南京攻略戦の大隊指揮官真相を語る
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「南京大虐殺」はなかった
※平成4(1992)年4月に岡山国民文化懇談会(代表・三宅將之氏)で開かれた森王琢氏の講演記録です。
私は評論家でも歴史学者でもございませんし、もちろん右翼というような者でもありません。
ただ南京攻略に参加した1人の軍人です。
昭和12(1937)年7月蘆溝橋事件(ろこうきょうじけん)勃発(ぼっぱつ)後、9月に第16師団(京都)に動員下令、私は歩兵第20連隊(福知山)中隊長として出征し最初は北支に上陸、次いで師団は11月17日上海付近に上陸、その後連日戦闘追撃を続け、12月9日に南京の東北地区に進出しました。
途中で連隊長の入院、大隊長代理戦死のため、私が大隊長職を代行して大隊を指揮し、南京総攻撃に参加致しました。
南京は、昭和12(1937)年12月13日完全に占領されましたが、私は翌年の1月下旬まで約1ヶ月余り、南京及びその近辺で警備に任じられておりました。
いわゆる「南京大虐殺」があったと言われているその時、その場所にいて、当時の南京およびその付近の状況はこの目で見て、この身体で体験している者であります。
私が今からお話します事は、いわゆる「南京大虐殺」と言われている議論が、本当はどういうものであるかという事を知って頂き理解して頂いたならば、1人でも多くの人に真相を語り伝えて世間の誤った考えを正して頂きたいと考えております。
当時第一戦において部下と共に戦い、たくさんの部下を戦死により亡(な)くしました指揮官と致しまして、「南京大虐殺」というような真に話にもならない暴論がいかにも、まことしやかに伝えられ、しかもそれを大部分の日本人が些(いささ)かも疑いを持たないで信じている状態は、何としても我慢の出来ないことなのです。
共に戦った戦友、ことに日本の将来を信じて戦死して行った多くの戦友や部下に対して、全く根も葉もない濡れ衣が着せられている事は、私ども生き残った者にとっては、黙っていては申し訳の無いことだと感じており、1人でも多くの人に真実を知って頂きたい、そのために自分が役に立つならば、どんなに遠くでもどんなに忙しくても出掛けて行って真実を話したい、また下手な文章であっても書いて、それを活字にして残しておかねばと願っているのであります。
敵の首都、南京を攻撃するために各方面より進撃した各部隊は、昭和12(1937)年12月10日には大体要図のように南京を包囲しておりました。
東からは私の属していました京都の第16師団、東南からは金沢の第9師団、宇都宮の第114師団が真南から、熊本の第6師団は西へ、第13師団の山田支隊は紫金山の北側の揚子江に沿(そ)った地帯を前進、さらに揚子江の向こう岸には国崎支隊(旅団長の指揮する第5師団福山第41連隊)と、南京は完全に包囲されていました。
私は京都福知山20連隊の第3大隊を指揮して中山門に向かって攻撃をしたのであります。
当時支那軍は、南京城外に第36、51、58、87、88、101、112各師団の南京保衛軍というのが要塞を作って防備をしておりました。
松井石根総司令官は12月9日、飛行機で南京城内外にビラ(和平開城勧告文)を撒き、
「戦争をするにしのびないから、南京を明け渡すならば攻撃はしない。承諾するかしないかについては、12月10日正午中山門城外に軍使を出せば、そこで交渉する」と勧告をしたのですが、敵は全く解答をしなかった。
そこで日本軍は南京総攻撃に踏み切ったわけです。
流石(さすが)に敵の首都でありますから、確かにものすごい激戦でありました。
私の大隊の正面2キロほど先に溝山(かうざん)という小さな山がありましたが、12月10日の正午に攻撃を開始して、溝山に辿(たど)り着いたもう夕刻でしたが、敵の大部隊を前にして紫金山方面からもの凄い砲撃を受け、全く動けなくなりました。
溝山は雑木林であったのですが、それが砲撃で丸裸になる程で、ここでも損害が続出しました。
南京の総攻撃はそういう状況から始まりまして、11日、12日と、全然動けない状態でした。
12日の夜半11時から12時頃と思いますが、突然銃撃が激しくなりました。
私はこれは敵が退却する前兆であると感じまして、1時間もすれば銃撃が止むだろうと思っていましたら、案の定ピタッと止まりました。
すぐ将校斥候(せっこう。偵察の事。)を派遣しましたが、午前2時過ぎにその斥候が帰って、「中山門まで敵なし」との報告を受けましたので、直ちに中山門に突入する決心を致しまして連隊長に報告をし、第三大隊突入のご承認を得ようとしたのであります。
その報告を出すと入れ違いのように連隊長から、
「第三大隊はその場に止まり引き続き警戒に任ずべし。連隊は軍旗を奉じて、予備隊を以(も)って中山門に突入する。」という命令がありました。
今まで3日間程随分苦戦を重ね、今突入出来るという時にそこに止まっておれと言われた、その時の悔しさは私は一生忘れることが出来ません。
連隊長が軍旗を奉じて中山門に突入・占領されたのは、13日の午前4時頃でした。
他の部隊も、京都の9連隊が中山陵、明孝陵の辺りを攻撃し、津の33連隊は紫金山を攻撃、佐々木支隊(旅団長の指揮する奈良の38連隊その他の砲兵等)は、紫金山の北側から南京最北の獅子山に向かい突進しました。
