アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京
90ヵ所もの間違い

1 11 21 31 41 51 61 71 81


[1]21頁。江戸時代250年間、日本の軍事力は弓と刀を越えることがなかった。
(正)1543年、種ヶ島に銃が伝わるや、日本は種子島砲を生産。
[2]島国の日本にペリー司令官Commander Perry を派遣し----
(正)ペリー提督(提督と司令官は全く違う) 。正しくはCommodore Perryを派遣し----
[3]1853年7月ペリーは2隻の軍艦を東京湾に----
(正)4隻の軍艦the two steamers, the Susquehanna, his flag-ship, and the Mississippi, the Saratoga, and the Plymouth sloops-of-war.
[4]ペリー自身も将軍の都を闊歩し----
(正)横須賀(神奈川県久里浜市)に上陸した。----
[5]この訪日1回目にしてペリーは徳川幕府と条約を調印----
(正)翌年(第2回)に調印。
[6]22頁。神道の太陽信仰を国教 a state religion に昇格させ----
(正)神道は国教ではないし、その様な事実は無い。
[7]武士道という武士の倫理を全ての国民の道徳規範として採用した。
(正)意味不明であり、その様な事実は無い。
[8]27頁。十九世紀のアメリカにとって西の太平洋岸への膨張が明白なる天命であったとすれば、支那こそは二十世紀の日本の明白なる天命であった。
(正)そのような事実は全く無い、事実無根。
[9]参謀本部の一員であった大川周明。
(正)事実無根、全くのデタラメ
[10]28頁。一九二〇年代に蒋介石の国民党は----全国を統一した
(正)その頃の支那は未だ分裂していた。
[11]29頁。支那との戦争を不可避と考え、日本は戦争の準備----。
(正)日本が支那との戦争を不可避と考えて、積極的に戦争の準備をしたことはなかった。日本は支那との戦争に「文字通リ押込マレタ」(アーベント)のである。むしろ日本租界などの日本人保護の為に武力行使を行った。
[12]32頁。(士官学校の候補生の)読むものは入念に検閲され----。
(正)検閲制度は一切なし
[13]33頁。日本軍は盧溝橋付近の宛平城まで進撃し、その(行方不明の)兵士を探すことができるよう、開城せよと要求した。支那軍司令官が拒否すると、日本軍は砲撃を加えた。
(正)志村二等兵の帰隊は7月7日夜11時頃。その事実は翌八日午前二時に宛平県長(王冷斎)に通告ずみ。日本兵失踪を口実に日本軍が「八日朝六時頃」(金振中大隊長)に入城を要求してきたと言うのは、明らかに金振中の偽証。原著者はこの偽証に立脚。
[14]八月日本軍は上海の埠頭に増援部隊を上陸させ----。
(正)8/23第三師団は呉淞に、第十一師団が川沙口に上陸。
[15]数百人が戦死したが、そのなかには良子皇后の従兄弟も----。
(正)皇后陛下の従兄弟の伏見宮博恭の子(博嘉王)が負傷。
[16]35頁。上海南京間の線路沿いは日本空軍がほとんど全ての橋を爆破----。
(正)日本軍の進攻を遅らせるために支那軍が破壊を行った事は周知の事実である。清野作戦の一環であった。
[17]37頁。中島今朝吾は----昭和天皇のための秘密警察の長官。
(正)その事実なし。事実無根。
[18]バーガミニは中島今朝吾を「思想統制、脅迫、拷問の専門家」と呼ぶ。
(正)その事実なし。事実無根。
[19]中島今朝吾は南京に死体焼却用特殊油を持参。
(正)その事実なし。事実無根。
[20]木村久邇典によれば、中島今朝吾は「獣」beast 「乱暴な男」a violent man と称された----。
(正)これは引用の間違いである。木村久邇典は「怪物、爆弾男と称された田中隆吉が、----」と書く。
[21]松井石根大将は結核を病む将軍----。
(正)松井大将が結核を病んでいたという事実はない。
[22]37頁。農村を襲い、目に触れたものはみな刺し殺した。
