『ニューヨーク・タイムズ』南京特派員 ティルマン・ダーディン記者報道

※N・Y・タイムズ 1937年12月18日 原本

1937年12月18日掲載記事(第一報)

捕虜全員殺害される


南京における日本軍の暴虐拡大し、一般市民にも死者


アメリカ大使館襲撃さる


蒋介石の戦術不手際と指揮官らの逃亡により首都失陥 


F・ティルマン・ダーディン

(12月17日、アメリカ船オアフ号〔上海〕発、ニューヨーク・タイムズ宛特電)南京における大残虐事件によって、日本軍は南京の中国市民及び外国人から尊敬と信頼を受ける乏しい機会を失ってしまった。
 中国当局の瓦解と中国軍の解体のために、南京にいた多くの中国人は、日本軍の入城と共にうちたてられると思った秩序と組織に、すぐにも応じる用意があった。
 日本軍が城内を制圧すると、これで恐ろしい爆撃が止み、中国軍から大損害を受けることも無くなったと考えて、中国人住民の間に大きな安堵の気持ちが広がったのである。
 少なくとも戦争状態が終わるまでは、日本軍の支配は厳しいものであろうとは思われていた。
 日本軍が占領してから三日の間に事態の見通しは一変した。
 大規模な掠奪・婦女の暴行・一般市民の殺害・自宅からの追立て・捕虜の集団処刑・成年男子の強制連行が、南京を恐怖の町と化してしまった。 

 多数の市民殺害される

 一般市民の殺害が拡大された。
 15日、市内を広く巡回した外国人は、あらゆる街路上で市民の死体を見た。犠牲者のうちには、老人や婦人や子供もあった。
 警官と消防夫が特に狙われた。犠牲者の多くは銃剣で刺殺されたが、あるものは野蛮なまでにむごたらしい傷を負っていた。
 恐怖や興奮にかられて走るものや、日没後に街路や小路で巡察隊に捕まったものは、誰でも殺される恐れがあった。多くの殺害が外国人の目撃するところとなった。
 日本軍の略奪は市全体といってもよい程だった。建物はほとんど軒並みに日本兵に押し入られ、それもしばしば将校の見ている前で行われていたし、日本軍は何でも欲しいものを奪い取った。日本兵はしばしば中国人に略奪品を運ぶことを強制した。
 最初に要求されたのは食料であったことは明らかである。それに続いてその他、有用な品物や貴重品がやられた。
 特に恥ずべき行為は日本兵が難民から強奪をしたことで、難民収容所の集団捜索を行った兵士が金銭や貴重品を奪い、時には難民の所持品全部を取り上げることもあったのである。
 アメリカ宣教師の大学病院(鼓楼病院)の職員は現金と時計を略奪された。その他の所持品が看護婦寄宿舎でも奪われた。
 アメリカ系の金陵女子文理学院の学部事務館に日本兵が侵入し、食料や貴重品を略奪した。

 アメリカ外交官私邸が襲わる

 アメリカ大使の私邸さえも襲撃を受けた。
 パラマウント社のニュース・カメラマンのアーサー・メンケン(Arthur Menken)と記者は、興奮した大使館勤務員たちから侵入の通報を受けて、大使の台所で日本兵5人と対決し、退去を要求した。
 兵士たちは不満顔ですごすごひきあげた。彼らの略奪品は懐中電灯一本だった。
 多数の中国人が、妻や娘が誘拐されて強姦されたと、外国人に報告した。
 これらの中国人は助けを求めたが、外国人は大抵は助けようにも無力であった。
 捕虜の集団処刑が、日本軍が南京にもたらした恐怖を、一層増大させた。
 日本軍は、武器を捨て降伏した中国兵を殺してから、元中国兵と思われる私服を着た男子を求めて市内をくまなく探し回った。
 難民区のある建物で400人の男子が捕まった。
 彼らは50人ずつ一群に数珠つなぎに縛られ、小銃を持った日本兵と機関銃兵の隊列に挟まれて、処刑場へと護送された。
 記者は上海行きの船に乗船する直前、バンドで2,000人の男子が処刑されるのを見た。殺害には十分間かかった。男たちは壁の前に一列に並ばされて銃殺された。それからピストルで武装した日本兵多数が、くしゃくしゃになった中国兵の死体のまわりを無頓着に踏みつけて歩き、まだ手足を動かすものがあれば弾丸を撃ち込んだ。
 この身の毛のよだつような仕事をやっている陸軍の兵隊は、バンド沖に停泊している軍艦から海軍兵を呼んで、この光景を眺めさせていた。
 これを見学する軍人の大群はこの見ものに大いに興じている様子だった。
 日本軍の先頭部隊が南門(中華門)から中山路(中山北路)を市のビッグ・サークル(新街口)の方へ行軍した時には、少人数ずつ固まった中国人一般市民はどっと歓呼の声を挙げたのである。
 包囲攻撃が終わったことで市民たちの安堵の気持ちは極めて大きく、日本軍が平和と秩序を回復するだろうという希望も大変大きかった。が、今では日本軍に歓呼を送るものは南京には一人もいない。
 日本軍は南京の町と住民から略奪を行って、中国人に憎悪の念を深くうえつけた。
 その押し付けられた憎悪は、様々な反日のかたちをとって、何年間もくすぶり続けるであろうが、東京はそうした反日感情を中国から絶滅するためにこそ戦っていると公言している。