第9師団は私の師団の左を東南から光華門を占領し、宇都宮師団は雨花台から中華門に、第6師団は西側を北上攻撃、こういう次第で南京は昭和12(1937)年12月13日に陥落したわけであります。
これだけ大きな戦争をやったのです。
何十万、何百万という軍隊が命懸けで動いているのです。
しかしながら「大虐殺」などということがなぜ言われるようになったのか。
その第1は、戦後に東京裁判において、検事側の証人の証言により始めて問題とされたのであります。
支那人の他、当時南京城内にいた宣教師、医師、大学の教授等が、悪意ある証言をし、それが検証もされずに採択されたことが第一の原因であります。
第2は、東京裁判が進行するに従って、NHKラジオの「真相はこうだ」という番組でおひれを付けて放送したことです。
ただしこれは、当時占領政策として占領軍がNHKの報道を統制し、指導をしていた事によるという事は十分に考えられるのであります。
第3は、新聞報道機関が「虐殺、云々(うんぬん)」と盛んに書きたてた、それを一般の人が信じるようになった事であります。
NHKラジオ放送と同様、統制されていたために新聞等もそのように書いていたのでありましょうが、報道統制が解けてからはNHKラジオは余りそういう事は言わなくなりましたが、新聞はその後も依然として書き立てていた。
しかも「一流紙」と言われる朝日、毎日、読売、あるいは有力な地方紙などが態度を改めなかったものですから、一般の人も信じるようになったわけであります。
いわゆる「南京大虐殺」は東京裁判で言われるようになったと申しましたが、ならばその東京裁判とはどういうものであったか。
東京裁判の全般について詳しく立ち入ることは差し控えますが、第1には裁判という形を取った戦勝国による日本への復讐であります。
第2には日本の「歴史の断罪」であります。
つまり日本の歴史を始め、日本古来の道徳も、宗教も、家族制度の教育も、日本にあったものは全て悪いものなんだという決め付けであります。
第3は、日本人に自虐観念を植え付け、洗脳し、精神的に弱体化しようとしたことであります。
また裁判の運営についても、
(1)偽証罪の無い裁判であったこと。
(2)検事側の証言は明瞭な偽証であっても無批判に採択し、弁護側の証言は多くあるいは抹殺されたこと。
(3)公正なるべき判事が安易に検事に同調し、検事と全く同じ立場で運営していること。
(4)弁護人の原爆投下の責任追及、ソ連の不法参戦の追及を、裁判長が「本裁判に関係無し」として発言を封じたこと。
(5)判決は11名の全判事合議によるべきにも関わらず、一部多数派の偏見的意見のみにより判決を強行しております。
その不当なことは明かなのであります。
「南京大虐殺」に関する検事側証人のデタラメな証言は、偽証罪が無いのですからことさらに被害を大きく、いわゆる白髪三千丈的証言がなされ、弁護人の反対尋問によってそのウソが暴露され、証言した証人や、それを採用した検事がむしろ恥をかき、失笑をかったという事さえありました。
(1)アメリカ人牧師マギーの証言は、日本軍の殺人、強盗、強姦、放火など、聞くに耐えない証言を1日半かけて行いました。
これに対してアメリカ人のブルックス弁護人が反対尋問したところ、マギーの証言は、実際目撃したのはわずか2件で、ほとんどが噂を伝え聞き、憶測、はなはだしきは自分勝手な想像に過ぎない事が暴露されています。
(2)その他、当時南京城内に居住していた牧師、南京大学教授、医師、ジャーナリストなど、多くは悪意に満ちた証言をしております。
(3)中国人の証言に至っては、全く白髪三千丈という証言であります。宗教団体の紅卍字会副会長の許伝音という者の証言は、「自分は4万3千人の死体を運搬して埋葬した」と言い、また「34万人が殺害され、4千軒の家屋が焼き払われた」とも言っております。
しかし南京城内には、平時は100万人位の人口があったらしいのですが、大部分は戦禍を避けて避難をしておりまして、当時は精々15万人位であったろうというのが、割合確実な数字です。
それを34万人殺害されたと言っている。
家を4千軒焼かれたと言いますが、12月13日に占領した南京に、私は15日に入りそれから約1ヶ月余りいたわけですが、その間に1件の火事も焼け跡も見ておりません。
「哀声地に満ち死体山を築き、我が軍民悉(ことごと)く掃射を受け、死体揚子江を掩(おお)い、流水為に赤し」中国人は当時の南京をこう表現しておりますが、流石に中国は文章の国であると感心の他ありません。
揚子江は軍艦が南京からもっと上流まで上って来るのです。
対岸は
その流水が「為に赤し」とは、何をか言わんやです。
(4)崇善堂という慈善団体が、約15万から20万の死体を埋葬したと証言しています。
だいたい戦闘が終わりますと、作戦をした軍隊は一応「戦場掃除」といって、敵味方の区別なく戦死者の遺体を片付けるのが軍事常識なのです。
我が軍がそういう片付けをしているのに、そんなに多数の死体を埋葬したということはとても考えられないのであります。
同時に、そんなに多数の死体を埋葬するには、一体どんなに大きな穴を、あるいはどんなにたくさんの穴を掘れば良いと言うのでしょうか?
