南京特務機関(満鉄社員)丸山進氏の回想

丸山進氏
丸山進(昭和13年撮影)

 ―――お送り頂きましたお手紙によりますと南京には1年ほどいらっしゃったそうですね。
 
 「満鉄上海事務所調査課から南京の特務機関に派遣されたのは昭和12年の12月28日頃でした。
 それから13年の12月まで南京にいたことになります。南京に派遣されることになったのは要するに中国事情の分かる人が欲しいと言う理由からでした」
 
 
―――お1人で南京に赴任されたんですか?又、ご身分はどうなったんですか?
 
 「私を含め6人の満鉄社員が出向を命ぜられましたが、給料や出張手当等は満鉄から支給されておりました。
 ですから、身分上は、あくまで満鉄社員でした。馬渕誠剛君と私が一番の若輩(24才)でしたが、それでも正規の俸給が160円、それに1日当たり10円(1ヶ月にして300円)の出張旅費が加算されましたから、月々460円になりました。
 多分、危険手当の意味もあったのでしょうが、それ以上に重要なことは、南京政府の部長級に対しても引け目を感じなくて済むようにとの配慮があったのだと思います。
 満鉄上海事務所長の伊藤武雄さんという人は南京国民党政府の要人や文化界の大物達とも親交のあった大御所のような人でした。
 伊藤さんが選んで派遣するからには、派遣された者が中央政府の部長級とも互角に交渉できるよう、それには俸給の面でも見劣りしないよう、と言うのは相手から招待された時は当方も招待しないと相手の下手に立つことになるといったことがありますから。
 伊藤さんは中央政府部長級の俸給をだいたい500元(1元=1円)程度と踏んだ訳です。
 これは巡警の月給を5円としてもその100倍です。
 そのお陰で私どもは維新政府の綏靖部長の任援道氏や南京自治委員会が発展的に解消して出来た督弁南京市政公署の高冠吾氏にたいしても対等に交渉出来ました。余談になりますがね大西一特務機関長の俸給が360円でしたから、いつも『貴様ら若造のくせに』と高給をからかわれたものです」
 
 
―――随分と破格の高給だったんですね。
 
 「ええ。ですから私どもの最大の特徴は特務機関長の配下にありながら、給料が満鉄から支給されていたことです。生え抜きの特務機関員ではありませんでした。
 満鉄が手塩にかけて育て上げた日中の架け橋として殉ずる気概のある人物の集まりでした。
 上からの命令で動いていた特務機関員とは、その点、若干違っていた訳です。勿論、中国のことにかんしては政治・経済・慣習等について専門的な知識を有しており、中国語についても殆ど専門家の域に達しておりました。
 私どもがシナ服を着て一般民衆の中に入り込んだら、まず日本人であることを見破られることはありませんでした。
 ところで、6人の給料を合計すると1ヶ月に約3000円になりましたから、これは大きかったですね。
 私どもは特務機関長の頭脳集団として、誰に気兼ねすることもなく、皆で知恵を出し合って、特務機関長に意見を具申し、政策の実行に移って行きました。
 具体的には、政治班、経済班、宣撫班を組織し、避難民の救済と南京市の行政機構の確立に当たりました。
 まかり間違ったら、皆で自腹を切る覚悟でした」
 
 
―――自腹を切る覚悟でいたとおっしゃいますと。

 「つまり自分たちの俸給を出し合って、赤字を補てんするという意味です。たとえば私どもが特務機関長の決済を経て惑る仕事をしたとする。いざお金を払うという段になって特務機関の経済担当者が反対し、支払いが滞ったとする。そのときは私どもが俸給から出し合って決済する覚悟でした。3千円あれば何かと解決できましたから。もっとも実際には自腹を切る必要は一度もありませんでしたが」
 
 
―――危険手当の意味もあったとおっしゃいましたが、お仕事の上で何か危ない目に遭われたことはありませんでしたか?
 