 南京陥落の惨害

 南京占領は中国軍の蒙った大敗北であり、近代戦争の歴史においても最も悲劇的な軍事的壊滅であった。
 中国軍は南京を防衛しようと企図して自ら包囲におちいり、ついで組織的に殺害されるに至った。
 この敗北は、何万という訓練された兵隊と何百万ドルの装備の損失をもたらし、揚子江流域の中国軍の士気を低下させた。
 戦争初期にあっては、その勇気と気力によって、中国軍は二か月近くも日本軍の進攻を上海周辺にくぎづけにしていたのであったが。
 ドイツ人軍事顧問団の一致した勧告と軍事委員会副参謀長白崇禧将軍の意見にそむいて、あの徒労に終わった南京市の防衛に許可を与えたこのことについては、その責任の大半は蒋介石総統にある。
 より直接に責任を負う者は、唐生智将軍とその麾下の師団指揮官らであって、彼らは部隊を見捨てて逃亡し、日本軍の先頭部隊の入城につづいて生じた絶望的な状況に対して最善の努力をつくそうとさえしなかった。
 多くの中国軍兵士にとっては二、三の出口しか逃げ場が無かった。
 若干の戦略地点に部隊を配置して、侵略軍を食い止めながら他の部隊の撤退をはかるため部下に陣地を固守させるということもせずに、指揮官の多くが逃走してしまい、部隊に大混乱をひきおこした。
 下関(シャーカン)へ通じる門を通って脱出し、そこから揚子江を渡ることに失敗した者は、捕らえられて処刑された。
 南京の陥落は、日本軍入城の二週間前から細部にわたって予見されていた。
 日本軍は広徳周辺および北方で対戦した装備の劣った中国軍を席巻し、南京入城の数日前に揚子江沿いに南京の上流にある無湖その他の地点を突破して占領した。
 こうして日本軍は中国軍の川上への退路を断ったのである。

 中国軍の三分の一、袋のネズミ

 日本軍は下関(シャーカン)門を占領すると、市の出口を全部遮断したが、その時少なくとも中国軍部隊の三分の一がなお城内にあった。
 中国軍は統制がとれていなかったために、多数の部隊が火曜日(14日)正午になっても戦闘を続けており、これらの多くは日本軍に包囲されていて、戦っても見込みがないということを知らなかった。
 日本軍の戦車隊がこれらを組織的に掃討した。
 火曜日の朝、記者が自動車で下関(シャーカン)へ向かおうとすると、およそ25名の惨憺(さんたん)たる姿の中国兵の一団に出会ったが、彼らはまだ中山路の寧波ギルドのビルに立てこもっていた。
 その後、彼らは降伏した。
 無数の捕虜が日本軍によって処刑された。
 安全区に収容された中国兵の大部分が集団銃殺された。
 肩に背嚢(はいのう)を背負ったあとがあったり、その他兵隊であったことを示すしるしのある男子を求めて、市内で一軒一軒しらみつぶしの捜索が行われた。
 こうした人々は集められて処刑された。
 多くのものが発見されたが、その中には、軍とは何のかかわりもない者や、負傷兵や、一般市民も入っていた。
 15日には、記者は数時間のうちに三度も捕虜の集団処刑を目撃した。
 そのうちの一度は、交通部付近の防空壕のところで100人以上もの兵士に戦車砲を向けて処刑するといったものであった。
 日本軍の好んだ処刑法は、十何人もの男を塹壕(ざんごう)内に掘った横穴の入り口に一緒に立たせて銃殺するやり方で、こうすれば死体が豪内に転げ落ちる。
 そこで土を掛けて埋めてしまうわけである。
 日本軍が南京包囲網攻撃を開始して以来、市内には恐ろしい光景を(てい)していた。
 中国側の負傷兵看護施設は、悲劇的なまでに不足しており、一週間前でさえも、すでに負傷者がしばしば路上に見られ、びっこを引いて歩いている者もあれば、治療を求めてのろのろさまよっている者もあった。

 一般市民に負傷者多数

 一般市民の死傷者数もまた多く、何千にも上っている。
 開いている唯一の病院はアメリカ人経営の大学病院(鼓楼病院)で、その設備は負傷者の一部を入れるにさえ足りなかった。
 南京の路上には死体が累々としていた。
 時には、死体を前もって移動してから、自動車で通行することもあった。
 日本軍の下関(シャーカン)占領によって守備隊の大量処刑が起きた。
 中国兵の死体は砂嚢(さのう)の間に山積みにされ、高さ6フィートの塚をなしていた。
 15日の夜がふけても日本軍は死体を片付けず、しかも、2日間にわたり軍用車の移動がはげしく、死体や、犬・軍馬の死骸の上を踏みつぶしながら進んでいった。
 日本軍は、日本に抵抗すればこのように恐ろしい結果になると中国人に印象づけるために、恐怖ができるだけ長く続くことを望んでいるような様子である。
 中山路の全域にわたって汚物・軍服・銃・ピストル・機関銃・野砲・軍刀・背嚢(はいのう)が散乱していた。
 日本軍がわざわざ戦車を出動させて道の瓦礫を片付けねばならないところもあった。
 中国軍は中山陵園の立派な建物や住宅を含めて、ほとんど郊外全部を焼き払った。
 下関(シャーカン)一体は焼け落ち、大廃墟と化した。
 日本軍は立派な建物を破壊するのを避けたようである。
 占領にあたって空襲が少なかった事は、建物の破壊を避ける意図からであったことを示していた。
 日本軍は建物が立て込んだ地域に中国軍が集結していたところでさえも爆撃を避けたが、これは建物を保存するためのものらしかった。
 交通部の立派な建物がしないで破壊されたゆいいるの政府関係のビルであった。
 これは中国軍によって放火されたのであった。
 今日、南京は恐怖政策に脅かされた住民を擁しており、彼らは外国人の支配のもとで市と責苦と強盗を恐れて暮らしている。
 何万という中国兵の墓場は日本の征服に抵抗する中国人の希望の墓がでもあろう。


