、「設置に当たっては、教科書検定訴訟の家永三郎氏らが呼びかけ人になった『平和博物館を創る会』が深くかかわっていることが分かった」という。つまり運動体、地方政治家、展示業者、偏向教師をつらねたネットワークが成立していて、監視の手薄な公費(つまり税金)を使い教化活動をすすめているのだ。
 
 約20カ所のなかで、今まで話題にのぼらなかったとはいえ、おそらく最悪の事例は『産経』が「偽写真、やらせビデオ、自虐史観に基づく展示」ぞろいと総括した堺市の平和と人権資料館であろうか。
 よくも臆面もなくこんな館名をつけたものよと感嘆するが、紙数も乏しくなったので、代表的な一例だけを紹介するにとどめる。
 
 それは、小学校の焼却炉程度のサイズに見える粗末な炉の写真に付けられた説明文で「(この炒人炉)によって焼かれた遺体からとった油が食用として売られた」と読める。有名な平頂山虐殺事件(1932)の遺物で、写真は撫順博物館からの複製パネルらしい。
 炉の真偽はともかく、説明文のバカバカしさに私は失笑してしまった。こんな原始的なミニ焼却炉で人間の死体をむし焼きにしてどのくらいの脂肪がとれるものか、とれたとしても豚油の主産地である撫順地区で誰が食用に買うだろうか。できたとしてもたかが千人前後の材料では、コスト倒れで商売になるはずはあるまい。
 
 義務教育修了程度の理科知識があれば、成り立たぬ話であることは明白なのに、市の職員も監修者もウノミにして麗々しく展示したのである。
 もっとも、ウソは百の承知のダメモト主義でやっている確信犯の犯行なら話は別だ。公立博物館で偽物のルノアールを買い取ったとか、動物園のツシマヤマネコにイリオモテヤマネコと掲示したら大騒ぎする新聞も、なぜかこの種の写真やビデオには甘い。
 
 せいぜい水掛け論争風にしか報じないが、この種の自虐的偽展示へ小中学生を狩り出して「刷り込み」教育をやっている連中に、もう少し目を光らせてもらいたいものである。


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