マイケル・ホンダ(Michael Honda)氏との対話
松尾一郎
カリフォルニア州議会の決議から始まった
平成11(1999)年8月27日(金曜日)産経新聞の朝刊に「日本政府に賠償要求決議」という記事(別項にて記事掲載)が掲載された。
米国カリフォルニア州で対日賠償要求決議が行われたそうである。
やはり、この様な事態になったかと・・・ある程度予想はしていたものの、やはり気持ちとしてはやるせないモノが込上げてくる。
決議内容は「日本政府はより明確に謝罪し、犠牲者に対する賠償を行うべき」というモノであった。
この決議は先に米国内でベスト・セラーとなったアイリス・チャン著「ザ・レイプ・オブ・南京」の影響が多分にある。
この「「ザ・レイプ・オブ・南京」についてはこのホーム・ページでもいかにインチキな代物であるか反論を行っているが、米国内では真実であると受け止められているようである。
チョット本筋から離れるが、これに関連した事を述べたいと思う。
99年秋に、米国人で日本の歴史に興味があり以前からメールのやりとりを行っており南京事件について知りたいとして連絡があった青年と東京都内で会見を行った(その模様は「国民新聞」99年秋に掲載)。
その米国人の青年は、直接アイリス・チャンとも会っており直接彼女に著書に掲載している箇所で疑問に感じているところを質問したそうである。
実は彼女が著書で述べている根拠はかなりあいまいである事や、ベストセラーといわれているが実際にはアジア系米国人が主に買っている事などを、彼自身の立場から教えて頂けた。
そして何よりも一番重要なことは、米国には日中戦争や関係の歴史について書かれている書籍がほとんど無い事を教えてくれた。だからこそアイリス・チャン著「ザ・レイプ・オブ・南京」の内容が正しかろうが、間違っていようが唯一のモノで信じざるを得ないとの事を教えて頂いた。
彼自身は過去、日中関係を調べようとしてアメリカの公文書館などを巡りようやく図書館で発見したものは唯一、エドガースノー著「アジアの戦争」のみであったそうである。
この著書はご存知の通り、日本人に対する当時の白人の持つ差別意識をそのまま表現した様なもので...内容は「日本人は首狩り族が銃を持っただけ、朝鮮人と中国人より知的にも肉体的にも劣っている。日本女性は主人が商品として売買できる最低階級の生き物・・・。」などと言った無茶苦茶な事が書かれているトンデモ本である。
彼自身は日本語を独学で勉強し、ある程度会話も出来る日本通で、奥さんは若くてかわいい日本人女性。
アイリス.チャンの著書は馬鹿馬鹿しくて話しにならないといった事を述べていたが、資料がロクに無く、日本に対する知識が全く無い多くの米国人にとってはエドガースノーの著書は信じられなくても、アイリス・チャンの著書を信じるのは、いたしかたないと教えてくれた。
この会見での唯一の救いは彼自身、アングロサクソンの標準的アメリカ人の一意見として、アイリス・チャンの著書が影響を及ぼしているのは、アジア系住民が主で標準的な白人種には特に影響は無い、と個人的意見ながらも述べてくれた事だろう。
マイケル・ホンダ氏に会う
99年11月中旬頃から、サイモン・ウイゼンタール・センターの一行が日本へ来る。との情報がインターネット上でも流れ始めていた。
私は来る事は聞いていたが、具体的な日にちまでは知らなかった。12月上旬には靖国神社を見学する、というある程度具体性のある情報が徐々に入り始め、それについてとにかく情報を集めた。
そして確実にこの日に来る、という情報を入手。その前日の夜中に南京事件関連の英語資料をコピーした(この時用意したのは、ルイス・S・C・スマイス博士が1938年に製作、出版した「南京戦における被害調査」の英語原本のコピー)。
夜3時頃まで作業したので、翌朝寝坊してしまい、とにかく急いで家を出た。
朝10時に靖国神社に到着。
今か今かと待ち伏せていた。