 「それはありませんでした。ただ、話は一寸変わりますが、当時既に日本から一旗上げるためにやって来たような男達が南京に来ていて、中国人に威張り散らしたり、又は何か上手い話はないかといった気持ちしか持ち合わせていなかったため、中国人の習慣や気持ちが分らず、かえって害の方が多かった。私どもは頻繁に中国人と接触しながら日本からの浪人を常に蚊帳の外に置いていましたから、利益を独り占めしているのではないかと彼らから誤解されたこともありました。たとえば刀を抜かれて脅された事もありました。私はその時どうせ生命は捨てたつもりで南京に来ているんだから、どうぞ斬ってくれと答えたものです」
 
 
―――南京の特務機関では何をなさったのですか?特務機関はスパイ活動をするのではなく占領地の支那の行政を支援する所ですね。
 
 「ええ。しかも我々が表に立って支援活動をしたのでは南京の行政を行う中国人が日本人の傀儡――漢奸――と非難されますから、あくまで陰から内面的援助を彼らに行うという活動でした」
 
 
―――具体的には何をなさったのですか?
 
 「昨年(平成6年)の7月にホテルニュー鹿児島で講演した時の資料「南京事件の実相について」をここに持ってきたのですが、そこに書いていますように、昭和12年24日から良民票の発行が始まりましたが各部隊まちまちの形式で発行していましたので、その形式を自治委員会で一定にして整理統合することになり、私が影の事務責任者となりました。良民票というのは型紙を利用したモノではなく、木綿のきれを使って作ったんです。
 大きさはこれ位ですから、そうですね、文庫本と同じ大きさですか。
 中国人には筆の達者なのがいますから、墨で型版を押した木綿のきれに住所氏名年齢を筆で書き込んで、それを以て《良民の証》としたんです。それを自治委員会と特務機関が認証して住民に交付した訳ですが、その発行原簿はのちに市政公署の戸籍科に保管されました」

 
―――何のために良民票を作ったのですか?占領政策を行う為ですか?

 「いいえ、占領政策のためと言うよりは、むしろ南京市の行政運営を円滑化するための基盤作りとして住民票の作成に着手したんです。課税、物品配給等、全ての基本になります」

 
―――その外には特務機関にいてどんなことをなさったんですか?
 
 「この本は阿羅健一さんの「聞き書き南京事件」ですが、その中で大西一特務機関長が述べていますように、南京攻防戦で倒れた日本軍兵士の死体は日本軍当局の手で一体残らず収容され、全て荼毘(だび)に付されていました。
 ところが中国軍は逃走して南京にはいませんから当然ながら中国兵の死体はそのまま放置されていました。
 そこで大西特務機関長の前の佐方繁木特務機関長から意見が出まして気温の上がらないうちに遺体の後片けを中国人にやらせようということになり、紅卍字会の埋葬活動を支援することになった訳です」
 
 
―――アメリカ側の資料を見ていますと、国際委員会が紅卍字会の遺体埋葬活動を支援しているような趣が見受けられるのですが、遺体埋葬活動を国際委員会もまた支援したということはありませんか?
 
 「そのことについては私には分かりません。
 私は特務機関長から埋葬の経費は自分が工面するから、お前が埋葬の実行に当たれと一任されて実行に当たった訳です」
 
 
―――そのお金ですが、佐方中佐のあとに特務機関長となられた大西特務機関長が自治委員会から工面したんですか?
 
 「自治委員会には全く金はなかったのです。
 特務機関長が軍の機密費から調達したのではないでしょうか。
 ただ日本軍から経費が出たことについては外部には一切公表されなかったので自治委員会から(後には市政公署から)出たものと、恐らく、一般には理解されたかも知れません。
 ともかく、それで、早速自治委員会の幹部を連れて遺棄死体の状況を視察しました。
 まず下関の表通りはきれいに清掃されていましたが、裏通りには実に多くの死体がありました。
 それから城壁の西に沿って南下し莫愁湖や秦准河の水面には多数の死体が浮いていました。更に南に行くと江東門と水西門外に相当多数の死体がありました。城内も調査しましたが、城内の家屋の外は極めてまばらに死体が点在する程度でした。死体は殆どが城外にあり、全部で2万体位と私は算定しました。
 そして予算を計上した上で、自治委員会名で、死体の埋葬を一括して紅卍字会に委託しました。
 それから埋葬場所として江東門一帯、特に北部の、下関寄りの、若干地形の盛り上がった場所を、私は選定しました」
 
