朝日新聞の中国へのおもねりが
「南京大虐殺」を独り歩きさせた

●検証なしの聞き取り記事『中国の旅』が火をつけた

評論家

片岡正巳


 いわゆる『南京事件』は、極東国際軍事裁判(=東京裁判・1946〜48(昭和21〜23年))で、訴因のひとつとして取り上げられたことにより、多くの日本人の知るところとなった。
 しかし、その『南京事件』が、戦前の日本軍が中国で行った“残虐行為”の象徴的出来事として強く印象づけられるようになったのは、実は1971(昭和46)年、朝日新聞紙上で『中国の旅』というルポが連載されたのがきっかけだと言われている。
 そのため『南京大虐殺』はマスコミによってつくられたものだと主張する人々もいる。
 とりわけ、朝日新聞が、この問題に果たした役割は大きいとも言われてきた。
 東京裁判から20年以上たった1970年代に、なぜ、突然、『南京事件』は甦ったのか。
 その事情を、『朝日新聞の戦後責任』などの著書で、一貫して朝日新聞社の報道姿勢を問い続けている片岡正巳氏に聞いた。

 『南京事件』は、東京裁判の判決後、ほとんど国民の間に話題にものぼらなかった。
 ところが、1970年代になって、朝日新聞で本多勝一記者のルポ『中国の旅』が連載されてから突如、社会的関心事として脚光を浴びることになる。
 しかし、東京裁判で訴因のひとつにもなった『南京大虐殺』を、歴史的に考察しなおそうというのであれば、なぜ、東京裁から20年もたったその時期だったのか。
 南京事件を考える上で、そこがひとつのポイントとなる。
 というのも、そこには、この事件を社会的認知させる上で、朝日新聞が多大な役割を果たしていることがうかがえるからだ。
 そこで、朝日新聞と『南京事件』との関わりを論ずる前に、その当時の中国を取り巻く状況を見ていくことにする。
 戦後、日本の報道各社は中国には特派員をおけなかった。
 中国のニュース取材は、外電や入国した政治家などから聞くといった形を取らざるをえず、いわば、中国は報道に関して空白地帯になっていた。
 その中国報道に転機が訪れたのが1964(昭和39)年。
 訪中した自民党の松村憲三衆院議員らと、当時、中日友好協会会長であった廖承志氏との間で、「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」、いわゆる、日中記者交換協定が交わされたのだ。
 それによって、中国へは朝日、毎日、読売、サンケイ(現産経)、日経、西日本新聞、共同通信、NHK、民放代表の東京放送の9社の記者が入国できることになった。

中国特派員は朝日だけという異常事態

 ところが、おりしも中国では、1966(昭和41)年ごろから文化大革命が起こり、日本の記者が次々と中国を追放になるという事態が生じた。
 1967(昭和42)年9月には、サンケイ、毎日、西日本新聞社の特派員が、ついで、翌年の10月には読売新聞の特派員が追放になった。
 当時、東京放送に代わって民放代表になっていたNTVには入国許可がおりなかった。
 翌年の6月には、日経新聞の記者がスパイ容疑で中国当局に逮捕され、11月にはNHKの記者が再入国を認められず、実質的に追放になった。
 さらに、1970(昭和45)年9月には、共同通信の特派員も追放になり、中国に残ったのは朝日新聞の特派員のみになってしまった。
 これは、もともと、日中記者交換協定が政府間の取り決めだったことに起因している。
 そのころ、中国は(1)中国を敵視しない(2)二つの中国を造る陰謀に加わらない(3)日中国交正常化を妨げないという、政治三原則を主張し、日本政府もこの主張を受け入れていた。
 この協定には、この三原則は盛り込まれていなかったが、当然日本の報道機関も三原則を守るよう求められていた。
 中国側に処分された報道機関は、それを守らないと見なされたわけだ。
 文化大革命という政治的混乱期に、このような、中国当局の意思次第で、どうとでも拡大解釈の出来る“原則”に、日本の各報道機関は支配されていた。
 例えば、元週刊朝日副編集長でジャーナリストの稲垣武氏によると、1967(昭和42)年のサンケイおよび毎日新聞の追放理由は、毛沢東の似顔絵を新聞に掲載したというものだった。
 また、読売新聞の追放理由は、東京で読売新聞社が主催する、チベット秘宝展を開催したということだったし、NHKの再入国が許されなかったのは、台湾ルポのテレビ映像の中で、“大陸に帰る”という意味のスローガンが書かれた壁面が画面に映し出されたという理由からだった。
 このように、日本のマスコミ各社が些細(ささい)な理由で、国外追放の憂(う)き目にあったことを考えると、当時、追放されずに中国国内にとどまっていた朝日新聞が、どれだけ中国寄りの報道姿勢を示していたかということがうかがえるだろう。
 言論の自由、取材の自由がほとんどない当時の中国に、朝日新聞だけが特派員をおいていることに、当然、内外から批判が集まった。
 この点を、1970(昭和45)年10月21日、日本新聞協会主催の研究座談会『あすの新聞』の席上、北川長二郎北日本新聞社社長に問われた当時の広岡知男朝日新聞社社長は、こう答えている。
 「報道の自由がなくても、あるいは制限されていても、そういう国であればこそ、日本から記者を送るということに意味があるのではないか」(『新聞研究』より)
 さらに、
 「私が記者に与えている方針は『・・・こういうことを書けば、国外追放になるということは、おのずから事柄でわかっている。そういう記事はあえて書く必要は無い・・・』こういうふうにいっている」(同『新聞研究』より)
 とまで言い切っている。