もしかしてもう見学を終えているかも知れないな・・・と、考えつつも、じっと待っていた。
日本の誤解を解くためだ・・・と自分に言い聞かせながら。
運良く、昼12時15分頃、待ち始めて2時間後に彼らは現れた。
私はその一行をジット見つめて確認を行い、そして1人の日系人らしき人物を見つけた。
間違い無い。マイケル・ホンダカリフォルニア州下院議員だ。
私は待っていた場所から20メートル程度先にいる、彼に向かって走って行った。
そして、簡単な英語で....「マイケル・ホンダさんですね、私は松尾一郎と言います。あなたに会いたくて来ました。そして手渡したい資料があります。見て下さい。」
と言って、例の資料を手渡してこう言った「アイリス・チャンの本はウソを書いています。
この資料を読んで下さい。この資料は当時南京にいたアメリカ人の教授、ルイス・S・C・スマイスによって作成されたモノです。」
マイケル・ホンダ氏は「オー、ルイス・S・C・スマイス」と・・・この名前を一応は知っている様子だった。
そしてその資料を手にとって私にこう述べた。
「南京事件は本当にあったのか?それとも無かったのか?君はどう思う」
私は思いもしない質問を問いかけられたので、少しちゅうちょしたが
「無かった。南京大虐殺などは無い。」とハッキリ述べた。そしてさらに、
「私は約3年間調査しているが虐殺などは無い。」と答えた。
その時、ホンダ氏は薄笑いを浮かべてこちらを見ていたが、突然、この一行の引率者らしき人物が急げとばかりに彼をせかした。
仕方ないので、互いの名刺を交換し、メールアドレスも交換した。彼は「サンキュー」と一言述べ、資料を親戚でもあり秘書でもある甥っ子に手渡し持たせた。
彼らは境内、遊就館を見ようと移動していた。
ところで、私はサイモン・ウイゼンタールの連中やマイケル・ホンダ氏と会い、話す、千載一隅の(充分時間もあり、絶好の)チャンスなのにどうして私以外に誰も来ないのかと疑問を持ち始めた。そしてどうあたりを見回してもそれらしい人は見当たらなく誰もいない。(私が事前に入手した情報では待ち伏せをする研究会があると聞いていた・・・。)
そこで私は、かつて所属していた研究会へ電話をした。なぜなら彼らの事務所からタクシーを飛ばせば5分か10分そこらで来れるし、アイリス・チャンに関して南京事件の誤解を解くべきで世界に主張すべきと普段から豪語している団体だからだ。
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マイケル・ホンダ一行(写真1) |
今見学している連中はどうやら1、2時間はここで見学を行いそうな雰囲気だったので、私はすかさず持っていた携帯電話で某研究会の事務所へ情報提供とともに、一緒にマイケルホンダ氏と会わないかと問い掛けてみた。
研究会の事務所の電話番号に掛けると(ガチャ)「もしもし、松尾です。今、マイケル・ホンダ氏とサイモン・ウイゼンタール・センターの連中が靖国神社に来ています。千載一隅のチャンスです。今急いで来れば日本の誤解が解けます!何をしてるんですか?」と述べると。
冷たい言葉で一言、事務員U氏は「それだけですか・・・。情報ありがとうございました。」(ガチャン)
「ツーツーツー・・・・」
無愛想な応答。
彼らは結局、この千載一隅のチャンスなど、どうでも良いのだろう。
普段、あれだけ研究会は南京事件に関して「世界に対して誤解を解くべき」だと主張しているのに・・・やはり、本気に考えていないんだな・・・と感じた・・・)
この時点でもう私は彼らの様なインチキ・エセ研究会の連中はあてにする訳にはいけない。
とにかくマイケルホンダ氏一行・・・つまり 彼らの行動を逐一記録に収め、靖国から立ち去るまでしっかりとこの目に記録する事にした。
彼らは靖国の神殿前に掲げてある特攻隊員ら等の時世の句である詩を読んでいる、だが一切、本殿に向かって祈ろうともしない。
