難民帰還で人口は急速に増加

この写真は毎日新聞社刊「不許可写真集2」48ページに掲載されています。
南京の「ノミの市」における雑踏
(南京2月26日毎日新聞飛石カメラマン撮影)

 日本軍の虐殺によって、南京市民の人口が減少したというならわかる。ところが実際は減少したのではなくて、逆に急速に増加しているのである。
 下の表をごらん願いたい。これには前にも述べた第一級の同時資料である。

安全区の人口に関する資料一覧表
分類 資 料 昭和
年・月・日
人 数
(万人)
備 考
国際委員会公式文書
T 6
T 9
T 14
T 19
T 22
 
T 24
 
T 26
 
     
J 20
J 26
J 41
J 43
J 46
J 47
J 49
J 54
J 68
12. 12. 17
12. 12. 21
12. 12. 27
13. 1. 14
13. 1. 17
13. 1. 18
13. 1. 19
13. 1. 22
13. 1. 28
13 2. 10
20
20
20
25 30
25
25
25
25
25
25
T :
 ティンパーリー「戦争とは何か」・外国人の見た日本軍の暴行)

J :
徐 淑希「南京安全区档案」
統計 国際救済委員会調査
南京地区における戦
争被害
12.12.〜13.3 221,150
スミス博士と助手による推計
報告
アメリカ大使館報告
ドイツ   〃  〃
13. 1.
13. 1.
20 25
20
エスピー報告
ラーベ報告
証言 許 伝 音
M・S・ベイツ
21.7.26
21.7.29
20〜30
221,000人
極東国際軍事裁判検察側証人
参考 R・O・ウィルソン 21.7.25 戦前100
12月初め
50
同 上
鼓楼病院医師
注: 「安全区の人口に関する資料一覧表」は洞富雄編「日中戦争資料第8・9巻(南京事件I・II)」
(河出書房新社)に基づいて板倉由明氏が作成したもの

 すなわち南京安全区国際委員会が、日本大使館その他米・英・独大使館等にあてた61通の公文書の中から人口問題にふれた箇所を抽出したものである。
 国際委員会としては、難民に食糧供与をするため、人口の掌握が必要である。
 
 昭和12(1937)年の12月17日、21日、27日にはそれぞれ20万と記載していたのが、翌年1月14日になると5万人増加して25万となっている。
 以後2月末には25万である。
 
 これはいったい何を意味するのか?
 それは、南京の治安が急速に回復し、近隣に避難していた市民が帰還しはじめた証拠である。
 
 民衆は不思議なカンを持っており、独自の情報網があるから市内の治安回復がわかるのである。
 正月を控えて、郊外に避難していた民衆が、誘い合わせて続々と帰り始めたのである。南京占領後、虐殺・暴行・掠奪・強姦など悪魔の狂宴は6週間にわたって続いた(東京裁判)、などということは真っ赤なウソであることが、これをもってしても証明されよう。
 
 だいたい治安の悪い、大虐殺の地獄のような街に、どうして民衆が続々帰還して来るであろうか?

東宝文化部製作記録映画「南京」の中で良民証を交付するシーン

 12月の暮れから正月にかけて、日本軍は、難民区に潜入している便衣兵を摘出するため「良民証」を給付した。
 その給付された「良民証」の数は16万に達した。
 
 しかしこれは10才未満の子供と60才以上の老人を除外した数字である。
 従って、総数は25万ないし27万とみてよかろうと、金陵大学社会学教授ルイス・S・C・スミス博士は言う(スミス博士の福田篤泰氏への書簡=〈「日中戦争史資料」第9巻・南京事件U洞富雄編(河出書房新社)143ページ〉)。
 
 さらに昭和13年3月末スミス博士は、多数の学生を動員して、人口調査を行っている。
 その総計は、表にあるごとく、22万1150人である。
 
 スミス博士の調査によると、調査員の手のとどかない所もあり移動途中の民衆を加えると、3月下旬の人口は25万ないし27万と推定されるという。
 明らかに南京の人口は急速な増え方を示しているのである。
 
 さらに5月31日には「南京市政公署の5つの地区の役所で登録された住民(下関を含む)は27万7000人であった」と報告されている。
 つまり占領直後の推定20万の人口(実際にはそれをかなり下回っていたと思われるが、一応公式文書の20万を採用する)が、3月末には22万ないし25万〜27万、5月末にはさらに27万7000に増加しているのである。(251ページ)
 
 スミス博士によると「市の近辺の秩序の乱れた地域から著しい人口の流入があった」(「日中戦争史資料」第9巻・南京事件U洞富雄編(河出書房新社)251ページ)というのである。
 このような数字の変化は、南京市の治安が回復したことを物語る以外の何ものでもない。
 
 松井軍司令官の「陣中日誌」にも、12月21日「人民モ既ニ多少宛帰来セルヲ見ル」とある。
 占領からちょうど1週間、東京裁判その他中国側の証言によると、この一週間が日本軍による虐殺の最高のピークであったという。
 
 日本兵は集団をなして、人をみれば射殺し、女を見れば強姦し、掠奪、放火は勝手次第、屍体はいたる所に累々と山をなし、血は河をなし、阿鼻叫喚の地獄絵さながらであったという。
 そのような恐ろしい街に、どうして難民が続々と帰って来るであろうか。
 
 前出の西坂中氏は、自分たちは上海への移動を命ぜられ、12月23日ころ句容街道を東に向かって行軍していたが、南京に戻る難民の群れにいくども出会ったと言う。
 朝日新聞は12月20日付けの朝刊半ページをついやして「甦る平和都市南京」と題する写真特集をしているが、その中で「皇軍に保護される避難民の群」と題して、2・300人ほどの難民が列をなして帰還している風景の写真をのせている(18日南京発)。
 
 この風景こそ虐殺否定の何よりの証拠と言えよう。        


※【この文章は、謙光社刊「南京事件の総括」田中正明著を引用させて頂いてます。】

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