中国偏重路線の裏に周恩来単独会見あり?

 そんな中、広岡朝日新聞社社長は、1970(昭和45)年の3月から4月にかけて、約1ヵ月間、日中覚書貿易交渉・日本代表の一員として訪中し、ますます中国へ傾倒していく。
 それは、広岡社長の帰国後、「日中交歓卓球大会」「中華人民共和国出土文物展」、さらに「上海バレエ団公演」と、朝日新聞の主催する中国関係の行事が目白押しになる事にも表れている。
 そうしてまで、朝日新聞が中国との結びつきを強化していった背景には何があるのか。
 もちろん、かねてから言われている社内の伝統的な親ソ派、親中派と言われる、心情マルクス主義的傾向も大きいが、そこに見えてくるのは、日本の新聞社、言いかえると情報機関としての多大な利益があったことも否定できない。
 なにしろ、中国には朝日新聞しか特派員がいないのだ。
 一般の読者は、中国報道に関しては朝日が正しいという認識を植え付けられる。
 情報機関としてのこれらの利益は、計り知れないものがあったと思う。
 その中で、朝日新聞の中国報道はますます、中国寄りの姿勢をあらわしていく。
 ひとつの例として、林彪(りんぴょう)事件のときの、朝日新聞の対応ぶりをあげておく。
 当時、中国国内は文化大革命真っ只中。
 そして、第九回全国代表大会(1969年)で、林彪副主席が毛沢東主席の後継者となることが満場一致で決まっていた。
 しかしその後、林彪は毛沢東と対立。
 1971(昭和46)年にクーデターを企て失敗し、同年9月には、ソ連に向って国外逃亡をはかり、モンゴルで搭乗機が墜落し死亡するという事件が起こった。
 一連のできごとを、当時、中国当局はひた隠しにしていた。
 しかし、中国国内で政変が起きていることや、林彪が失脚したことは、「国慶節のパレード中止?北京筋、重大事件も予想」(9月22日=AFP)、「ナゾ深める“林彪失脚”の原因」(11月26日=サンケイ)などと、日本はもとより世界の報道機関がキャッチして報道合戦を繰り広げていた。
 その中で、朝日新聞の中国特派員だけが、
 「中国内部に何か異常な事態が生じているのではないか、という観測がここ数日来世界の一部の国をにぎわしている。しかし北京の様子は全く平静」(9月27日)とか、
 「党首脳の序列に変化があったのではないか、と断定するだけの根拠は薄い」(12月4日)
 などと、あくまでも林彪事件を否定し続ける内容の記事を日本へ送ってきていたのだ。
 ここでも朝日新聞は中国べったりの報道姿勢を示していたといえる。
 そんな最中、朝日新聞東京本社の後藤基夫編集局長らが周恩来首相との単独会見の内諾を得て、約1ヶ月も中国に滞在している。
 会見は成功した。
 これは、中国が国連に復帰してから初めて日本のマスコミに答える形になり、11月6日の同紙、1面から3面までさいて大々的にこの会見を報じた。
 朝日新聞だけが、中国国内の政変を否定し続けてきた裏には、このスクープへの期待があったのではないだろうか。
 憶測にすぎないが、それほど当時の朝日新聞の中国特派員が東京へ送ってくる情報は中国べったりだったということだ。

『中国の旅』は一方的聞き書き

1970(昭和45)年4月訪中団(中央が周恩来首相)