 
―――紅卍字会に一括して委託したとおっしゃいますと。
 
 「この仕事は南京市自治委員会が自発的に実行したいという建前で行われたものです。しかしその自治委員会はこのような大きい作業を行うだけの実働的なスタッフを持ち合わせておらず、どうしても外部の団体に作業を委託しなければなりませんでした。
 そこで紅卍字会に着目して、その内部を調査した結果、紅卍字会は陳漢森という立派な指導者に率いられた能動的な社会慈善事業団体であることが判明しました。そこで、この作業を紅卍字会に一括して委任することになった訳です。
 後になって、崇善堂その他の弱小団体からも作業の申し込みが自治委員会にありましたが、そのことは紅卍字会に任せてあるから紅卍字会の方に言って欲しいと伝えて、自治委員会では受け付けなかった訳です。
 紅卍字会の下請けとして彼らが作業に従事したであろうことは考えられますが、そうであったとしても、その埋葬作業量は一括して紅卍字会の作業量に組み込まれていたはずです」
 
 
―――それから、先ほど、丸山さんが選定なさったとおっしゃいましたが、それはどういう意味ですか?
 
 「どこにも無主の土地はありません。紅卍字会が紅卍字会独自の判断で埋葬場所を選定し、そこに死体を埋葬し始めれば、当然その地主が怒ります。
 どの土地が誰の所有地であるか、南京に長く住んでいる者であれば知っている訳ですから、紅卍字会が勝手に誰々の土地を共同墓地にしているという噂がすぐ広がって、所有者から厳重な抗議が紅卍字会に来ることになります。
 ですから紅卍字会に選定せよと言っても出来ない相談なんです。
 そこで、やむを得ず、私がここそこと指定した訳です。もっとも各地に既設の共同墓地やお寺の墓地などもありましたが、埋葬可能なスペースは限られていて大規模の埋葬には適していませんでした」
 
 
―――つまり日本軍の特務機関長の意を受けた丸山さんであったから、丸山さんがどこそこに埋葬をと言えば、地主も黙認せざるを得なかった、紅卍字会も後顧の憂いなく埋葬出来た、という訳ですね。
 
 「そうですね。ついでに、なぜ地形の盛り上がった所を選んだかと言いますと、あの辺りは揚子江がすぐ横を走っていますから、地下水が地表近くまで上がってきているんです。
 そこで盛り上がった所を選んで埋葬すれば、その分だけ地下の水位が離れるということで丘のように盛り上がった所を選んだ訳です」

この写真は南京安全区国際委員会委員長ラーベの日記に掲載されていたものです。このシーンはマギー牧師のフィルムから写真に落としたものだと思われます。
昭和13(1938)年、南京における紅卍字会埋葬の様子(上写真)

 ―――どのようにして埋葬したのですか?トラックなど当時はなかったと記録には出ていますが。
 
 「今でこそトラックは誰でも持っていますが、当時はトラックなんて余程の人でないと持っていない時代ですよ。
 大八車みたいなもので死体を運搬し、近くの農民を動員して、鍬(クワ)で、大きな穴をなるべく深く掘って、そこに死体を並べて、再び土を被せる、そんなやり方でした。埋葬は概ね2月初めから始め、2月末で5千体の埋葬ですから、1日当たりの埋葬は多く見積もっても200体、通常は180体でした」
 
 
―――それで初めて分かったことがあるんですが、南京大学のベイツ教授が昭和13年2月14日に書いた「南京における救済状況」という報告書のなかで紅卍字会が「1日に200体埋葬しても、まだ埋葬すべき3万体がある」云々と言っているんです。なぜベイツが「1日に200体埋葬」という数字を出していたのか、今まで疑問だったんですが、今の丸山さんのお話でやっと分かりました。ただ、1日当たりの埋葬量を、何故ご存じだったんですか?
 