1938年1月9日 ニューヨークタイムズ 掲載記事
※ N・Yタイムズ 1938年1月9日 原本

 南京侵略軍2万人を処刑


 日本軍による大量殺害―一般市民を含め死者3万3000人


 征服者の無軌道なふるまい


 暴行によってしみ込まされた根深い憎しみ
 中国軍の焼き払いによる被害甚大


 F・ティルマン・ダーディン

 (上海12月22日、ニューヨーク・タイムズ宛航空便)
 南京攻防戦が近代戦史のもっとも悲劇的な物語として歴史に残るものとなる事は疑いない。
 中国軍は、近代軍事戦略の指示するところにすべてそむき、南京の防衛を行うにあたって、みずから罠にかかって包囲されるにまかせ、少なくとも3万3000人と数えられる兵力がせん滅された。
 これは南京保衛軍のおよそ三分の二にあたるもので、そのうち2万人が死刑に処された。
 攻防戦は、多くの面で、概して前近代的であり、中世的であった。
 城内での中国側の防禦(ぼうぎょ)、首都周辺数マイルに及ぶ村・住宅・繁華な商店街の中国軍による全面的な焼き払い、それに日本軍が南京占領後におこなった殺害・強姦・略奪など、すべてがはるか昔の野蛮な時代の出来事のように思われる。
 南京を失った事による中国側の損失は、ただに首都を失った以上のものである。
 中国軍は何物にもかえがたい士気を失い、多数の人員を失った。
 中国軍は、上海から揚子江下流流域にわたり日本軍と正面戦争を行って粉砕された。
 それで、もはや彼らは再集結して日本軍に対して効果的に集団的抵抗をおこないうるかどうか疑問である。
 日本軍にとって南京占領は軍事的・政治的にきわめて重要な事であった。
 しかし、その勝利は、野蛮な残虐行為により、捕虜の大量処刑・市内の略奪・強姦・一般市民の殺害により、また無軌道行為の蔓延によって台無しとなった。
 こうした行為は日本軍と日本民族の名声を汚すものとなろう。

 攻撃されやすい地点にある南京

 南京の防衛が不可能ある事を理解するには、市が揚子江の屈折点にあり、それまで北に流れていた河流がここで東に変わるという点に注目する必要がある。
 このことから容易に見て取れるのは、わずかに城内地区と市のすぐ郊外に駐留している防衛軍は、攻略軍が市の上流及び下流での右岸に陣取れば、三方から包囲されるということである。
 中国軍部は日本軍が攻撃力を集結していることを知っていたからには、以上の事を実際に侵略者がおこないうることを察知すべきであった。
 現に日本軍は蕪湖と蕪湖・南京間の諸地点を突破し占領してからまる三日で、このかつての首都に入城した。
 日本軍は南京の上流で揚子江の右岸に沿う最初の地点に進出して、蕪湖占領後は南京を中心に半円形を描いて、揚子江岸を除いた全地点から同市をしめあげることが出来た。
 中国軍は必要の場所には、河岸通り地区を通る脱出路に頼り、揚子江を渡河することも出来たという人もあろう。
 この河岸通り、つまり下関(シャーカン)地区へ行くには、下関門(?江(ゆうこう)門)が通路になっている。
 本来、揚子江への脱出路に頼れることは賢明ではなかった。
 というのは、防材によって南京下流で艦隊の進路を阻止しようとしても、結局のところ、日本の艦隊は、陸軍による包囲のコースで下関(シャーカン)沖に到着し、中国軍の揚子江左岸への脱出を不可能にするであろうからである。

 退却は問題外

 南京保衛軍のうち、わずか2、3000名でも渡河して撤退出来ようとは、中国軍司令部も予期しなかったことは明らかである。
 その証拠には、南京攻防戦の期間中、ジャンク・蒸気艇各数隻の他には、渡河手段を全然もっていなかったのだ。
 事実、そこから当然出てくる結論であるが、南京保衛軍総司令官唐生智将軍とその麾下の司令官らが、攻防戦を目前にして中国軍の一兵たりとも退くことは問題外であると言明したのは、事実そのつもりであったのであり、中国軍指揮官の真意を表明したものであったのである。
 言いかえれば、中国軍指揮官は、中国軍が南京の城壁内に完全に包囲され、袋のネズミとなって、日本軍の陸海軍砲兵隊と飛行機の猛攻を受けて粉砕されることを充分承知のうえ、中国人にきわめて尊ばれているあの雄々しい最期をとげると言う振る舞いによって、日本軍に出来るだけ高価に市を占領させようと考えて、上記のような状況のもとにみずからをおくことを、自発的に選んだ事は明らかである。
 事態の全体を通じて不真面目なことは、中国軍部がしばしば言明していた明白な意図を実行し通すのに必要とされる勇気を欠いていたことある。
 日本軍は城壁の西南部を突破することに成功したが、下関へ通じるうしろの門はまだ開いていたとき、日本軍の包囲が急速に強まり、艦隊が接近しつつあったとはいえ、唐生智将軍とその直属の部下は、自ら逃亡し、後に下級指揮官らとほとんど指揮員もない軍隊を残して、絶望的な状況に陥るままに任せたのである。
 このことにつき彼らはその場での何の説明も与えなかったようである。

 将校は知らせられなかった

 12月12日、日曜日の夜八時、唐生智がボートに乗って揚子江左岸へ脱出したことは疑いない。
 麾下の司令部の多くの将校たちは、彼の意図については知らされていなかった。
 記者の知る一大尉は自分の上官が退却してしまったことを夜中近くになって知り、自分も逃れようとしたが、気がついて見ると、その頃までには、進攻して来た日本軍が西側から城壁の周りを掃討し、下関(シャーカン)地区を占領しつつあったのである。
 この大尉は、結局降伏により安全を求めようとして、内側から城壁をよじ登った中国の兵士たちが残していった軍服をロープ状にしたものを使って城内に戻った。
 ところで、南京市の防衛を試みるうえで中国軍の戦略的位置の絶望的なことは、包囲の顛末それ自体によっても、また占領の顛末によっても、十二分に示しうるのである。
 日本軍は、江陰の堡塁を落とし、常州を占領した後、無錫から北方、揚子江に至る揚子江流域全線にわたって、劇的な速度で軍を進め、数日のうちに南側の広徳を占領し、北側の鎮江に迫った。
 そして丹陽を占領した後、句容付近で所謂、南京城外の防衛線を攻撃しつつあった。
 句容の防衛線は、南京から放射状に各々数マイルの間隔を置き、城壁を中心としてシンメトリカルに同心円を描いて設けられている、
 他の7つの防衛線と同時に、強固に防備を固め用意周到であると、何か月も前から言われていた。
 実際のところは、南京からおよそ25マイルの句容を通る永続的な防衛線は、防禦施設を視察した中立国の外国人観察者の確かめた限りでは、見かけだけのもので、ところどころにトーチかがあるばかりであった。
 その他の防備といっても、急造のバリケードを寝台の枠を支柱にして砂嚢や驚くほど雑多ながらくたと土砂を積み上げて作っただけのものであった。
 その上に機関銃座が設けられていた。
 中国軍が退却する際に道路や橋は爆破された。

