"虐殺(ぎゃくさつ)"とは何か?

朝日文庫「中国の旅」
「中国の旅」表紙(上) 「南京への道」表紙(上)

「虐殺」とは何か?

 "虐殺"(ぎゃくさつ)という単語を辞書で調べると ・・・ “むごたらしい方法で殺す事”・・・とある。
 "大虐殺"というと、大量にむごたらしい方法で殺す事を意味するのだろうか?

 日本の歴史で"・・・“(大)虐殺”という単語が歴史上使われた事件はほとんど無い。
 この"大虐殺"という言葉には、あやふやな点が多く、ましてや数の基準も無い。
 
 “むごたらしい”という表現は、人それぞれの主観的な判断の影響があるだろうし、過去に論じられた記事などはあるものの結局は、定義などは無いという結論に至っている。
 しかしながら今現在、"南京大虐殺"という言葉が歴史教科書にも掲載され、蔓延しているのである。

 これは少々不思議に感じざるを得ない。
 実はこの"南京大虐殺"という単語が大っぴらに使われ始めたのは、ごく最近の話であり、昭和46(1971)年8月末に「朝日新聞」紙上でレポート記事として本多勝一記者によって取材、掲載された「中国の旅」(上写真参照)によってである。

 この記事によって始めて"南京大虐殺"という単語が登場する。
 この(本多勝一が取材)時に中国側が用意した証言者達が一様に"大屠殺"(だいとさつ)と述べる。
 だがこの"大屠殺"とは日本人には全くなじみが無い、それを本多勝一記者が"大虐殺"と訳し記事として掲載したようである。
 と、共に"南京事件"と呼ぶより"南京大虐殺"と呼ばせた方がよりインパクトがあると考えた上での計算づくの訳であったのだろうと思われる。皆まんまと引っかかった訳である。
 この事により、鈴木明著「南京大虐殺のまぼろし」(文藝春秋)、洞富雄「南京大虐殺」(現代史出版会)というタイトルに使われ始め、さらに昭和57(1982)年の教科書誤報事件によって一躍脚光を浴びる事となった。
 現在は皆"南京大虐殺"と呼んでいるが実際には、今から約30年前、戦後25年近く経ってから使われ始めたのである。

東京裁判から朝日新聞レポート記事「中国の旅」

 現在、"南京大虐殺"と呼ばれている事件は、昭和21(1946)年5月3日から始まった極東国際軍事裁判(通称・東京裁判)によって日本国民に知られる事となった。
 GHQは世界へ大々的宣伝し日本軍によるナチス=ドイツのアウシビッツと共に人道上の罪として知られる事となった。
 この時、東京裁判では、南京での暴行を"The Rape of Nanking"(南京暴行・南京強姦)と呼んでいた。
 東京裁判では、連合国側(アメリカ、中国)から昭和12(1937)年12月13日の南京陥落から、このような事件が日本軍によって行われたと告発されたのである。
 昭和23年11月12日東京裁判が終了し、12月23日に、南京での事件の罪(訴因55=第3類「通例の戦争犯罪及び人道に関する罪」<戦争法規及び慣例法規違反>同法規尊守義務の無視)によって松井石根大将が巣鴨拘置所で処刑されて以降も、"南京での暴行事件"であるとか"南京での暴虐事件"などと言った呼ばれ方をした。
 ところが当時は戦後まもなくの事でもあり、従軍経験者も多く、さらに南京に駐在した軍関係者、民間人も多数おり新聞記者も数多く滞在していた。
 それら人々は南京事件に関しては全面的に否定的であった。
 東京裁判が閉廷後も、ほとんど事実として認められる事も無く、論じる事も無く、日本人の中にも南京での事件について語るものも全くおらず戦後、日中戦争に関する書籍や文献にも全く引用される事が無く、忘れさられようとしていた。
 ところが戦争が終わり、実際に南京を見てきた人達が昭和40年代中ごろから新聞社からいなくなると共に、突然あったあったと大騒ぎをし始める。
 それが昭和46(1971)年8月末から12月までの間に、「朝日新聞」紙上にて衝撃的なレポートである「中国への旅」という本多勝一記者による記事である。(上写真参照)
 このレポートは、当時の中国は文化大革命という狂気の時代であり多くの諸外国のマスコミは中国の行う狂気じみた粛清(しゅくせい)の嵐に批判し反論を行った。
 その為、中国共産党が少しでも気に食わないとマスコミ各社は国外追放を受ける事となった。
 昭和42(1967)年のサンケイ、毎日の国外追放理由は、毛沢東の似顔絵を新聞に掲載したというものだった。
 また、読売新聞の追放理由は東京で読売新聞が主催するチベット秘宝展を開催したという事だった。
 このような些細(ささい)な理由で朝日以外の各社は次々と中国から国外追放とされた。
 だが朝日新聞1社だけは、国外追放を免れる為に、中国共産党へ奴隷(どれい)とも言えるような追従記事を平然と掲載し、さらには狂気の文化大革命を賞賛し、誤報や中国共産党の広報紙としての役割を担う事となる。
 さらにこの頃、アメリカはベトナム戦争中で、戦争終結の為に北ベトナムとカンボジアのクメール・ルージュ(カンボジアで数百万人を殺害したポル・ポト政権)を支援していた中国と急速に接近した。
 この際にも、朝日新聞は数百万人をも虐殺した、ポルポト政権に対して”ポル・ポトはアジア的優しさにあふれている”等と言った、虐殺肯定を行う記事を平然とそして次々と掲載していった。
 いかに朝日が狂った行為に及んでいたか想像できよう、無論このような事ばかりしていたので、その後発行部数第1位から2位へと転落するのだが。
 米中接近によって日本も、田中角栄首相の時代に中国共産党政権との国交樹立を果たす事となった。
 日本は敗戦直後、蒋介石政権である中華民国を正式な中国代表と認めており、1949(昭和24)年の蒋介石率いる国民党政権(現台湾政府)と毛沢東率いる中国共産党(現中国政府)の内戦以降もその状態は続いていた。
 この日中国交樹立を推進しようとする、当時の朝日新聞の故・広岡知男社長がいかに中国の為に事実無根であろうが記事にし、ウソの記事を平然と掲載していったか別項を参照して頂きたい。(「平和甦る南京」写真特集
 その中国賞賛記事の一貫として、朝日新聞の本多勝一記者による「中国への旅」や「朝日ジャーナル」「週刊朝日」での連載記事である。