(正)皆逃げて、日本軍が来たときにはいなかった。(ダーティン・レポートなど数多くの証言、証拠がある)
[23]都市が灰燼に帰した。
(正)支那(国民党)軍の清野作戦が都市を焼き払った。
[24]11月19日、激しく雨の降る朝、日本軍前衛部隊が支那軍歩哨に見破られないよう頭巾を被って蘇州の城門を通り抜けた。一度、城内に入るや、日本軍は何日も殺害し、掠奪し、---数千人の支那人女性を拉致して性の奴隷にした。
(正)それを裏付ける証拠を、General Chiang Kai-shek's Appeal to the Nation(December 16, 1937) や China Yearbook 1938 に見い出すことができない。そのような事実は無い。アイリス・チャンによる創作文。
[25]38頁。12月7日、松井大将は蘇州の司令部で高熱----結核が再発----。
(正)松井石根陣中日記「12月7日、此日始メテ蘇州、上海間鉄道開通スルニ依リ、予ハ之ニ乗ジテ方面軍司令部ヲ蘇州ニ前進ス。沿道漸次平和気分ヲ見ル。避難農民逐次帰村シツツアルヲ見ル。可欣。蘇州ニハ既ニ自治委員会設立セラレ、我副領事モ昨日来当地ニ来リ」
松井大将が結核をわずらっていた事実は一切無い。
[26]昭和天皇は----叔父である朝香宮鳩彦王を前線に送った。
(正)昭和天皇と鳩彦王は従兄弟のご関係になる。
[27]朝香宮が南京周辺の日本軍の新最高司令官として----。
(正)12月4日朝香宮は上海派遣軍司令官に任命され、6日上海着。しかし依然として松井大将が中支那方面軍司令官として最高司令官であった。
[28]39頁。バーガミニの信ずるところでは(略)昭和天皇が叔父を南京の最高司令官に任命したのは罪を償う機会を与えるため。
(正)その事実はない。バーガミニによる創作文。
[29]松井は病床に参謀を招集して会議。
(正)そのような事実は一切なし。
[30]40頁。12月5日朝香宮は飛行機で東京を発ち、3日後に前線に着いた。
(正)飯沼守陣中日記「12月6日朝香宮軍司令官殿下ニハ軍艦「朝汐」ニテ本日午後二・三〇頃上海御着七日軍司令部御着任ト決定----- 12月7日(略)午後四・〇〇殿下御着」
[31](略)朝香宮は中島将軍と会った。
(正)その事実はない。中島今朝吾は陣中日記によれば12月8日に「1発ノ小銃弾ハ来リテ左鎖骨ヲカスリテ貫通セリ」「12月9日(略)正午前軍司令官朝香宮殿下ヨリ御見舞トシテ御付武官ヲ差向ケラレ御見舞品を頂戴ス。感激ノ至リナリ」
[32]中島は朝香宮に日本軍が南京で30万の支那軍を包囲--。
(正)支那軍兵力は数万。
[33]事前交渉からするに、支那軍には降伏の用意があると語った。
(正)南京防衛司令官は南京死守を誓い、日本軍の降伏勧告をも無視し受け入れ無かった。
[34]朝香宮の司令部から、捺印のうえ「極秘、焼却のこと」と記された命令が出された。そこには(略)「捕虜は皆殺せ」KILL All CAPTIVES と明瞭に書かれてあった。
(正)その事実はない。「皆殺せとのことなり」と山田栴二旅団長は記す。「皆殺せ」とは伝え聞いたことであって、正式な命令書ではなかった。しかも、これは、幕府山付近の山田支隊のみが聞いたことに過ぎない。日本軍の正式な命令では無い。
[35]朝香宮の情報将校タイサ・イサモは----。
(正)上海派遣軍司令部第2課課長の長勇(ちょう、いさむ)は中佐であった。
[36]41頁。支那兵の捕虜は全て消せとの命令は紙に明記されただけでなく下位の将校にも発せられた。1937年12月13日、日本軍の歩兵第六十六大隊 the Japanese 66th Batallion は次の命令を受領した。
(正)その様な事実は、一切無い。部隊名も正確には、歩兵第六十六連隊 regiment 第一大隊
[37]「十二名のグループに分けてここに銃殺すべし」
(正)銃殺せよ。などといった命令は行っていない。戦闘後に書かれた戦闘詳報では「十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何」
[38]第一中隊は駐屯地南の穀物畑にて----行動を取ること。
(正)谷地。