 「それは毎日の実績を報告させていたからです。なぜ報告させたかと言いますと、常に状況を把握しておくのが目的でしたが、そのほか私は満鉄上海事務所から南京の特務機関に派遣されて来ていましたから毎月1回は業務報告をする義務があるので日報を作成し、月ごとにまとめて特務機関の上司に報告するほか、同じものを満鉄上海事務所の伊藤所長に送っていた訳です。
 そしてそれが大連にある満鉄本社の総裁室宛に上海から転送されていたようです。
 それが今回の朝日新聞夕刊(平成6年5月10日)の報道となった訳です。その朝日の記事が出たことは知りませんでした。
 満鉄上海事務所の同僚で私と同じ時期に南京の特務機関に請われて出向した馬渕君からの連絡で初めて知りました。
 何だ、この機密報告は僕が作成したものじゃないかって。見て、本当にびっくりしましたよ」
 
 
―――ところで今回丸山さんから400字詰原稿用紙15枚の「南京事件の真相について」と題する一文を送っていただきましたが、それを見て初めて納得したことがあります。あの中で丸山さんは3月に入ってからの1日当たりの埋葬量が急増したことを記されていますね。実は紅卍字会の2月3月の埋葬記録には1日当たり2千体近く埋葬といった記録が頻出して来ます。それは埋葬方法から見て信じられないと私は思ってきた訳ですが、必ずしもそうではない訳ですね。
 
 「3月22日と記憶をしておりますが、春分の日に、大西特務機関長の主催で、中国軍民犠牲者の慰霊祭が悒江門内で執行されるということになり、それで私は埋葬を3月15日までに完了せよと自治委員会を通じて紅卍字会に通達を出しました。そのため紅卍字会は下請けを動員して大急ぎで埋葬を行い、埋葬は全て完了しました。
 今回の朝日の報道(平成6年5月10日)にある日報によれば合計3万1791体を埋葬しております。ですから、3月の15日間は1日当たり2千体から千5百体の埋葬量です。これは明らかに水増しがあると私は考えましたが、一言も意義をはさむことなく承認しました。しかし2月は先ほども申しましたように1日に多くて200体の埋葬です」
 
 
―――その、「承認しました」とおっしゃいますと――?
 
 「つまり埋葬作業終了後、たしか一体当たり30銭と記憶していますが、中華民国の警官の月給が3円から5円であった当時、30銭(今のお金にして700円程度)の経費を支払っていました。
 しかしその埋葬量を私が承認しなければ、謝金は出ない訳です。謝金はそのつど何回か払っていましたが、埋葬作業完了後には全てを清算する必要がありました。
 合計3万1791体に30銭を掛けると約9500円、それに搬送距離や地形的な困難度によって加算した場合があり、全体では1万1千円程になりましたから、未支払いの残金は市政公署に交付して、公署から全てを清算させました」
 
 
―――3月15日までに本当に全埋葬が完了したのですか?
 
 「それは春分の日に慰霊祭を執行するという予定でしたから、慰霊祭までには全ての遺体を片ずけなくてはなりませんでした。
 それで私は3月15日を目処にして埋葬を完了せよと通達を出し、それに基づいて紅卍字会が多くの人を雇って大急ぎで埋葬を完了させた訳です。
 ですから、3月15日には完全に埋葬は終了したものと思っています。
 その慰霊祭では本願寺派の川野三暁師が読経を行いました。川野師は戦後に僧正となり参議院議員にもなった人です。
 ただ先ほどの話に戻りますと、既に申しましたように埋葬記録には明らかな水増しがあります。
 仮に2月は1日当たり200体を埋葬したとしても5600体ですね。そうすると3月の15日間で約2万6000体を埋葬しないと3万1791体には成りません。
 3月は1日当たり平均2千体から千5百体の作業量となります。たとえば1日に千5百体を大八車に乗せて運搬し、千5百体分の穴をクワで掘り起こして、その中に千5百体を並べて、そして土をかける。それは1日だけは実行出来ても、毎日毎日続けて行うなど、到底不可能です。
 しかも戦災で食べ物にも困っている状態にあって、人員、器材等の調達が困難な状況のもとで、そのような埋葬が出来たかは甚だ疑問です。崇善堂などの他団体を下請けに使ったことにも全然触れていない。それはおかしいですね」
 
