南京事件を世界に知らせた男
自分の目で大量虐殺を見た米人記者の回顧談

元ニューヨーク・タイムズ記者、ティルマン・ダーティン氏
元ニューヨーク・タイムズ記者ティルマン・ダーティン

古森義久(ジャーナリスト)文藝春秋89.10から)


 ラホーヤはカリフォルニア州の軍港都市サンディエゴから北へ、車で30分足らずの美しい海岸の町である。
 太平洋を眺望するすばらしい景観に加えて、1年を通じての温暖な気候のために全米でも有数の保養地になっている。
 ティルマン・ダーティン氏のこじんまりとしたアパートは、そのラホーヤの町を貫く大通りからほんの少しだけはずれた一角にあった。
 からりと乾いた快適な風が吹きぬけるので真夏の太陽も苦にならない。
 そこここの家やアパートに付属するプールが明るい日差しをあび、キラキラと光る。
 ダーティン氏のアパートは地味な3階建のビルの2階にあった。
 ベルを鳴らすとすぐにドアが開き、思ったより小柄な老人が立っていた。
 
 ティルマン・ダーティン――1937年(昭和12)年12月、ニューヨーク・タイムズの若手記者として日本軍の南京占領の模様を一部始終目撃し、「南京虐殺」の第一報を全世界に向けて伝えたジャーナリストである。
 彼は南京の陥落時に現地にいた欧米のわずか5人の報道陣のうちの1人、貴重な歴史の目撃者となった。
 南京をめぐる日中両軍の攻防から日本軍の占領後に市内で起きたことまでを、シカゴ・デイリー・ニュースのアーチボルド・スティール記者とともに世界に向けて最初に報道したのだった。
 ダーティン記者の南京陥落後の報道は、ニューヨーク・タイムズ1937年12月18日付けと38年1月9日付にそれぞれ掲載された。
 これらの記事はのちに南京事件についてのどの報告でも書物でも必ず引用されたり、言及されたりしている。とくに中国側が後日、主張するような大虐殺が南京で実際にあったか否かという議論では、どちらの立場をとる側もダーティン報道を貴重な資料として欠かさずに使っていた。その点でダーティン氏は、南京事件解明のカギをも握る歴史の証人とされてきた。日本の戦前の昭和史全体を通じても、同氏は一種の“伝説の人物”扱いをされてきたのだった。
 私はその彼が高齢ながらもなお健在であることを最近、知った。住所と電話番号を探し当て、さっそく電話で会見を申し込むと、歯切れの良い「イエス」という答えが返って来たのだった。
 気難しい人物だというウワサを聞いていたものの、紹介者の名をすぐあげたことがよかったためか、電話ではきげんよく応答してくれた。
 中国の仏像や絵画がぎっしりと飾られた居間で向かい合って座ったダーティン氏は、81歳という年齢にもかかわらず、きわめて元気そうにみえた。それになによりも話しの口調がしっかりし、語る内容も明確で、老いをほとんど感じさせなかった。
 とはいえ、もう51年以上も前の出来事をくわしく語って欲しいというこちらの注文である。ダーティン記者自身の書いた記事のみならず、当時の競争相手だったスティール記者の記事のコピーまでを、目の前に並べての回想談となった。
 私はまず若きダーティン氏が南京に駐在するにいたった経緯についてからインタビューを始めた。
 
 ――ニューヨーク・タイムズの中国特派員にはどうしてなったのですか?
 