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マイケル・ホンダ (写真2) |
この一行は約20人前後、中にはどうやら中国語を話す中国政府関係者らしき人物も多くいる。(写真1)
観察を続けていると、そこへ靖国神社のO氏が横切ろうとする。
挨拶をして事のあらましを説明する。
O氏は「へー、あれがね」と言って、手には游就館で販売するのだろう「国民の歴史」数冊をかかえてニヤニヤ顔をほころばせながら何も興味なさそうに立ち去る。
私自身としてはその危機感のなさにムッとする。
話はそれたが一行の中にはサヨクらしき日本人数名もいる。
彼らは本殿から遊就館へ移動、中には入らずたむろしている(写真2)。
私はここぞとばかりに中に割って入りマイケル・ホンダ氏に一緒に写真に写ってくれと申し出た。
彼は快く受けてくれた(写真2)。
ちょっとした会話の途中、彼は南京の生存者がこの中にいる、と教えてくれた。
私は、そのおばあさんに会ってみた(写真3)。英語で話しかけたが、分からないという仕草だった。仕方ないので当時の南京の地図を見せた。それでも手を左右に振ってわからない。という仕草をした。一行のうち、一人たりとも最後まで本殿に参拝する事はとうとうなかった。
それから午後2時10分までの1時間55分間彼ら一行はじっくり靖国を観光客気分で見回り、その後彼らは本日から渋谷で行われているサヨク集会の会場である「ウイメンズ・プラザ」にバスで向かった。その集会の題目こそ「戦争犯罪と戦後補償を考える国際市民フォーラム」である。
「戦争犯罪と戦後補償を考える国際市民フォーラム」1日目(99年12月10日金曜日)
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ウソばかり述べた証言者(写真3) |
私は靖国神社での一行の行動を観察し終えると急いで渋谷のウイメンズプラザに向かった。
到着するとビデオ上映が丁度終わりかけていたところだった。
サヨクの集会にしては意外と参加者が多かったので数えたら会場の入場者数はその時約200人程度に思えた。
後で聞いた話では労働組合などに動員を掛けて300人ほど集まっていたそうである。
観客の中には、阿羅健一先生や秦郁彦教授もいる。
阿羅先生にビデオの内容についてお聞きした。
アイリス・チャンが出演したTV番組を放映し、台湾の従軍慰安婦(?従軍していた慰安婦等は1人もいない。全て商売行為である。
サヨクが戦後ねつ造した用語)のビデオを上映していたそうだ。
先生はちょうど午後から用があるそうで、しばらくしたら会場を後にされた。
カナダユダヤ人会議の、マルク・ワイントラウプ氏がサヨクのアジ演説のような全く同じ主張をし、その後には古い研究内容とイデオロギー論説で南京事件が有ったとして主張している藤原彰元一ツ橋教授が壇上に立ちいつもの調子で話していた。
私は会場を見まわしながら観察していたが会場の雰囲気としてはやはり、全く勢いが無い。
という感じで、徐々に彼らが追い詰められている事は容易に理解できた。
一応会場には二十歳前後の若い子達も数人いたが仕方なく来ていた。という雰囲気が充満していた。
ところで休憩中に秦教授にお会いし会話した。私は個人的には秦教授が好きである。
なぜなら、虐殺派と違って(多少ごまかすが・・・)親切に返答をキチンとしてくれる。
南京事件は別としても従軍慰安婦の一件は素晴らしいと考えているからだ。
研究者としては(個人的に)現在日本一と私は思っている。
その教授にペコリと一礼をして、話しをし始めた。
会話の中身は、秦教授ほどの人物が南京事件に関してあのような資料を使い(曾根一夫)や虐殺を主張するのはもったいない。
教授は南京事件の真実を知っている。
死ぬまでに本当に教授の考えを発表して欲しい・・・と申し出た。
