「私の見た南京事件」に反論する
PHP出版社刊、奥宮正武著
松尾一郎
この著書についてご質問が多かったのであえて以前討論した掲示板の掲示を引用させていただきました。
【名 前】Tさん
【タイトル】元将校にして元自衛官の南京証言
【メッセージ】
今日、本屋で大変興味深い本を見つけました。奥宮正武と言う人の「私の見た南京事件」(PHP出版 ISBN4-569-55761-9)です。一番目を引くのは著者の経歴です。
『一九○九年高知県生れ。海軍兵学校卒(第五十八期)。戦時中は各航空戦隊参謀として活躍。戦後は、航空自衛隊学校長、空将で退官。現在PHP研究所参与。
』
つまり、被害者や(日本人に敵意のある?)欧米人あるいは下級日本兵の証言ではなく、地位のある元将校が南京虐殺を証明したのです。それについて、右翼の皆さんの意見を聞かせてください。
証言の内容は著者が南京で直接に2件のかなりの規模の虐殺を見たことです。彼が空軍の将校であるため、南京の全容を知らないが、それでも2件を目撃したのです。虐殺の対象は民間人で、彼等が一箇所に集められて銃剣で整然と殺されていました。1件目で著者が理由を陸軍の兵士に聞くと、ある男が日本兵を襲撃したのに対する復讐として、近くの村の住民を連れてきて処刑したそうです。それについてまた「便衣兵」を持ち出してけちを付ける人が出て来そうだが、本を読む限り便衣兵ではないです。
(Aさん)
中道ですが(笑)…一言。非常に興味深い証言ですよね。否定派・少数派は声と態度はデカイですけど、この様な各地で碌に記録もされずに行われた殺戮を考えると、散発的な虐殺量の累積は相当な規模に達するのでしょうね。
(Teさん)
初めまして、Tさん。Teと申します。宜しくお願いします。まず、Tさんにお願いがあります。上記の投稿内容だけでは事情がよく判らず、なんとも意見の出しようがありません。出来ましたら、その日時、場所、部隊名、虐殺した推定人数、その他前後の事情等もう少し詳しい情報を頂けないでしょうか?当時の支那には、兵士が民間人に化ける「便衣兵」の他に、民間人が、村ごとゲリラ兵となり、不意打ち攻撃やテロをしていたのも事実です。これを「民兵」などと呼んでいたそうですが、もしかしたら、その民間人というのは「民兵」かもしれません。この「民兵」も勿論、戦時国際法違反で、討伐の対象になりますが、正に民間人故、討伐の際、「民間人虐殺」と誤解されやすいのです。ただ、既に申し上げた通り、今回の投稿の情報だけでは判断はできません。どうか、追加の情報をお願いします。それから、決して揚げ足を取るつもりはありませんが、旧日本軍には空軍は存在しません。海軍航空隊だと思いますが、その本には何と書いているのでしょうか?
(松尾一郎)
便衣兵ではありませんよ。敗残兵です。
(松尾一郎)
12月24日〜1月5日までに一般市民と便衣兵、敗残兵を分離するために良民証を交付を行っています。この時に摘出された者は一部下関にて処刑されています。これはハーグ国際法に基づいても合法とされます。ちなみに奥宮氏の証言は伝聞となりますので裁判においては証拠能力はありません。そしてこの著書は日本が批准しなかったジュネーブ条約を捕らえて国際法違反と述べていますが日本は批准していません。各国においてそれは自主判断にまかされており、日本は支那兵の不正規(便衣)行為そのものがジュネーブ法違反であったためです。
(Cさん)
「伝聞には証拠能力が無い」というのは誤りではないでしょうか。
(Tさん)
Teさん、おっしゃる通りに『空軍』は誤りです。それから、証言の詳細は明日ちゃんと調べて載せます。私が証言をあまり詳細に載せなかったのはその証言自体ごくありふれた内容であって、注目すべきのは証言者が航空自衛隊学校長までなった人物だということです。彼のような信頼できるはずの人物が目撃し、不当と判断したことだから間違いないと思ったんですが、ちょっと甘かったようです。
(Teさん)