 広東軍の死者多数

 南京包囲の日本軍に対抗したのは、広東軍数個師団、江西軍2、3個師団、若干の湖南軍、さらに城内では36師、第88師及びいわゆる南京師団であった。
 広東軍部隊は上海付近から日本軍の前面を退却する間、何週間も日本軍の砲撃にさらされてきた。
 かつては蒋介石総統の精鋭軍であった第36師と第88師は、上海付近で大損害を蒙っていた。
 これらの師団は南京に退却して新兵を補充した。
 蘇州と句容の間で日本軍の進攻に第一線に立って抵抗してきた四川軍の大部分は蕪湖に向かって退却し、蕪湖からは揚子江を渡河してしまい、南京市の戦闘には加わらなかった。
 南京市内外の中国軍の戦力がどれほどであったか正確にあげるのは難しい。
 ある観察者たちの推定では、南京防衛戦には16個師団が参加したという。
 この数字は正確とみなされる。
 中国軍の師団は平時においてさえも、平均してわずか5000名編成にしか過ぎない。
 南京を防衛して痛撃を蒙った師団は、少なくとも場合によってはそれぞれ2、3000名の編成であったこともありうる。
 約5万人の軍が南京防衛に参加して、袋のネズミになったといっても間違いない。
 12月6日、月曜日の夜、句容が日本軍の手に落ちた。
 そこで日本軍は三方向から城壁に向かって進撃を開始した。
 句容からは別の一隊が秣陵関を攻撃し、天王寺からは主力軍が淳化鎮へと進撃した。

 中国軍による焼き払いの狂宴

 日本軍が句容を越えて進撃始めた事が中国軍による焼き払いの狂宴の合図となったが、これは明らかに城壁周辺で抵抗するために土壇場の準備をおこなっているものであった。
 中国の「ウェスト・ポイント」である湯山には砲兵学校と歩兵学校、それに蒋将軍の夏期臨時司令部が置かれているが、そこから南京市へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんど全ての建物に火がつけられた。
 村ぐるみ焼き払われたのである。
 中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校・農業研究実験室・警察学校その他多数の施設が灰燼(はいじん)に帰した。
 火の手は南門周辺地区と下関にも向けられたが、これらの地区はそれ自体小さな市をなしていたのである。
 中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、ゆうに2000万ドルから3000万ドルにのぼった。
 これは南京攻略に先立って何か月も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きいが、恐らく実際の包囲期間中における日本軍の爆撃によって、また占領後の日本軍部隊によって生じた損害に等しいであろう。
 中国軍部は南京市周辺全域の焼き払いを軍事上の必要からだといつも説明して来た。
 城壁周辺での決戦で日本軍が利用できそうなあらゆる障害物、あらゆる隠れ家、あらゆる施設を破壊することが必要だと言うのだ。
 この目的の為に建物ばかりでなく、樹木・竹やぶ・茂みなどもすっかり取り払われた。
 中立国の観察者の信じるところでは、この焼き払いもまた、かなりの程度は中国人の「もったいぶったジェスチャー」であって、怒りと欲求不満のはけ口であった。
 それは中国軍が失えば日本軍が使用するかもしれないものはすべて破壊したいという欲望の表れであって、日本軍が占領する中国の各地方を、征服者には何の役に立たない焦土にしておこうというのであった。
 とにかく中立国軍事観察者は、中国軍の焼き払いは軍事目的にほとんど役に立たないとみる点では一致している。
 多くの場合、焼け焦げた家の壁にはそっくりそのまま、焼けていない建物と同様に、日本軍の機関銃兵にかっこうの援護物となった。
 12月6日・7日、火曜日(ママ)・水曜日(ママ)いっぱい、日本軍は東流鎮・淳化鎮・?陵関へと進攻を強め、鎮江の占領によって左翼を固めたが、そこでも中国軍は退却の前に焼き払いの狂宴を現出した。
 その間、日本軍の右翼は広徳付近で中国軍の抵抗線を突破して急速に蕪湖へ迫りつつあった。
 蕪湖は木曜日・金曜日に占領された。
 木曜日(8日)の夜明けに蒋総統・同夫人と側近は総統専用の飛行機二機に乗って南京を脱出し、湖南省の長沙近くの衡山へ向かった。
 総司令官の退去は南京包囲網が事実上始まった事を認めることになった。
 総統の退去と同時に、政府高官と南京防衛に直接参与していなかった軍指導者の少数も自動車で去った。
 水曜日以後は唐生智将軍が南京の最高責任者となった。
 水曜日に日本軍飛行機が淳化鎮の小村にある中国軍陣地に爆弾の雨をふらせ、その後、日本軍はそこを占領した。
 淳化鎮は南京の城壁からわずか6マイルしか離れていない。
 句容と?水から進軍した日本軍に中国軍が激しく抵抗したことに疑いはない。
 しかし、防衛の行動は貧弱で、中国軍の装備では断固としてもちこたえることは不可能であった。
 日本軍機は中国軍機を発見しては思う存分に爆撃することができたし、中国軍の位置を日本軍の野戦隊に報告することも出来た。
 日本軍の進攻を戦車と装甲車が先導したが、これらに対して中国軍の機関銃とモーゼル銃は何の役にも立たなかった。 

 砲兵ほどんど役立たず

 中国軍砲兵隊も、砲主たちが敵の所在を知らないのでほとんど役に立たなかった。
 中国軍機は日本軍が南京攻略を開始する前からすでに戦闘に参加していなかった。
 それで中国陸軍には観戦者が無く、陸軍は「盲滅法」に戦闘を行い、敵軍と実際に遭遇するまで侵略軍がどの位置にいるかを知らなかったのである。
 日本軍の位置について何の報告もなかったので、下関付近の獅子山上・紫金上・南門外側および城内の泰沽山(訳音)付近の丘の上に据え付けられた高価な陣地砲も、守備軍にとってはほとんど役に立たなかった。
 砲門を開いた時も、日本軍の砲撃によってまもなく沈黙させられた。
 木曜日(9日)、日本軍が淳化鎮から城壁に向かって進撃を開始すると、南京は恐怖にとらわれた。
 城壁の周囲のあらゆる地点で荒れ狂う何百という放火の硝煙にふちどられ、安全区は難民でごった返し、街路には兵隊があふれ、安全区外の全地区に前線戒厳令の鉄の規律がしかれ、日本軍機は終日、南京周辺部の爆撃を続け、ずたずたになった負傷者が市内に流れ込んできた。
 南京は見るも恐ろしい光景を呈した。
 アメリカ大使館の二等書記官ジョージ・アチスン二世(George Acheson Jr.)、その補佐をしていた二等書記官J・ホール・パクストン(J.Hall Paxton)、武官補のフランク・ロバーツ大尉(Captain Frank Roberts)をはじめ、居残っていた外国人外交官は、事態が悪化したからという中国当局のすすめで、木曜日の夕方、江岸地区へ脱出し、下関からボートに乗って避難した。
 これらのアメリカ人はアメリカ砲艦パネー号(Panay)に乗船した。

