国際委員会の日本軍犯罪統計

南京安全区国際委員会委員長でジーメンス社員、ドイツ人ラーベ 南京国際安全区委員会(International Committtee of the Nanking Safty Zone)メンバー
南京安全区国際委員会委員長ラーベ(上写真) 南京安全区国際委員会メンバー(上写真)

 日本軍の南京占領後の状況を、昭和12(1937)年12月13日の陥落日から翌年の2月9日まで、その間ありとあらゆる事件を、伝聞や噂話や憶測までまじえて報告した公文書がある。
 前記の「国際委員会」の61通の文書がそれである。
 
 この日本軍非行の告発書ともいうべき公文書の背景には、次の4つの要素があることを留意しておく必要がある。

1、前述したように、この委員会を構成する15人の第三国人は、いずれも当時の言葉で言う「敵性国人」で、日本の中国進攻に憎悪と敵意を抱き、中国に軍事援助その他物心両面の支援をしている国の国民であるということ。(これについては1937年南京の状況「南京安全区委員会」を参照して欲しい)
2、彼らの作成した多くの資料は、ほとんど伝聞ないし噂話によるものであるということ。
3、日本軍の非行に関しての監視は、単に安全区だけではなく、城内全般に及んでいること。
4、国際委員15人を中核とし、その輩下に紅卍字会やYMCAおよび中国側の第5列の抗日宣伝部第2庁康沢(とうたく)の別動隊の青年が活動の網を張り巡らしていたこと。注(1)

 国際委員会は、これらの蝶報網によってもたらされる日本軍のあらゆる非行情報を、寧海路5番地の事務局に集めた。

※ これらのイラストは「よしりん企画」の許可を頂いて掲載しています。無断転載禁止。
小林よしのり『新ゴーマニズム宣言』第五巻より

 委員会は即刻これをタイプして、日本大使館その他に手交した。
 連日、あるいは1日に2回も文書が発刊された。

 その中には、日本軍の非行告発以外に、食糧補給や治安に関する訴えや要求等もある。
 かれらの数名はいつも一つ屋根の下で寝食を共にし、情報収集とともに、こうした要求その他を協議してこれをタイプした。

 日本軍の非行に関しては、なんら検証することなく、すべてを事実と認定してこれを記録した。

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小林よしのり『新ゴーマニズム宣言』第五巻より

 こうした要望や告発の日本側の窓口は、当時外交官補佐の福田篤泰(とくやす)氏である。
 福田氏はのちに吉田茂首相の秘書官をつとめ、代議士となり、防衛庁長官、行政管理庁長官、郵政大臣を歴任した信望ある政治家で、筆者ともに昵墾(じっこん)の間柄である(東京・千代田区在住)。

 福田氏は当時を回顧してこう語っている。
 「当時ぼくは役目がら毎日のように、外人が組織した国際委員会の事務所へ出かけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。
 
 「いまどこどこで日本の兵隊が15、6の女の子を輪姦している」。
 あるいは「太平路何号で日本軍が集団で押し入り物を奪っている」等々。
 
 その訴えをマギー神父とかフイッチなど3、4人が、ぼくの目の前で、どんどんタイプしているのだ。
 『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る。』と幾度も注意した。
 
 時には彼らをつれて強姦や掠奪の現場に駆けつけて見ると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうことも幾度かあった。

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小林よしのり『新ゴーマニズム宣言』第五巻より 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言』第五巻より

 ある朝、アメリカの副領事館から私に抗議があった。
 「下関(シャーカン)にある米国所有の木材を、日本軍がトラックで盗み出しているという情報が入った。何とかしてくれ」という。
 
 それはいかん、君も立ち会え!というので、司令部に電話して、本郷(忠夫)参謀にも同行をお願いし、副領事と3人で、雪の降る中を下関へ駆けつけた。
 朝の9時頃である。
 
 現場についてみると、人っ子一人もおらず、倉庫はカギがかかっており、盗難の形跡もない。
 「困るね、こんなことでは!」とぼくもきびしく注意したが、とにかく、こんな訴えが、連日山のように来た。
 
 テインパーリーの例の『中国における日本軍の暴虐』の原資料は、フイッチかマギーかが現場を見ずにタイプして上海に送稿した報告があらかただと僕は思っている」。
注(2)
 ちなみに、国際委員会書記長スミス博士も、「ここに記された事件(日本軍非行425件)は検証したものではない」と述べている。
 