"大虐殺"は政治的意図を持つ単語である

 前述したが、この本多勝一朝日新聞記者によるレポート記事「中国の旅」記事によって初めて「大虐殺」という単語が使われる事となった。
 この「中国の旅」が掲載されるようになった理由の1つとして、昭和40年代中ごろには各新聞社において南京戦に取材し南京に駐在していた関係者が徐々に退社し始めていたのである。
 このような新聞社における背景もあったのである。
 さらに本多勝一朝日新聞記者は言論の自由どころが中国共産党を少しでも批判しようものなら中国の一般市民ですら即、処刑される文化大革命時代に中国共産党が用意した(自称)被害者から聞き取り調査を行う。
 その際に証言者達は一様に"大屠殺(だいとさつ)"という単語を使っているのである。
 この"大屠殺"という意味は中国人の歴史感や文化を元に使われる単語であり、日本には全く縁の無い単語である。
 過去に中国の歴史では、数万、数十万時には百万とも言える殺戮の歴史があった。
 "揚州十日記"と"嘉定屠城記"いう余りにも有名な物語が中国には存在する。
 日本人に言わせれば年末と言えば"忠臣蔵"と同じ感覚である。
 その"揚州十日記"と"嘉定屠城記"の物語は清朝が明朝を滅ぼした折りに降伏勧告を無視し、城(中国の街)に立て籠った老若男女をみな殺しにして、体をばらばらに切断して、その肉を煮て食うことを意味する。
 例え犬、猫であろうが命あるものは総て1人、1匹残らず殺戮しまくる事を意味するのである。
 この屠殺の凄惨が上記の日記では記述されており、さらに中国の歴史では幾度も行われている慣例でもある。
 従って、支那人の歴史感覚をもってすると降伏勧告を拒絶して戦い敗北した南京は、夷敵日軍により「屠城」されたと盲信することはさけられない。
 中国人が必ず想像出来る人間を生き埋めにし、首を次々と、はねる事は日常茶飯事、さらには人間の手足を切り家畜として育てる人豚などと言った残忍で残虐な日本人の想像も及ばない猟奇的行為が平然と中国の歴史には存在するし、中国は噂の文化であり、マスコミよりも噂や人づての話を信じる土壌があるのである。
 この点を充分に理解する必要がある。
 昭和12(1937)年7月29日に起きた日中戦争の原因の1つにもなった通州事件では日本人260余名中223名が無残に殺害された事件の模様などは、中国人の潜在的な猟奇性を物語る例えである。
 日本人の想像の及ぶものでは無い。
 この"大屠殺"という単語を朝日新聞記者であった本多勝一記者が「中国の旅」によって、中国においては否定出来ない中国人の猟奇性である残虐行為のをそっくりそのまま日本人に当てはめようとして成功したのが"大虐殺"という単語なのであるこの事は重要な事でもある。
 先に東京裁判においては、"南京暴行・強姦事件"という呼び名であった事を述べた。
 ところが、昭和40年代中ごろ当時は左翼運動真っ盛り、今では笑い話となるが日本を共産主義国家に変える事を真剣に考え国内でテロを起こしていた時代であった。
 このような時代に、中国から"大虐殺"という中国の政治用語である単語を、本多勝一記者は輸入し蔓延させてしまったのである。
 朝日新聞という当時、発行部数大一位を誇る大新聞を使ってである。
 そのため、その「中国の旅」掲載以降「南京大虐殺」という単語が平然と使われるようになってしまった。
 さらに決定的だったのは昭和57(1982)年に、教科書誤報事件が起こる。
 NHKですら意図的に教科書誤報事件を大々的に報道し、そしてセンセーショナルにマスコミがキャンペーンを行ったために「南京大虐殺」の認知度は急速に高まったのである。(ただし産経新聞1社だけはあやまちを認めた)
 「大虐殺」と「事件」では、読む人に与えるインパクトが全く違う事となる。
 朝日新聞記者、本多勝一してやったりであった。