今回で2度目の訴えだが・・・教授はニコニコ笑って聞いていてくれた。
でも前回よりは随分と時間を割いてくれたので嬉しかった。
夕方、外が暗く成り始めた頃、階段の踊り場でまたマイケル・ホンダ氏と出会った。
「ハイ!ジャック。調子はどう?」と聞かれたので「まあまあ」と述べると苦笑いしていた。(ジャックというのは私が米国留学中に呼ばれていたニックネームで彼に私の名前は呼びづらいだろうと考え靖国で教えてあげた。)
講演も最後にさしかかる頃、また休憩中に彼に会った。
さすがに幾度も会っているうちになんとなく、不慣れな日本で苦労している一外国人に思えてくる。
最初は憎々しかったのが、さすがに何故かかわいそうに思えてきた。暖かい缶コーヒーを買って来て彼にあげた。すると、随分感謝してくれた。
そして彼とまた会話が始まった。
「日本に来て日本の印象はどう?」などと話しているうちに、やはり、南京事件の事に及んでしまった。
今度は、互いに熱くなり。
30分以上話しただろうか。
大きな声で。
途中、マイケル・ホンダ氏のスタッフであるイグナシオ・ディン氏が話しに割って入ろうとしたが、ホンダ氏は彼をはねのけて私との話を続けてくれた。話の中心はもちろん南京での虐殺とアイリス・チャンについてである。
そのうち彼は彼自身がベトナム戦争での従軍経験があり、ベトナム戦争や広島、長崎、南京での被害は全て同じ“悪”であるという単純に心情サヨク的に判断し考えている事が分かった。
結局最後まで互いの主張は平行線だったが、私は最後に「とにかく、今日渡した資料を読んでくれ。」という事で話しを終えた。
「戦争犯罪と戦後補償を考える国際市民フォーラム」2日目(99年12月11日土曜日)
今日は場所が変わって社会文化会館である。
社会文化会館という名だが、要は社会党の党会館でのセミナーである。
会場に向かおうと、地下鉄から出ようとしたら大音響が響いてきた・・・右翼だ。
とにかく、迷惑な連中である。
大きな音量で罵声を浴びせるだけで、何ら意味が無い。
そんなに大声で喋る位なら、小さな音量で南京事件が無かった根拠1つでも流す方がよっぽど有意義であるし、皆の興味を引くだろう。
中の会場には何ら影響が無い事が分からないのだろうか?
とにかく、電車の関係上、十数分遅れて会場に入った。
会館内には中国共産党員らしい人物が、うじゃうじゃひしめいており、その一方的でヒステリックな罵声が響いている。
(何で、一国の政党の中に我が物顔でこれだけの人数がいるんだろう・・・と不思議に思いつつ・・・)
朝日TVで良く登場する、中国共産党広報のヒステリックな中年女性も壇上で731部隊の残虐行為をわめきたてている。
社会党会館の入り口には、各部屋の案内の掲示板を見る。
各テーマ事にブースが分かれているようで、「南京事件」「従軍慰安婦」「731」など、もちろん私は南京事件を聞きに行った。
証言者のおばあさん(写真3)の話しは、南京事件当時に雨花台近くに住んでおり、日本軍が入城後、幼かった彼女(28歳でか?)だけはレイプを免れ1週間もの間中、南京から逃げて逃げて逃げまくったそうだ、逃げ延びた、その都度日本兵が現れ、レイプされそうになり、だが幼かったので助かったそうだ。(悩)
ところが最後に、1週間後に最初に住んでいた雨花台に戻るという変な話で、話の大筋は本人以外は全てレイプされ行けども行けども日本兵が出現する。といった程度の低い作り話と容易に分かる話だったが、こんな変な話を信じる人はいるのだろうか?と首をかしげた。
午後1時から各ブースの報告会。
あいかわらず、彼らの日本の戦争犯罪を暴いたとする自己陶酔し、満足している様子を見てウンザリする。
何で、ああも自分がすべて正しいと思い込めるのだろうか?しかもロク調べもせず思い込みだけで・・・。
午後3時半頃だったと思うが、ホンダ氏が会場に現れた。
私はすかさず、彼のそばに行き、そしてビデオ「南京」を手渡そうとした。
