昭和13(1938)年、南京における紅卍字会の埋葬活動(上写真) |
(1)中国側の資料でバクロ
国民党政府は、1945年11月、東京裁判に資料を提出するためと、第6師団長谷寿夫中将の処刑を急ぐため、南京市あげての大がかりな資料集めにのり出している。
その際、「南京地方院検察処敵人罪行調査委員会」という、いかめしい名称の委員会が設置された。
この委員会の構成メンバーは、中央の軍事委員会、調査統計局はじめ、南京警察庁、弁護士会、医師会、商工会、三民主義青年団、紅卍字会、自治委員会など官民合わせて14の団体である。(この中には、11万体の埋葬を行ったとされる崇善堂が含まれていないことに注目)
しかし、どうしたものか、いくら呼びかけても市民のあいだから日本軍の暴虐や大虐殺に関する告発がない。
初期の調査に対し市民は「冬のセミのごとく口をつぐみて語らず(原文カタカナ)」で、何の訴えもない。
そこで委員会は、「種々探索、訪問の方法を講じ、数次にわたりて(原文カタカナ)」手を変え品を変えて告発者をつのった。
その結果まとめたのが次のような「敵人罪行調査書」である。
「・・・退去に当り敵軍の掃射を蒙り、哀声地に満ち屍山を築き、流血膝を没するの惨状を呈し・・・争いて揚子江を渡り逃げんとする我が軍は、ことごとく掃射を受け屍体は江面を覆い、流水もなお赤くなりたる程なり」
このような文学的名文?で「34万人が屠殺せられたり」と主張されても、信用できるはずがない。
しかもこの文章で見る限り、これは戦闘時の状況であって、いわゆる「虐殺」でない。
また姦淫(レイプ)に関してはこんな文章がある。
「・・・或いは父をして其の娘を、或いは兄をして其の妹を、しゅうとをして嫁を姦せしめ楽しみとなす者あり、或いは乳房を割き、胸をアゴを破り、歯を抜き、其の惨状見るに忍びざるものあり・・・」
このような姦淫を楽しむのは中国人であって、中国人はケンカ口論の時も近親情交を口にして相手をののしる。
こうしたことは日本人にとっては楽しみでも何でもないし、日本にはそんな風習はない。
ともかく、当時の国民政府はこのような"名文章"を付して、大々的に寄せ集めた調査資料を、証拠として東京裁判に提出したのである。(このたぐいが私の言う「後期資料」で、信憑性ゼロの資料である。)
東京裁判はこのようなでたらめな証拠や証言を何ら検証することなく、南京大虐殺のキャンペーンに利用したのである。
日本が敗れた昭和20(1945)年の12月13日は南京事件9周年に当たる。
しかるに、「わずか数軒だけが死者に供物を捧げ、故人を追慕し、また戦禍に生き延びた自分の僥倖(ぎょうこう)を願い、涙を流して当時の悲惨な出来事を語る人はほとんどいない状態であった」と上海「大広報」(12・15)は不思議がって、次のように報じている。
「蒋介石集団《国民党と国民政府》は、日寇の罪状を調査した時、50万という見積もり数字を提出したではないか。それが『わずか数軒』の供養とはどうしたことか」、というのである。
とんだ所で尻が割れてしまった感がある。
この50万人の見積もりというのは、次の34万人の見積もりにあとからさらに水増した数字のことである。
東京裁判に提出した数字は次の通り。
被殺害確数 34万人
焼却又は破壊家屋 4000余戸
被姦及拒姦の後殺害されたる者20人〜30人《この数字に注目》
被逮捕生死不明者 184人
被殺害者たる我が同胞 27万9586名
(1)新河鎮地区 2873名(埋葬者盛世徴・昌開運証言)
(2)兵工廠及び南門外花神廟一帯 7000余名(埋葬者丙芳縁・張鴻儒証言)
(3)草鞋峡 5万7418名(被害者 魯甦証言)
(4)漢中門 2000余名(被害者伍長徳、陳永清証言)
(5)霊谷寺 3000余名(漢奸高冠吾の無主孤魂碑及碑文により実証)
(6)其他崇善堂及紅卍字会の手により埋葬せる屍体合計 15万5300余
(以上「極東国際軍事裁判(東京裁判)速記録」58号、昭和21・8・29)
〈注〉(1)〜(6)のトータルは22万7591名で、27万9586名にはならない。この数字と、初めの被殺害確数34万人との関係は不明である。 いかにでたらめで、ずさんなものか。強姦及び強姦後殺害20〜30人が、東京裁判の判決では2万件と約千倍に膨張している。(6)の埋葬内訳は次の通り。
◇紅卍字会による埋葬死体 4万3071
◇崇善堂による埋葬死体 11万2261
合計 15万5332