 「テキサス州西部で生まれ、同じ州内のフォートワースの大学を卒業したあとサンアントニオとヒューストンの新聞でそれぞれ短期間、記者として働きました。だが世界をみたいと思った。とはいえカネがない。友人といっしょに貨物船に乗りこんで働き、旅をすることに決めました。1930年のことでした。」
 23歳のダーティン氏は船内の掃除係となって船底で眠りながらパナマ運河を抜け、太平洋を渡る。
 日本の横浜港に着くと英字新聞『ジャパン・アドバタイザー』に働き口あることを知った。友人とコインを投げて決めた結果、友人がその職を得る。
 船は日本から中国へと航行し、上海に入港した。

南京占領の3ヶ月前から

 「そのころには船内での肉体労働にすっかり嫌気がさして、とにかく上海で陸にあがることに決めました。当時はパスポートもビザもありはしない。そしてすぐに上海の英字新聞『シャンハイ・イブニング・ポスト』に記者としての職を得ました。
 そこで2、3年働いたあと『チャイナ・プレス』という新聞に移り、やがて編集長となったのだけれども、その間、ニューヨーク・タイムズにもストリンガー(通信員)としてときどき記事を書くようになりました。
 正規の上海特派員がポストをあけるときに私がカバーしたのです。そのうち1937年の夏となり、日中戦争が起きて、ニューヨーク・タイムズは正規の特派員がもう一人、緊急に必要となり、私が採用されたわけです。
 
 ――その年の8月に日本軍が上海周辺で中国軍に対する総攻撃を始めたわけですね。
 
 「ええ、それで私はすぐ先輩のジャック・ベルドン記者と車に乗り、上海からずっと南に下り、杭州や南京方面へと道路が分かれる分岐地域まで出かけて、戦闘の模様を取材しました。その後、間もなく私は南京の拠点にして日中戦争を報道するようになったのです。日本軍が南京を占領したのは1937年12月ですから、その3ヶ月ほど前から南京にいたことになります。」
 
 ダーティン氏のこのへんの記憶はきわめてしっかりしているようだ。
 くすんだ青い目のジャンパーを着て、くつろいだ姿勢ながらも、きちんとよどみないペースで話をすすめていく。
 さて、1937年11月、上海周辺の中国軍戦線を突破した日本軍は、西北3百キロほどの首都、南京をめざして急スピードの進撃を開始した。
 ダーティン記者は南京の側からその経緯を追っていた。
 
 ――上海方面から進撃してきた日本軍と中国軍の南京以東での戦闘ぶりはどうだったのでしょうか。
 
 「中国軍は南京城内に立てこもって日本軍を撃退するという作戦をとり、上海方面から南京への日本軍進路にあるすべての建造物を焼き払って退却しました。敵には何ひとつ残さないという、中国側が焦土作戦とよぶ手段です。住宅からその他の建物まで、いっさいすべて、遮蔽物を残さないために樹木まで切り倒して撤退するのです。」
 
 ――そういう地域の住民はどうなったのですか。
 
 「大多数は戦闘の始まる前に避難しました。南京の方向へと逃れ、市内に入った避難民もかなりいました。漢口のほうにまで逃げていった民間人もかなり多数いました」
 
 ――上海から南京近郊に到達するまでの過程で日本軍が中国側の捕虜や民間人を多数殺したという話しは当時あったのですか。
 
 「いや、それはありませんでした。中国軍は日本軍に正面から戦いを挑まず、撤退していたし、地元の住民もみな避難していたからでしょう。
 私は当時、虐殺に類することはなにも目撃しなかったし、聞いたこともありません。虐殺は日本軍が南京を占領してからなのです」
 
 ダーティン氏のこの言葉は「上海から南京までの間で日本軍による大規模な殺害や略奪があった」という一部の説とはくいちがっている。
 しかし同氏は南京では日本軍の虐殺があったと明言する。その点は同氏は南京陥落についての第一報、ニューヨーク・タイムズ1937年12月18日付の記事にもはっきりと書いている。
 「南京で日本軍が恐怖をまき散らすなかで民間人も殺される」という見出しのこの記事は、「日本軍の無差別残虐行為と略奪」があったとし、「中国軍捕虜の大量処刑」と「女性や子供を含めての民間人の広範な殺害」とを伝えている。