考えただけでもウソだとお分かりになるのでしょう。
さらに東京裁判の判決は、全くデタラメ、支離滅裂のものでした。
第一に広田弘毅という方が軍事参議官の職にあったということで絞首刑になっております。
軍事参議官というのは軍人の、しかも大将、元帥の古参の人だけが任じられる職であるのに、外務大臣であった文官の広田弘毅がその職にあったということで処刑されている。
あるいは陸軍大臣であった荒木貞夫という方は、なったことのない総理大臣の肩書きで判決をされております。
またインドのパル判事は裁判中から「日本無罪論」を唱えておりましたが、判決では一切無視されたばかりか、これを印刷することも頒布(はんぷ)することも禁止されました。
このように東京裁判の不当な事は、後になって裁判の管轄権者(かんかつけんしゃ)であったマッカーサーでさえ、解任後帰国して大統領トルーマンに対し、東京裁判は誤りであったと告発し、又主席検事であったキーナンも東京裁判論告や判決は厳しすぎたと言っております。
その他英国国際法権威ハンキー卿、米連邦裁判所ダグラス判事、米国際法学者マイニア博士を始め、独・英などの国際法学者、哲学者などもその不当性を厳しく批判をしており、今やそれは近年国際法学界の共通の認識になっております。
然るに現在の日本の状態はどうですか。
半世紀以上経ってすでに独立国であるにも関わらず、いわゆる進歩的と称する学者、文人、評論家、マスコミの多くは依然として「東京裁判史観」という麻薬に犯されたまま、
「東京裁判は正しかった、南京大虐殺はあったのだ」と言っているのです。
日本人で「虐殺はあった」と主張する人を一応「虐殺論者」と呼ぶ事に致しますが、この中には新聞記者、学者、評論家という人達、それともう一つは戦争に行った兵隊、下士官、将校がおります。
そういう人達の虐殺論がいかにウソでありデタラメであるかをこれからご説明します。
(1)まず、当時の従軍記者の例をあげます。
当時南京には、新聞各社の記者が100名以上もおりました。
イ、朝日新聞の今井正剛記者という記者が「南京城内の大量殺人」という本を書いております。大阪毎日(当時)の後藤記者が、
「あなたはとんでもない事を書いていますね」とただしたところ、今井記者は、
「あれは興味本位で書いたのだ」と白状しています。
朝日の同僚の記者は、
「今井君は危険な前線に出て、目で見てものを書く人ではなく、後方で人の話を聞いて記事を書くのが上手であった」と批判をしております。
ロ、東京日々新聞の鈴木二郎という記者は、
「私は12月12日に中山門より入城した。後続部隊が次々に中山門上で万歳をし、写真を撮っていた。中山門の上では盛んに捕虜が虐殺されていた」と証言しております。
作家の阿羅健一氏が、
「あなは12月12日に中山門に入られたのですか。それは13日の間違いではありませんか」と問い正したのにも関わらず、
「いや、私は12日に入って、現実に捕虜が殺されるのを見たんだ」と譲らないのです。
12月12日には、私は先ほどお話したように、中山門正面約2キロ手前の溝山の山頂にいました。
双眼鏡で中山門の城壁がやっと見えたのですが、敵兵がいっぱいおりました。
一体いつになったらあれを占領できるのかと、その時思ったことを私ははっきり覚えています。
そんな時期に、一新聞記者がどうして中山門に入れるのでしょうか。
中山門の高さは約10メートル、厚さ20センチの扉はぴったり閉まっており、しかも門の内側には土嚢(どのう)がいっぱい積み上げられてありました。
13日の未明、我が歩兵20連隊が砲撃によって崩れた城壁をよじ登って占領し、私は15日に中山門に入ったのですが、ここで捕虜が虐殺されたような形跡は全くありませんでした。
要するに、鈴木二郎という記者の証言は、全くのウソであります。
ハ、東京日々新聞の浅海一男という記者が、「百人斬り」という記事を書いています。
京都の9連隊の野田・向井の2人の少尉に、上官が、どちらが早く百人を斬ることが出来るか競争せよ、勝者に賞を与えようと命じられ、2人が百人斬りを競ったというものでありますが、これが全くのウソであります。
第一に、軍隊で戦争の真っ最中に、上官が将校にかかる競争を命じ、勝った方に賞をやろうなどと言うこと、また将校もそんなエサで釣られるようなことは、軍隊の常識としてあり得ません。
その時の上官であると言われている富山大隊長も、「そんな馬鹿なことがあるものか」と、ハッキリ否定しておられます。
さらに野田少尉は大隊副官、向井少尉は大隊砲小隊長であり、両方とも部下が銃剣を持って敵陣に突入する部隊の指揮官ではありません。
そういう将校に、敵に突入して百人斬りを命ずる馬鹿がいるでしょうか?
そういう作り話がまことしやかに書かれ、そのために両少尉は戦犯にされ、処刑されたのです。
東京裁判の最中に、向井少尉の家族が、浅海記者にあの記事はウソである、作り話であるということを証言して欲しいと懇願していますが、浅海記者は逃げ回ってその証言を回避しております。
私は、彼が2人の若い将校を殺したのも同然だと考えております。
(2)次に、戦後に参戦者の手記、日記、インタビュー等から、盛んに「虐殺」を言っている記事で、その取材の仕方が全く偏向したものである例を挙げます。
まず、第一に、取材する相手に、虐殺を証言する人間しか選ばないという点があります。
虐殺を否定すると思われる人には取材をしません。
そればかりか取材をすると何とかデッチあげてでも虐殺に仕立てるという事を致します。
場合によっては、証言を意図的に歪曲し、時には正反対の解釈をして、証言者がそんなことは言ってない、と憤慨(ふんがい)している例もあります。
また、証言者が、「中隊の軍紀は非常に厳正でありました。」などと証言しても、そんなことは一切取り上げようとしません。
自分の取材意図に合ってさえいれば、証言内容が明瞭(めいりょう)なウソであると判っていても、そのまま記事にしております。
宮崎県の農家で写真と参戦者の日記を発見したとして南京虐殺の決定的証拠とした、朝日新聞の昭和58(1983)年8月4日の記事に対し、その写真は満州の馬賊の写真で、昭和初期に朝鮮買ったものであると、読者が抗議しています。
また森村誠一の「続・悪魔の飽食」に、日露戦争当時の伝染病による死体写真を今次大戦の関東軍の虐殺の証拠写真としていつわって掲載しているのを、読者よりの指摘抗議によって暴かれたのは有名な話です。
そのような記事について、「そんなことはあり得ないことである」と反論されても、無視し、認めないか、言を左右にしてうやむやにするのが、彼らの常套手段(じょうとうしゅだん)なのです。
都城連隊関係者が、朝日新聞に対して名誉毀損の抗議訴訟を起こして朝日が敗訴した件、京都新聞の無責任な記事に対する歩兵20連隊第3中隊の抗議に対する態度、また「平和のための京都の戦争展」の朝日新聞の記事に対し私が抗議しましたが全く無回答、これが新聞の態度です。
全く礼儀知らずと言うほかありません。
さらに、偏向的時後取材により「南京大虐殺」を盛んに主張する例を挙げます。
朝日新聞の本多勝一という記者が「中国の旅」という本を書いています。
これは彼が戦後・満州・中国に行って、日本人がそんなに悪い事をしたかを中国人に取材して、全く無批判に鵜呑みにして書いたものですが、その内の南京関係の例をあげてみましょう。
イ、姜根福の証言。
日本軍は南京城北の燕子磯で10万人くらい機関銃で射殺した。
紫金山で2千人を生き埋めにした。
あるいは軍用犬に中国人を襲わせ、その人肉を食わせた。城内で20万人を虐殺、死体を積み上げて石油をかけて焼いた。
ロ、伍長徳の証言。
南京戦直後、日本兵に銃剣で肩を刺されたが逃げ、揚子江に飛び込んで、日が暮れるまで水中に隠れていた。日本軍は逮捕した青年を高圧線にぶら下げてあぶり殺し、工業用硝酸をかけて殺した。
ハ、李秀英(女性)の証言。
日本兵に強姦されそうになり抵抗、その銃剣を奪って格闘して追い払った。しかし37ヶ所も刺されて気絶していたのを、親族の者達に助けられた。
2千人を生き埋めにするための労力と時間と穴の大きさは、どれ程のものであったのでしょうか?