 前記したように、この61通の書簡の中に日本軍の非行行為425件が記録されており、この文章は、ティンパーリーの『戦争とは何か―中国における日本軍の暴虐』と、徐淑希の『南京安全区档案』に分けておさめられている。

 福田氏は現地で、実際に中国人や国際委員会の抗議を吟味してその内容の多くがでたらめであることを知っているが、毎回続々と送られてくる日本軍の暴行に対する国際委員会の抗議を受け取った当時の外務相東亜局の驚きはどんなであったか。
 東亜局長石射猪太郎氏は、回顧録『外交官の一生』(読売新聞社出版部)の中で次のように書いている。

  昭和13年1月6日の日記にいう。
 上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃(たいはい)であろう。大きな社会問題だ。(中略)これが聖戦と呼ばれ皇軍と呼ばれるものの姿であった。私はその当時からこの事件を南京アトロシティと呼びならわしていた(前掲同書305〜6ページ)。
 
 この文章は虐殺派がよく利用する。
 石射氏がこのようなでたらめ抗議を信用し、軍に反感を抱くにいたったには、それなりの原因がある。
 
 昭和12年12月14日(南京占領の翌日)に開かれた「大本営連絡会議」で、軍と激突し、次のように憤激している。
 「こうなれば案文などどうでもよし、
日本は行く処まで行って行き詰まらねば駄目と見切りをつける(同日の『日記』より)。私はむしろサバサバした気持ちになり、反逆的な快味さえ感じた」(前掲同書300〜303ページ)。
 
 このように「反逆的快味」すら感じていた石射氏にとって、南京における陸軍の失敗は反撃のチャンスでありザマミロということになる。
 「南京アトロシティー」は石射氏にとって陸軍を攻撃する格好の材料であったのだ。
 石射氏の陸軍に対する憎しみは
反日的情念にまで結びついた感がある。
 
 なにしろ、石射氏のこの回顧録を見ると、始めから終わりまで、日本と中国の関係を「日中」ではなくて「
中日」と記述しているのである。
 すなわち中国を主として、日本を従とする思考様式である。
 日本国天皇からもらった勲章には「愛想をつかしていた」(同459ページ)が、中国からもらった勲章は「光栄とし愉快とする」(同460ページ)などと臆面もなく書いている。
 
 このような人物が当時の日本外務省の東亜局長だったのである。
注(3)
 脇道にそれたが、最近、一橋大学教授藤原彰氏が「南京大虐殺」(岩波ブックレット)という本を書いているが、その論拠に石射氏の回顧録を何よりの証拠としているので、あえて石射氏の思想的背景を紹介した次第である。
 
 さて、国際委員会が抗議した425件の日本軍非行の中には、非行でも何でもない事件もあり、前述のように伝聞、噂話、憶測が大部分であるが、これらをすべてクロとみて分類すると次の通りである。
注(4) 

殺人 49件
傷害 44件
強姦 361件 (多数3件 数名6件)
連行 390件 (多数1件 数名2件)
掠奪その他 170件

 殺人わずか49件である。
 大虐殺などどこにも見られないのである。
 
 渡辺昇一教授によると、「“南京大虐殺”は英文の文献によると、Rape of Nanking(南京強姦)となっているのが普通であり、Massacre(大虐殺)という単語を使っている例はまず見当たらない」(渡辺昇一著「萬犬虚に吠える」173ページ)という。
 ともあれ上記の数字が、12月13日(占領日)から2月9日までの約2ヶ月間にわたる南京における日本軍非行を記録した国際委員会の総トータルである。

注(1) 郭沫若の『抗日戦回想録』によると、(国民政府)軍事委員会政治部は陳誠を部長に、周恩来、黄h翔を副部長とし、その下に3つの庁をおいて、抗日宣伝、情報収集等を行った。康沢、第2庁の別動隊は、南京で活躍し、多数の資料を集めたと記録されている。
注(2) ティンパーレーの「戦争とは何か」については「米英のマスコミほとんど取り上げず」を参照。
注(3) 石射氏に関する記述は谷口厳著「藤原彰氏の「南京大虐殺」にみる虐殺派の虚構づくり」(「ゼンボー」61・2月号)を参照した。
注(4) このトータルは板倉由明氏が作制したもの。

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※この文章は謙光社刊「南京事件の総括」田中正明著を引用させて頂いてます

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