[39]42頁。50万人以上の非戦闘員と9万の支那軍部隊が南京には閉じ込められていた。
(正)南京城内に残留した非戦闘員は20万人(難民区を管理していた南京安全区委員会等の調査等・・・)であった。
[40]大量屠殺の戦略は幾つかの段階から成り立っていた。支那兵に抵抗をやめればその代わり公正に扱うと約束し、----。
(正)そのように騙した証拠は一切ない。
[41](支那兵は)日本軍が包囲したとき南京から逃げようとして武器を投げ捨てていたので、----。
(正)安全地帯に逃げ込もうとして武器を投げ捨てていた。明かに支那(国民党)兵による国際法違反である。
[42]多くの支那兵が簡単に投降した。
(正)殆ど全ての支那兵が投降しないで安全地帯に潜伏した。その一部はゲリラ化し、一般市民にまぎれ込んだ。
[43]43頁。東史郎の部隊(上海派遣軍第16師団歩兵第20連隊第3中隊)は南京の広場に歩哨を置き宿営を設営していたとき突然約2万の捕虜を収容せよとの命令を受け取った。
(正)そのような命令が発せられた事実はない。
[44]44頁。この(幕府)山は南京の真北、町と揚子江南岸の間に位置している。
(正)東北
[45]推計5万七千人の非戦闘員と兵士が処刑された。
(正)山田支隊の投降兵集団の数は約1万五千人と言われる。処刑かとどうか、見解は分かれている。
[46]12月16日、朝日新聞ヨコト特派員は日本軍が14、777名の兵士を捕らえたと報じた。
(正)横田特派員
[47]46頁。中島将軍は七千から八千の死体の山を埋葬するだけの大きな溝がなかなか見つからないと陣中日記にこぼした。
(正)「此七八千人、之ヲ片付クル(武装解除するための間、監視する)ニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ」
[48]1937年12月13日、日本軍は南京になだれこんで、あらゆる通りで人々を手当たり次第に射殺した。
(正)そのことを裏づける記録を国際委員会の抗議文書やラーベ日記に見い出すことは出来ない。
[49]機関銃、ピストル、ライフルを使って、日本軍は中山北路や中央通りにや近くの路地裏に集まっていた傷ついた兵士、老女、子供の全集団に発砲した。
(正)そのことを裏づける記録を国際委員会の抗議文書やラーベ日記に見い出すことは出来ない。非戦闘員は安全地帯に集結していた。
[50]日本軍はまた南京のあらゆる場所で非戦闘員を殺した。
(正)非戦闘員の集結した安全地帯に、日本軍は攻撃を加えなかった。そのことで国際委員会は感謝状日本軍に送っている。
[51]日本軍は南京で戸別に支那兵の捜索を行った際、南京の全住民を殺した。
(正)そのことを裏づける記録を国際委員会の抗議文書やラーベ日記に見い出すことは出来ない。掃蕩戦に際して日本軍は戸別に支那兵の捜索を行ったが、その際、日本軍が住民を殺したという非難や訴えもない。日本軍が安全地帯の非戦闘員を攻撃しなかったため、安全地帯の人口は20万から25万人に増加した。虐殺があれば人口が減少するのが当然である。だが逆に人口が増加している。
[52]死体は城壁の外に、揚子江(河の流れが文字通り赤く変った)に沿って、池や湖に、そして丘や山の上に、積み上げられた。
(正)そのことを裏づける記録を日本軍将兵の陣中日記や国際委員会の抗議文書やラーベ日記に見い出すことは出来ない。なお、南京城内で収容された死体は400体から600体であった。揚子江は水深35メートル、河幅は広く、流れは速く、水の色はやや黄色い。その揚子江が(物理的にも)赤く変色することは有り得ない。単なる想像による、文章表現である。
[53]南京付近の村で日本軍は若者が通るのを見れば兵士であったのではと疑って誰でも射殺した。
(正)日本軍は非戦闘員を攻撃しなかったから、歓迎された。たとえば、南京から避難民が大部入り込んだ安徽省全淑県に、幕府山付近の山田支隊が警備に行ったのが、1937年12月22日。この時、「土民は旗を作り、爆竹を持つて来て大歓迎して呉れ」た。
[54]47頁。12月最後の10日間、日本軍のオートバイ旅団が南京をパトロールする間、ライフルに弾丸を込めた日本兵があらゆる通り、並木道、路地の入り口を固めた。----商店主を射殺した。