軍用犬に人を襲わせて、その肉を食わせるなどという馬鹿なことがあり得るのでしょうか?
石油や工業用硝酸を、戦場でいつ、どこで入手したのでしょうか?
揚子江は確かに冬でも凍りはしませんが、12月の揚子江に飛び込んで、首だけ出していて一体日が暮れるまで我慢できるのでしょうか?
高圧線に、どうやって人間を吊り下げるのでしょうか?
当時の日本兵は現役バリバリで士気も高く、女性と格闘して銃剣を奪われ、尻尾を巻いて逃げ出すような情けない兵士がいる訳がありません。
37ヶ所も刺されて失神した者が、また蘇生するなどという事があり得るでしょうか?
どれ1つ取ってもすぐウソだと判る事ばかりです。
それを本多勝一記者は、「なるほど、ごもっともです」とそのまま本にしているのです。
本多記者については、「朝日の中には、本多君に対して良くない感情を持っている人が沢山いる」という事を朝日新聞の同僚の記者が言っていますし、又石原慎太郎氏は平成3(1991)年の「文藝春秋」に、「朝日には本多という奇妙な性格の記者がいて、盛んに南京虐殺のことを書く」と言っております。
本多勝一記者は、
「日本の子弟に国際性を持たせるため、南京大虐殺の教育を徹底させる必要がある」と言っています。
私は売国奴、何を血迷ったか、妄語断じて許すべからずと、憤(いきどお)りに駆られます。
「隠された連隊史」という本を、共産党「赤旗」の下里正樹という記者が書いております。
これには私の属しました福知山歩兵第20連隊のことが書かれています。
大体、共産党の機関紙の記者が書いたものですから、内容は読まずとも知れたものですが、私の連隊のことを書いているものですから読んでみますと、よくもまぁこれだけ大ウソを書けたものだと思うくらいのものです。
イ、「歩兵第20連隊では兵士が上官の指揮を批判し、命令に反抗し、将校はひたすら兵に迎合して兵の非行も黙認し、部隊内には下克上の空気蔓延し、将校の権威も指導力も全く零であった」
私は第20連隊の中隊長として、兵士の機嫌を取らねばならない等と、思った事さえ1度もありません。
常に部下の兵士と共に、お互いが信頼しあって戦ってきたのです。
その結果もう半世紀も経った今もなお、当時の戦友会が毎年開かれているのです。
来月の7日にも、私の中隊の戦友会が京都府の綾部で行われますが、例年のごとく、「隊長殿、是非出席して下さい」と招待されております。
将校が兵士の機嫌を取らねばならなかった軍隊で、そんなことが続けられるのでしょうか?
また私が十数年前に大病で下関で入院したことがありますが、当時の部下の多くは京都府に住んでいるのですが誰かれ言うとも無く、「隊長殿がひどい病気だ」ということで、知らぬ間に多額の見舞い金を送ってくれました。
私はベッドで感激の涙にむせんだ事でした。
将校と下士官・兵の心が離れていたならば、こんなことはあり得ないと思います。
これは私の場合だけではなく、中隊長と中隊の兵士の気持ちがしっかりと結ばれていなければ、激戦を戦い抜くということは出来ないのです。
ロ、「日露戦争の際、歩兵第28連隊(北海道旭川)の兵2千人が捕虜になり、戦後恥ずかしくて日本には帰らず、ハワイに移住した者もある」
これもまた、ものを知らずに書いたにしてもあまりにひどいじゃないか、というものです。
1個連隊は約3千人ですが、そのうち2千人が捕虜になったなどということはあり得ないことです。
私に言わせれば、下里正樹は「私はウソを書いております」と、自分で白状しているようなものであります。
「天に向かってツバをする」とはこの事でしょう。
学者の中にも、盛んに虐殺を主張する者がいます。何人おいる中で2、3人の人を取り上げますと、
1、洞富雄 元早稲田大学教授
「南京大虐殺の証明」という著書の中には私の名前も載っていますが、その中で便衣隊の兵隊を殺したのも虐殺であると言っております。
しかし、戦時国際法で便衣隊は捕虜として認めておらず、従って捕虜としての権利は与えられて無いのです。
だから便衣隊を処刑するのは、捕虜を処刑することにはならないのです。
便衣隊というのは、軍服を脱いで非戦闘員を装い、しかも武器を隠し持って油断を見澄まして危害を加える者を言います。
軍隊は非戦闘員を攻撃することは許されませんので、非戦闘員を装った敵は危険極まりない存在です。
従って戦時国際法は、便衣隊のような存在には正規の兵士が受けるべき権利を認めていないのです。
それを洞富雄氏は、
「便衣隊は軍人ではないのだから、殊(こと)に戦争が終わって戦意が無くなったのだからこれを殺すべきでない」と主張するのです。
しかし、現実に堂ノ脇という参謀が便衣隊に襲われ、乗っていた車の運転手が殺されています。
戦争の現実も、戦時国際法の規定の意味も知らない暴論と言わざるを得ません。
2、秦郁彦 日本大学教授
この人はなかなかよく調べてはおられるようなのですが、私共から見るとその調べ方が極めて杜撰(ずさん)です。
後に触れますが、曽根という元兵士がとんでもないことを書いているのを、もう少しよく調べればウソだと判るのに、非常に高く評価しております。
私はこの人には面識がありますが、このことは秦氏の失敗だと思います。
3、藤原彰 元一ツ橋大学教授
この人は陸軍士官学校卒業(第55期)という経歴を持つのですが、終戦後大学で学んで、日本現代史、特に軍事史を専攻しています。
これが虐殺論者の学者を集め、南京事件調査研究会の現地調査団長として昭和59(1984)年12月、約1週間中国に参りましてご馳走を食べさせられ、戻って来て「南京大虐殺」という報告書を書いてひたすら中国のお先棒担ぎに汲々(きゅうきゅう)としております。
私共に言わせれば、
「汝、ブルータスもか!」と言いたいところです。
実際に戦争に行った人間が、手記を書いたり日記を書いたりという形で色々虐殺を言っています。
まず第一に、日記や手紙を書いたというのがおかしいと思います。
戦場で兵士が日記を書けるものかどうか。
背嚢(はいのう)は必要最小限の携行品で一杯になっています。
その中へ一体何冊のノートを入れていったのか?