 日本軍はスパイの助けを得た

 木曜日の夜、淳化鎮にいた日本軍は突如として南京市の城壁に迫った。
 日本軍はスパイを通じて大校場軍飛行場の中国軍守備隊が交代するを知り、突撃して、真夜中までには飛行場とその周辺の兵舎を占領した。
 日本軍は門外に飛行場がある光華門さえ脅かすことができたが、中国守備隊は時期を得てもりかえし、それを押し返した。
 その後、中国軍の私服が大校飛行場兵舎に火を放ち、日本軍はその火の手の中で総攻撃を蒙ったが、彼らの進攻は阻まれず、金曜日(10日)の午前中には光華門を脅かしたばかりでなく、すぐ近くの通済門及び離れた南門すなわち市の最大の城門である中華門を有効射程距離に入れるまで、先発隊の作戦行動をすすめるに至った。
 金曜日、砲兵隊がやってきて城門を砲撃する一方、飛行場がこれらの大きな構築物を爆撃し、また城壁周辺に集結していた中国軍の中に爆弾を投下した。
 金曜日、短時間、外国人外交官らが上陸したが、中国当局から新たな警告を受けて、午後3時にはそれぞれの船に戻った。
 その後まもなく日本軍機が揚子江左岸にある浦口を空襲し、パネー号からわずか200ヤードしか離れていない水中に爆弾を投下した。
 J・J・ヒューズ海軍少佐(Lient. Commander J.J.Hughes)はその後すぐに艦を川上の三叉河においてパネー号は河岸の英国亜細亜火油公司(The British Asiatic Petroleum Company)の施設にある電話を通じて、城内に残留しているアメリカ人と金曜日から土曜日の午後まで連絡を取っていたが、その時になると、日本軍が三叉河付近の中国軍陣地を長距離砲撃したで、その位置にとどめる事ができなくなった。
 パネー号は外交官と一般市民の難民をのせて南京を去り再び戻ることは無かった。
 艦はその翌日、日本軍の攻撃を受け、その反響が世界中に広まった。
 一方、金曜日には、日本軍が南京の古城壁に包囲攻撃を始めていたとハッキリ言う事が出来る。

 中国軍なおも持ちこたえる

 金曜日からその翌日に掛けて、中国軍部隊多数が、市の東部および東南部の城壁周辺何マイルにもわたる地域を、なおも保持していた。
 時には丘上で包囲されても、日本軍が終結して掃討作戦を行おうとすると、決死的に反撃して手痛い犠牲を払わせた。
 中山陵園地域が激しい機関銃撃戦の舞台となった。
 しかし、中国軍の大部分は金曜日の夜更けまでには城内へ撤退した。
 包囲攻撃の一週間前に、中国軍は全城門の徹底的なバリケード化をはかり、主な城門を通る狭い通路を残して、他は完全に閉鎖してしまった。
 城門は内側から厚さ20フィートに砂嚢を積み重ねて支えられ、さらにコンクリートで補強されていた。
 包囲攻撃の後では、記者は日本軍が爆撃した城門の全部を見てまわることは出来なかったが、中山門と南門には日本軍の砲撃によって破られた跡は全く見られず、中国側のバリケードの威力はあらゆる点で証明された。
 日本軍は城門から南京に一番乗りしたわけでは無く、梯子(はしご)を使って城壁を乗り越えたのである。
 木曜日の夜、日本軍が城壁に達した後、城内は余すところなく戦場の観を呈した。
 中国軍はしないに路上のバリケードを急いで作り、ほとんど十字路ごとに鉄条網が張られた。
 一方、郊外のまだ日本軍に占領されていなかった諸地域、特に下関地区では焼き払いが続いた。
 土曜日には日本軍は腰をすえて集中攻撃をおこなった。
 彼らは重砲を持ち出して城内の多くの地域を砲撃し始めた。
 安全区内の多くの地点に弾が落下した。
 中山路の福昌(訳音)飯店の前後に落ちた砲弾で多数の一般市民が死亡した。
 他にもアメリカの伝道事業である金陵神学院に近い五台山が砲撃された。
 しかし、安全区の砲撃は故意に行われたとも、一貫して行われたものとも見えず、恐らく新たに砲座を設けた際、その着弾距離を定めようとした時になされたものであろう。

