先にも述べたが、中・高校の教科書には、「当時国際的非難を受けた」とか「世界の非難をあびた」と書いてある。本当に国際的非難をあびたか、この点を検討してみよう。
当時、国家間の問題を解決する機関として、現在の国際連合の前進である「国際連盟」が第一次世界大戦後設立されていたことはご存じの通り。
国際連盟はアメリカは最初から列外におり、ソ連は加盟せず、日本が満州事変で脱退してのちドイツも、やがてイタリアも相次いで脱退する。
しかしアメリカはオブザーバーとして出席しており、紛争に関する国際会議などが開かれると参加していた。
また日本にもいろいろな国際会議への参加の呼びかけがあり、ソ連も1937年の南京事件の頃は参加していた。
例えば昭和12年8月から開かれていた国際連盟総会は、支那事変を「23ヶ国東亜諮問委員会」に付託したが、アメリカはこの委員会に列席しており、日本にも参加の呼びかけがあった。
また該委員会の決議として、11月ブリュッセルで会議が開かれたが、これにもアメリカは列席し、日本にもベルギー政府から招請状が来ている。
しかし日本は双方ともこれに参加を拒否している。
当時国際連盟の舞台は、国際的な諸問題の華々しい討論の場であった。
支那事変のはじまるころには加盟していたソ連の強力な後押しもあり、蒋介石政権にとって国際連盟は日本に対する重要な外交交渉の舞台であった。
南京陥落の直前、日本の平和条約にかんする提案を、ブリュッセル会議の進展とてんびんにかけ、返答が遅れたことはよく指摘されるところである。
当時、支那の国際連盟の代表は顧維均である。
彼は1919年のパリ会議のときすでに支那代表をつとめ、国際連盟創立以来の支那代表で、コロンビア大学出身、アメリカの政界にも力をもつ国際的な「支那の顔」であった。
昭和12(1937)年8月13日から10月6日まで国際連盟第18回総会が開かれる。
このとき支那は北支事変を提訴した。本件は23ヶ国東亜諮問委員会に付託され、この委員会は支那を支持する事と、ブリュッセルで会議を開くことを決めた。続いてブリュッセル会議が開かれるが、この会議で、「日本に抗議する対日宣言文」が採択されている。
さらに支那は、南京・広東に対する「日本の空爆を非難する案」を提訴し、これまた委員会・総会で採択されている。
このように、当時支那は日本の軍事行動に対していちいち提訴し、これに対し国際連盟はこの支那の言い分を受け入れて、日本に対しそのたびに、非難決議を行っているのである。
南京陥落の翌13年1月26日から、第100回国際連盟理事会が開かれた。
英・仏・ソ・中の4ヶ国代表による「支那事変問題小委員会」も同時に開かれ、支那に対する国際的援助問題が討議されるが、非加盟国の米の態度が消極的なため、支那の思うようにならなかった。
しかし、2月3日の理事会では、2ヶ国棄権の外は全員一致で、支那を支援する決議案が可決された。
顧維均代表の八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍ぶりが、次々と功を
若し伝えられるごとき南京アトロシティーズがあったとするなら、日本軍の略奪、強姦、暴行などの非人道的行為があったとするなら、まして「広島・長崎以上の大虐殺」があったとするなら、当然この会議にかけられ、日本軍非難の決議となったに違いない。しかるに支那代表顧維均によるその提訴からなかったのである。(注1)
この年の5月9日から第101回国際連盟理事会が開かれるが、支那はこの理事会で、日本軍の空爆と、山東戦線における毒ガス使用を非難する提案を行い、これが満場一致可決されている。
すなわち、日本軍の南京空爆の非難や、山東における毒ガス使用の非難決議はあっても、“南京虐殺”の非難提訴はなかったのである。議題にさえのぼっていないのである。
この一事を見ても、“南京虐殺”がいかに東京裁判によって作られた虚構であったかが解ろう。言い換えれば、東京裁判以前には、南京事件は存在しなかったのである。(筆者〈注〉この項では当時の呼称「支那」を用いた。)
(注1) 2007年3月に、自民党戸井田とおる議員(自民党)によって国際連盟で顧維均が演説を行っていた事が外務省が隠していた当時の資料を開示させ判明しました。理事会にて対日本制裁を要求した者の拒否されていた事が判明しました。記事