筆記具は鉛筆なのか、インキなのか?
当時はボールペンなどはありません。
終日戦闘を続けて、あるいは土砂降りの雨の中を一日中行軍して、くたくたになって露営して、暗闇の中にはロウソクの灯りさえ無いのです。
また敵と至近距離に
戦場では、眠るのが精一杯のことが多いのです。
そんな中で、どうして日記が書けるのでしょうか?
丹念に日記を書くという力があったのでしょうか?
それだけ考えても、戦場で書いた日記だというのは、どうも信用出来ないのです。
彼らの証言をいくつかあげてみましょう。
1、中山重夫
岩仲戦車隊の兵で、昭和12(1937)年12月11日に雨花台(南京城南側、中華門外の台地)で、約4時間にわたって捕虜が虐殺されるのを見たと証言。
静岡県の中学教師、森正孝という人物が作った「侵略」という8ミリ映画を持ち歩いて各地で講演をして回っています。
昭和12(1937)年12月12日は激戦の真っ最中で、そんな中で捕虜を殺している余裕は絶対に無いのです。
まして数時間もそれを見物するなどは考えられません。
特に、中山重夫氏が配属されていた戦車隊は、南京城東側の中山門攻撃に加わっており、11日、12日の状況はすでにお話した通りです。
この部隊にいた兵士が、南京城南側の雨花台で捕虜の虐殺を見るわけがないじゃないですか。
そんな大ウソを平気で言うのです。
2、曽根一夫
豊橋の歩兵第18連隊の軍曹(分隊長)として従軍。
「私記南京虐殺」3部作を発表、その中で蘇州河の戦闘につき、
「11月7日朝霧の中工兵の人柱による橋上を敵弾を冒して走り、敵弾命中し河中に転落」と書いております。
これが全くのウソであります。
曽根一夫は豊橋歩兵第18連隊の軍曹ではなく、名古屋の野砲第3連隊の初年兵であったことを、彼と同じ中隊(野砲3、第12中隊)にいた戦友が証言しており、所属部隊の階級も全くデタラメですし、蘇州河の戦闘になどは参加しておりません。
また第18連隊の中隊長、及部巷氏は、
「11月7日は激しい風雨であり(朝霧などは無し)、蘇州河は水深2メートル余りで人柱等不可能、さらに当時は敵弾の飛来等ある状況では無かった」と、証言しています。
こんなウソを平気で言っております。
3、富沢孝夫
海軍の暗号兵。
「昭和12(1937)年12月11日、松井軍司令官の虐殺を
海軍の暗号兵が陸軍の暗号を傍受・解読する事は、技術的に出来ないのです。
さらにもう1つは、12月11日には、松井軍司令官は蘇州で入院しておられ、南京にはおられません。
にもかかわらず、彼は平気でそういう事を言っております。
4、石川フミ
東北出身の日赤の看護婦で、病院船筑波丸に乗って揚子江を
そんな時期に、そこいらに死体がある訳がありません。
現実に、私は何度か中山陵に行きましたが、一体の死体も見たことはありません。
何度も通った私が全然見ていないのに、たった一度行った看護婦が、散乱した死体を見るわけがないじゃありませんか。
5、東史郎(あずましろう)
歩兵第20連隊第3中隊上等兵。
「わが南京プラトーン」という著書で随所に諸上官の悪口を書き、戦友の非行として虐殺、強盗、強姦の情景を描写。
又「7千人の捕虜を各中隊に分配して殺害した」「中隊長自ら斥候(偵察)に行った」等と書いています。
彼は私の連隊の兵士です。
捕虜を各中隊に分配して殺害するというような事はあり得ませんし、現に私の中隊はそんな分配など受けた覚えはありません。
またどんなに激戦であろうとも、中隊長が約200人の部下の指揮を放棄して斥候に行くなんて、そんな馬鹿なことも考えられません。
各中隊はみな「中隊会」という戦友会を持っていますが、そんなウソを平気で書く男ですから、戦友会を除名されております。
また、「東という兵士が倉庫に秘蔵していた手記を我々に資料として提供した」と発表した新聞がありますが、同じ町に住んでいる私の部下が、私に手紙を送ってくれて、
「東の家に倉庫なんてあったことはありません」と、はっきり言っております。
又、朝日新聞の記事によりますと、彼は自分の階級を「軍曹」と詐称して福岡で講演したこともあります。
6、北山与
歩兵第20連隊第3機関銃中隊。
「12月13日西山(前記の溝山のこと)麓で捕虜を火刑に処す」
「12月14日戦銃隊は紫金山の掃討、約800名、武装解除後、皆殺し」と証言。
これは私が第3大隊長代行として指揮した部隊の兵士です。
こんな命令を出したこともありませんし、これほど重要な事を、直接の指揮官である私が知らないはずがありません。
そんな大ウソを、朝日新聞は喜んで書いているのです。
彼はまた、自分は日記を書いたけれども、それは中隊長に検閲されるから差し支えのないことばかり書いた、と言っておりますが、戦場の中隊長は、兵士の日記を点検するほど暇ではありませんし、またどの兵士が日記を書いているかなんてことは判りません。
7、上羽武一郎
第16師団衛生隊の担架兵。
「戦場で放火、殺人、切り捨て勝手たるべしの命令があったので毎夜民家に放火して、住民をあぶり出して殺害した」と、メモに書いていると、新聞のインタビューに答え、
「中山門攻撃の歩兵第20連隊の多数の死傷者を運搬のため、住民中の青年約100名を徴用、使用した後虐殺」と証言。
「放火、殺人、切り捨て勝手たるべし」などと言う馬鹿なことを言う指揮官がいるわけがありません。
また当時の戦場の住民の中に、100名もの青年がそこいらにいる等という事はあり得ません。
8、最近、私が聞いた話で、京都に共産党をバックにした団体がありますが、それが舟橋照吉という男の日記が出た、これが虐殺の動かぬ証拠であると盛んに言っております。
週刊誌に出たその日記なるものを私は子細に読みました。
輜重輸卒(補給部隊)で京都の連隊に入ったそうですが、まるで自分1人で敵陣に突入し勇戦奮闘したようなことが書いてあります。