処刑を見ていた将兵たち

 ――さてまず中国軍の捕虜に関してですが、南京を守っていた軍隊の人数はそもそもどのくらいだったのでしょうか。
 
 「唐生智将軍の指揮下に約5万人だったと思います。
 日本軍の南京総攻撃が始まる直前、私は市内をあちこち走りまわって防衛軍の状況を調べました。
 市内には軍隊があふれていた。唐生智司令官にインタビューして「城壁内にこれだけの部隊を入れて守る作戦はわかったが、日本軍は当然、城壁を包囲するから、もし負けた場合にはどうやって撤退するのか」と質問したのものです。
 唐将軍は「われわれは死ぬまで戦う決意だ。撤退は天に向かってのルートだけだ」と豪語していました。
 しかし実際には将軍は日本軍の一部が城壁を越えてすぐ、部下には何も告げず、市外へと逃げたわけです。」
 
 ダーティン記者は1938年1月9日付の記事でも中国の南京防衛について、合計16個師団だが、1師団の兵力は2千から3千人程度に減っているので総計約5万人と推定している。
 同記者にはその同じ記事のなかで、中国軍の死者数について日本軍が南京への本格的攻撃を開始した12月上旬から市内を占領して3日目の12月15日までに3万3千人が死んだと伝え、そのうちの2万人が処刑されたとみられる、と報道している。
 
 ――捕虜の処刑は実際に目撃しましたか。
 
 「はい。私が南京を去ることになる12月15日にも城門のすぐ外の揚子江の水ぎわで日本軍が機関銃で中国軍の捕虜を射殺しているのを見ました。
 捕虜たちは50人くらいずつにまとめられ、並べられて射殺されるのです。
 そのあとにすぐまた50人ほどの次のグループが引き出され、機関銃の連射で殺されるのです。この処刑が進行している間に別の日本軍の将兵が近くにたむろしてタバコを喫ったり、大声で話し合っていた光景をいまでもよく覚えています」
 
 ――中国の捕虜の側は抵抗とか逃走をまったく試みなかったのですか。
 
 「その捕虜たちが両手を縛られていたかどうかはもう覚えていませんが、さからっても無駄なことは明白でした。
 中国軍は司令官が逃げて、指揮系統が混乱してしまったこともあって、日本軍が城内に入ってからはすぐ抵抗をやめ降伏するか、軍服を脱ぎすてて民間人の群にまぎれこむかでした。
 とても無気力だったのです。軍服を脱いだ軍人達の多くは『安全地区』に逃げ込みました」
 
 『安全地区』(セーフティーゾーン)というのは、外国人の宣教師や教師、医師が中心になってつくった民間人のための避難地域である。
 この地区を管理する委員会では日中両軍にその安全区の尊重を呼びかけていた。
 
 ――『安全地区』には何人くらいが集まっていたのでしょうか。
 
 「私の当時の推定では約10万人だったと思います。
 しかしここにも日本軍が入ってきました。中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが原因だといえばいえます。
 そのために日本軍に『安全地区』に入って捜査をする口実を与えてしまった。
 兵隊ならば衣類を脱ぐと、銃や背嚢(はいのう)をかついでいた跡が半分タコのようになって体に残っているのがわかるとというのです。
 若い中国の男たちはみな日本軍に調べられ、兵士だと断定されると『安全地区』内でも殺されるというケースがよくありました。
 ただ日本軍も外部からいきなり『安全地区』に攻撃をかけるようなことはしなかった。
 市内の他地域での流血にくらべれば、まるでたいしたことはありませんでした。」
 
 ダーティン記者は、南京市内での日本軍による民間人の無差別殺害をも、当時、くわしく報道していた。
 
 「12月15日に南京市内を広範にみてまわった外国人たちは、民間人の死体があちこちにあるのを目撃した。犠牲者のなかには老人や子供もいた。警官や消防夫がとくに攻撃の標的となった」(1937年12月18日付報道)
 「興奮や恐怖に駆られて日本軍の近くを突っ走った中国人はすぐに狙撃された。明かに背中から射たれた老人の死体などが、うつ伏せになって歩道によく横たわっていた」(1938年1月9日付報道)