すると、彼は私の顔を見て「サンキュー、ジャック」と言って握手をした。
私は突然のこの握手は一体何なのか理解出来なかったが、彼が「あの資料は素晴らしい。昨日の夜、読ませていただいたよ。」と述べた。
つまり彼は一晩で100ページ以上の資料を読みきったことになる。
本当は彼も南京事件に関して真実を知りたいのだろう。
そして彼の顔を見ると、どうやら昨日の私の主張の意味を理解してくれたと感じ、私は安心した。
そしてビデオ「南京」と、英語の資料を手渡しこう述べた。
「南京虐殺が有った、無かったかは、あなた自身の判断にまかせます。私は南京事件に関して多くの資料を持っている。それを提供することは出来るでしょう。そして米国でも必要な資料は私のホーム・ページで見れます。今このアドレスで公開している。ただし、今は日本語がほとんどなのだけど」と述べると、ホンダ氏は
「私のスタッフには日本語が理解できる教授もいる。だから日本語は問題無い。」と述べてくれた。
私は明日も1つ書籍を渡したい。と述べると、彼は笑ってスーツケースに入るかな。と冗談を言って再度握手をしてその場を分かれた。
ホンダ氏が行ったカリフォルニア州議会決議の真意とは
2日目の講演会では午後5時から壇上にホンダ氏を含め、イグナシアス・ディン氏、有光健氏、ジョン・ツチダ氏、鹿毛達雄氏、丸山輝久氏が壇上に立った。
私は壇上での彼の発言に驚いた。「産経新聞」「正論」など、いろんな所でホンダ氏について論評しているが、彼と直接会って話した私の感想としては皆正しいモノとは思えない。だからこそ、私はここで発表する事にしたのだ。
この壇上で演説のとうしょ、隣にいたイグナシアス・ディン氏(中国系米国人で抗日戦争史実維護会会長)が来年(2000年)の連邦議会にマイケル・ホンダ氏が出馬する事を紹介した。
そしてこの後のマイケル・ホンダ氏の壇上での発言はのっけから大変な事を述べた。
カリフォルニア州議会での決議の経緯と意図について直接、最初に話し始めたのだ。彼はあの決議は米国西海岸に置けるAPA(環太平洋)コミュニティの結束の為に行ったとハッキリと言い切った。
そしてこの壇上での彼の発言は正に日本の立場を完全に憂慮している。私は彼と始めて会った時とはまるで違う彼を壇上に見た。
彼自身1942年に日系人として収容所に送られた経験があるそうで40年に及ぶ日系人の戦後補償裁判の戦いの苦労を述べた。ハワイ在住の日系人は収容されなかったそうだが、米本土在住の日系人や南米日系人は全て収容されつい先ごろようやく保証を勝ち取った事。彼が下院議員になったのはその運動の経過においての様だ。この様な人権運動を行った延長として彼は心情サヨクとなった様だった。
この戦時中の在米日系人の話はジョン・ツチダ氏の方がもっと詳しく述べているが、今回は省略します(ごめんなさい。機会があったら掲載します)。話を戻すが、今サンフランシスコ周辺では80年代から今にいたるまでに環太平洋出身者の移民人口が405%の成長をしている事をホンダ氏はあげた。
私はこの時全ての意味が分かった。
それは彼自身が述べた通り、APA(環太平洋)コミュニティの結束の為に行ったというのは選挙に対する票集めの為に行ったのだと。そして立場の弱い環太平洋地域出身移民者の人々の権利を確保する為に団結させようとして日本をあえて悪役にしたのではないか。(特に反日感情が強く移民人口が急激に増加している中国、韓国系移民に憂慮して)
それをうらずける様に論理展開をし、最後にこう強く述べたのだ。
「AGR−27(カリフォルニア州)決議は日本政府を困惑させるためにやったものではない、APAコミュニティ結束の為にやった。」と......確かに彼の行った決議は一日本国民である私としては許せないモノがある。
だが彼は、壇上こういう言葉も残した。
「アメリカには反対意見を受け入れる寛容性がある」と........
