何応欽上将の軍事報告
何応欽上将(将軍)
何応欽上将

 日本軍と戦った中国側の資料に南京事件はどう書かれているか?
 いま筆者の手許に「中国現代史料叢書=対日抗戦」という著書がある。
 
 何応欽上将著、呉相湘編、第一版は1948年(中華民国37年)12月、第二版は1962年(中華民国51年)6月発行、発行所は台北市文星書店。
 言うまでもなく南京戦を戦ったのは、現在の北京政府でも中国共産党軍でもない。
 
 現在の台湾における中華民国政府、すなわち蒋政権の国民党政府であり、その軍隊である。
 当時の中華民国陸軍一級将校(大将)で、軍政部長(国防省)兼軍事委員会委員長何応欽将軍が、中華民国26年(昭和12(1937)年)の廬溝橋事件から日本が大東亜戦争で敗北する中華民国34年(昭和20(1945)年)までの8年間にわたっておこなった軍事報告を1本にまとめたのが本著である。

 軍事報告というのは、日本の国会に相当する全国代表者会議に毎年報告して承認を得るもので、実に688ページにおよぶ浩翰なもの。
 その内容の豊富さと正確さは、序文にあるように「均為当時実況、官方史料、当以斯為最備」 ―すなわち「当時の実況に基ずいた公式史料であり、最も完備したもの」とみてよく、数百の統計や戦闘地図の入ったくわしいレポートであり、戦死者や負傷者の数も100人、10人単位といったこまかい数字までならべている。

 軍編成や戦闘状況も精密をきわめている。中国側の史料としてはこれ以上ない第一級の公式資料と言えよう。

国軍抗戦官兵傷亡統計表(軍政部軍務局製)    
自七七抗戦起至二十六年十二月底止      
(昭和12年7月7日盧溝橋事件より昭和12年12月末迄)
上海・南京戦(第3戦区) 全中国第1、第2、第3、第5、第10戦区
負 傷 戦 死 合 計 負 傷 戦 死 合 計
将校 3,288 1,638 4,926 9,810 4,884 14,694
兵下士官 62,052 31,362 93,414 233,142 119,856 352,998
65,340 33,000 98,340 242,952 124,740 367,692

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 では何応欽上将は南京戦に対してどのような軍事報告を行ったか?
 この報告は、首都南京の失陥の傷痕もいまだ生々しい昭和13年春、漢口で開催された臨時全国代表者大会で行われたもので、報告書の期間は、中華民国26年(昭和12年)7月の廬溝橋事件から同27年(昭和13年)2月までとなっている。

 その軍事報告の目次のうち、
 
 (1)自開戦起至南京失陥止作戦経過
 というのがあり、82ページに「南京之失陥」がある。
 「南京之失陥」自体はわずか6行で、非常に簡略に見えるが、損害人員等細部に関しては、この後の、
 
 (2)南京失陥後至三月初旬止、
 作戦経過でくわしく編成上のことや戦闘状況など細かい数字をならべて紹介しており、南京の部分だけをとくに外した訳ではない。
 兵員の損害等については別に「我軍之状況」という項を設けてくわしく説明している。
 「南京之失陥」を翻訳すると次の通りである。

 4 南京の失陥
 11月26日、錫澄線(しゃくちょう)を放棄したのち、すなわち教導総隊、第36師、第88師に南京の守備を命ずると共に、これに74軍、第66軍、第83軍、第10軍を参加せしめた。 
 思うにこれらの各部隊は戦闘久しきにおよび、疲労困憊(ひろうこんぱい)に耐えず、蘇州河を撤退して南京に至ったが、途中転戦し、いまだ整頓の余暇も得ていない。

 とくに第10軍は新兵が多く、戦闘力に欠けるところがあった。
 昭和12(1937)年12月5日からの湯山、淳化鎮付近における激戦の後、8日遂に湯山陥落、やむなく複廓陣地を撤退したが、敵は攻撃の手をゆるめず急追し、各部隊は溢血苦戦を重ねた。

 しかるに死傷者相次ぎ、12日最後の陣地である雨花台を守りきれず、遂に南京放棄を下命した。敵は13日我が南京城を占領した。
 ここには日本軍の暴虐も“南京大虐殺”もどこにも出てこない。

 なおこの報告書には戦闘ごとに詳細な統計が百数十点付録されているが、この報告書の中にも“南京大虐殺”を匂わせるようなものは何もない。
 上海・南京戦(第3地区)における中国軍の戦死者は次のように報告されている。

 すなわち、戦死者(将校・下士官兵)3万3000、負傷者6万5340、合計9万8340である。
 ちなみに、日本軍の戦死者2万3104、戦病者約5万に対比して少なめな感がしないでもないが、ほぼ妥当な数値と見て良かろう。