松尾一郎さんから頂いた私信により、松尾さんのここへの投稿がエラーを起こし、投稿されていないことが判明しました。そこで、松尾さんのご意志に沿って、私がその投稿文を転載させて頂きます。
(転載開始)【この著書「私の見た南京事件」では作者が2度ほど虐殺の現場を見た体験談を述べています。12月25日、27日の2回で処刑については伝聞であり著書にも聞いた内容について「彼の説明が正しかったか否かには私には分からなかった。あるいは、そう説明するように教えられていたのか知れなかった」P36とあります。この中では「支那兵」とは述べず「中国人」と掲載されています。つまり平服を着用している事がみてとれます。となれば当時の南京において難民区に平服の一般市民は集まっておりこれらの記録では12月24日から翌年1月5日まで一般人と難民区に潜む便衣兵および敗残兵を分離するために良民証を交付した。その際に便衣兵(敗残兵)2千人を摘出したと佐々木到一少将の回顧録にも書かれています。この他にも摘出した便衣兵(敗残兵)を下関にて処刑(16D)をしています。著者が見た2度の処刑はその際に摘出され、処刑された便衣兵(敗残兵)と考えられ、記録と合致します。ちなみに「私が見た...」ではジュネーブ国際法を主として取り上げ、国際法違反と述べていますが、当時の日本はハーグ国際法を批准しており、当時のジュネーブ法は支那が行っているゲリラ(便衣)活動に対して甘い法律でした。そのため日本は批准しませんでした。国際法批准についてはその国が決定権がありました。なお、この著者はそれらを無視している点や国際法の都合の悪い部分を意図的に削除しています。】(転載終了)
私もこの「私の見た南京事件」を入手し、読んでみたいと思います。
(Tさん)
Teさん、詳細はほぼあなたの述べたとおりです。結局焦点は処刑された人たちが民間人であるか否かですね。12月25日に奥宮氏が現場に居た陸軍兵士に「なぜ殺すのか」と聞いたところ、「ある男が日本兵を襲撃したのに対する復讐として、近くの村の住民を連れてきて処刑した。」と言うような答えが返ってきたのです。奥宮氏が兵士の答えに対し、「彼の説明が正しかったか否かには私には分からなかった。あるいは、そう説明するように教えられていたのか知れなかった」と述べたのです。12月27日に奥宮氏が再び現場を訪れ、別の兵士に「どのようにして連れてきたのか」と聞いたら、「城壁跡の整理をさせていた中国人たちに飯を食べたい人は手を挙げろと言って集めてきた」と答えたんです。
(Tさん)
では陸軍兵士の説明を考えてみましよう。
25日の兵士の答えは別の理由があって、本当じゃないかもしれません。しかし、もし便衣兵なり残存兵なり民兵の処刑なら、そんな答えをする必要がないでしょう。27日の答えは普通に考えたら事実であり、たとえ嘘だとしても1と同じくの理由で正規の処刑ではないことがわかります。再三言いますが、奥宮正武氏のような信頼性の高い人の証言は非常に意義があるのではないかと思います。
(松尾一郎)
27日に奥宮氏の問いに答えた下士官だって伝聞の可能性は大です。摘出を行った安全区からずっとその様子を見ていたならいざしらず、文中では「処刑場の入り口付近にいた」とすれば下関は南京における重要な港です当時の模様を写した映像(「南京」ビデオ)の中にも警備の為に多くの兵が下関前の碇泊本部に映っています。そもそも兵士は勝手な行動はできません。当時南京戦に参加された犬飼總一郎(16D通信19iB通信班長)氏の証言には「南京を占領した兵隊達はそれぞれ大規模な兵舎に入れられ通常時と同様定時に点呼を受け厳しく管理されていた。兵隊たちは南京攻略まで(中略)装備を手入れし次の作戦行動に向けた準備をするのに連日大忙し、さらに各城門の警備師団司令部の警備食料の配給といった任務が交代であって、ものすごく忙しく..)この様に完全な管理下に置かれており通常の常識から見て便衣兵、敗残兵などの処刑は部隊行動となりその行動を行っている士官(又は指揮官)が行動を把握しているのなら理解できるが、その部隊の者であるかどうかすら分からない一下士官が処刑の経緯を把握しているとは到底考えられない。なお「奥宮正武氏のような(中略)意義があるのではないかと思います。
