パール判事は松井大将を東京裁判で評した…

 東京裁判のねらいが、戦場における日本軍隊の残虐性を世界中に宣伝し、日本国民の脳中に拭い難い罪悪感を烙印することがその一つであったことは前に述べた通りである。このために、おびただしい証拠と証人が市ヶ谷の法廷に集められた。
 パール博士はきわめて冷静に、注意深く、これらの証拠と証言に耳をかたむけた。博士はこれらの証拠および証言の多くが、伝聞証拠であり、連合国側の現地における一方的な聴取書であることを指摘したのち、つぎのように述べている。
 「戦争というものは、国民感情の平衡をやぶり、ほとんど国民をして気狂い沙汰に追い込むものである。同様に、戦争犯罪という問題に関しても、激怒または復讐心が作用し、無念の感に左右されやすい。ことに戦場における事件の目撃者というものは、興奮のあまり、偏見と憶測によって、とんでもない妄想をおこしやすい。われわれは感情的要素のあらゆる妨害をさけ、ここにおいては戦争中に起こった事件について考慮をはらっていることを想起しなければならない。そこには、当時起こった事件に興奮した、あるいは偏見の眼を持った観測者だけによって目撃されたであろうという特別の困難がある。」として、いくつかの例をあげ、目撃者と称する証人の証言の矛盾を指摘している。
 「さらに戦争中勝利を得、戦時俘虜を捕獲するに成功した交戦国は、本件の起訴状に訴追されている性質の残虐をおかしたとみなされる可能性がある。究極において敗戦した場合には、敗戦そのものによって、そのもっとも邪悪な、残忍な性質が確立されるものである。もし刑罰がここに適用されるものでなければ、どこにも適用されるものではないとわれわれは言い聞かされている。われわれはかような感情は避けなければならない。」
 「当時の新聞報道あるいはそれに類似したものの価値を判断するにあたって、われわれは戦時において企図された宣伝の役割を見逃してはならない。本官がすでに指摘したように、敵を激怒させ味方の銃後の者の血をかわし、中立国民をして憎悪と恐怖を抱かしめる方法として、想像力を発揮するための一種の愚劣な競争が行われるのである。われわれはこれに目を奪われてはならない。」と述べている。
 いかんながら、戦場に酔い、敗戦に酔い、敗戦に打ちひしがれた当時の日本国民には、博士のような冷静さと注意深さをもって、連合国の企画された宣伝の役割を見抜くことができず、日本軍隊の鬼畜にもひとしい残虐行為のみが、彼らの宣伝の額面どおりに鵜呑みにされたのである。そして、あたかもこれらの東南アジア全地域にわたるおびただしい日本軍の暴虐行為が、すべて25名のA級戦犯の被告の命令によって行われたごとく錯覚させられ、その処罰は、人道上当然の事とされたのである。
 松井石根被告(元陸軍大将・中支派遣軍司令官)は、南京の暴虐事件の責任だけで死刑に処せられた。訴因の第一から第54までは全部無罪で、第55のみが有罪であるとして絞首刑となったのである。
 松井被告に対して、多数判決は「・・・これらの出来事に対して責任を有する軍隊を彼は指揮していた。これらの出来事を彼は知っていた。彼は自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務を持っていた。同時に、その権限をももっていた。この義務の履行を怠った事について、彼は犯罪的責任がある。」と断じたのである。
 これに対してパール判決は、提出された証拠にもとずいて、次のように述べている。
(1)、1937年12月1日、大本営は中支方面軍に対して、海軍と協力して南京を攻略せよと命令した。
(2)、当時、病気中であった松井大将は、南京から140哩離れた蘇州において、参謀と協議のうえ病床でこれを決裁した。
(3)、12月7日、上海派遣軍に対して別の司令官が任命された。すなわち方面軍の任務は麾下の上海派遣軍と第10軍との指揮を統一するにあって、軍隊の実際の操作および指揮は各軍の司令官によって行われた。
(4)、各軍司令官には参謀および副官のほかに兵器部、軍医部および法務部などがあったが、方面軍にはさような部は無かった。