ここで筆者が問題にするのは、15万5千余の埋葬死体数である。
両者とも、埋葬場所、月日、男女の別、死体発見場所等詳細な一覧表が付されている。
ただしこれは戦後の作文である。
しかし、この統計表がどれほど決定的な証拠能力を持っていたかは、東京裁判の判決文を見れば一目瞭然である。
判決文中もっとも重要な殺害人数認定箇所にはこう書いてある。
「後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万人以上であったことが示されている。これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が15万5千に及んだ事実によって証明されている」(『東京裁判』〈下〉103ページ)。
これを見ても解るように、埋葬統計表が大虐殺の決定的な決め手となっている。
もちろん弁護側もこの証拠に反論している。
要約すると次の通りである。
(1)この統計表は10年もたってから作られたものである。死体を10年後に明確にしようとしてもそれは不可能であり、結局この数字は全く想像によるものと断ぜざるを得ない。
(2)、死体発見場所からみても、これらの死体は戦死者の死体である。日本軍による虐殺死体とするは誤りである。
(3)、この数字は多分に作為されたものである。例えば崇善堂の作業を見ると、最初の4月までの間は1日平均130体であったものが、急に1日平均2600体となり、これを連続10日間にわたり作業したことになり、その誇張・ずさんは信用しがたい。
(4)、雨花台、水西門、中山門等は当時日本軍により清掃されたる地域にして、戦後5ヶ月を経過したるのち、このような多くの死体が存在するはずがない。
(5)、紅卍字会の数字の中には、女・子供は皆無に近いが、崇善堂の数字の中には、すべて男子、女子、子供を適当な減少率で死体数を記入してある。明らかに作為的な数字である。
この弁護側の反論は、埋葬表を見た人なら誰しもが持つ疑問であろう。東京裁判はこの弁論をしりぞけ、埋葬者をすべて不法な被殺害者として判決した。
わけても崇善堂という団体に私はかねてから疑問をもっていた。南京事件の関係者はもちろん、南京を知っている多くの人に崇善堂とは何かを聞き、調べてもらった。
第16師団参謀長中沢三夫大佐は次のように述懐している。
「死体処理は日本軍が主体となって、各種民間団体、多数の苦力(クーリー)を使って行った。しかるに、紅卍字会や崇善堂が日本軍とは無関係に、独自に処理したかのように発表しているが、事実に反する、本表は、日本軍による処理作業に参加した苦力の話を基礎にして、後年になって作り上げたものである」
「証言・南京大虐殺」によれば、崇善堂の各隊は主任1、隊員1、人夫10の計12名で構成されているという(「証言・南京大虐殺」南京市文史資料研究会編 邦訳(青木書店)167ページ)。
ところが前述のように、1日平均2600体も埋葬している。
ブルドーザーもパワーシャベルもなく、トラックも軍用以外ほとんどない時代に、どうしてこのような大量の埋葬が可能か。
だいいちこのような埋葬隊の活動を見た日本人は一人もいない。
どう考えてもマユツバものであると私は考えていた。
はたせるかな、最近、阿羅健一氏によって崇善堂に関する重大な発見がなされた。
以下は阿羅氏が国会図書館で発掘した資料である。
その1は、南京市政府秘書処発行の「民国24年度(昭和10年)南京市政府行政統計報告」である。
その中に、崇善堂のことが世界紅卍字会南京分会、その他の慈善団体とともに出ているのである。
それによると崇善堂は、創立は清の嘉慶2年で古いが、その事業内容は施材(主として衣料給与)、恤救(寡婦の救済)、保嬰(保育)等の事業が主で、掩埋(葬儀・埋葬)はやっていないことが解った。
その2は、「中華民国27年度南京市概況」(督弁南京市政公署秘書処編・中華民国28年3月出版)である。
国民政府は、日本占領後、民間の各種慈善団体が資金難におちいり、一時停頓した事業を再開するよう補助金を与えている(昭和13年9月)。
本著はその補助金を受けた26団体の一覧表である。
その中に崇善堂もある。しかしこの団体の事業内容は死体処理に関係無いことが、ここでもはっきり解った。
しかも崇善堂の項目には、「工作進行範囲狭小」(活動は続いているが、規模は小さい)と特に注記してある。また公文書には次のように記載している(日本文に翻訳)。