」意義はあるかもしれませんが、今は「虐殺」であるかどうかを問題にしているのであり、著書の218・9ページに掲載されている参考文献を見る限り全て「虐殺アリ」派のものばかりで「無し」派も参考にしたならいざしらず、これを見る限り信頼性が有るとは言いがたいと思います。
(松尾一郎)
ちなみに、第一日目の処刑証言には疑問点があります。「数日前の夜、一人の勇敢な中国人が、わが陸軍の小隊長級の若い士官十名か十一名かは分かりませんが寝ている寝室に侵入して、全員を刺殺したそうです。そこで、彼らの戦友や部下たちが、報復のために、その宿舎の付近の住民を処刑しているとのことです」という証言を行った士官は明らかにこの部隊の者ではない事が分かります。しかも当時南京の一般住民は良民証を与えられたとは言え難民区に集まっていました。これは当時の南京では水が停止し、供給が始まったのは翌年の正月です。しかも食料についても当時の国際難民区委員会が把握していました。つまり、当時の兵舎は南京城外に存在しており支那兵によって焼き尽くされた建物に住民が存在する可能性は全くありません。つまりこの25日の証言は信頼性ゼロです。
(Aさん)
松尾一郎様、こういうところでなんですけど… 「気に食わない」証言資料の信憑性にけちをつけ、「気に食う」証言資料だけ採用している感がぬぐえないのですがね。
あなたは証言資料を「どういう基準で」採用しているのですか?「考えられない」という理由もよくわからないものが多いのですが。
あっ!それとついでにもう二つ。
南京難民区は城内の1/8なのに、残り7/8に人が済んでいないという主張なんですが、これぐらい考えにくい事はないのですが?こういう時こそガラガラになった家屋に不法入居するのが中国人と云うものだと思うのですけど。
それと南京陥落時の人口、笠原氏は11月23日の市政府発行の人口統計から50万人とし、その後の市民脱出と難民流入で大きな変動はないと考えているようですが…20万人という根拠がよくわからないのですがね。30万人大脱走の現場なんかの証言はあるのでしょうか?こういう時でないとお話できないので、是非お聞きしたいのですが。よろしくお願いします
(Tさん)
松尾一郎さんの発言は希望的な推測の過ぎません。そもそも犬飼總一郎や佐々木到一少将の証言の信用性はかなり怪しいです。人間は過ちを隠す動物ですから。奥宮氏が見たり聞いたりしたままのことを書いたことを前提にすれば、日本兵がああいうことを平気で言うこと自体が問題です。
(松尾一郎)
南京陥落時の人口20万を証明する資料は数多く存在しています。例えば先に講談社「南京の真実」でも難民区を管理していた著者ラーベが委員長の安全区委員会の公式報告にも人口は20万人と述べており。東京裁判においての証言ではルイス・S・C・スマイス教授が人口20万であり。南京市民のほとんどは難民区に集まっていた。と証言しています。その他にも数多くありますが、なぜ難民区国際委員会が人口を把握していたかという理由は食料を配給をする為に難民数を把握する必要性があったためです。なお、前に述べましたが城外の建物はほとんど焼き尽くされた事をニューヨークタイムズのダーディン記者は報告しています。
>「そもそも犬飼總一郎や佐々木到一少将の証言の信用性はかなり怪しいです」との事ですがその根拠は一体何なのでしょうか?犬飼氏や佐々木少将が過ちを隠している可能性があるのならば奥宮氏にも当てはまるのではないでしょうか?私は奥宮氏の証言から推察を行っているのであり、私の提示した資料を基に述べています。「日本兵がああいうことを平気で言うこと自体が問題です」どんな問題でしょうか?もしよろしければ教えていただけませんか?
(松尾一郎)
>「気に食わない」証言資料の信憑性にけちをつけ、「気に食う」証言資料だけ採用している感がぬぐえないのですがね。あなたは証言資料を「どういう基準で」採用しているのですか?
