《実録》松井石根大将と蒋介石
■「南京大虐殺」などなかった傍証■

興亜観音を守る会会長 田中正明    

 蒋の陸士入学と松井

 松井石根(いわね)は、明治11年7月27日、父武國(たけくに)、母ひさの間に六男として生をうけた。
 松井家は代々武将の家柄で、その元祖松井信薫(のぶしげ)は、静岡県二俣(ふたまた)城の城主である。宗教心あつく、現在の静岡県掛川市に、私領を寄進して「天龍院」を創設し、その落慶の翌年病死した。
 そのあと二俣城を継いだ弟の松井宗信(むねのぶ)は、かの有名な桶狭間の戦いの時、今川義元の先鋒隊の隊長として戦い、織田信長に攻められて今川と共に討たれた。桶狭間の長楽寺には今川義元と松井宗信の木像が安置されている。
 徳川時代に入り、尾張藩は親藩徳川義直公が六十二万石の城主となり、名古城を築いた。松井武兵衛重親(ぶひょうえしげちか)普請(ふしん)奉行として城下の整備にあたった。現在の名古屋市の基礎を築いた功労者として今日に至るもその名が伝えられている。
 だが石根の父の武國は八男四女の子沢山の上に、明治維新で家禄六百石は召し上げられ、文字通りの貧乏士族で苦労した。
 石根は六男、七男は七夫。
 2人とも牧野幼年学校に入れられたが、成績は抜群であった。
 石根は陸士二番で恩賜(おんし)の銀時計組、陸大では主席で恩賜の軍刀を授与されている。石根は陸軍大将、七夫は陸軍中将まで昇進した。
 明治37年、松井石根が26歳時、日露戦争が勃発し、歩兵二十六連隊の中隊長として出征した。
 首山堡の戦闘で重症を負ったが、この時の戦功により松井は、功四級金鵄勲章、勲五等旭日章をうけた。
 39年陸大を卒業し、参謀本部に入ったが、自ら望んで清国行使館付武官となり、支那に渡った。
 松井の志は、陸大時代から日支提携とアジア諸民族の復興・独立にあった。それは同郷の東亜問題の先覚者荒尾精(あらおせい)の思想を敬慕したゆえんである。
 陸軍中尉荒尾精 ―――彼はあえて軍籍を離脱して、支那の復興と日支の交易に役立つ青年志士ら十余名を漢口楽善堂に集め、支那大陸の実情調査にあたらせた。
 その集約として自ら『清国通商総覧』を刊行し、更に同志根津一(ねづはじめ)と共に「東亜同文書院」の前身である「日清貿易研究所」を設立して、東亜復興に役立つ青年の育成につとめた人物である。
 年端わずか38歳、台湾の旅舎で「ああ!東洋が、東洋が・・・・」と叫んで客死した。
 その荒尾先輩の東亜復興の精神こそ、わが生涯の志であると、松井は心中深く誓ったのである。
 従来、陸大の軍刀組は欧米の駐在武官となり、それ以下は東亜や中南米の駐在武官と相場が決まっていた。
 しかし松井は早くから支那語や書道・漢詩を勉強し、自ら進んで支那駐在を希望したのである。
 当時上海には孫文の中国革命を支援する滬軍(こぐん)陳其美(ちんしび)が松井を歓迎した。
 彼が経営する保定の振武学校の卒業生に蒋介石がいた。
 松井は陳の紹介で蒋に会った。
 蒋は当時20歳。日本の士官学校への留学を希望していた。
 松井は大いに励まし支援を約束した。
 明治40年4月蒋介石は日本陸士に留学し、松井はその翌年帰国してもとの参本に勤めた。
 44年10月、辛亥革命が成功し、孫文が臨時大統領に就任したのを機会に、蒋介石は帰国、国民党に入党した。
 それまで蒋介石の滞在中、松井は親身になって蒋の相談相手となり、身の廻りの世話までした。