(正)そのことを裏づける記録を国際委員会の抗議文書やラーベ日記に見い出すことは出来ない。
[55]ニチ・マイニチ新聞。
(正)大阪日日新聞もしくは東京日日新聞、のちの毎日新聞。
[56]48頁。ユキオ・オマタ。
(正)オマタ・ユキオ(小俣行男)姓名の順が逆となっている。
[57]48頁。従軍特派員ササキ・モトマサ
(正)野戦郵便局長ササキ・モトカツ(佐々木元勝)の事であろう。
[58]49頁。タココロ・コーゾ。
(正)タドコロ・コーゾー。
[59]50頁。第6師団長の谷寿夫大将 the senior general ですら南京で約20名の女性を強姦し、のちに有罪となった。
(正)谷師団長は中将であった。また「谷寿夫戦犯事件判決書付属文献の強姦部分に関する統計抜粋」によれば、住民が安全地帯に避難して居住していなかった「中華門地区」で発生したという日本軍兵士による強姦事件約20件の責任を、谷師団長は問われたのであって、自ら強姦に携わったのではない。
[60]50頁。未だ病弱な松井大将が12月17日朝、入城式のため、南京に入ると、殺人と強姦は下火となった。
(正)その様な事実無し。なお松井大将は12月17日午後、入城式のため、南京に入った。
[61]肺結核の発作から回復した松井大将は----。
(正)松井大将は肺結核を患っていない。
[62]肺結核の発作から回復した松井大将は海軍のランチで揚子江を遡行し、----。
(正)松井石根陣中日記12月14日「蘇州飛行場ヨリ飛行機ニテ句容飛行場ニ飛翔シ、夫レヨリ自動車ニテ午後3時湯水鎮軍司令部ニ安着ス」
[63]松井大将は海軍のランチで揚子江を遡行し、南京の東の三重のアーチ型の山門に車で来た。そこで彼は栗毛の馬に乗り、馬首を皇居のある東京の方に向けて、日本の国営ラジオ放送のために、天皇陛下万歳を三度唱えた。
(正)この事実はない。万歳三唱は旧国民政府で行われた。
[64]松井大将は入念に死体の片付けられた大通りの両側を、----。
(正)中山門から国民政府に行く際に通る中山東路で、死体除去作業がなされたという記録を、日本軍将兵の陣中日記や国際委員会の抗議文書やラーベ日記に見い出すことは出来ない。
[65]松井大将は入念に死体の片付けられた大通りの両側を、数万の兵士が歓声を上げるなか馬で進み、城内北部の首都飯店に着いた。そこでその夜、松井大将のために祝宴が開かれた。
(正)数千の兵士であったであろう。なお兵士は歓声を上げなかった。
[66]松井大将が南京で何かとんでもないことが起きたと気付いたのはこの祝宴の時であったと記録は示唆する。
(正)その種の記録は存在しない。松井石根陣中日記12月20日「尚聞く所、城内残留外人ハ一時不少恐怖ノ情ナリシガ、我軍ノ漸次落付クト共ニ漸ク安堵シ来レリ 一時我将兵ニヨリ少数ノ掠奪行為(主トシテ家具等ナリ)強姦等モアリシ如ク」−これによれば、少数の掠奪行為と強姦事件があったと、松井大将は認識していたのであって、南京虐殺が起きたと思ったのではない。
[67]日本軍は松井大将が南京の残虐行為について完全に真実を知ることができないよう共同謀議して、松井大将にたいする完全沈黙作戦に入ったと、その翌日(12月18日)の西側の新聞は報じた。
(正)このことを裏づける記録は見い出せない。
[68]51頁。松井大将は南京における強姦と殺人と掠奪の全容を知ると、狼狽の色を隠せなかった。1937年12月18日----。
(正)このことを裏づける記録は見い出すせない。松井石根陣中日記12月19日「概シテ城内ハ殆ド兵火ヲ免レ市民亦安堵ノ色深シ」同21日「人民モ既ニ多少宛帰来セルヲ見ル」
[69]その日(18日)、それから、慰霊祭が挙行された時、松井大将は南京で暴力行為の乱行があったことを咎めて、300日の将校や連隊長その他を叱責した。松本重治は----。
(正)これは昭和13年(1938年)2月7日の慰霊祭の時のことであった。また松井大将は一人の兵士の不法行為が「皇軍ノ声価ヲ此ル事ニテ破壊スルハ残念至極」と憂慮されたのであって、南京虐殺が起きたなどと認識されたのではない。
[70]12月19日日曜日までに松井大将は南京郊外の朝香宮の司令部に移されて、----。