 
―――東京裁判において紅卍字会は「日本側は(南京占領後)約1ヶ月後迄それ(埋葬)を許さなかった」と言っています。
 その表現の妥当性を別にすれば、少なくとも1月14、5日までは埋葬は行われなかったと言っている訳です。
 他方、南京大学ベイツ教授の2月14日付けのアメリカ向け報告によりますと「1日に200体埋葬」という表現が見えますから概して2月は「1日に200体埋葬」が限度であったと思われます。
 そしてそのことは丸山さんのお話とも符節が合います。又、南京ドイツ大使館ローゼン書記官の3月4日付け本国宛報告によれば「紅卍字会は毎日500から600体を共同墓地に埋葬」と報告されていますから、概して3月は「毎日500から600体」の埋葬であったと言って良い訳です。
 ところが東京裁判に提出された紅卍字会の埋葬記録によりますと、12月22日には4ヶ所にて合計779体を埋葬したとか、12月28日「雪」の日に6468体を埋葬したとか、1月10日には996体を埋葬、2月7日には151体のほかに843体を埋葬したとか、2月9日には125体のほかに4560体を埋葬、2月21日には5ヶ所にて作業しそのうちの1ヶ所においては5000体を埋葬とか、3月19日から4月29日までは死体収容場所未記入のまま合計4532体も埋葬といった、作文としか思えない数字が、この他にも頻出して来ます。
 これを丸山さんはどのようにご覧になりますか?

 
 「まず12月22日から1月10日までの埋葬分8243体は全部作り上げたものでしょう。この時期はまだ埋葬が出来なかったはずですから。なかでも、そのうちの12月28日の6468体は(雪の日に埋葬ということから)完全に馬脚をあらわしたものです。
 それから2月21日の下関魚雷軍営埠頭に5000体埋葬したというのもマユツバ物です。
 
 そこにはそんなに多くの死体を埋葬する空き地は無かったはずです。しかも2月21日はこの5000体の他にも4ヶ所に分けて705体を埋葬していますから1日の作業量としては705体が精一杯で、とても5000体には手が回らないはずです。
 だからこの5000体についてはウソと断定せざるを得ません。
 
 2月9日の4560体も1日の作業量としては想像もつかないほど大きな数字です。
 この遺体収容所の上新河や江東橋にはかなりの多くの死体がありました。
 
 ここでは殆ど死体を運搬する手間がはぶける利点がありますが、それを考慮に入れても4560体という数字は相当割り引きして考えるべきでしょう。
 次に3月19日以降の埋葬が6231体も計上されていますが、ある程度の落ちこぼれはあったかも知れないけれども、そんなに多く残っていたとは考えられません。
 
 その他5月16日以降も城内各地で死体収容という欄が何ヶ所か見受けられます。
 それが男、女、子供と、並べて記入されたところを見ると一般市民の虐殺死体を匂わせたものなのでしょうが、3月以降、城内で、そんな事件は全く起きていません。
 
 これも作り上げられた数字と考えられます。総じてこの統計表は以前に紅卍字会が自治委員会に報告した数字の不合理性を隠すために合理性を装って作り替えられたものと考えられます。しかしその時期の状況に照らし合わせてみると、却って事実に合致しない多くの問題点を露呈しています。少なくとも1万8000体以上の過大計上があると見てよいのでは無いかというのが私の結論になりますね」
 
 (丸山進氏略歴、大正2年生まれ、元鹿児島県庁印刷局長、82才)


※この文章は謙光社刊「南京事件の総括」田中正明著を引用させて頂いてます。

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