私は、ホンダ氏とはこの後には会っていない。だが、彼が何を伝えたかったかは十分理解出来たつもりでいる。
やはり一番重要な事は誤解を解くための努力と対外的に我々自身が訴える事が重要であるという事。もちろん日本国政府が真実訴えることこそ一番重要なのだが。日本の政治家はもちろん外務省は何もしない。その上海外では日本の情報がロクに入らないという事でホンダ氏のような誤解に基づく決議が行われるという事が判明した。そして今回のような情報誤解の恐ろしさを見た感がした。話がそれたが....彼からこの様な発言があったからと言って決議撤回は決してしないだろう。なぜなら彼は日系人とは言え、その前に米国に忠誠を誓った一米国市民であるのだから。だが、この出会いと発言は私にとって大きなヒントになった。
「戦争犯罪と戦後補償を考える国際市民フォーラム」3日目(99年12月12日日曜日)
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ウヨクの街宣車(写真4) |
この日は最終日。
1日目、2日目と集会を見ていくうちに、私は徐々にこの集会は内容があまり無く、さほど神経質に考えるべきでないと考え始めていた。
そして、サヨク運動には陰りが出始めつつある事・・・。
その証拠に、日を追う事に、参加人数が目に見えて、減り始めていた。
1日目300人(ただし、サヨクの動員をかけてやっと)、2日目150人程度、3日目には100人前後。
だから、今日の最終日は、事前にパンフレットの講演内容をチェックをして午前中は重要でないと判断し、今日は昼12時に行った。
しかし・・・相変わらず意味の無い右翼デモが続いている。(写真4)
今回余裕を持って会場に入ってビックリしたのは藤岡信勝、東中野修道両教授が午前中に会場に来ていた。
だが同時に・・・「今更、聞いても意味の無い時に来て何をしたいんだろう?この人達は。」・・・という侮蔑心を感じた。
1、2日目に来てさえいたら、マイケル・ホンダ氏と会えたし、論議を尽くせたはずなのに・・・と思いつつ、「“ま・・・仕方がないか。この2名は能力も低い上に、いつもこんな調子だし・・・だから写真の検証が1枚も出来なかったんだよ”」と半場呆れた。(ため息)
午前中の講演が終わり、両教授ともしばらくフロアーでうろうろしていたが、サヨクの連中がカメラを隠しながら写真機でバシャバシャ撮影していた。
両教授はまったく気付いていない様子。(こういった点が、呆れるというか○○というか・・・利権屋の食い物にされるのは、当然だったのかもしれない。(笑))
2名は午前中の2時間あまりの、意味無い講演を聞いただけですぐ帰って行く姿を見て・・・確かに最終日は1、2日目程大した事は無いけれど、それでも最後の「宣言文」位は聞くべきではないのかな?と・・・何しに来たのだろうか?この人たちは・・・(悩)・・・と、やはり呆れるだけであった。(ため息)
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東京宣言を読む (写真5) |
その後、一息ついて私は弁当を買いに外に出た。
すると、両教授は帰る途中において路上で外国の記者にインタビューされていた。
藤岡教授が半分怒り顔でインタビューを受けていたが、私は侮蔑の目を横目で送りながら戻り、再度、午後の講演を聞いていると、藤岡教授が途中1人で入って来た。
教授が座った席が、会場右側中ほどの出入り口近くだったので、後ろからサヨク連中が、指をさしながらヒソヒソ話。
私は最後列中央の最後尾から見ながら相変わらずだな・・・と呆れた。
席を取るなら一方向を向いているだけで全体を見渡せる便利な一番後ろの席を取れば良いだろうに・・・声だって充分聞こえるし・・・相変わらず、総身に知恵が働かない、回りの状況を理解出来ない、(頭悪っ・・・と更に呆れた・・・)こんな低い判断力だからこそ・・・プロパガンダ写真を1枚たりとも検証出来ず、人の研究を盗むことばかりするからこそ・・・私だけで無く多くの仲間から、愛想を付かされたんだよ・・・と思いをはせつつ、一応何かあったら助けなきゃなぁ・・・(万が一の時は)と、思い、時折見ていたら、モノの30分もせずに出て行きました。
(えぇー(驚)何しに来たのだろうか?この人は?こんな事で相手の分析など出来るのかな?と考えつつ・・・)
つまり、この日の唯一重要だった講演会が始まる前にさっさと帰ったのだ。
何もロクに見ずに、聞かずに・・・何もせずに・・・アホ丸出しのバカさ加減であった。(ため息)。
重要な講演を聞かずにさっさと藤岡・東中野両教授が帰った後には、ご存知、本島等元長崎市長が壇上に現れ、日本人はDNAそのものに残虐性があるのではないか?というすさまじい、論理展開で、パネリストの1人坂本義和氏からもたしなめられるシーンがあった。
最終日の目玉としては、この本島等元長崎市長の発言がひときわ際立っていた。
私はとうとう彼らの自虐も、ここまで来たか・・・と感じながら呆れながら聞いていた・・・。
その後、相変わらずのサヨクの主張をダラダラと読むだけの東京宣言(写真5)。
その後は、暗闇での路上パレードと続いた。
この講演会は全体的には盛り上がりに欠け、尻切れトンボの最終日でした。
ただ、今回だけは逆に産経新聞があおった感があり、朝日新聞は沈黙であった。
つまり逆に塩を送った様な気がしてならないのは私だけでしょうか?
