難民帰還で人口は急速に増加
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南京の「ノミの市」における雑踏 (南京2月26日毎日新聞飛石カメラマン撮影) |
日本軍の虐殺によって、南京市民の人口が減少したというならわかる。ところが実際は減少したのではなくて、逆に急速に増加しているのである。
下の表をごらん願いたい。これには前にも述べた第一級の同時資料である。
分類 | 資 料 | 昭和 年・月・日 |
人 数 (万人) |
備 考 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国際委員会公式文書 |
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T : ティンパーリー「戦争とは何か」・外国人の見た日本軍の暴行) J : 徐 淑希「南京安全区档案」 |
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統計 | 国際救済委員会調査 南京地区における戦 争被害 |
12.12.〜13.3 | 221,150 人 |
スミス博士と助手による推計 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
報告 |
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証言 | 許 伝 音 M・S・ベイツ |
21.7.26 21.7.29 |
20〜30 221,000人 |
極東国際軍事裁判検察側証人 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参考 | R・O・ウィルソン | 21.7.25 | 戦前100 12月初め 50 |
同 上 鼓楼病院医師 |
注: | 「安全区の人口に関する資料一覧表」は洞富雄編「日中戦争資料第8・9巻(南京事件I・II)」 (河出書房新社)に基づいて板倉由明氏が作成したもの |
すなわち南京安全区国際委員会が、日本大使館その他米・英・独大使館等にあてた61通の公文書の中から人口問題にふれた箇所を抽出したものである。
国際委員会としては、難民に食糧供与をするため、人口の掌握が必要である。
昭和12(1937)年の12月17日、21日、27日にはそれぞれ20万と記載していたのが、翌年1月14日になると5万人増加して25万となっている。
以後2月末には25万である。
これはいったい何を意味するのか?
それは、南京の治安が急速に回復し、近隣に避難していた市民が帰還しはじめた証拠である。
民衆は不思議なカンを持っており、独自の情報網があるから市内の治安回復がわかるのである。
正月を控えて、郊外に避難していた民衆が、誘い合わせて続々と帰り始めたのである。南京占領後、虐殺・暴行・掠奪・強姦など悪魔の狂宴は6週間にわたって続いた(東京裁判)、などということは真っ赤なウソであることが、これをもってしても証明されよう。
だいたい治安の悪い、大虐殺の地獄のような街に、どうして民衆が続々帰還して来るであろうか?
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東宝文化部製作記録映画「南京」の中で良民証を交付するシーン |
12月の暮れから正月にかけて、日本軍は、難民区に潜入している便衣兵を摘出するため「良民証」を給付した。
その給付された「良民証」の数は16万に達した。
しかしこれは10才未満の子供と60才以上の老人を除外した数字である。
従って、総数は25万ないし27万とみてよかろうと、金陵大学社会学教授ルイス・S・C・スミス博士は言う(スミス博士の福田篤泰氏への書簡=〈「日中戦争史資料」第9巻・南京事件U洞富雄編(河出書房新社)143ページ〉)。
さらに昭和13年3月末スミス博士は、多数の学生を動員して、人口調査を行っている。
その総計は、表にあるごとく、22万1150人である。
スミス博士の調査によると、調査員の手のとどかない所もあり移動途中の民衆を加えると、3月下旬の人口は25万ないし27万と推定されるという。
明らかに南京の人口は急速な増え方を示しているのである。
さらに5月31日には「南京市政公署の5つの地区の役所で登録された住民(下関を含む)は27万7000人であった」と報告されている。
つまり占領直後の推定20万の人口(実際にはそれをかなり下回っていたと思われるが、一応公式文書の20万を採用する)が、3月末には22万ないし25万〜27万、5月末にはさらに27万7000に増加しているのである。(251ページ)
スミス博士によると「市の近辺の秩序の乱れた地域から著しい人口の流入があった」(「日中戦争史資料」第9巻・南京事件U洞富雄編(河出書房新社)251ページ)というのである。
このような数字の変化は、南京市の治安が回復したことを物語る以外の何ものでもない。
松井軍司令官の「陣中日誌」にも、12月21日「人民モ既ニ多少宛帰来セルヲ見ル」とある。
占領からちょうど1週間、東京裁判その他中国側の証言によると、この一週間が日本軍による虐殺の最高のピークであったという。
日本兵は集団をなして、人をみれば射殺し、女を見れば強姦し、掠奪、放火は勝手次第、屍体はいたる所に累々と山をなし、血は河をなし、阿鼻叫喚の地獄絵さながらであったという。
そのような恐ろしい街に、どうして難民が続々と帰って来るであろうか。
前出の西坂中氏は、自分たちは上海への移動を命ぜられ、12月23日ころ句容街道を東に向かって行軍していたが、南京に戻る難民の群れにいくども出会ったと言う。
朝日新聞は12月20日付けの朝刊半ページをついやして「甦る平和都市南京」と題する写真特集をしているが、その中で「皇軍に保護される避難民の群」と題して、2・300人ほどの難民が列をなして帰還している風景の写真をのせている(18日南京発)。
この風景こそ虐殺否定の何よりの証拠と言えよう。