輜重輸卒が戦闘に参加したり、まして敵陣に突入するなんてことはあり得ない事です。
9、太田壽男
南京の停泊場司令部の職員の少佐が、
「12月16、17、18日に何万という死体を処理した」と書いています。
この人は後に戦犯となり、満州の撫順収容所に収容されてそこで書いたものであります。
ところが同停泊場司令部に梶谷という職員(曹長)の日記によると、太田少佐は12月16、17、18日に南京にはいなかった。
この人は12月25日に、上海から初めて南京に来た人であります。
太田という人は、戦犯収容所に収容されて、おそらくそう書くように強制されたものだと思います。
それをいかにもまことしやかに、虐殺の証拠だと言うのです。
太田少佐の手記については、毎日新聞静岡支局の武田某という記者が広島市に住んでいる畝本正巳氏(陸士46期。戦車隊中隊長として南京攻略戦に参加、偕行社編纂の「南京戦史」の編纂委員)のところに聴きに来た際、畝本氏は、
「そんな馬鹿な事は無い」と、梶谷日記も見せて、太田少佐の手記の誤りである事を説明しています。
ところがそれが毎日新聞の記事になってみると、虐殺の動かぬ証拠として太田手記を載せ、しかも少佐であった人の証言であり、間違いないと言っているのです。
畝本氏の証言も梶谷日記のことも、一切無視しているのです。
今、お話したようなことが、「南京大虐殺」論の実態なのです。
南京に虐殺があったという主張にこれだけウソが多いということがお判りになれば、逆に虐殺は無かったという証拠になるのではないでしょうか。
「あった」という証明は簡単なのですが、「無かった」という証明はなかなか難しいのです。
ですから、「あった」という論にこれだけウソが多いことを指摘して、逆に証明する以外ありません。
しかしその指摘は、私や戦友、部下達が直接体験したところから出ているのです。
これ程多くの新聞記者、学者、評論家その他の人達が虐殺があったと言っておりますけれど、一方
「そんなことがあるものか」と、反論する人も多いのです。
先ほどの畝本正巳を始め、犬飼總一郎(陸士48期南京攻略戦参戦)、田中正明(拓殖大学講師を経て評論家)、板倉由明(南京問題研究家)、谷口巌(南京問題研究家)等の諸氏は私も面識があり、この人達はあるいは著書をもってあるいは投稿などにより、虐殺論者に対して反論をしておられます。
作家の阿羅健一氏の著書「聞き書 南京事件」(現在は絶版、小学館刊「南京事件日本人48人の証言」にて再販中)は、当時戦場にいたジャーナリストの人達に集まってもらい虐殺があったかどうかをたずねているものですが、ほとんどの記者が、「そんなことはなかった」と言っております。
有名な細川隆元さんは朝日新聞の編集長だった方ですが、その細川さんが編集長時代に南京に派遣していた記者を集めて、南京虐殺事件の事を聞いたところ、
「そんなものはありません。」とハッキリ答えたと言っておられます。
要するに、モノを正しく見て正しい事を言おうとする人は、南京に虐殺事件はなかったとハッキリ言っているのです。
虐殺があったと言っている人達は、世の中に迎合している人が多いのです。
戦場とはどういうものか、当時の日本軍と中国軍(蒋介石率いる現台湾の国民党政権。現在の中国は毛沢東率いる中国共産党政権です。)の実態はどういうものであったかという事について少しお話しましょう。
中国軍の実態について申しますと、まず第一に、兵隊の素質が非常に悪い。
日本の兵隊と全く異なる点ですが、中国には昔から「良民不当兵」(良民は兵士にならない)という諺(ことわざ)があります。
日本軍が虐殺したと言いますが、まず虐殺をやったのは中国兵なのです。
その実例を申しますと、私が上海付近に上陸後、ほとんど連日は戦闘、引き続き追撃と敵と戦いながら南京へと迫って行きました。
従って私の前には日本軍は全くいないという状態で戦闘を続けていました。
ところが私がある部落、あるいは町を占領するというと、そこが既に破壊をされており略奪をされており、焼き払われているどころか、
なぜそういう事が起きるかと言うと、逃げる中国兵が略奪を働き、それを防ごうとした住民が中国兵に殺されているのです。
中国兵は退却する時には「清野空室」と言って、焼き払い、略奪しつくして、追撃する敵軍に利用させまいとする、そんな残虐なことを平気でやっているのです。
昭和の始めに、「南京事件」「済南事件」というものが起こっています。
これは(蒋介石率いる)国民革命軍が北伐をした時に内乱が起こり、在留の日本人や外国人が虐殺された事件です。
また昭和12(1937)年7月29日に北京東南の通州というところで起きた「通州事件」があります。
380名いた日本人が、中国の保安隊に260名惨殺された事件です。
あるいは、また上海では、大山中尉が水兵と共に殺されていますが、これも惨殺です。
さらに私が直接見たものですが、ある部落に宿営するため設営(宿舎の準備)の兵が自転車で部隊よりも先行して、部落の入り口の門が閉まっていたので、その兵士が「開門(カイメン)、開門」と叩きますと、門の上から手榴弾が投げられて負傷してしまいました。
一緒に行った兵士はあわてて帰り、我々がその部落を攻撃して占領し、負傷した兵士を探しますと、門を開けて引きずり込まれたものか、首を斬り落とされていました。
一緒に行った兵士は、その首を抱いて体にくっつけて、泣き叫んでいました。
これが私が現実に見た、中国人の残虐性を現す光景であります。
中国軍には昔から「督戦隊」というのがあって、後ろから味方の軍に鉄砲を撃って第1線を督励(とくれい)する、そういう事が行われていました。
実際に、南京の城外警備軍の87師、88師が総崩れになって城内に殺到するのを、城内警備の37師が味方に向かって発砲して督励しています。