 激烈な機関銃戦

 土曜日(11日)には激烈な戦闘が目立った。
 敵味方共に城壁周辺一帯で激しく機関銃を射ち合い、中国軍は胸壁の上から発射して、多くの場合、城壁のすぐ外側にあった日本軍とまだ戦っていた。
 日本軍は砲撃を強め、南門のすぐ内側に集結していた中国軍部隊と、市内の丘の上にある中国軍の砲台に、特に砲火を集中した。
 日本軍はまた榴散砲を集中して使い始め、中国軍が保持する諸地区に続けざまに砲撃を浴びせた。
 飛行機も中国軍陣地の爆撃を続けた。
 日本軍は徐々に城壁周辺に進出し、土曜日の夜には西門すなわち漢西門を攻撃し、和平門すなわち北側正門を脅かしうるに至った。
 中国守備軍の中である種の戦争ヒステリーの感情が目に付くようになってきた。
 多数が包囲されて死なねばならぬと言う現状を全員が知りつつあった。
 記者の見たところでは、ある一分隊は街角のバリケードを作り終えたばかりであったが、沈痛な面持ちで半円形をなして集まり、死んでも部署を守り抜こうと誓いを立てていた。
 土曜日には、中国軍による市内の商店に対する略奪も拡がっていた。
 住宅には手を触れていなかったし、建物に入るために必要な限りの破壊にとどまっていた。
 略奪の目的が食糧と補給物資の獲得にある事は明らかであった。
 南京の商店は安全区以外では経営者が逃げてしまっていたが、食糧は相当に貯蔵してあった。
 日曜日(12日)朝も日本軍は集中砲撃を続け、城内の西門から南門の間の地域は弾幕砲火の的となった。
 中国軍の防衛の衰えが目立ってきた。
 外国人が接触した将校たちは懸念の増大しつつあることを認め、士気の低下は明白となった。
 日曜日の正午過ぎに、日本軍は周壕の上に急造の橋を渡してから直き、初めて城壁を乗り越えてきた。
 日本軍は重砲弾幕の援護を受けて行動し、漢西門近くの城壁をすべりおりた。
 近辺の中国軍は逃走して、市内に流れ込み、安全区を横切った。
 第88師の部隊がそれを阻止しようとして失敗した。
 まもなく下関門を目指して総退却が始まった。
 退却も一時は整然としたものであったが。
 分遣隊の一部は城壁のところで戦闘を続け、日曜日の朝までは、日本軍の市内のかなりの地域を占領するのをどうにか阻止した。
 午後も遅くなって、多数の中国軍兵士が下関門にある狭い出口を押し進もうとして大混雑が起こった。
 門を通り抜けようとして、彼らは恐慌(きょうこう)状態に陥った。
 何百人の兵士が衣服をロープ状につなぎ合わせ、それを使って城門を滑り降りようとした、午後8時に唐将軍がひそかに市から脱出した。
 その他の高級指揮官も同様に市を去った。
 夕方には退却する中国軍は暴徒と化していた。
 中国軍は完全に壊滅した。
 中国軍部隊は指揮官も無く、何が起こったかも知らなかったが、ただ分かっていたのは戦いが終わり、何とか生き延びねばならないということだった。
 市内にいる外国人は、中国軍の壊滅にともなって袋のネズミとなった敗残兵がありとあらゆる非道行為を犯すのではないか、と心配したが、放火がぼつぼつあった他は何もなかった。
 中国軍は悲劇的なまでにおとなしかった。

 軍服も武器も捨てて

 日曜日の夕方には中国軍は安全区全体に拡がり、多数の者が軍服を脱ぎ捨て始めた。
 通りすがりの一般市民から便服を盗んだり、頼んでゆずってもらったりした。
 「一般人」が一人もいない時には、それでも兵士たちは軍服を脱いで下着一枚になっていた。
 軍服と共に武器も遺棄されて、街路は小銃・手りゅう弾・剣・背嚢(はいのう)・軍服・軍靴・ヘルメットでうずまるほどであった。
 下関門付近で遺棄された軍装品の量はおびただしいものだった。
 交通部の前から2ブロック先までは、トラック・砲・バス・指揮官乗用車・荷馬車・機関銃・小火器がゴミ捨て場の様に積み重なってあった。
 真夜中にこの200万ドルもする市内でもっとも立派な建物に火がつけられ、内側に貯蔵してあった弾薬が何時間も爆発を続けて、それはものすごい有様であった。
 建物の外のゴミの山にも引火して、翌日遅くまで燃え続けた。
 砲車をひく軍馬も炎に包まれ、その悲鳴が現場の光景を一層凄惨なものにしていた。
 大火災によって下関に通じる幹線道路である中山路は封鎖され、裏通りは混雑を極めた。
 中国軍部隊数千が下関に辿り着き、数隻のジャンクを使ってバンドから揚子江を渡った事は疑いない。
 が、多数は江岸で恐慌状態のうちに溺死した。
 しかし、日曜日の何時頃だったか、日本軍部隊が下関地区を占領し、城壁を完全に包囲した。
 城内に残った中国軍は完全に閉じ込められた。
 下関地区で捕らえられた中国軍は計画的に殲滅(せんめつ)された。

 中国軍の集団投降

 月曜日(13日)いっぱい、中国軍部隊の一部は市内の東部および西北地区で日本軍と戦闘を続けた。
 しかし、袋のネズミとなった中国軍の大部分はもう闘う気力も無かった。
 何千という兵士が外国人の安全区委員会に出頭し、武器を捨てた。
 委員会はその時は日本軍が捕虜を寛大に扱うだろうと思っていたので、降伏してくる者を受け入れる他なかった。
 中国軍の多くの集団が個々の外国人に身を任せ、子供の様に庇護(ひご)を求めた。
 月曜日の夜遅くには、日本軍は散発的な小戦闘の後で市の南部・東南部・西部地区を占領していた。
 火曜日(14日)の正午までに、なおも武器を取って抵抗していた中国兵は全て排除され、日本軍が完全に市を支配した。
 日本軍は南京占領の際に殺人・略奪・強姦にふけったが、その野蛮ぶりは、今度の中日間の戦争行為でこれまでに犯された残虐行為を凌駕(りょうが)するものであった。
 日本軍のとどまるところの無い残酷さは、ヨーロッパの暗黒時代の蛮行、あるいは中世アジアの征服者達の残忍な行為にのみ比肩(ひけん)しうる。
 無力となった中国軍は大部分、武器を捨てて降伏しようとしていたが、計画的に狩りたてられ処刑された。
 安全区委員会に投降して難民収容所に収容されていた多数の兵士は、組織的にひきずり出され、後手に縛り上げられて、城門外の処刑場へ拉致されていった。
 塹壕内の横穴に隠れていた兵士の小さな集団は狩りたてられ、防空壕の入り口で銃殺されるか、刺殺されるかした。
 それから彼らの死体は横穴に投げ込まれて埋められた。
 縛り上げた兵士の群れに向かって戦車の砲口を向けたこともあった。
 もっとも一般的な処刑方法はピストルで射殺することだった。
 南京市内の青年男子は誰もが、日本軍から元中国兵との疑いを掛けられた。
 肩をさぐって背嚢(はいのう)と銃を担いだあとがあるかどうかを調べて、無辜(むこ)の男子から兵士を見分けようとするのであったが、もちろん多くの場合、軍とは全然関わりの無い人々が処刑されてるグループに入れられた。
 元兵士でも見逃されて逃れる者もあった。
 日本軍自身、南京掃討の最初の三日間で中国兵1万5千人を逮捕したと発表した。
 その時、日本軍は、市内にはまだ2万5千人の兵士が潜んでいる、と主張していた。
 上記の数字は南京市内に閉じ込められた中国軍の数を正確に表している。
 恐らく日本軍のあげた2万5千という数字は誇大であろうが、およそ2万人の中国兵が日本軍によって処刑されたことはありうる。
 一般市民も男女・年齢を問わず日本軍によって射殺された。
 消防夫及び警官が日本軍によってひんぱんに犠牲となった。
 日本兵が近づいてくると、興奮か恐怖に駆られて逃げ去る者は、射殺される恐れがあった。
 日本軍が市の統制を固めつつある時期に外国人が市内を見廻った頃、連日のように一般市民の死者が出ているのを見た。
 老人が舗道にうつぶせになっているのをしばしば見かけたが、これらの人々は気まぐれな日本兵に背後から射殺されたことは明らかである。
 日本軍占領者の犯した罪の主だったものの一つは略奪である。
 日本軍はある地区を十分掌握してしまうと、そこにある家全部に略奪を欲しいままにした。
 最初は食料を要求するように見えたが、価値あるものならば何でも、特に持ち運びが容易な物は好き勝手に奪い取った。
 家の住人は強奪を受けて抵抗すれば射殺された。