予想されなかった虐殺

 ――日本軍はやはり民間人をも無差別に殺したのですか。
 
 「はい、無差別の殺害といえます。銃で射つのがもっとも多かった。
 銃剣を使う場合もあった。
 とにかくウサギを殺すような感じでの虐殺が行われたのです」
 ダーティン氏はこうした発言をしながらもとくに表情は変えず、淡々とした口調で語りつづける。
 「南京の日本軍兵士は、上層部から略奪や虐殺をしてもよいという通達を受けているような印象を、私は受けました。
 『中国人を殺せ』というような命令ではないにせよ、『殺してもかまわない』というような通達です。こうした行動は私には大きなおどろきでした」
 
 ――どうしてですか。
 
 「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかったからです。
 上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。
 漢口市内では日本軍は中国人を処刑したが、それでも規模はごく小さかった。
 南京はそれまでの日本軍の行動パターンとは違っていたのです。南京市民にとっても、それはまったく予期せぬ事態でした」
 
 ――南京にいた中国の民間人は虐殺などがあるとは思っていなかったということですか。
 
 「南京の市民や周辺の住民は中国軍にすべてを焼き払われ、戦闘が長く続き、日本軍が南京を制圧したときには一種の安堵感をおぼえていた人も多かったのです。
 日本軍の占領をあきらめからにせよ、歓迎しようとする市民たちもいたのです。
 それまでの2、30年間も中国の軍閥に支配され、搾取(さくしゅ)され、軍閥同士の戦いで被害を受け、という状態で、別に支配者が日本軍になってもそう変わりはしない。
 日本軍でさえ、またやがては去って行く。
 戦闘を終了させたことだけでも日本軍を歓迎してもよいではないか――そんな受け止め方が多かったのです。
 まさか日本軍が民間人を虐殺するなどとはまったく考えていなかったのです。
 もしそんな心配が前からあったなら、民間人はみな市内から逃げていたでしょう。」
 
 ダーティン氏のこの言葉も、「上海から南京への進撃途中に日本軍が中国人を大量虐殺した」という説に疑問符を突きつけている。
 もしそうした虐殺があったならば、南京陥落時に市内に中国民間人が多数、残っていて、歓迎の姿勢さえみせるということもなかったはず、と考えるのが自然だろう。
 では南京市内で日本軍に殺された中国側民間人の数はどのくらいなのか。
 ダーティン記者は12月18日付記事では「数千人にのぼった」と報じている。
 
 ――民間人の死者の数はもう少し具体的に推定はできなかったのですか。
 
 「ええ、数千という以上にはわからないですね」
 
 ――日本軍が攻略した時点での南京市内の総人口はどのくらいだったのですか。
 
 「私が自分の記事で報じたのはたしか50万だったか・・・・・あるいは30万だったか。とにかく近郊からの避難民もかなり流れ込んでいたわけですから・・・・」
 
 ――1937年12月12日付のダーティン特派員電のすぐ下に掲載されている上海発のハムレット・アベンド記者の報道は、南京市内にいる中国民間人の人数が30万人だとしていますね。
 
 「ああ、そうですか。それなら私もきっと30万人という推定をしていたと思います」
 
 ――ダーティンさんの一連の記事を読んでみると、南京市内の非常にくわしい状況が描かれていますが、自分自身での目撃、確認以外にはどんな情報があったのですか。
 
 「まず、中国軍の将兵や司令官にはわりに簡単に接触できました。私は中国語が少しはできたし、車を自分で運転していたから自由に動き、取材できました。
 また中国の外務省の職員もかなり残っていた。
 それからもちろんアメリカ大使館にごく少数だけれども信頼のできる外交官が残っていました。
 イギリスも武官のような立場の職員を残留させていた。また地元の大学のアメリカ人教職員や宣教師たちも貴重な情報源となりました」
 