私は一度でも「気に食わない」と発言していませんし、けちを付けたつもりもありませんよ。歴史検証というのは事実の歪曲、虚偽の報告に対してその行き過ぎを指摘したり議論することは当然の行為ではありませんか。ですから皆様が私の過ちを指摘して頂いて納得出きれば私も奥宮氏の「虐殺意見」には賛同致します。私は別に無理やり「虐殺無かった」に結論付ける気はありませんよ。納得出来る説明をしていただければ私のHPでも主張は変えます。
(Aさん)
いや、そうなのですがね(さすがに常識として知ってます)、50万人が20万人に『急減する』理由が分からないのですよ。つまりですね、「減った理由」を聞いてるのです、松尾一郎様。100万都市で戦時中による疎開が進んだとはいえ50万人いたのに何故減るんでしょうか?目撃例はあるのですか?と。よろしくご教示お願いします。
(Tさん)
それぐらいは言わなくても分かると思うんですが、過ちを隠すのはよくあることだが、やってもいない罪を自分あるいは自国に被せるのはよっぽどのことがない限りあり得ません。航空自衛隊学校長、空将になった人物が自分の国を陥れるためにわざわざ嘘を付くのなら、日本と言う国もお終いです。それから、日本兵が「中国の民間人を殺す」ことを平気で言うこと自体、当時の日本軍が中国人の命を何とも思ってない証拠です。
(松尾一郎)
南京の人口が昭和12年春には100万人でした。8月には上海で第二次上海事変が起こりました。支那軍は補給物資を南京から送っておりその南京補給所・飛行場などを爆撃し始めています。その後上海は陥落し、派遣軍は南京へ進撃し始めます。つまり戦火が南京に及び始めて上・中流階級の南京市民は脱出し始めます。マギー牧師の16ミリフィルムにもその様子が映っており11月には人口約50万。その後にも続々と脱出をし、12月7日には政府及び軍首脳は脱出しています。要するに戦火を逃れる為に脱出した訳です。それとT様。そうかもしれませんね。でも今の論争の焦点は奥宮氏の著書掲載文が「虐殺」に当るかどうか?が問題ですから、又別の機会にその話をしませんか?
(Teさん)
私は、「私の見た南京事件」をまだ読んでおらず(注文はしました。近日中に入手することになっています)、その状況がまだよく判らないのですが、【城壁跡の整理をさせていた中国人たちに飯を食べたい人は手を挙げろと言って集めてきた】というのは不自然ではないでしょうか?「城壁跡の整理をさせていた」ということは、軍が使役として作業させていたのでしょうが、その作業員を勝手に処刑したのでしょうか?いや、そんな事は出来ない筈です。それとも「飯を食いたがる奴は、処刑しろ」と軍の命令があったのでしょうか?これも変な命令ですし、もし、そのような命令があったのなら、「陣中日誌」等に残っている筈です。今の私の感想としては、当時、陸軍と海軍は仲が悪かったとのことですから、海軍の将校に対して、少しからかうつもりで、悪い冗談を言ったのではないでしょうか?ま、とにかく、その「私のみた…」を読んでみます。
(ENさん)
初めまして、ENと申します。正直に言って、奥宮氏の本はトンデモ本の類としか思えません。経歴だけを見れば「奥宮正武氏のような信頼性の高い人」と言う評価に繋がるのでしょうが、同成社刊の「つらい真実 虚構の特攻隊神話」小沢郁郎 著という本を併せてお読みに為ることをお勧めいたします。奥宮氏について項を設け「過去を美化した最たるものに、奥宮正武著『海軍特別攻撃隊』がある。本書は冗長多弁であるが、要するに、特攻の正当化と礼賛である。いや、特攻礼賛と言うよりは、旧海軍(海兵出身者)自賛の書である。」と書かれております。奥宮氏は陸軍の特攻についてケチを付けている様ですが、それについてもきっちり反論が為されております。私はノモンハン、インパールそして特攻も旧日本軍の愚行であったかなと思う中道です(自己評価)。奥宮氏は旧海軍を持ち上げ陸軍を貶める事なら何でもやりそうに思えます。奇形サヨクではなく奇形右翼としか思えません。皆様、つかぬ事をお聞きしますが、中国人も犬を食べることはご存じですよネ?長い日本刀って何の事だかお判りでしょうか?私の質問の意味は奥宮氏の本を読めばお判りになるでしょう、金を出す価値はないと思いますが・・・。
(Aさん)
うーん、かわされているのかな。当然50万人が戦禍のため疎開していることぐらい知っているのですが、周辺農村地域からの大量の避難民の南京流入と南京からの居留民脱出が差し引き30万人になることを明瞭に示しうる「証拠」は存在するのでしょうか?とお聞きしているのですが。マギーフィルムは脱出の様子を映し出しても、南京住民が11月下旬から12月上旬までに30万人以上脱出した事を伝える資料にはならないでしょう(もちろん周辺からの流入があったわけですから30万人を超える脱出がなければ成立しませんよね)。そこのところをお聞きしたかったのですが。
(松尾一郎)
>周辺農村地域からの大量の避難民の南京流入と南京からの居留民脱出が差し引き30万人になることを明瞭に示しうる「証拠」は存在するのでしょうか?
