米英のマスコミほとんど取り上げず

「アジアの戦争」著者、米国人エドガー・スノー ティンパーリー著「戦争とは何か=中国における日本軍の暴虐」に序文を寄せた郭抹若
エドガースノー(上写真) 郭沫若(上写真)

(1) わずかにティンパーリーとダーディン

ティルマン・ダーティン元ニューヨークタイムズ記者
ダーディン元ニューヨークタイムズ記者

 以上見てきたように、日本軍と戦った蒋介石の国民党政府も、中国共産党も、当時、南京に大虐殺事件があったなどとは言っていない。
 言い始めたのは、10年後の東京裁判が始まってからのことである。
 
 それでは、欧米諸国においてはどうか?
 これまた次の2書を除くほかは、さして大事件として騒がれてもおらず、その報道も“大虐殺”ではなく、軍紀上の問題であった。
 
 一つは、マンチェスター・ガーディアン記者のティンパーリーによる「戦争とは何か=中国における日本軍の暴虐(The Japanese terror in China. Compliled and edited by H.J.Timperley. New York,1938.220p)」という日本軍非行告発の書である。
 
 この本は南京占領の翌年3月中国語に訳され「
外人目睹中之日軍暴行」の名で、郭沫若が序文を書き、抗日宣伝の教材として頒布された。
 内容は南京事件のほかに華北、華中の爆撃など外国人のレポートや書簡をまとめた本である。
 
 付録として前述の国際委員会の公文書の一部が加えられており、戦後日本語訳に重訳され「外国人の見た日本軍の暴行」(評伝社発行)と題して出版されている。
 この本は虐殺派のバイブルで、藤原彰氏も岩波ブックレット「南京大虐殺」で真っ先に取り上げているのがこの書物である。

 周知の通り、ティンパーリーは当時南京にはおらず上海で活動していた。
 つまり彼は南京事件は見てもおらず、何にも知らないのである。

 先の書物は南京にいる友人や宣教師たちの反日的な手紙をただ編集しただけのものである。
 もちろん検証したものではない。

 すべて伝聞によるもので、あとから紹介するエドガー・スノーの1940年に書いた「アジアの戦争」と共に伝聞による第2次資料である。
 藤原彰氏は、この著書の信憑性を証明するために、当時同盟通信社上海支局長であった松本重治氏の「上海時代」〈下〉の一節を次のように引用している。

松本重治同盟通信編集局長時代(1940年9月撮影)
松本重治(1940年9月)

 「松本氏は「ティンパーリー君、私も日本人の端くれである。南京の暴行、虐殺は全く恥ずかしい事だと思っている。貴著が一時は、反日的宣伝効果をもつだろうが、致し方ない。中国人に対し、また人類に対し、われわれ日本人は深く謝すると共に、君の本をわれわれの反省の糧としたいものだ。丁寧なご挨拶で、かえって痛み入る」と答えたという」(「上海時代」〈下〉9ページ)

 上の引用文は確かに「上海時代」〈下〉250ページにある。
 しかし、その文のすぐ後に、「それから6月頃になってその本を買い求め、通読しようとしたが、読むにたえない事実の羅列なので半分くらいでやめてしまった」とある。

 これまた「つまみ食い」である。
 松本氏は南京事件について直接何も知る立場になく、またティンパーリーの本を読んだ感想として藤原氏が引用した先の言葉を喋ったのでもない。

 従ってその言葉は単なる社交辞令的なものとしか言いようがない。
 松本氏の読後感は「読むにたえない事実の羅列なので、半分くらいでやめてしまった」のである。注(1)

 その後松本氏は、南京で取材にあたった新井正義、前田雄二、深沢幹蔵の3氏から直接話を聞き、「3氏が話してくれた共通の点は、戦闘行為と、暴行、虐殺との区別がなかなかできないことであった」(「上海時代」〈下〉251ページ)と述べ、彼らの話を総合しても「
万を単位とする虐殺はあり得ない」(旬刊『世界と日本』447〜9ページ)と述べている。

 いま一つはN・YタイムズのF・ティルマン・ダーディン記者のレポートである。
 彼のレポートは12月18日と、1月9日の同紙に掲載された長文で本著でもすでにしばしば引用している。

 日本軍の暴虐に対する非難もあるが、このレポートの約3分の2以上は、別項で紹介したように、中国軍によるすさまじいばかりの「焼き払いの狂宴」ぶりや、敗残兵の便衣に着替えての難民区への潜入や、あるいは略奪の模様などが描写されていて、非難しているのはむしろ中国軍に対してである。