「田中・蒋会談」を松井が斡旋

 話は飛ぶ。昭和2年(1927)頃の支那は蒋介石を中心とする南京政府と、汪兆銘と共産党が連立する武漢政府とが対立し、抗争していた。
 南京軍が徐州戦で大敗するや、武漢政府はこの時とばかりに蒋介石討伐の軍を起こした。当時蒋の軍隊は戦意なく、蒋は最悪の事態に直面し、ついに昭和3年8月14日に下野を声明した。
 松井は参謀長の張群を通じてしきりに蒋の来日を促した。
 その結果、蒋は8月28日ひそかに来日した。
 随行は張群と秘書らわずか5名であった。
 松井は腹心のアジア主義者佐藤安之助を伴って蒋介石・張群と会い、回を重ねると同時に、田中義一首相にも働きかけ「田中・蒋会談」の根回しにつとめた。
 9月15日、青山の田中首相の私邸での両者の会談が行われた。
 この会談に参加したのは、日本側は森恪(もりいたる)と松井、佐藤の三人で、蒋側は張群が陪席した。
 この会談の模様は『外務省外交主要文書』に詳しいが、省略して結論だけを述べると、田中首相は蒋の将来性を高く評価して次の如く述べた。
 (1)このさい揚子江以南を掌握することに全力をそそぎ、北伐はあせるな、(2)共産主義の蔓延を警戒し、極力防止すること、(3)この(1)(2)に対して日本は支援を惜しまない・・・・・。この3点であった。
 最終的に2人の間に合意したのは、国民党による中国統一が達成したあかつきには、日本はそれを承認する。
 これに対し国民政府は満州における日本の地位、ならびに特殊権益を認める、ということであった。(鈴木貞一著『北伐と田中・蒋密約』)以上はほとんど松井構想であった。
 蒋介石も帰国して上海の記者会見でこう述べている。
 「われわれは満州における日本の政治的、経済的な権益を無視し得ない。また日露戦争における日本国民の驚くべき精神的発揚と、露国からの満州における日本の特殊的な地位に対し、考慮を払うことを保証していた」と。
 ここまで組み立てられた松井構想も、その年に河本大作による張作霖爆死事件が起き、3年後には満州事変が勃発し、日中和平構想も音をたてて崩れ去ってしまったのである。

西南軍閥を歴訪し説得

 松井は昭和10年12月に北支と満州を視察した。
 たまたま北支に自治運動が盛り上がり、つぶさにその現状を視察するに、曲がりなりにも日中協調の方向に進んでいるので松井は安心した。しかるに蒋介石の南京政府はいまだに中南支の大勢を掌握しておらず、日中関係も排日侮日運動が盛んであり、政局も安定していない。
 そこで松井は、南京政府の安定と日中和平政策を進展させるためには西南地方の軍閥の動静をさぐることと、これらの軍閥と南京政府との協力関係を強めることが必要であると考え、西南遊説を企画した。
 松井はまず陸軍、外務当局とも(はか)り、廣田(ひろた)外相はじめ旧友の同志とも相談して、私(田中)を秘書として伴い、昭和11年2月4日、東京を出発した。
 松井大将が、台湾、廈門(アモイ)仙頭(スワトウ)、香港を経て、広東に入ったのは2月20日である。この間、各地において要人の意見を質(ただ)し、求められれば講演会や座談会にのぞみ、孫文の大アジア主義の精神を説いた。
 松井は昭和8年に結成した大亜細亜協会の会長である。
 私は機関紙「大亜細亜主義」の編集を担当していた。
 この協会は当時の陸・海・外務のアジア独立、復興を志す中堅幹部や民間の論客=徳富蘇峰、平泉澄、鹿子木員信(かずのぶ)、村川賢固の3博士等そうそうたるメンバー、=理事は出版協会会長下中弥三郎、事務局長は中谷武世法政大教授で、インド、ビルマ、トルコ、フィリッピン等の独立運動の駐日志士らも参画していた。
 大亜細亜協会の語源は、大正13年(死の前年)孫文が神戸で講演した演題『大アジア主義』でそのまま頂いたものである。
 松井は孫文の第二革命(大正2、3年袁世凱(えんせいがい)打倒)を支援した縁ゆえもあり、思想的なつながりも深かった。
 松井は広東に上陸すると真っ先に胡漢民に会った。
 胡は孫文第一位の弟子で、しかも国民党常務委員会の主席である。
 松井は胡漢民と政治問題について長時間論じ、蒋介石の南京政府との提携を説得した。
 そのあと陳済崇や李宗仁を各個に訪ね、大アジア主義の実現と蒋介石との感情のもつれの修正を説いた。
 だが2人は胡漢民以上に、蒋介石に対しては悪感情を抱いているのを知る。
 松井は24日、空路広西に赴き、白崇禧(はくすうき)を訪ねて蒋との提携と、孫文の大アジア主義精神の普及、日支の提携を説いた。大将の日誌『西南遊記』によると、両広の軍閥の中では白崇禧は傑出しており、その人格・識見・治政共に優秀であると讃えている。
 松井は広東に帰り、再び胡漢民や陳済崇、李宗仁に会って、こう述べた。「君たちの恩師孫文先生は何と言われたか、派閥・軍閥等の小異を捨てて『中華民国』という一国を形成せよ、これが先生の遺言ではなかったか。蒋に気に食わない点があるか知れないが、わしはこれから南京に行き蒋に会って、その欠点と排日政策を匡正するよう勧告するつもりだ.........。孫文先生の精神に還ろうではないか」
 ようやく3人は、それぞれ首肯した。
 東京で2・26事件が起き、政府首脳が暗殺された、との重大ニュースを受けたのは、広東のホテルであった。「閣下帰られますか」との私の問いに、「いや、蒋に会うまでは帰らぬ」とキッパリ仰言(おっしゃ)った。
 閣下が広東をあとにしたのは2月28日である。香港を経て、途中福州に上陸し、空路上海に着、上海では蒋の義弟宗子文(そうしぶん)とも会談した。