 ――しかし日本軍はなぜとくに南京だけでそうした虐殺のような行動をとったのでしょうか。
 
 「いくつもの説があります。日本軍の上層部がそういう残虐行為を首都で誇示すれば、中国側を恐怖におののかせ、おびえさせ、蒋介石総統を降伏へと追い込めるのではないかと考えていた、というのがそのひとつです。
 それ以前にも日本の軍閥は『中国の挑発』をきびしく非難し、中国側の理不尽さを訴えるプロパガンダを打ち上げていました。
 中国側に対処するのはとにかく武力と残虐を示すことが最善という考え方があったのではないでしょうか。そういう考え方はなにも日本だけではありません」
 
 ――というと?
 
 「力のことさらの誇示というのは、それまでの1世紀以上も列強が中国に対してとってきた戦術だったのです。
 たとえばイギリスが中国に対しなにかを要求してすぐに得られなければ、砲艦を揚子江に派遣して、都市や町に砲弾を撃ちこんだわけです。
 フランスも同様でした。1900年の義和団事件でも列強が中国に対してとった行動は苛酷(かこく)で残忍でした。
 諸外国に間では中国にいうことをきかせるためには、断固たる実力を行使するのが唯一で最善の方法だ、というのが習慣的な考え方になっていたのです。
 日本もそうした態度をまねていたのではないでしょうか。
 そのほかに日本人は日本社会のなかではきちんとした行動規範を守り、責任感を持っているものの、中国のような外部に出るといっきょにそれらを捨てさる傾向がある、ともいわれていました。なにしろ当時は日本はアジアを支配する神聖な任務があると自称していたのですからね」
 
 ――でも虐殺によっては中国側を屈服はできなかったわけですね。
 
 「ええ、効果はむしろ逆でしたね。日本軍は南京での虐殺で中国側の以後の反抗の士気をかえって高めてしまったと言えます。
 それまでの中国人一般人は別に外国勢力に占領されても、それほどひどいことはなかったから、日本の占領下でもなんとか生きていけるだろう、という態度した。
 しかし南京での日本軍の行動により、日本軍に占領されたらとんでもないことになるという恐怖の念が中国側に広がり、日本軍への抵抗を極端に強くする結果となったのです。中国側が『焦土作戦』をより徹底して進めるようになったのもその結果です。のちに長沙が日本軍に占領されてそうなると、中国側が市街全体をすべて焼き払ってしまったのも、その一例です」
 
 ――当時、そうした日本軍の行動をみて、ダーティンさん自身は日本人に対しどんな感情を抱きましたか。
 
 「もちろんあんな残虐行為をはたらいた日本軍将兵には嫌悪を抱きました。強い怒りを感じました。
 かといって日本人全体を非難するという気持はなかったといえます。
 私自身がそれまでに人間のいろいろな姿を十分にみていたので、一群の人たちの異常な行動からその人たちの民族全体とか国民全体を非難するという気持ちにはならなかったのでしょう。
 日本民族が本来、残虐な性質を持っているなどとは思ったことがありません。
 ある意味では南京での虐殺も私にとってはたまたまそこで起こったひとつの出来事にすぎませんでした。
 なにしろ当時は戦争だったのです。歴史的にみても、この種の虐殺というのは少しも珍しいことではありません」
 
 ――しかしアジアの近隣諸国の間には「南京虐殺」をかつての大東亜共栄圏構想などとあわせて、日本が常にアジア制覇を仮借のない手段でめざそうとする警戒論の根拠にする向きもあるようです。
 
