東京裁判で証言台に登った紅卍字会、許伝音副会長は次のように証言している。
「南京を占領しました日本軍は非常に野蛮でありまして、人を見当り次第射撃したのであります。例えば街を歩いている者、若しくはそこ等に立って居る者、若しくは戸の隙間から覗いて居る者も悉く射ったのであります。(中略)私は屍体が到る処に横たわって居るのを見ましたが、其の中の或る者は酷く斬り刻んであったのであります。 (中略)私は日本兵が現にさう云う行為を行って居る所を目撃したのであります。或る主な大通りの所で私は其の屍体を数え始めたのでありますが、其の両側に於いて約五百の屍体を数へました時に、もうこれ以上数えても仕方がないと思って止めた程であります」(「極東国際軍事(東京)裁判速記録・・・第35号」21・7・26)
また、金陵大学のベイツ教授は、同じく東京裁判の証言台で、次の通り証言している。
「日本軍侵入後何日もの間私の家の近所の路で、射殺された民間人の屍体がゴロゴロして居りました。(中略)「スミス」教授及び私は、色々な調査、観察の結果、我々が確かに知って居る範囲内で、城内で1万2千人の男女及び子供が殺されたことを結論と致しました」(「極東国際軍事(東京)裁判速記録」・・・第36号21・7・29)。
その他多くの証人によって、南京城内は「累々たる死体の山」で、横町も大通りも死体で埋まり、「道路には二条の血の川が流れ」「流血は膝を没し」「死体を積み上げ、その上を自動車が走っていた」と、凄惨な状況が次々に証言された。
東京裁判で連日述べられるこのような恐ろしい陳述に接し、日本国民は身も細るような思いでこれを聞いた。
当時NHKラジオは毎夜「真相はこうだ」という番組で、この非人道的な凄惨な状況を、これでもか、これでもかと言わんばかりに鳴り物入りで放送し、新聞はこれを書き立てた。
だが、南京に入城した幾万の将兵も、将兵と共に入城した百数十名の新聞記者やカメラマン、評論家も、だれ一人こんな状況は見ていないのである。
「東京日々新聞」の若梅、村上両特派員は、占領3日目の15日、大学の舎宅にベイツ教授を訪れてインタビューをおこなっている。その時教授は、上機嫌で2人を迎え、「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が早くも訪れたのは何よりです」といって両記者に握手しているのである。(東京日日新聞昭和12(1937)年12月26日)
それが東京裁判では、たなごごろを返すように、「私の家の近所の路で、射殺された民間人の屍体がゴロゴロ」していたといい、「城内で1万2千人の男女及び子供が殺された」と証言しているのである。
ここを訪れた若梅・村上両記者もこんな状況は見たと言っていない。
東京・世田谷区の5分の4ほどの狭い市街に、1万2000人もの死骸がゴロゴロしていたという。
それこそ街という街は、横町であれ大通りであれ屍体だらけのはず、もしそうだとするなら、おそらく屍臭は街をおおい、嘔吐を催し、市民は耐えられたものではなかろう。
死臭は100メートル先から鼻をつき、その強烈さは、衣服に染み込み洗っても消えないほどだ。
死体を片づけても3日や4日、死臭だけは残る。
宮崎県都城歩兵第23連隊の坂本ちかし大隊長の体験談を紹介しよう。
「13日8時ころ行動開始、破壊口から城壁に登り、10時半ころまでには西南角付近に集結することができた(中略)、その後残敵を掃討するため、連隊主力は城壁に沿い、私の第二大隊はその東方の市街地を北方に向かって前進した。ちょうど12時ころ道路の左側に飲食店が店を開いており、主人らしい一人の男がいたので支那ソバか何かを注文し、付近にいた者と一緒に、久しぶりに珍しいごちそうに舌鼓を打った。銀貨で代金を払ったところ、主人は非常に喜んでいた。
小憩の後、前身を続けて14時半ころ、尖兵中隊の第6中隊が清涼山(五台山ともいう)に達し、重砲6門をろかくした。命令により前進を中止し、その夜は付近に宿営することになった。一々家屋を点検した訳ではないが、前記の飲食店の男以外には市民も敵兵も死体も見ず、また大した銃声も聞かなかった」(『畝本正巳著「証言による「南京戦史」」雑誌「偕行」連載(6))。
まことに臨場感あふれる文章である。
さらに坂本氏はこう述べている。
「『朝日』は、本多勝一氏の『中国の旅』の中で、『五台山で2万人以上虐殺された』とあるが、前記の通り砲6門をろかくしたのみである。
また、『13日には下関(シャーカン)に通ずる把江門の扉を閉めて通行を阻止し、逃げてくるおびただしい市民を機関銃で射殺した』という意味のことを報道しているが、われわれのいた清涼山から把江門までの直線距離は4〜5キロぐらいである。
もしもそんなことがあったとすれば、機関銃の銃声が聞こえてこないはずがない」(証言による『南京戦史』(6))。
読者はすでに『第5章 南京攻略戦』の項で、中華門、光華門、中山門から入城した将兵や新聞記者がどういう光景に接したか、くわしく紹介しているので読了されているはず(ホームページ作者注:ごめんなさいこの部分は本を買って読んで下さい)。
「街は森閑として人っ子一人いず、整然と、むしろ清潔にさえ感じられた」と異口同音に述べている点を想起して頂きたい。
第10軍の参謀谷田勇氏(東京・杉並区在住)も、「軍司令部は14日午前、城内に入り、正午すぎ南京路のほとりにある銀行の社屋に司令部をおいた。
市内はすでに平静で、駐留間一発の銃声も聞かなかった。
自分はその日午後城内を一巡し、何枚かの写真を撮って回ったが、若干の死体を見たのみで、市街はすでに沈静していた」―と筆者に語り、数枚の写真を示しながら、その時の市街の状況を説明した。
谷田氏によると下関埠頭には約1000人ほどの死体があった。その死体は13日の攻略時の戦闘における死体と思われる。
この日は自分(谷田)の誕生日にあたり、同夜冷酒で柳川閣下と共に乾杯した感激は忘れられぬ、とその記憶は実に鮮明である。
『南京戦史』(6)によると、当時の朝日の近藤記者(現在・科学振興センター代表)は「光華門外は激戦で日本兵の死体も、中国兵の死体もあったが、それほど多数という印象はない。市民の死体は全く見当たらなかった。」と述べている。
また「報知新聞」から「毎日」のカメラマンに転じた二村二郎氏(東京在住)は「歩兵第47連隊について城壁をよじ登って城内に入ったが、市内にはそれほど死体はなかった」といっている。
引用すれば際限ないが、〈累々たる死体〉や〈血の河〉を見たなどという者は一人もいないのである。
日本軍や日本の新聞記者だけでなく、15人の国際委員会の委員も、5人の外人記者も、その他第三国人だれひとりとして、中国人証人の言うような凄絶な光景は見ていないのである