 朝日新聞と中国との関係が、そのような状況にあったとき、本多勝一記者の『中国の旅』が登場する。
 前述した中国と朝日新聞とのそれまでの関係をみていくと、結果として、この『中国の旅』は、朝日新聞が中国との関係をさらに強化することに寄与したのではあるまいか。
 『中国の旅』で本多勝一記者は「アヒルがたくさん浮いているかのように、長江の水面をたくさんの死体が流れていた光景が、今でもはっきりとまぶたに浮かびます。どこへ行っても空気は死臭で充満していました」という証言や、日本人将校による百人切りなど、日本軍の惨殺の様子を10回にわたって連載している。
 ところが南京における取材対象は本多氏も書くように「二日間に四人」しかいない。
 一見相当数の人間から証言を集めたように見えるのだが、この4人が他の人から聞いた話や、体験談を語っているに過ぎない。
 しかも、同行した通訳は遼寧省革命委員会外事係。
 中国側が用意したたった4人の取材相手に、通訳も中国側が用意した役人なのである。
 これだけでも、この取材の中身について?が付きそうだが、問題はそれだけではない。
 本多勝一記者の『中国の旅』の取材内容について、朝日新聞社社史には、「・・・百人以上の生き残りの人びとから事件当時のなまなましい状況を聞きとった・・・」という記述がある。
 つまり、あくまでも聞き取りでしかないのだ。
 いうならば、中国側から提供された“証人”のいうことをそのまま聞いて記事にしたということになる。
 ルポの中にある、「今の私たちがあるのも、全く毛主席と党のおかげ・・・」とか、「毛主席の恩は天と地よりも大きく・・・」などといった“証言”もそれらの人々の言うままを記した結果なのだろう。
 さらに、その内容が正しいのかどうかの裏取りはしていない。
 本多氏は、その内容に関しての検証をしていないのだ。
 人の話を報道する場合、それが、いつ、どこで、どういう状況でという具合に、資料と付き合わせて、ここでこういう事件があって、この話しの信憑性の高さはどうかということを検証するのは当然のことだ。
 それをせず、ただ、相手の言っていることだけを載せてしまうという姿勢は、それは報道と言えるのだろうか。
 では、なぜそういうことになったか。
 それは本多氏が、取材当初から“日本軍がいかに中国でひどいことをしたか”というモチーフを持っていたからにほかならない。
 最初から、そういう目的の取材をしにいっているのだ。
 だから、南京事件の実態はどうだったのかとか、旧日本軍は中国で非人道的なことをやったといわれるが、実際はどうだったのかとか、旧日本軍は中国で非人道的なことをやったといわれるが、実際はどうだったのかといった、報道者として当然掘り下げるべき作業をしていない。
 最初から、いかに中国で日本は非人道的なことをやったかということを書く目的で行き、そこに、それに即した材料をはめ込んだとしか思えないのだ。
 しかも、そのことを評論家の田辺敏雄氏に指摘されると、本多氏は、
 「私は中国の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば、中国側に直接やっていただけませんでしょうか」(片岡正巳・田辺敏雄・板倉由明共著『間違いだらけの新聞報道』より)と回答した。
 このことは、本多氏は書いたものについて、何ら、責任感を持っていないことを露呈している。
 しかし、いくら取材方法に問題があろうと、一方的な記事であろうと、この記事がもたらした影響は甚大であった。
 中国人が語るところの旧日本軍の行状(ぎょうじょう)だけが、事実として大きく取りあげられていった。
 この記事によって、『南京大虐殺』という既成事実が作り上げられたといっても過言ではない。
 おそらく、当時、日中国交正常化の条件のひとつとして、日本が過去の問題について中国へ謝罪するということが強く求められていたわけで、結果として、中国側の路線に朝日新聞はうまくのせられたということだろう。
 逆にいえばそれは、あくまでも中国へのおもねりだったと思う。
 それが、はっきりとした形で“日本断罪”という路線が出てきたのはソ連の崩壊から冷戦構造が変化してからだろう。
 ソ連崩壊以後、朝日新聞の方向性も変化せざるを得なかった。
 そして、それまでの反米、親ソ、親中という路線を変換せざるを得なくなった時登場したのが、環境保護と人権という方向性だった。
 その、人権という方向性と中国での日本軍の行いというテーマが合致し、日本を断罪するという路線が生まれたのだと私は思う。
 『南京事件』の報道なども、結果的にはそれにうまく結びついてしまったというのが今の状況だろう。
 そういう意味では、『南京大虐殺』は、東京裁判で作られたものだが、それを世間に広く認知させたのが朝日新聞の中国に対する“おもねり路線”だったということができるだろう。(小学館『SAPIO』98年12月23日掲載)


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