 「それはあまり根拠のない懸念や警戒心だと思いますよ。諸外国のリーダーが日本と競争する課程で使う一種の議論ではないでしょうか。
 たとえば近年、東南アジア諸国の指導者たちが「日本がまたアジアを侵略する」趣旨の発言をしますが、私はそうは思いません。それら指導者たちは自国での政治目的のためにその種の発言をする場合が多いようです」

何人が殺されたのか

 ――当時、日本人との接触はありましたか。
 
 「アメリカから中国への最初の船旅び途中では日本に2週間ほど滞在しました。
 丸の内のYMCAに泊り、日本食を食べ、あちこちを見学して、日本の人にも多数、会いました。
 このとき知り合った日本人たちからはきわめてよい印象を受けたのを覚えています」
 
 ――日中戦争が始まってからはどうですか。
 
 「南京攻防戦の際でも日本軍将兵の中には自制や寛容さをもって行動している人たちもいました。
 私自身、日本軍が市内を占領してすぐ、激しい戦闘のあったばかりの東方の城門で日本軍将校と話をしましたが、その将校がきわめて礼儀正しかったことを記憶しています。
 日本軍と接触した他の外国人たちからも理や情をわきまえているようにみえる将兵に会ったという話を聞きました。」
 
 ――日本軍兵士の残虐行為を制止しようとする将校もなかにはいたのでしょうか。
 
 「いや、私自身は少なくともそういう光景はまったくみませんでした。
 しかし戦後になって南京での行為の責任を問われて中国側に処刑された日本の将軍のひとりが、虐殺をとめようと努めたことを証する証人がいたということは聞いています」
 
 ――しかし捕虜の大量処刑や民間人の無差別な虐殺が力の誇示により中国側を心理的に屈服させるという目的でもしなされたとすれば、それは非人道的な軍事戦術の結果であり、日本軍の個々の将兵がとくに残虐であったことを必ずしも意味しないという解釈も成り立ちませんか。
 
 「いや、わたしは、その両面の面があったと思うのです。
 たしかに南京の日本軍の上層部のどこかで戦術的、政治的な目的のために中国人を無差別に殺すという決定が下されていたような印象が強かった。
 しかしそれを実行した日本軍将兵も非常に残忍でした。殺戮そのものに勢いがつき、多くの将兵がそれに巻きこまれてしまったともいえる感じがしました」
 
 ――日本軍のその種の非人道的な軍事戦略は南京以外ではあまりうかがわれなかったということでしたね。
 
 「日本軍は南京攻略のあと漢口を攻撃して占拠しましたが、私はそのとき漢口にいました。
 その際には無差別とか大量の殺戮というのはまったくみませんでした。
 中国の国民党政権が南京での虐殺を内外に向けて宣伝し、非難していたので日本側も気をつけるようになったのかもしれません」
 
 しかしダーティン氏が目撃して語る「南京虐殺」では軍民あわせてその犠牲者の数はどのくらいになるのだろう。
 すでに述べたように、ダーティン氏の当時の報道は中国側の軍人約2万人が処刑され、民間人数千人が無差別に殺された、と推定していた。
 ただしこの場合の「数千人」というのは英語では特にあいまいな表現である。
 ちなみにダーティン氏とともに当時、南京にいたシカゴ・デイリー・ニュースのスティール記者は1937年12月15日付の同紙の記事で、日本軍により処刑の形で殺された中国軍捕虜の数は「推定するには難しいが、5千人から2万人の間とみられる」と書いている。ダーティン報道と基本的には一致しているわけだ。
 民間人の虐殺については、スティール記者も「大規模で無差別の殺害」であったことを伝えており、犠牲者の数に関してはやはり「数千人」という表現を使っている。
 スティール記者のこうした推定数もダーティン記者同様に12月15日の時点までの報告である。
 両記者とも同15日にはアメリカ海軍の砲艦オアフ号に乗って南京を離れたのだ。
 犠牲者の総数の推定についてはダーティン氏に改めて尋ねてみた。
 