 しかし、両軍の戦死者や日本軍による処刑者数など、言うまでもなく推測で、矛盾したところもある。彼の推測は、防衛軍5万のうち、「少なくとも3万3000の兵力が殲滅された。
 これは南京防衛軍のおよそ3分の2にあたるもので、このうち2万人が死刑に処せられた」(「日中戦争史料」第9巻・南京事件U284ページ)とある。

 彼はまた別の所で「およそ
2万人の中国兵が日本軍によって処刑されたことはありうる」(「日中戦争史料」第9巻・南京事件U292ページ)と述べている。
 そうかと思うとまた別の所で「包囲中の日本軍の死傷者は実際に総計1000人くらいのものであろうが、中国側の死傷者は3000から5000、いやそれ以上にのぼるであろう」(同書294ページ)と述べている。

 最後にダーディンが最も力をこめてこの長文のレポートの締めくくりで非難しているのは、蒋介石総統や唐生智将軍が、市民や敗残兵をおきざりにして自分一人の安全を求めて遁走したため、あのような大混乱を起こしたのであると言ってその責任を追及している点である(108ページ)。
 「中国の赤い星」(1938年)等の著書ですでに高名になっていたエドガー・スノーが書いた「アジアの戦争」は、南京事件の3年後の著書である。

 しかも彼は南京に居たわけではない。
 すべて伝聞であり、資料的価値はない 注(2)。

 それに本著は、日中戦争全般にわたって記述しており、南京にふれているのはほんの数ページに過ぎない。それも前記のティンパーリーやダーディンの加工作品であり、信憑性はゼロと言っても良い。

 ただ彼の名声と筆力で、南京事件のプロパガンダには役立った様である。

注(1) 谷口厳氏の「ゼンボー」60・2月号および61・2月号による。
注(2) 洞富雄氏も「スノーの記述は2次資料であり、したがって、まちがいもある」と言っている。

(2) 南京事件に対する社説なし

 戦果が南京におよんだ12月12日、多くの記者はパネー号に乗って南京を脱出した。南京に残った記者は次の5人である。
 N・Yタイムズのダーディン、AP通信のマクダニエル、シカゴ・デイリーニュースのアーチボールドスチール、ロイター通信とブリティッシュニュース・エージェンシーのスミス、パラマウント・ニュース映画のアーサー・メンケン。
 
 このほかに、ロンドン・タイムズのマクドナルド記者は、パネー号が沈没したため一旦収容され、17日上海に戻るが、その途中、15日南京にまた舞い戻って取材している。
 南京事件は、ナンキン・アトロシティーズとして海外に大センセイションを巻き起こし、諸外国から非難をあびた。
 
 知らないのは日本人だけであったと言われている。
 藤原彰氏も、その著「南京大虐殺」の中で、「おびただしい数の日本軍の残虐行為の報道が世界をかけめぐった」(同書6ページ)と書いているが、ほんとにそうか?
 
 世界中の何万とある新聞のうち3〜4の新聞が報道したからと言って、世界的ニュースと言えるだろうか?
 国際的非難を浴びたという事になるであろうか?
 
 この様な報道は一過性のもので、「一部に報道された」たぐいのものである。
 とくに当時中国のニュースを独占していたロイター、AP、UP、アヴスと言った大通信社の記者が南京や上海に駐在していながら、「アウシュビッツに匹敵するような何十万もの中国人を大量虐殺した事件」を見逃したなどと言うようなことは到底考えられない。
 
 評論家阿羅健一氏は、「N・Y・タイムズ」の1937年12月1日から翌年38年1月末までの毎日の記事の目次抜粋、同じくアメリカにおける代表的な雑誌である「タイム」の記事、および英国の「ザ・タイムズ」の目次を抜粋するといった大変な作業に取り組んでいる。
 紙数の関係で抜粋表をお目にかけれないのは残念であるが、その概要は次の通りである。
 
 昭和12年12月のN・Y・タイムズのトップを幾度もにぎわしたのは何といっても米砲艦パネー号撃沈事件である。
 13日から26日までの2週間にわたり、連日一面トップをかざって報道されている。
 
 一面だけでなく、例えば14日付けのごときは16、17、18、19、21、24面で取り上げている。
 これほどのビック・ニュースはこの前例をみない。
 
 これに比べると、ダーディン記者の2回の署名入りレポート(12月18日、1月9日)は、長文ではあるが決して大ニュースではない。
 また「南京大虐殺」がトップ記事になったことも、社説に取り上げられた事もない。
 