 それにしても上海戦で日本軍がいかに多大な犠牲を強いられたか、想像を絶するものがある。
 日本軍の犠牲のほとんどは上海戦である。

 この恨みが南京戦に持ち込まれたとみてよい。
 逆に中国軍の犠牲は上海戦もさりながら南京戦が圧倒的である。

 ちなみに蒋介石の日記を、後年編集した「蒋介石秘録」(サンケイ新聞社刊)によると、「南京攻防戦における
中国軍の死傷者は6千人を超えた」(前掲書12刊、69ページ)とある。
 味方の死傷は内輪に、敵の死傷は誇大に宣伝するのは戦時宣伝のつねである。

 日本の大本営が南京戦の戦果として敵の死傷者8万6千人と発表したのはむろんオーバーだが、蒋の6千人も少なすぎよう。
 いずれにせよ、南京に万を越す大虐殺があったというような記録は、中国側の第一級公式資料である何応欽上将の軍事報告の中にさえその片鱗(へんりん)も見出せない。

 中国問題の評論家であり、何応欽将軍とも昵懇(じっこん)の高木桂蔵氏は筆者に資料を提供下さり、次のように述べている。
 「南京戦で万一、支那の軍民が何万も何十万も殺されていれば、そのことがこの報告書に載らないはずはない。

 ところが、日本軍による何十万もの虐殺があったなどということは、この「軍事報告」のどこにも載っていない。
 これまで南京に関する多くの論争があったが、このような日本の交戦相手国の公式一級資料が、日本で出されなかったことは、むしろ不思議といってよかろう。」

 まさに高木氏の言うとおりである。
 東京裁判が公正な裁判ならば、当然、重要証拠史料として採用されたであろうし、また台湾の中華民国政府も、北京の中共政府も、当然、この重要資料を所持しているはずである。

 ところが、日本が戦争にやぶれ、東京裁判が始まると、南京事件に関する資料はガラリと変わる。2級、3級以下の資料価値ゼロの伝聞資料、政治的宣伝資料、憶測や創作に類するものまでが、次から次へと悪性腫瘍のように吹き出し、そしてそこにもられた数字が一人歩きし始めたのである。
 私の知る範囲だけでも、南京事件に関する台湾側と北京側資料の被屠殺数は次のようにまちまちである。

中華民国政府(台湾)発行および香港発行
発行書籍(資料)名 発行者(発行元) 発刊年 虐殺数
「八年抗戦経過概要」 陳誠参謀長 1946年 10万人以上
「抗戦簡史」 国防部史政処 1952年 10万余人
「国民革命史」 中華民国各界紀念国父孫文誕辰百年 1965年 10万人以上
「抗日戦史」 国防研究院 1966年 10万人以上
「中日戦争史略」 国防部史政局 1968年 10万余人
「抗日禦侮」 蒋経国 1978年 20万人


中華人民共和国関係の新聞および出版
発行書籍(資料)名 発行者(発刊元) 発行年 虐殺数
「改造日報」 1945年 43万人   
南京地方院検察処敵人罪行調査委員会 1946年 34万人
「人民日報」 1946年 20万人
「工人日報」 1946年 30万人
「中国抗戦史」 舒宗傅・曹聚仁共著 30万人
「人民中国」〈日本語版〉 1947年 30万人
中国国定教科書  1985年 30万人
南京大屠殺 南京大学歴史学部 1948年 数十万人
南京市史文資料研究会編「証言・南京大虐殺」 1984年 40万人

(1) これらの資料はいずれも東京裁判以後の刊行物であり、私の言う「後期史料」である。

(2) 不思議なことに、日本と戦った当の相手の中華民国政府関係の刊行物がおしなべて10万余であるのに、中共政府関係の発表は30万以上から、40万→数十万まである。

(3) その中共政府の発表が必ずしも一定しておらず、しかも時代と共にその数値は大きくふくらんでいる。要するに確固たる証拠に基ずいたものではなく、全くの政治的数値である。
 
 しかるに、この数値は日本にも伝播し、日本人の手による告発が始まっている。その告発はむしろ中国より熱心でかつ執拗であるのみならず、日本の教科書にまでこの政治的な数値が載るようになった。日本は子々孫々に至るまで、未来永劫に、この天文学的な虚構の数値の前に跪座(きざ)しなければならないのか―――こうした感慨を抱くのは私一人ではあるまい。
 困ったことに、この数値は今や、政治・外交の道具として駆使され始めているのである。


※この文章は謙光社刊「南京事件の総括」田中正明著を引用させて頂いてます。

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