 ――南京で日本軍により戦闘以外で殺された中国の人たちですが、ダーティンさんの当時の報道では軍人の捕虜が2万人、民間人が比較的なニュアンスのある表現にせよ数千人とされていますね。
 
 「ええ、当時、できるだけ数多くの関係者に質問し、自分の体験や見聞も含めて推定した数だといえます。
 質問した相手のなかには日本側関係者もいました。
 中国外務省の職員たちもいました。しかしああした状況下では犠牲者の正確な数を推定することはきわめて困難なのは自明です。周知のように中国側は犠牲者30万と主張しています」
 
 ――ダーティンさんの報道した数字と中国側のその数字とではあまりにも差がありすぎますね。
 
 「すでに述べたように、私が南京にいたのは日本軍の占領から3日目の12月15日までですから、私が報道した数字はあくまでその時点のものです。
 南京占領後、日本軍の虐殺は2ヶ月以上つづいたといわれているのです」
 
 ――中国側のいう30万という数字の根拠についてダーティンさん自身はなにか知っていますか。
 
 「いや、私にはその根拠はわかりません」

今でも残念なこと

 それにしても最初の3日間の数字とはいえダーティン報道の「2万数千」と中国側の「30万」、東京裁判での「20万」という数字の間にはへだたりがありすぎる。
 日本軍が最初の3日間のペースをたとえそのままつづけたとしても、もう捕虜2万を超えてはほとんどいないはずである。
 民間人を「数千」ずつ殺しても毎日、同じペースで1ヶ月も2ヶ月もつづけなければ「30万」には達しない。しかも南京の総人口は30万とか50万とみつもられて状況下で、である。
 
 ――12月15日以降、南京市民が20万か30万人も殺されたとなると、想像もしなかったむごたらしい虐殺が目前で起きているのを知りながら市民あるいは市内の避難民は、別に逃げようともせず、じっとしていたことになりますね。
 
 「それはそうかもしれませんね。私にはそのへんのことはわかりません」
 
 ダーティン氏はそう言葉少なに答えながらも、中国側の「30万」という数字にとくに異をとなえるような発言もいっさい口にしなかった。
 そして逆に私に南京の虐殺を記念して中国側が建てた博物館をみたことがあるかと、問いかけてきた。
 私は「ありません」と答えた。
 
 「私は昨年、妻といっしょに見学しました。結婚50周年の記念旅行の途中でした。その博物館にははっきりと犠牲者の数が30万だったと書かれているのですね。見学にきている人の大多数が日本人なのにはやや意外な感じがしました」
 
 ダーティン氏はこんなことを淡々と語った。
 
 南京以降もダーティン氏はニューヨーク・タイムズ記者として戦争の報道をつづけた。
 戦後も中国で国民党と共産党との内戦をカバ―した。
 重慶とか延安をあわただしく駆けまわった。その後にはニューヨーク・タイムズの中国総支局長となり、短期間ながらも東京支局長の役をつとめたこともあるという。
 特派員生活を回想するうちに話はまた南京報道へともどった。
 
 「それにしてもいま思いだしても残念なのは、南京虐殺の第一報ではシカゴ・デイリー・ニューズのアーチボルド・スティール記者にわずかながらさきを越されたことですね。
 南京からは電報が打てず、2人でいっしょに砲艦オアフ号に乗り込んだのですが、艦内の無線士に海軍の無線で記事を送ってもらえないかと頼んだら「海軍の規則に反するから」と断られたのです。
 私はそれであきらめて、上海に着いてから送ることにしました。
 ところがスティール記者はあとでこっそり無線士に打電させていたのですよ。
 だから彼の記事が2、3日早く掲載されてしまった。でも内容は私の記事のほうが断然よかったという自身がいまでもあります」
 
 ダーティン氏は長いインタビューの最後にこんなことを言って、初めて愉快そうに顔をほころばせた。(文藝春秋89・10より)


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