(正)12月17日入城式があり、既にこの頃、朝香宮の上海派遣軍司令部は城内に移っていた。また松井大将が上海派遣軍司令部に移された事実はない。
[71]12月19日日曜日までに松井大将は南京郊外の朝香宮の司令部に移されて、その次の日には駆逐艦に乗せられ上海に帰された。
(正)12月22日松井大将は上海に戻る。陣中日記「12月22日(晴)午前十時半雷艇鴻ニ便乗下江ス」
[72]松井大将がアメリカ人記者に「日本軍は今日恐らく世界で最も軍規のない軍隊である」と語ってさえいた。
(正)その事実なし。
[73]52頁。元旦----松井大将は乾杯のとき「私の部下が大変悪い極めて遺憾なことをしてくれた」と或る日本の外交官に打ち明けた。
(正)乾杯のときではなく日高信六郎が松井大将の宿舎に新年の挨拶のためうかがったときの話。松井大将が一寸した兵士の非行にも心を痛めていた事を示す逸話。松井石根陣中日記「陣中元旦----11時方面軍司令部ニ至リ----一同ト祝宴----帰邸ノ後 各官ノ祝宴ヲ受ケ良元旦ヲ祝福ス」 東京裁判における日高信六郎証言「一月一日の日に、私は松井大将のところに、元旦の祝賀に行つたのであります。そして日本の習慣に従いまして、二人でとそのお酒を飲んだのであります。そのときに雑談をしておりましたが、私から何ら質問をすることがなかつたのでありますが、そのときに松井大将が自分で、自分の部下の中で悪いことをした者があつたということを知つて、実に困つたことだということを言われた」
[74]52頁。日本軍司令部は責任ある兵士を処罰ないしは抑えたりしないで、秘密の巨大な軍用売春制度を創出する計画を立てた。
(正)1938年2月9日の『シカゴ・デイリーニューズ』は10名以上の将兵が懲役10年を含む「重罰に処せられた」ことを伝える。国際委員会の抗議事例「192」はベイツの目撃談として「女たちが自由意志で行こうとしているのが分った。一人の女は若かったが、喜んで行った」と伝える。秘密裏にではなく、公然と、売春婦を募集していた。
[75]54頁。サムライの質問に農民が丁寧に答えなかった時、サムライは農民を打ち首にする権力を数世紀間持っていた。
(正)そのことを裏づける記録は見当らない。
[76]ナチスの戦争犯罪人の殆どは刑務所や死刑執行人の前で露と消えるか、もし生きていても法の追及から逃げのびる日を送っているが、日本の戦争犯罪人の多くは日本政府に守られながら、平和に、快適に暮して、今なお生きている。
(正)名ばかりの軍事法廷で死刑宣告を受けて処刑された日本兵が少なからずいた。他方、1945年(昭和20年)3月10日未明の東京無差別爆撃で八万人以上を殺害した戦争犯罪人や、昭和20年8月広島長崎への原爆投下を犯したアメリカ大統領は、未だに処罰されていない。非戦闘員を殺傷することは明白な戦争犯罪なのである。また、第二次大戦後の中国革命の死者1500万人と文化大革命の犠牲者2000万人、1989年5月天安門事件の犠牲者約80人を生み出した責任者も、未だに処罰されていない。
[77]向井敏明中尉と野田毅中尉は----。
(正)いづれも少尉。
[78]富永正三は広島の第39師団232連隊に配属されたとき----。
(正)富永正三氏は昭和16年に中支派遣第39師団歩兵232連隊に転属した。昭和12年12月の南京攻略戦には参加していない。従って、その証言は、無関係。
[79]59頁。永富博道は「兵士たちが赤子を銃剣で刺し殺し、生きたまま熱湯のなかに投じたりしたのを知る人は少ない。兵士たちは12歳から80歳までの女性を集団強姦し、----殺した。私は首を斬り、餓死させ----。私がやったことを説明する言葉もない。まことに私は鬼だった」と語った。
(正)これは今後検証の必要がある。仮にそれが事実としても、それは個々の兵士の犯罪行為である。日本軍の命令に基づいて行われた組織的行為ではない。そのような命令は存在しない。問われるべきは永富氏個人の責任であろう。
[80]61頁。そして国民党の指導者孫文がまさに誕生しようとする中華民国の臨時大総統となったのも1911年南京においてであった。
(正)孫文は1912年1月1日南京で臨時大総統に就任し、それから中華民国の建国を宣言した。