「日支交渉松井試案」と西安事件

 3月13日の早朝松井大将は南京に到着するや有田八郎大使を大使館に訪ね、西南視察の概要を報告し、蒋介石対策について話あった。武官の雨宮中佐からも意見を聞いた。
 さらに大将は午後から外交部長の張群と2回会談した。
 そして翌日大将はホテルの一室にこもって『日支交渉松井試案』なるものを起草した。
 その要点のみを略記すると次の通りである。
    一、準備工作
 一、南京政府は、西南を抱擁する工作を進めよ。
 二、党部を改善し、親露派を粛清せよ。
    二、交渉の精神
 一、交渉は日支平等を原則とし、急速に現況を破壊することを避ける。
 二、共存共栄、有益相通、相互協力、東亜の復興に寄与する。
    三、交渉要綱
 一、排日侮日政策をやめ、孫先生の大アジア主義に基く両国の根本的政策に寄与する。
 二、満州国の既成事実、持種事実を承認する。
 三、赤化防止は両国共同して具体的方策を協定する。
 四、財政経済問題は両国間で相互援助法を定め、敢て欧米を排斥せず、強調的態度を持す。
 五、両国は国民相互の交流と思想の善導を期す。
 この松井試案に対して張群は若干の修正と補足意見を述べた。しかし蒋介石は「外交問題は一切張群にまかせてあるから」と言って、例のごとく愛想よく松井閣下を迎え「好(ハオ)!好(ハオ)!」を連発して、特別に意見の開陳はなかった。
 松井大将が西南軍閥に対しても、蒋に対しても、主張した言葉は、孫文先生は《日本無くして中国なし、中国なくして日本なし、中日の関係は唇歯補佐(唇と歯の関係)切っても切れない関係だ》と言われた。この孫文先生の思想帰ろう、という主張であった。
 会談が終わって、松井閣下の歓迎パーティーが開かれた。何応欽(かおうきん)はじめ国民党の主要メンバーに雨宮中佐も参加して、盛大な会となった。
 さらにその後、呉震修(ごしんしゅう)が閣下を招待し、2度目の歓迎会が開かれた。呉は大将対して、国民党の一部に親露思想のあること、蒋・張群に対する批判など、党の内情を赤裸々に打ち明けた。
 松井閣下の西南→南京旅行は、実に45日間にわたる。「日中友好育成のための長遊説の旅」であった。
 松井大将は帰国するとすぐ廣田弘毅首相に面接して、中国の実情と中日外交の将来について、暫くは安泰である旨を告げ、対蒋政策に対し意見具申をした。
 だが、この年の12月12日、西安事件が突発した。共産党と内通していた張学良に、蒋介石が拉致され、虜になったのである。この事件は世界を驚かした。今までの支那軍閥の内戦を遥かに超えた重大無比な、局面の大転換となったのである。
 この事件により、松井大将の積年の努力など一空に帰し、この西安事件が支那事変の原因となり、さらには大東亜戦争、朝鮮戦争、台湾独立の遠因となるのである。