この最終日に、ホンダ氏に藤岡・東中野教授著『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究』という本を手渡そうとしましたが、最終日には、日本観光(たぶん京都あたり・・・)をしていたそうで、スタッフの1人のイグナシアス・ディン氏に頼み、ホンダ氏に手渡してくれとことづけました。
実はこのディン氏は、チャンの著書を元に対日批判をしている人物で、この著書を渡した時に(私は心の中で)チョット笑いました。
なお、この著書の中では写真の判定に多々間違いがあります。
藤岡教授は、プロパガンダ写真研究会で私や仲間が検証した論文を理解できないまま検証を掲載しているためです。
私について「資料提供者」として名前が掲載されていますが、私はこの書籍に関しては全く資料提供はしていませんし、責任も保証は持てませんし、持ちません。
そもそも、※藤岡・東中野両教授共にプロパガンダ写真の解析は一切出来ませんし、私は一切監修に関わっていません。
余りにも単純な間違い部分が多いのです。
私の意思を確認せず、許可無く名前を使用しているだけでは無く、私が検証した「ライフ」赤ん坊写真の分析を勝手に掲載した部分に随分と間違いがあります。
藤岡教授は、まるで自分がすべて研究した様に書かれていますが、それは100%違います。
そのため間違をチェック出来ずに、あの様な事になったのです。
一応は写真検証についての問題提起は出来たとは思えますが・・・私個人としては、研究、検証を行った連中に対して何ら感謝の言葉も態度も示さない藤岡教授に対して憤りを感じています。
蛇足でしたが、これが私の「戦争犯罪と戦後補償を考える国際市民フォーラム」参加レポートです。
(※なお、2005年2月に草思社刊『南京事件「証拠写真」を検証する』東中野修道・小林進・福永慎次郎(著者の1名は偽名使用)はこのプロパガンダ写真研究会での私どもの研究発表を盗用しており、東中野自身2005年5月25日に草思社にて盗用行為に対して抗議を行った際に、自身が写真は1枚たりとも研究したものが無い事を安に認めており、参考にしたはずの私(松尾)の『プロパガンダ戦「南京事件」』光人社刊についても、著作が完成するまで一切見てはならないと共著者2名に指摘していたそうです。しかしながら、著書の内容には私の著書で間違った部分がそのまま引用されており、参考にした事は明白。なお共著者1名が偽名であるにも関わらず、抗議時に実在の人物である等と偽証し、さらに幾度も偽証行為を行っています。この抗議の際の会話は全て録音されており録音の際にあらかじめ東中野側から「この会話の音声はインターネットで公開しないで欲しい」との申し入れがありましたが受諾していない上に、その後FAXを送ってきた際にも同じように公開を控えるようにとの内容文が書かれていました。実質的な研究者であった友人と私は、失礼な態度や言動に対して終始憤慨していました。もちろん途中、東中野氏は我々の指摘に対して幾度も返答出来ない状況でした。)