(5)、それでも松井大将は南京攻略を前にして、全軍に対し「南京は中国の首都である。これが攻撃は世界的事件である故に、慎重に研究して日本の名誉一層発揮し、中国民衆の信頼を増すようにせよ。・・・でき得るかぎり一般居留民ならびに中国民衆を紛争に巻き込まざるように常に留意し、誤解を避けるため外国出先当局と密接なる連絡を保持せよ」と詳細なる訓令を出した。塚田参謀長ほか16名の参謀は先の訓令を全軍に伝えた。
(6)、前記の訓令と同時に「南京城の攻略および入城に関する注意事項」が伝達された。それには軍規風紀の厳正を伝え、外国の権益を犯したもの、略奪行為や、火を失する者は厳重に処罰すべしと命じた。
(7)、12月13日南京は陥落し、病気中の松井大将は12月17日に入城した。そして軍規風紀に違反のあった旨の報告を受けた。
(8)、そこで松井大将は、軍規風紀に違反した第10軍を蕪湖方面に引き返させ、南京警備のため第16師団のみを残留させた。そしてさらに、さきの命令の厳重なる実施を命じた。
(9)、みずから上海に引きあげた松井大将は、南京警備のために残した部隊に不法行為のあることを聞き、3度、軍規風紀の厳正ならびに違反者の罰則、損害の賠償を訓示した。
 「かように措置された松井大将の手段は効力がなかった。しかし、いずれにしてもこれらの手段は不誠意であったという示唆にはならない。本件に関連し、松井被告が法的責任を故意かつ不法に無視したとみなすことは出来ない。検察側は、処罰の数が不充分であったことに重点をおいているが、方面軍には違反者を処罰することを任務とする係官も法務部も配置されていなかった。」と具体的に無罪の根拠を明らかにしている。松井大将もこれではじめて晏如として地下に眠ることができよう。
 筆者は昭和8年から筆者が応召する17年12月まで、約10年間を、民間人として松井大将の下で働いた。ある時は松井大将に東京・池袋のサンシャイン60横の東池袋中央公園内にあるA級戦犯の碑。(元巣鴨拘置所跡)随行して、台湾、香港、中南支全域にわたり旅行したこともある。この時筆者が受けた強い印象は、大将がいかに中国を愛し、中国の指導者や民衆と解け合っていたかということである。陸大を卒えると、みずから志願して中国へ飛び込み、先輩の荒尾精や根津一、川上操六、明石元二郎らの遺鉢を継ぐのだと言って、そのまま生涯の大部分を中国の生活に没入した軍人である。中支派遣軍司令官の任を解かれ、南京入城の凱旋将軍として東京に帰ったが、大将は快々として楽しまなかった。アジアの内乱ともいうべきこの不幸な戦争で倒れた日中両国の犠牲者を弔うために、わざわざ人を派して、最大の激戦地である大場鎮の土をとりよせ、これで一基の観音像を作った。これを、熱海市伊豆山の中腹にまつり「興亜観音」と称した。その御堂には、日中両民族が手をとりあって、観世音の御光の中に楽土を建設している壁画を何枚かかかげ、みずから堂守りとなって、そこに隠棲した。読経三昧の静かな明け暮れであ った。終戦の翌年の正月、戦犯という汚名をきせられて、大将はそこからMPに引き立てられていった。家には文子夫人一人が堂守り生活を続けていた。施無畏の信仰に悟入した大将の2年余の獄中生活は、まことに淡々たるもので、あまり上手くない和歌や漢詩などを作っていた。朝夕の読経は死刑執行のその日まで欠かさなかったそうである。死刑の宣告を受けてから筆者への手紙に、わが全生涯をかたむけて中国を愛し、日中親善のためにつくした自分が、わが愛する中国人の恨みを買って死につくことは皮肉である。しかし、誰を恨み、何を嘆こうぞ、これで何もかもさっぱりした、このうえは自他平等の世を念じつつ、一刻もはやく眠りにつきたい、という意味の遺書がよせられた。
 その夜、大将は天皇陛下万歳の音頭をとり、しっかりとした足どりで、13の階段をのぼったそうである。
 つい筆がすべって余談になったが、筆者が言いたいのは、この松井大将が、どうして、中国の民衆を大量虐殺せよ等ということを「命令し、なさしめ、かつ許す」はずがあるであろうか?
 このことは他の24名の被告に対しても言える事であろう。死者は還らない。だが、復讐の鬼となり、あえてこれを死に至らしめたものの心は永久に癒えないないであろう。(田中正明著「パール博士の日本無罪論」慧文社より)写真は巣鴨プリズン跡の碑 


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