また南京陥落の前、12月6日には南京城門は全部内側から閉鎖され、城外陣地の守備兵は後退の道を断たれ、城外の部落において略奪暴行を行っております。
このように、敗走する中国兵が自国の戦友や住民に暴虐を働いた例を見ても、その素質は劣悪であり、その性質は残虐であることは明白であります。
次に、高級指揮官がさっさと逃げている事です。
蒋介石は宋美齢を伴い、12月7日飛行機で漢口に脱出し、それに軍政部長に何応欽、総参謀長の白崇禧等も同行しています。
南京の守備総司令官であった唐生智は、12月12日に部下を放置して揚子江対岸に逃げております。
こんなことですから、総兵力6万5千〜7万は指揮官を失って暴徒と化したわけです。
これが中国軍の実態なのです。
これに比べて、日本の軍隊はどうかと言うと、まず、第一に国民の支援があり、兵士は郷土の名誉を担(にな)い、国家に対する忠誠心と自己の使命感を持っておりました。
また当時は連戦連勝でしたから、士気は極めて旺盛であり、指揮官もしっかりと部下を掌握しており、軍紀厳正でした。
いかに軍紀が厳正であったかということにつきまして、自分の事で恐縮なのですが、先程申しましたように非常な激戦をして、12月12日夜半、連日頑強に抵抗していた敵が総退却したことを察知し、今から城内に突入しようというまさにその時に、連隊長から私の大隊はそこに止(とど)まれとの命令を受け、私も部下も、涙を飲んで止まったのです。
これが軍紀だと私は思います。
いかに突入したくとも、「止(とど)まれ」という上官の命令がある、これが軍紀です。
それほど日本軍の軍紀は厳正であったのです。
戦場は極めてアブノーマル(普通ではない)な場であります。
非常に悲惨なものであり、非人道的な事がたくさんあります。
しかし、全部が全部そればかりではありません。
私自身の体験をお話しますと、ある部落を占領して宿営した時のことです。
宿営の準備の第一は、まず掃討(そうとう)して残敵がいない事を確かめると共に、次いで食料等利用出来るものを集めます。
その時一人の兵が、
「隊長殿、こんなものがありました」と笊(ザル)に一杯の宝石とか貴金属を持って来たのです。
私は、「そんなもの持って来てどうするんだ。一切そのまま元の場所に返しておけ。1つでも盗んで身に付けていて、戦死でもしたらお前はとんでもない恥をかくぞ」と戒(いまし)めて、一切手を付けませんでした。
勿論(もちろん)私の部下は只の一人もそういうものを盗んだ者はおりません。
これは中隊長として自信を持って断言致します。
又別の戦場である所を占領した時の事です。
住民は全部逃げて無人でしたが、ある兵士が、「英児が一人取り残されております」と報告しました。
行ってみるとかわいい英児が篭(かご)の中で無心に笑っております。
私達が明朝出発すれば逃げている住民は戻って来るでしょうが、今晩一晩はこの子にお乳を飲ませてやらねばなりません。
幸いなことに私の中隊に、入隊前に中国で行商をしていた、中国語の非常に上手な八木という初年兵がおりました。
彼は今マレーシアに住んでいますが、その兵士を付けて将校斥候を近くの部落に出しまして、よく事情を説明してお乳の出る女を探して来い、と命じました。
幸いに一人の女を連れて来ましたので、八木に通訳をさせまして、
「私が隊長である。これこれの訳でこの赤ん坊がかわいそうであるから、今晩一晩この子を抱いてお乳をやってくれ」と、申しますと、女性も納得致しまして、従ってくれました。
そうして私達はその翌朝、さらに進撃したのであります。
こういうヒューマニズムも、戦場にはあるのです。
私のたった一つの体験ではありますが、こういうことは戦場ではいくつもあったと思うのです。
かつて私は、グラフ雑誌で兵士が赤ん坊に水筒の水を飲ませているのを見た事があります。
戦場はアブノーマルであるけれども、全く殺伐(さつばつ)だけではありません。
そのことを、なぜ報道陣は報道しないのか。
戦争をしたくないというのは、一般人よりも戦場を体験した者が一番切実に感じているのです。
瞬間、瞬間に死を直面した状態を続けているのですから。
しかし、そういうモラルやヒューマニズムは一切報道しないで、ことさら悪い面を誇張するばかりか、ありもしないウソまで書いて、それが果たして本当に戦争を防止することになるのでしょうか。
「支那事変画報より」(上写真) |
結論と致しまして、南京において不法行為は1つも無かったとは申しませんが、しかし日本の兵隊は極悪非道な事ばかりをしていたというのは、色々話して参りましたように全くのウソであります。
ですから一般常識から言って「南京虐殺は無かった」と言って良いと私は思います。
にもかかわらず、日本人の大部分の人が何の疑いも無く「南京大虐殺」を信じ、政治家は臆面もなく「悪いことをしました」と土下座外交をしています。
一体これが独立国の外交でしょうか。
このような態度は徒(いたずら)に外国の侮(あなど)りを招くだけです。
その証拠に、金丸氏が北朝鮮に行った際、「戦後45年の賠償」というような無礼極まる要求をされているのです。
日本は北朝鮮と戦争をしたことは一度も無いのです。
賠償をしなければならない理由は全くないにもかかわらず、戦後の分まで払えと言われているのです。
そんな要求をされること、これこそ日本が軽侮(けいぶ)されている証拠ではないでしょうか。
あるいは歴代の総理大臣が、なぜ靖国神社には参ろうとしないのか。
日本の靖国神社には参拝しないで、しかもアメリカのアーリントン墓地には参って花輪を献じ、朝鮮に行っては伊藤博文を暗殺した安重根や、昭和天皇に爆弾を投じた不逞(ふてい)の徒を国士として祀(まつ)ってある忠魂碑に土下座して額き、いささかも恥づる事を知らぬ醜態は、正視するに堪(た)えない国辱であります。