本当の呼び名は「南京で起きたとされる事件」または「南京での暴行強姦が起きたとされる事件」が正しい

 昭和57(1982)年11月、日本中のマスコミが「侵略」から「進出」へと書き換えたという教科書誤報事件の数ヶ月後に出版された、当時の20万人以上が殺害されたという主張であった虐殺派の元早稲田大学教授、故・洞富雄氏の著作「南京大虐殺」(現代史出版会)の巻末にはこう書かれている。

 本書が「決定版・南京大虐殺」と題しているのは、かならずしも、筆者の意によるものでないことを、お断りしておく。なお、今は定着している「南京大虐殺」という呼称も、私は常には「南京大残虐事件(アトロシティーズ)」と呼ぶことにしている。

 この意味は一体何なのだろうか?
 洞富雄氏はこの著書から10年前の昭和47(1972)年4月には「南京事件」という著書を出版している。
 この年には「中国の旅」が朝日新聞に連載されている。
 ところが今回の「決定版・南京大虐殺」はちょうど教科書誤報事件から数ヶ月後に出版されている。
 これは、"大虐殺"という単語がインパクトを持っている事に出版社が着目したためではないかと思う。
 "大屠殺"のもつ中国の歴史をも含む単語を日本へ輸入し、その漢字の持つインパクトを出版社が利用しようとしたのではなかろうか?
 だからこそ作者である故・洞富雄元早稲田大学教授は、巻末において"大虐殺"というタイトルに作者自身の意によるもので無いことを断っているのではなかろうか。
 中国の"大屠殺"とは1937(昭和12)年の事だけでは無く、過去に起きた中国での降伏勧告拒否によって皆殺し殺戮にった上に猟奇的文化も含んでいるのである。
 まさに夷敵(中華思想における野蛮な民族)である日本軍が降伏勧告を行い拒否した中国軍や人民が皆殺しにされるのは当然の事であると、想像するのは無理も無い事である。
 中国人は日本人とは歴史背景や生活環境、民族性も何もかもが全く違うのである、その点を充分に考慮すべきである。
 戦争や大陸の中国人を知らない無知な戦後世代にとって、中国人の心理を理解できないのは致し方ないが、朝日新聞がそれに付け込んだのは絶対に許せない行為である。
 一般に"大虐殺"と呼ばれ、ましてや中国人が神経質に訴える事件がまさか事実無根であるとは日本人の感覚としては受け入れ難いのは当然である。
 だが、真実は1つなのである。
 "南京大虐殺"は朝日新聞によって作られた単語なのである。正確に言えば、元朝日新聞記者である本多勝一記者によってである。
 "南京大虐殺"という単語を使うのは中国の主張そのものを政治的・文化的意味をも無批判に受け入れる事を意味している。
 その目的は明白である。
 "南京大虐殺"という単語を日本人が使う事で南京での暴行・強姦事件を無批判に認めさせ、中国が対日外交カードの1つとして使え、外交において有利に進める事が出来るという事である。
 その1例として以下を掲示しておく。

昭和63(1988)年に起きた中国の列車事故

 昭和63(1988)年3月24日、上海で起きた高知学芸高校の修学旅行生の乗った事故があった。
 この時、補償交渉のために来日した中国側は、席上、南京大虐殺を口に出している。
 中国は戦後賠償責任を一切放棄しているのだから日本側も放棄せよという言い分だ。
 もちろん日本側の弁護士が、問題が全く違うと反論はしている。
 ここで私は一言言いたいのは、日本が中国で殺戮行為を行ったというのはかなりあやふやで、しかもこれのほとんどは戦後共産党が突如言い出した事であり、さらに日本が戦後放棄した満州や中国資産は賠償どころかそれ以上の額に上る。この点を忘れて欲しくない。
 さらに近年、日本軍が放棄した毒ガス弾が多数あるというが、日本軍から接収したのは中国軍ではなかったか、さらにそれらの中には旧ソ連軍のものや、中国軍のものが大部分あるという。
 "南京大虐殺"というカードを使う事で、中国は何でも出来ると考えているのなら、それは間違いであろう。
 さらに朝日新聞が行った行為は明らかに諸外国では国家侮辱罪や反逆罪に当たるはずである。
 朝日新聞がなぜこの日本に存在出来るのか、私には分からない。


[南京事件の基本的問題点]へ戻る