私の台湾視察旅行と蒋の暗涙

 岸信介先生は石橋首相の病気辞任により、57年2月首相に就任した。岸内閣に課せられた重大任務は、日米安全保障条約の改定交渉の成立であった。
 この安保改定に反対するいわゆる《60年安保闘争》なるものは、左翼や労組はもとより、青年・学生層まで〈アンポ・ハンタイ!キシヲ・タオセ!〉を叫んで、デモ隊は連日国会を包囲した。
 だが、岸首相は泰然として動ぜず、新条約を強行単独採決して、今日の日米安保条約の基礎を築いたのである。
 内閣総辞職後も岸先生は、親台湾・韓国の大物政治家として、友邦の首相とも親交が篤かった。ことに蒋介石とは昵懇(じっこん)の間柄であった。その岸さんがある時、安保闘争の当時、終始岸首相に味方して、安保改定に協力した若者を集めてこう言われた。
 「君たち、台湾を視察する気はないか。台湾は将来の日本の安全にとっても、日米安保の将来にとっても、重要な場所だ。君たちにその気があるなら、蒋介石総統にわしから手紙して依頼するがどうか」と言われた。
 かくして編成されたのが、陸軍画報社社長中山正男氏を団長とする5名の台湾視察団である。
 私もその1人に加わった。昭和41年(1966)9月19日、羽田空港を発って台北の松山空港へ。
 空港には外交部長はじめ、多くの役人や新聞記者らの出迎えを受けた。
 さすがに岸先生の紹介である。われわれは蒋総統の命により、到る所で“準国賓的”な待遇を受けた。
 まず行政府の貴賓室で、台湾の歴史と近代化、及び軍備状況についてスライド付きの説明があった。夜はオリエント・ホテルで外交部長の歓迎の宴。
 翌日は空路台中を経て台南の空軍基地を見学、鄭成功(ていせいこう))の神社や遺跡を訪ね、高雄に宿泊。高雄は新興工業都市である。アルミ工場や海軍基地を見学、翌日汽車にて台中へ向かう。
 日月潭で遊び、高砂族と交流した。彼らの民族舞踊を見て再び台北へ、夜は台北市長の歓迎宴。
 翌日は金門島要塞を見学した。われわれの飛行機に護衛機までつくという丁重さである。金門島は全島要塞で、司令室も、兵舎も、集会場も、病院までも、すべてが地下である。現在も台湾と福州との間で、宣伝ビラ等を砲弾に込めて撃ち会っている由ときく。
 翌日は蒋経国、巌(がん)行政委員長との会談と招宴。そのまた翌日は、大陸からの難民収容所を見学、大陸の難民はすでに470万人にも達した由ときく。

蒋介石
若き日の蒋介石

 最後は蒋総統との会見である。
 蒋介石総統はすでに80歳、口辺に笑みを浮かべ、好々爺(こうこうや)といった感じだ。何応欽将軍はじめ多くの要人も同席した。〈写真は禁止とのこと〉総統は一段と高い所に坐をしめ、まず岸先生の近況と皆さんの台湾視察の感想はどうでしたか、と質問された。
 中山団長が詳細に報告し、この度の旅行に際しての行き届いたご配慮とご接待に対して深く感謝する旨を述べた。
 暫く懇談ののち、団員ひとりひとりが蒋総統の前に進み出て、謝辞を述べ、総統から握手を賜ることになった。
 私は総統に敬礼してから、「私はかつて閣下にお目にかかったことがございます」と申し上げた。
 「いつか。」と聞かれるので「36年(昭和11)の3月、松井石根閣下にお伴して、南京で・・・・」と申し上げた。
 松井大将の名を聞くや、蒋介石の顔色が見る見る変わった。
 ふるえ声で――「松井閣下には、申し訳なきことを致しました・・・・・」と私の手を堅く握りしめて、むせぶように言われ、眼を赤くして涙ぐまれた。
 私は驚いた。
 一同も蒋総統のこの異様な態度に驚いた。
 周知の通り南京戦の直後、蒋は漢口にいてしきりに対日抗戦の声明文を発表したが、〈虐殺事件〉など一言も触れていない。何応欽軍司令官の『軍事報告書』の中にも一行もない。それを東京裁判は、松井大将の責任で20万余を虐殺したと判決して、絞首刑に処したのである。
 あれほど支那を愛し、孫文の革命を助け、孫文の大アジア主義の思想を遵奉(じゅんほう)したばかりか、留学生当時から自分(蒋)を庇護し、面倒を見て下さった松井閣下に対して何らむくいることも出来ず、ありもせぬ「南京虐殺」の冤罪で刑死せしめた。悔恨の情が、いちどに吹きあげたものと思われる。
 蒋介石は私の手を2度、3度強く握って離さず、目を真っ赤にして(おも)を伏せた。
 周知の通り、蒋はカイロ会議以降連合国首脳会議から除外されて、発言権を失った。
 代わってスターリンがのさばり、中立条約を破って満州、南樺太に進攻し、北方四島の侵略まで果たした。
 蒋は東京裁判関係からも除外され、派遣した梅判事はすでに共産党にくらがえしており、南京事件に対して何らの発言も出来なかったのである。
 蒋介石は88歳でこの世を去るまで、松井大将の冥福を祈ったと聞く。


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