このような外交姿勢であってよいのでしょうか。
またロシアは、不法に北方領土を侵略、強奪しています。
その返還には誠意の片鱗(へんりん)も示さないで、しかも日本の経済援助を当然のように要求しています。
これも、日本が侮(あなど)られている証拠でしょう。
日本は独立国であり、我々は独立国の国民であるということを、もっと真剣に考えようではありませんか。
この輝かしい伝統を持つ日本の歴史を、後世にきちんと伝えていくのが我々の務めではないですか。
その為には、日本人一人一人が、日本の姿を正しくみつめて、日本の国を大事にする事、すなわち国旗日の丸・君が代を大事にしなければならないのではないでしょうか。
日本の教科書に「虐殺」が書かれている、これは重大な事です。
日本の教育は荒廃し、政治も堕落しています。
日本の教科書に、「南京における虐殺」という言葉がなぜ平気で書かれているのか、文部省は一体何をしているのか。
そういうことを書いて青少年を教育するから、独立国の国民たるのプライドも無くいたずらにエコノミック・アニマル的国民に堕落するのではないでしょうか。
最後に、レーニンはその著書「国家と革命」の中に、「青少年をして祖国の前途に絶望せしめる事が、革命精神養成の最良の道である」と書いています。
現在の日本がまさにこの危機に直面しているのではないでしょうか。
現在の我々が、この大事な日本を後世に立派に申し継がなければならないのです。
そうして青少年が日本の国に対する誇りを持つように育てなければならないと、私は考えています。
我々がそれをやらなければ、誰がやってくれるのでしょうか。
元々自分の家庭で子供に日本の国の大事さ、良さ、日本人としての誇りを持たせる努力をしなければならないのではないでしょうか。
教育の場にある人は、その職場でそれをやって頂きたいと思うのです。
大変まとまりの無いお話を致しましたが、いくらかでもご理解を頂ければ有り難く存じます。
ご清聴まことにありがとうございました。(拍手)
[問] | 戦場で一兵士が日記や手記をつづるということは、大体許されていたのでしょうか? 軍の機密を保持するために、禁止されていたのではないでしょうか? |
[答] | 禁止はされていませんでした。 しかし、背嚢(はいのう=兵士の背中に背負うバッグ)にノートや筆記用具などを入れる余裕があったのか、戦場で克明につづる必要があったのか等、戦場の実態を考えると、「日記が出た」「日記が出た」と言われて虐殺の証拠だと言われているものの多くは、ウソであろうと思います。 後に記憶をたどり、しかもジャーナリズムにおもねる気持ちで書いたものだと思います。 一兵士が日記に軍の配備などを書いていますが、そんなことは分からないはずです。 大隊長クラスの私でさえ、連隊の全部、ましてや師団の全部がどうなっているかは等は分からないで、自分の目の前が精一杯なのです。 にもかかわらず、一兵士が隣の連隊がどこでどうした等と、まるで軍司令官か参謀長のようなことを日記に書いてあれば、これはウソだと言うしかありません。 それを見破ることも新聞記者には出来ないし、あるいは故意に見破ろうとしないのです。 |
[問] | 「南京大虐殺」については、当時英米の新聞等にも載っていないんでしょう? もし、実際にあったのならば、英米の新聞記者も当時南京にいた訳ですから、それを書かない訳がないでしょう。 |
[答] | 当時、英米でそういう記事が載ったという事は聞いていませんね。 |
[問] | 中国共産党の歴史書には、日本軍の「三光作戦」という言葉が必ず出てくるのですが、殺光(皆殺しにする)、搶光(略奪しつくす)、焼光(焼きつくす)という作戦命令は、実際に日本軍で出ていたのでしょうか? これは日本の教科書にもたびたび出てくる言葉となっているのですが・・・・。 |
[答] | 軍の命令としてそんな事を出すという事は、絶対にあり得ない事です。 中国軍が退却する際の「清野空室」という作戦についてお話しましたが、「三光作戦」も中国側で言い出して、ジャーナリズムはそれを無批判に使っているものでしょう。 私は自分の部下には、「殺さなければ殺されるという場合にのみ殺せ」と指示し、住民はもちろん敵兵であっても、無抵抗の者を殺す事は禁じていました。 それは軍隊の常識でもあります。 |
便衣兵は陸戦法規の違反である。
戦時国際法によると、「便衣兵は交戦資格を有しないもの」とされている。
交戦資格を有しない者が軍事行動に従事して捕らえられた際、捕虜としての待遇は与えられず、戦時重犯罪人として処罰を受けなければならない。
(田畑茂二郎著「新訂国際法」下、203ページより)
非交戦者の行為としては、その資格なき敵対行為を敢(あえ)てする如き、いづれも戦時重罪犯の下に死刑または死刑に近き重刑に処せられるのが、戦時公法の認むる一般の慣例である。
(信夫淳平博士著「上海戦と国際法」125ページ)
森王 琢講師の略歴
大尉時代(上写真) 昭和15年頃・中支にて |
近 影 |
明治42年 | 山口県生まれ |
昭和 2年 | 山口県立防府中学校卒業 陸軍士官学校予科入校 |
昭和 6年 | 陸軍士官学校卒業 少尉任官(43期生) |
昭和12年 | 大尉 歩兵第20連隊(福知山)中隊長として支那事変出征 途中大隊長戦死のため大隊長代行 南京総攻撃には大隊を指揮して参戦 |
昭和16年 | 少佐 歩兵第76連隊(朝鮮羅南)大隊長 |
昭和17年 | 独立速射砲大隊長(南方戦線) |
昭和18年 | 6月 陸軍航空整備学校附 |
昭和19年 | 2月 大本営航空路飛行場司令部部員 |
終戦に至る | |
現在 | 国民文化研究会会員 |
付記・独立速射砲大隊は師団にも属さず連隊もなく、作戦の際、軍直轄にて運用される、対戦車砲(37ミリ口径)を装備された機械化部隊。