棺桶および死体の処理
城の内外に散在した死体は紅卍字会および自治委員会救済課で埋葬隊を組織して処分し、又事変前から未だ埋めていなかった棺桶は管理者に埋葬せしめ、管理なきものは南門外に運搬して埋葬した。
崇善堂の名は出て来ない。
埋葬したのは紅卍字会と自治委員会のみである。
その3は、南京日本商工会議所編の「南京」の中にある。
「南京市政公署振務委員会の収支表(民国27年〈昭和13年〉5月より12月編)」である。
これは南京市の決算報告書の一部で、行政院が15万元を財源に慈善団体へ補助金を支出しており、その一覧表である。
紅卍字会と普善会が一番多く、各月千元、崇善堂等7団体は各月2百元宛が支給されている。
また「南京」には「民間各種慈善団体は事変の為資金難に陥り、一時停頓したが、振務委員会の補助を受け、漸次復旧し・・・」というくだりがあり、崇善堂が本格的な活動を再開したのは事件後8ヶ月後もたった「昭和13年9月から」と記録されている。
従って事件後4ヶ月間に11万余の死体を埋葬したという中国の主張とは大きく違っている。
以上中国側の史料に照らしても、南京攻略戦直後から翌年5月にかけて、崇善堂の11万2000という膨大な死体埋葬はまったく架空であることがわかる。(詳細は「サンケイ新聞」昭和60年8月10日付および同年10月号の「正論」阿羅健一著『架空だった“南京大虐殺”の証拠』をごらんいただきたい。)
(2) 紅卍字会埋葬の疑問点
ついでながら紅卍字会の埋葬にも疑問がある。一覧表を見ると、1ヶ所だけ埋葬場所も納棺場所も記入しておらず、「12月28日 6466」とだけ記入した欄がある。
この数字は前後に比べ飛び抜けて多く、しかも28日はフイッチの日記および45連隊浜崎富蔵氏(鹿児島市在住)の日誌によると大雪の日である。
しかも6千体もの大量の埋葬は、後にも先にもこの日しかない。
「大阪朝日新聞」が13年4月16日付けで「最近までに城内で1793体、城外で3万311体を片づけた」と報道している。これを合わせると3万2104体である。
紅卍字会の埋葬数4万3071体から前記の6000体を差し引くと3万6605体となる。
まだ4000ほど違うが、この6000体は紅卍字会の水増しではなかろうかという板倉(由明)氏の疑問に対して洞(富雄)氏は次のように反論する。
昨冬大虐殺派のグループが南京を視察したが、それによると「南京市當案館収蔵の原本では、埋葬場所の欄に白紙が貼られており」その下に「下関江辺推下江内」と印刷されていたという。
つまり正規の埋葬でなく揚子江に水葬したのを隠すためであり、数の多いのは、それ以前と合わせて6日分だからだ(ただしこれは洞氏の推測)と洞氏は言い逃れる(『南京大虐殺の証明』201ページ)。
ところが中国の公式資料集と称される『証言・南京大虐殺』の171ページの表を見ると、12月28日、(城内各地で納棺)中華門外普徳寺6468とある。
この矛盾を板倉氏は次のように衝いている。
「下関は南京の北、中華門外といえば正反対の南である。更に面妖なことに東京裁判資料(法廷不提出)の中では、埋葬の証拠写真の15として、この普徳寺の6468体が崇善堂の埋葬となっているのである(日中戦争史料第8巻及び南京大虐殺事件資料集T・389ページ)。
「洞氏が水葬を正しいものとして筆者(板倉)を攻撃するのならまず以上2つの公式資料なるものがデタラメであることを立証せねばならないが、それは結局埋葬記録そのものの信憑性を疑わせるものとなるであろう。」と板倉氏は言う。
崇善堂は全くの架空であり、紅卍字会の水増しも、これでほぼ理解出来よう。
なお、当然のことながら次のことを付言しておきたい。
(1)、埋葬死体の殆どは、中国軍の戦死者の遺体であるということである。
前述したように紅卍字会の埋葬死体の中に女性や子供の死体が皆無にちかいことでもこれを証明している。
この死体数を即被虐殺数と見るのは大きな間違いである。
(2)、上海、無錫、常州等の戦闘でおびただしい数の傷病兵が南京に後送され、在南京の某外人の日誌によると、「移転後の政府機関はもちろん私人の邸宅まで強制的に病室にあてられ、全市医薬の香りがびまんし、軍人の町と一変した」(「東京日々新聞」11・25)と言う。
その傷病兵の死亡者、あるいは空爆による死亡者も当然計算の中に加えられるべきであろう(別項「後送された傷病兵と埋葬者」を参照)。