Eさんの主張されている
>周辺からの流入があったわけですから...の意味がさっぱり分からないのです。
戦火が及ぶ人達や住居を支那兵に焼かれた住民が難民区に避難しているでしょうね。当時の人口が11月の50万人の人口が30万人流出した模様を伝えるのは「ラーベ日記」又は国際安全区委員会の調査で南京陥落時の人口20万と報告しており、しかも日本軍が難民区に避難している南京市民に与えた良民証が16万人(ただし、10歳未満および60歳以上の老人を除外)でも当時の難民区に集まっていた約20万人とすれば50万-20万=30万人が流出した事となるのではないでしょうか?30万人が流出した模様をマギー牧師が撮影しており、なおかつ当人の日記にも掲載されています。>周辺農村地域からの大量の避難民の南京流入と南京からの居留民脱出が差し引き30万人になることを明瞭に示しうる「証拠」は存在するのでしょうか?との事ですがその証拠は南京陥落当時の人口数から推察は出来ませんか?ところでそれは奥宮証言とどういう関係なんでしょうか?それとも又それも「知っているのですか。」なんでしょうか?そろそろ本論に進めてもよろしいでしょうか?関係無ければ又改めて別の機会にしませんか?まるで意味の無い討論をする五番街氏と話しているみたいでどうも,,,何というか。
(Aさん)
分かりました。ということは南京陥落時の「南京行政区内人口」と「難民区」の人口はまったく概念上別々であり、一致するものではなく、20万人説は「報告者の『南京』概念によってクルクル変わりうる」根拠を持つ数字ではない、ということなのですね。後からの推察、とおっしゃるのですから。とすると笠原氏の説は別に間違ったものではない、ということでしょうか。(すみません、松尾様なもんでついつい関係のないことを質問させていただいたわけです。お許しください)
(松尾一郎)
ですから、南京陥落時の人口の根拠は示した通りです。笠原氏の著書「南京事件」(岩波文庫)で掲載されている人口では「難民が、最高時には25万人も避難してきた。」と書かれており、これはラーベの日記2月12日で始めて登場した数字であり、国際安全区委員会での報告書、又はスマイス報告書とも一致します(スマイス報告は22万人)笠原氏が他の著書で述べている人口は上海から南京までの間の人口を100万として述べており、ましてや南京と述べても南京城外程度ではなく戦場にもならなかった南京行政区(6県)まで含めています。これこそ根拠を示して欲しい範囲であり数字です。こんな所です。よろしいでしょうか?
(Aさん)
了解です。否定派で良く分からなかった部分が氷解しました。とすると、正直な話、虐殺の期間・場所・資格問題の一致を見れば、大体のところ南京虐殺事件は大虐殺派から否定派まで大して変わらない印象を受けましたが…如何でしょうか。南京虐殺研究は近年、否定派は異常なまでに一般誌において盛り上がっているのですが、研究誌を読んでいる人間からすれば論文の規格からして独特なものがあって(これでも最大限誉めている!【笑】)虐殺派研究のサーベイをまったくしないもんだからさっぱり「何に反論してるのかちっとも分からない」のですよ。H論著、あれはクズでしたね。虐殺派否定派、併せて5本は最低書かれているほどの有名な虐殺事件を考察しておきながら(すみませんちょっと失念してしまいました)、自分の説がどう違うのかちっとも説明がなく、独自性がよく分からない。というか否定派全体の論説はそんな論文が多すぎるのです。「なかったんだ!」と言ってるだけにしか聞こえないのですよね。折角なので松尾様にお聞きしたいのですが、どうしてこういう論説ばかりなのでしょうか?これでは少なくとも学会では認められないと思うのですけど。商業誌の制約が大きいのでしょうか?
(松尾一郎)
確かにあの著書は余りオススメできません。でも義理で私のHPで紹介してます。確かにAさんの述べられている事は一理も二理もあります。どうして?と聞かれても私の著書ではありませんので何とも答え様がありませんが、そのうち事実経過を資料と付き合わせて南京における状況をリアルに表現し説得できる著書が出版されるのかも知れませんね。