 外国人建物も略奪を受ける

 難民収容所にも日本兵が押し入り、多くの場合、難民は持ち合わせた数ドルの金さえも奪われた。
 封鎖された住宅にはぶっ壊して押し入った。
 外国人所有の建物もただでは済まなかった。
 日本兵はアメリカのミッション・スクールである金陵女子文理学院の学部事務館に押し入り、好き勝手に物を盗みだした。
 アメリカの宣教師団が経営する大学病院(鼓楼病院)は捜索され、看護婦の所持品が寄宿舎から盗まれた。
 外国国旗が建物から引き下ろされ、外国人所有の自動車が少なくとも3台は盗まれた。
 アメリカ合衆国大使ネルソン・T・ジョンソン(Nelson T.Johnson)の私邸にも日本兵が押し入ったが、5人の日本兵は懐中電灯を1本とっただけで退去させられた。
 中国人婦人は日本兵に好きなだけなぶりものにされ、アメリカ人宣教師らが個人的に知る限りでも、多数の婦人が難民収容所から連れ出されて暴行を受けた例がある。
 日本軍部隊の中にも統制を実施したものがあったし、日本軍将校の中にも寛容と同情をもって権力を和らげた者もあった、と言っておくべきであろう。
 占領後数日して南京を訪れた責任ある日本軍高級将校と外交官は、外国人が現に目撃し、報告したあらゆる非道行為を事実と認めている。
 これらの日本人は、南京の暴虐行為は、手に負えなくなった日本軍の一部が、上海にあった上級指導部の知るところなく犯したものである、と説明している。
 南京において中国軍が最終的に壊滅した時、住民の間には安堵(あんど)の気持ちが極めて強く、中国側の市当局と守備軍の解体のひきおこした印象が余りにも悪かったので、住民は日本軍を喜んで迎え入れようとしていた。
 実際のところ、日本軍が南門と西門から隊列を組んで行進して入ってくると、現にあちらこちらで三々五々集まって、日本軍を歓呼して迎えた一般市民もあった。
 しかし、日本軍が非道行為を始めると、たちまちにして安堵と歓迎の気持ちは恐怖に一変した。
 日本軍は南京の中国人から広く支持され信頼されることが出来たかもしれない。
 ところが、日本軍は中国人の心に深く日本に対する憎悪を植え付け、そのために対中国戦をおこなっているのだと公言した中国人の「協力」を得る見通しを、はるか先のものにしてしまったのである。
 安全区と南京市内に留まった外国人の役割を語る事においては、南京の包囲戦の顛末(てんまつ)を余すところなく語る事にならないであろう。
 南京安全区は完全に成功したとは言えないまでも、多数の一般市民の生命を救う手立てとは成った。
 地区を完全に非武装化し、籠城(ろうじょう)中、地区の中立性を尊重させる事こそ、外国人の推進者の目的とするところであった。
 完全非武装化は決して達成されることなく、南京防衛戦の最後の数日間、中国兵がこの地区に流れ込んできた。
 日本軍が南京に入城すると、日本軍も地区に自由に入ってきた。
 しかし、日本軍は地区に砲火を集中した事も無く、空襲をしたわけでもなかった。
 その結果、地区内に避難していた一般市民は比較的安全であった。
 推定によれば、10万人がこの地区に保護を求めて来た。
 それは市内の西部地区に2、4マイルを占めていた。
 安全区委員会の委員長であるジョン・H・D・ラーベ氏(John H.D.Rabe)は、南京で彼を知る誰からも尊敬される白髪のドイツ人であった。
 幹事は、中国生まれのアメリカ人である蘇州のジョージ・フィッチ氏(George Fitch)であった。
 氏は危険と緊張の強い時期に実に有能な仕事ぶりを示したが、それは洪水その他の災害中にアメリカの小都市1つを指揮するのに要求される程の責任を含むものであった。
 委員会書記はルイス・S・C・スマイス博士(Dr.Lewis S.C.Smythe)で、金陵大学教授であり、相当に気迫と企画力を持つ人であった。
 安全区設立の交渉にとくに力があったのはM・シアル・ベイツ博士(Dr.M.Searle Bates)で、同大学の歴史学者であった。
 ベイツ博士は又、南京の停戦を勝ち取ろうと努力した中心人物であった。
 それは、停戦期間中に中国軍を退却させ、日本軍が平静に市を占領するように計画したものであった。
 アメリカ人の特派員2人とニュース・カメラマン1人の他に、15人のアメリカ人が籠城中、南京に留まった。
 その他、外国人残留者としてはドイツ人6名、イギリス人1名、ロシア人2人がいた。
 12月11日、土曜日にパネー号が南京を退去してから、12月14日、火曜日に日本艦隊と接触するまで、この少数の外国人の一群は外界との接触も無く、中国軍同様に南京市に閉じ込められた。
 市の水道が止まり、電気や電話も切れ、食料品も多くは手に入らなかった。
 市内の外国人全員は、報道関係者を除いては、安全区や救済の仕事に積極的に参加した。
 安全区の管理はそこに兵隊を立ち入らせないようにする以上のものが含んでいた、多数の文無しの難民に給食し住まいを与えねばならなかった。
 治安の仕事も行われなければならなかった。
 医療施設を整える必要もあった。
 形だけなりと銀行業務も確立することが必要であった。
 監督教会の宣教師であるジョン・マギー師(Rev.John Magee)が外国人の委員会の先頭に立って、籠城中に負傷した多数の中国兵の看護をするのに英雄的な努力をした。
 中国軍側のもつ負傷者治療施設は極めて貧弱なものであった。
 病院はあるにはあったが、医師と看護師の数はどうにもならない程不足しており、病院の多くは一部の師団の人員にのみ解放されていた。
 実際に攻略戦が行われていた間中、マギー氏の委員会は市内の医療材料を現に開かれている病院のために整理し、負傷者をこれらの病院に輸送するのに努力を傾けた。
 病院はおびたたしい数の傷病兵を到底さばききれず、籠城戦の間、市内の街路のいたる所に中国人負傷者が見られたのが、全体の悲劇的な様相をもっても凄惨なものにしていた。
 負傷した男たちがびっこを引いて歩きまわり、身を引きずるようにして小路を歩いており、メイン・ストリートでは何百人となく死んでいった。
 アメリカ布教団経営の大学病院(鼓楼病院)は、戦闘中も手術を続け、一般市民の負傷者の治療に役立たせようとする努力がなされた。
 しかし、兵士もごく少数が入院を許された。
 2人のアメリカ人医師、注※フランク・ウィルソン(Frank Wilson)と、C・S・トリマー(C.S.Trimmer)、及び2人のアメリカ人看護婦、グレース・ボーア―(Grace Bauer)とアイヴァ・ハインズ(Iva Hynds)は、昼夜を分かたず仕事にはげみ、少数の中国人助手と共に200人近い患者の看護をした。 注※ Robert O.Wilsonが正しい
 日本軍が市を占領すると、戦傷者救援委員会は直ちに注※国際赤十字の支部として再編され、外交部の建物内にあった中国陸軍病院を接収した。
 配置できる輸送手段は全て市内全域に派遣されて、負傷した中国兵を運び込んできた。
 市内にとどまっていた中国人医師と看護婦が集められて、この病院で仕事をすることになった。
 注※ ここでいう国際赤十字支部は、正しくは南京国際赤十字委員会(The International Red Cross Committee)of Nanking)と称し、マギー牧師が委員長であった。
 最初、日本軍はこの病院の活動を自由にさせていたが、注※12月14日水曜日の朝になると、外国人の立ち入りを阻止し、入院中であった500名の中国人の運命については何らの言明も行わなかった。
 注※ 12月14日と書かれているが、12月15日の間違い。