[81]62頁。有名な鼓楼、−マルコ・ポーロは700年前にその原形のものを見た。
(正)『東方見聞録』によればマルコ・ポーロは揚州、鎮江、蘇州と旅行した。南京に寄っていない。従って南京の鼓楼の原形を見たはずもない。
[82]南京の町は三度侵攻された。
(正)四度。 @548年  A1864年  Bフランスの支那学者ファルジュネルの『辛亥革命見聞記』や『中央公論』大正2年(1913年)十月号の「南京虐殺と善後策」によれば1913年9月1日から3日間、老満州派の張勲の軍が南京で「夫や父親の目の前で妻や娘が強姦された。まだ母親のなかにいる胎児を銃剣で刺し殺した」。日章旗を翻す日本人をも殺害した。そのため『屠殺者』張勲」は9月28日日本領事館を訪ねて謝罪。第三次南京虐殺。 C1927年(昭和2年)3月24日、南京陥落の翌日、蒋介石の国民革命軍による南京事件
[83]最初の侵攻は千年以上も昔の6世紀末に起り----。
(正)6世紀半ばのことであった。
[84]最初の侵攻は千年以上も昔の6世紀末に起り、蛮族の大群が南京の重要な建物を全て破壊。
(正)548年武将の侯景が梁の武帝に叛旗を翻し、翌年3月南京の宮城が陥落。この時、『資治通鑑』によれば、屍は道に満ち、腐乱した死体からは腐汁が溝に満ちた。
[85]第二の侵攻は千年以上も昔、太平天国の反乱軍がこの町を占領した1853年から1864年の間であった。
(正)たしかに太平天国の反乱軍が南京を占領したのは1853年であった。しかし太平軍が包囲攻略しても、住民が帰順を申し入れ、太平天国の習慣に従う限り、いのちは保証された。ところが1864年7月19日に、ゴルドンを顧問とする「曽国藩麾下の攻囲軍」が南京を包囲して太平軍から奪還した時には、清軍が南京で3万人以上を屠殺した。
[86]太平天国の反乱軍は十年以上も南京を首都とし----、この町を燻る廃墟と化し----た。
(正)清軍により南京を陥落してから40年後の1911年(明治44年)にフランスの支那学者が南京を訪れた。南京は清軍の攻撃により「一切のものが(略)組織的に焼かれて」しまったため「瓦礫の山」と化した「死の町」であったと記す。南京を燻る廃墟と化したのは太平天国軍ではなく、清軍であった。
[87]太平天国の乱以降の19世紀においては南京は平和に知られることなく眠っていた。満州の皇帝が支那の支配を北の北京から再開すると、南京はまさに文化的遺跡となった。
(正)支那大陸の支配を再び北京から行ったのは、清朝の皇帝ではない。清朝の前の明朝の成祖永楽帝(第3代)が1421年に応天府(第6代英宗の時1440年に初めて南京と称す)から北京順天府に遷都。それ以来、北京が支那の首都。
[88]63頁。国民党が清を倒して南京をチャイナの都と定めて初めて南京は重要性を取り戻した。それは正式には1928年のことであった。
(正)国民党右派の蒋介石が南京を都とするのは1927年(昭和2年)4月。そして汪兆銘の国民党左派の武漢政府が南京にて南京政府と合体するのが同年9月であった。
[89]64頁。南京の町を突き抜けて走る津浦線 the North China railway と京滬線 the Shanghai-Nanking railway の線路----。
(正)津浦線は天津から揚子江北岸の浦口(揚子江を挟んで南岸の南京と相対する)を結ぶ。京滬線は南京の町の外を走る。従って両線ともに南京の町を突き抜けて走ることはない。
[90]数ケ月もしないうちに戦争の足音が戸口まで聞こえ、家を焼き、通りが血塗られるがままにされようとは、殆どの人が予測できなかった。
(正)1937年(昭和12年)12月8日の『ニューヨーク・タイムズ』は、「当局が毎日公式に否定しているにもかかわらず南京を焼き払う計画だという噂が多数の住民の間に恐怖心を呼んでいる」と報ずる。支那軍が撤退する時には、「中国人の一人をも、一塊の土をも、灰燼に帰せしめて、敵の手には渡さぬ」という汪兆銘と蒋介石の宣言を、人々は忘れていなかった。


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