L・S・C・スマイス博士の
「戦争被害調査」

L・S・C・スマイス博士の写真 「WAR DAMAGE IN THE Nanking Area」
L・S・C・スマイス博士 「南京地区における戦争被害調査」

 南京事件でもっとも信憑性のある第一級史料は、ルイス・S・C・スマイス博士の「南京地区における戦争被害調査」であると私は信じている。
 南京事件を調査するうえにおいて、これ以上の科学的・合理的な信頼のもてる調査資料は他に無いと言っても過言ではなかろう。
 
 スミス博士は金陵大学社会学科の教授で、以前にもこの種の戦争被害調査を行っており、いわばこの道のベテランである。
 博士は国際委員会の書記長と会計係を兼務し、安全区の治安と日本軍との接衝に尽力してきたが、国際委員会の任務がいちおう昭和13(1938)年2月10日で終わり、その任務を自治委員会にゆだねて解散する。
 
 すると博士は、3月から4月にかけて、ベイツ教授らの助力を得て、多数の学生を動員して、2人1組で無差別抽出法により、戸別に尋問し、南京市民のうけた戦争の被害状況を調査したのである。
 その調査の実施方法を見ても実に細心・精密であり、合理的でかつ公平である。今日の時点からみても、これ以上の調査は求められないのではないかとさえ思われる。
 
 家族調査員は入居中の家屋50戸に1戸の人の住んでいる家を抽出して、直接尋問によって調査し、その総計を50倍して数値を出した。
 家屋調査は10棟に1棟の割合で調査し、その損害状況を総計して10倍した。
 これはきわめて高い精度をもった調査と言わねばならぬ。(ちなみに、いつも話題になるビデオ・リサーチ調査は1万7千台に1台の割である。)

日付別による死傷者数および死傷原因
日     付
(1937-1938)
死亡原因 負傷原因 拉致さ
れたも
の**
死傷者
総 計
兵士の暴
行による
死傷者の
比率(%)
軍事
行動*
兵士の
暴 行
不明 軍事
行動*
兵士の
暴 行
不明
12月12日以前
12月12、13日
12月14日〜1月13日
1月14日〜3月15日
日付不明のもの
600
50
200
250
2000
150
150
50
250
2200
600
200
50
200
3700
250
50
650
550
4550
1000
91
92
75
850 2400 150 50 3050 250 4200 6750 81
12月13日以降の暴行
件数の比率   (%)
89 90
*「軍事行動」とは爆撃・砲撃・戦場のおける銃撃を指す。      
**これら拉致されたものについては大半がまったく消息不明である。

 調査地区は城内だけでなく、城壁に沿う下関(シャーカン)や水西門および各城門外の地区まで含めている。
 調査期間は3月9日から4月2日にわたって行われ、4月19日から23日まで補足作業が行われた。
 
 建物調査は3月15日から6月15日まで行われた。
 さらに南京近郊6県にわたる農業調査も実施している。
 
 その期間は3月8日から23日までである。
 穀物、種子、農機具および死亡率まで調査している。
 
 戦争による被害者の状況は上表の通りである。
 報告によると、死者3250人のうち軍事行動によるもの850人で、兵士の暴行によって殺されたものは2400人であり、負傷した者3050人である。
 
 「軍事行動」というのは、戦闘中、砲弾・爆弾あるいは銃弾で死亡したものである。
 注欄にあるように、この2400人の89%、負傷者3050人の90%は12月13日以後、すなわち日本軍が同市を占領して以後におきた事件である。
 
 また拉致された4200人は、日本軍に荷役あるいはその他の労役に徴発されたものもあるが、6月にいたるも消息はほとんどない。
 「日本軍によって殺された者の数をかなり増加させるに違いない」と博士は言っている。
 
 このスマイス博士のもっとも信憑性ある学術的調査報告に対して、虐殺派は全然これを無視して取り上げようとしない。
 洞富雄氏ごときは「右の人的損害を“悪用”されては困る」とさえ言っている。(洞富雄著「決定版・南京大虐殺」(現代史出版会)155ページ)というのは、スミス博士の調査報告を使うと南京市内の日本兵暴行による死者は2400人であり、拉致されたもの、つまり行方不明者は4200人、合計しても6600人である。
 
 ところがスマイス調査の“悪用”を戒めている洞氏が、同じ著書の中で、スマイス調査の南京周辺6県の死者の数をあげ、「一般住民の死者があまりに多い点に注意」と記し、エドガー・スノーがその著書「アジアの戦争」の中で「上海・南京間の人民の殺された数30万人」とあるのは、妥当な数値だとしている。
 要するに「
つまみ食い」である。自分の都合のいい、大量殺害に利用できる部分は「つまみ食い」し、都合の悪い部分は切り捨てるという手法である。
 
 なお洞氏は2400人を「日本軍による無差別虐殺」という言葉を用いているが、これまた事実を誣(しい)るものである(空爆その他による死者は600)。
 東京裁判で弁護側はスマイス博士を証人として喚問することを強く要求するのであるが、しかし裁判所は弁護側の要求をしりぞけてスマイス博士の宣誓口供書を証拠として受理した。
 
 博士は国際委員会の活動を述べたのち「私は1938年の春に南京地区の戦災の状況を検分しました。その結果が『1937年12月より1938年3月に於ける南京地区の戦禍及都市村落の調査』と云う書物になった訳であります。
 この本は1938年6月付で南京国際救恤委員会で発行されました」と自信をこめて述べている(「極東国際軍事裁判(東京裁判)速記録」58号=21(1946)・8・29)。
 
 前述のごとく、東京裁判には偽証罪というものがない。
 博士はこの口供書を南京で書いている。
 
 国民党および南京市政府は、官民あげて日寇罪行調査に懸命の時である。
 スマイス博士がもしその気になれば、あの調査は日本軍占領下にあったことを理由に、いくらでも水増し修正できたはずである。
 ベイツ教授のように前言をひるがえすことも容易であった。
 
 しかし博士はそうしなかった。
 学者としての誇りと良心、業績への自信があったのである。
 
 「南京地方院検察処敵人罪行調査報告」が前述の通り「34万人大虐殺」のレポートを作成したのが21年の2月である。
 博士が口供書を執筆したのは同年6月である。
 
 博士は「オレの方が正しい」と言外にこれを表明し、自分の調査書の一字一句も修正を加えることをしなかったのである。
 いま1つ重要な点は、中国の若い青年が2人1組となって、3つの団体の通行証をもらい、南京近郊の6県を手分けしてくまなく調査しており、農民達から戦争被害の状況を尋ね回っていることである。
 
 もし伝えられるごとき非戦闘員の“大屠殺”があったとするならば、その種の重大なる聞き込みは、スマイス博士やベイツ教授その他の委員に報告されるはずである。
 報告があれば「南京地区における戦争被害」のあの詳細なる著書の中に記載されないはずはない。
 
 そうした記載がないということは、そのような事実は無かったということである。
 つまり、学生諸君が南京城周辺の6県を歩き回って調査したが、そこには大量の集団殺戮など無かった、ということを意味しよう。

※注 ルイス・S・C・スマイス博士著「南京地区における被害調査」昭和13年発刊の英語原文を見る事が出来ます。見たい方はここをクリック


※この文章は謙光社刊「南京事件の総括」田中正明著を引用させて頂いてます。

[虐殺否定の18の論拠]へ戻る