 安全区委員会は休戦を斡旋しようと努力したが空しかった。
 蒋介石は委員会の停戦提案に対してただ極めておざなりの回答をして来ただけだったが、日本軍側は何の回答も行わなかった。
 唐生智将軍の代表は、将軍は休戦を求めている事を明らかにした。
 そして中国軍にとって形成が悪化するにつれ、その態度は狂おしいまでに調停を訴えるようになって来た。
 しかし、中国軍の撤退が日本軍への降伏であることを明確にした要目をつくるまでに交渉が進まないうちに、中国軍の崩壊が起こった。
 いずれにしても、無線設備のあるパネー号が市を去った後では、前線を訪れる他には日本軍との連絡手段も無く、それは極めて危険な事であった。
 南京側は日本軍の唐将軍にあてた最後通牒については実際何も知らず、中国軍の指揮官は何ら回答しなかった模様である。

 両軍の死傷者多数

 南京占領のための戦闘中、双方ともに多数の死傷者が出た事に疑いはないが、中国側の死傷者数の方が大きかった。
 包囲戦中の日本軍の死者は実際に総計1000人くらいのものであろうが、中国側の死傷者は3000から5000、いやそれ以上に上るであろう。
 市の南部及び西南部から脱出出来なかった多くの中国人一般市民が殺された。
 その総計は恐らく戦闘員の死者の総計と同じくらいになるであろう。
 日本軍占領後、記者は南市をを訪れたが、日本軍の砲撃によってその各地区がほとんど破壊しつくされており、中国人の一般市民の死体がいたる所に転がっていた。
 南市の防衛が中国軍にとってこの様に惨敗に帰した罪は、一体どこにあるのか、これについて言うのは困難な事である。
 この防衛戦はドイツ人軍事顧問の熱心な忠告に背いて行われた。
 蒋総統の参謀長である白崇禧将軍はこの防衛戦に強く反対した。
 蒋介石自身は、市の防衛強化に何千万ドルもの金を費やしており、少なくとも首都の防衛を試みることが望ましいといって、最初は南京に踏み止まる事に賛成であったと言われた。
 蒋将軍は次のような観点からそうした意見をとるようになったと一般に言われている。
 すなわち、南京市一流の情報通の多くによれば、唐生智将軍とその他の軍部多数がこの様な方向を主張して、市の防衛をしようと申し出る態度を取ったために、最終的には防衛戦が行われた訳である。
 確かに、蒋将軍はあの様な大混乱の起るのを許すべきでは無かった。
 確かに、唐将軍も、自分が最後までやり通すことができず、とどのつまりは不首尾に終わった、犠牲の道に踏み出した事では強く非難されるべきである。
 唐は、その日いくつかの小部隊の掩護で日本軍が市内に深く侵入するのを支えながら、総退却の配置をすることによって、状況を救う何らかの努力をしてもよかったのだ。
 そんなことが行われた様子も無く、いずれにせよ状況は改善されなかった。
 唐は自分の幕僚の多くのメンバーにさえも知らせず、指揮者無しに軍を置き去りにしたことは、全面的な壊滅の合図となった。
 南京攻防戦では、敵味方のどちらにも、ほとんど栄光はなかったのである。


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