ウオーカー中将の因縁

 東條英機、松井石根ら7戦犯の処刑執行責任者は、日本駐留軍司令官ヘンリー・ウオーカー中将でもある。彼が刑の執行を命令し、絞首刑のあとその死を確認し、その夜七7人の遺体をトラック2台に積んで、護衛をつけ、久保山火葬場まで運搬し、厳重に憲兵を配置して火葬に付した、その最高責任者である。そしてどこにどうやって捨てたか知らないが、その骨を宗教的儀礼もなく、馬の骨でも捨てるように捨てて処理した――、そのすべてをはたした最高責任者がウオーカー中将である。
 昭和25(1950)年、朝鮮戦争がはじまり、ウオーカー中将も兵を率いて韓国におもむいた。北鮮の侵略軍は、38度線を突破して雪崩のごとくソウルを占拠し、さらに南下を続け、洛東江を超えて釜山に迫った。このときウオーカー中将の率いる米軍は、仁川に上陸して北鮮軍の背後を衝いた。戦闘は苛烈をきわめた。
 12月の暮れもおし迫った雨の夜のことである。ウオーカー中将が戦場視察のため、断崖絶壁の雨にぬかるむ海岸道路を走っている時、後ろから友軍の貨物自動車の追突をうけた。トラックのスピードがよほど激しかったとみえて、この玉突き衝突で中将の車とその前を走っていた車と2台の車が、もんどりうって数10メートル下の渚に転落した。アッという間もあらばこそ、かれとかれの部下はあえない最後をとげてしまった。
 なんとその日が、東京裁判での7戦犯の祥月命日、12月23日、しかも落命したときが午前零時過ぎ、奇しくも死刑執行の同じ日、同じ時間であった。3年後の昭和26年の出来事である。まる3年目の7人の命日の日の出来事であった。
 マッカーサー元帥はじめ米軍の首脳たちは、この時はじめて、怨霊の恐ろしさを知りふるえあがったという。
 生き残ったウオーカー中将の副官が韓国将校から、A級7士の処刑とウオーカー中将を含む7名の数的因縁、祥月命日の因縁の説明を受け、沸家でいう怨念の恐ろしさと因縁の神秘さを教えられた。これを聞いておそれおののいた副官は怨霊を供養するために、「法要」をいとなむつもりで、翌年5月、1人で興亜観音を訪れた。英語だけの会話で、堂主伊丹忍礼師を困惑させた。急拠、熱海警察署および市役所から係官が出向いてきて、米軍将校の意を了解することが出来たという。
 興亜観音奉賛会や7士の遺族たちは、このウオーカー中将(死後大将に昇格)の頓死をあわれみ、「興亜観音に恩讐のへだてはない。恩親平等だ、それが松井閣下のこころでもある」そういって、ウオーカー中将以下7人の霊を供養する墓標を、霊仏観音のかたわらに建て、ねんごろに法要をいとなんだ。


目次のページへ