 南京事件は社説にもならない雑報記事なのである。
 12月から翌年1月にかけて、南京の様子を報道した記事は、小さい1段モノまで含めて10回ある。
 
 その中には「難民区の中に逃げていた中国軍の大佐と部下の6人が、日本軍の仕業と見せかけて悪事をはたらき捕らえられた」と言った記事や、「日本兵がアメリカの所有地に入らないよう、アリソン総領事は日本大使館に抗議した」と言ったたぐいのものである。
 1月28日から30日にかけて、南京で起きたアリソン総領事殴打事件と言うのが記事をにぎわしている。
 
 だが大量殺害記事など皆無である。
 署名記事のうちマクダニエル記者(AP)は「私の見た死者は戦死者であった。中国兵、日本兵ともに略奪した。
 
 日本は安全区を守り、ここには攻撃を加えなかった」と、どちらかと言えば中国軍が悪いという立場で日本軍占領下の南京の状況をレポートしている。
 スチール記者(シカゴ・デイリーニュース)は「中国兵退却時の混乱と日本兵侵入時のパニック状態」を報道しており、どっちもどっちと言ったとらえ方である。
 
 前述のダーディン記者の「日中ともに栄光はない。日本軍は処刑・強姦をした」というレポートと、ともかく、南京に残った3人の記者が書いた3人3様のレポートをニューヨーク・タイムズは掲載している。
 これらのレポートや記事を見ても、一般市民、とくに(婦女子や子供の虐殺)あるいは(捕虜の大量殺害)など、その片鱗さえもうかがうことは出来ない。
 
 阿羅健一氏はロンドン・タイムズの12年12月と13年1月の2ヶ月間の記事の見出しをリストアップしている。
 それによると、英国は古くから中国に進出し、多くの権益や租界を保有している関係上、関心は高く、従ってニュース量も多く、平均すると1週間のうち2回は中国問題がトップ記事を占めている。
 
 12月の主なニュースは上海租界、南京攻略、ソ連の選挙、パネー号事件。
 1月はスペイン戦争、フランスの政変といったところ。
 
 日本軍の占領下の南京の状況については、パネー号からいったん南京に引き返した(15日―16日)マクドナルド記者が、17日上海から打電している。
 その記事が18日のタイムズにのっている。要約すると、
 
 「12日、中国兵は逃亡し始めたが、逃げる船がないと解ると混乱が始まり、安全区になだれ込み、交通部は放火された。13日、日本軍の掃討がはじまった。数千人の中国兵が安全区に逃げ込んだ。14日、日本軍は大通りを軒並み略奪し、外国人のものも略奪した。また中国兵とみなされる者を処刑した。通りには死体が散在したが女性の死体はなかった。掃討は15日も続いたが街は落ち着いてきた」
 という記事である。
 
 マクドナルド記者の撮ったパネー号沈没の写真は、1月4日と5日、2回にわたって大々的に掲載されているが、南京にもどったとき「街は落ち着いてきた」と述べているから撮るようなものはなかったであろう、市内の写真は一枚も載っていない。もちろん「大量殺害」も、「虐殺事件」も載っていない。
 ロンドン・タイムズの2ヶ月間にわたる記事のうち、南京に関するものはほとんどこれだけで、あとは雑記事ばかりである。
 
 さらに、発行部数ではタイムズに比べ1ケタ多いといわれる「サンデー・エキスプレス」はどうかと言うと、日本に関する大きな報道は2回ある。
 1回目は12月19日のパネー号事件。
 
 2回目は1月23日の「日本は今後どのような外交方針をとるか」という論説記事である。
 あとはアリソン米総領事の殴打事件報道、たったそれだけである。
 
 さて、アメリカの著名な週刊誌「タイム」は南京事件をどう扱っているか。
 南京市内の様子にふれた記事は3回ある。
 1回は12月27日で、妙出すると、「海兵の見ている前で数百人の捕虜が処刑された。市民はちょっとした理由で射たれ、通りには多くの死体があった、戦争につきものの略奪や強姦もあった、数日立ってようやく元に戻った」とあり、明らかにダーディンのN・Yタイムズの記事のやきなおしとみられる。
 
 それにしてもこれは虐殺の記事とははるかに遠い。
 2月14日号ではスチール記者の「シカゴ・デイリーニュース」からとして、「日本軍は中国兵を処刑した。それ故中国兵は武器や軍服をすべて放棄し、街は武器と軍服でいっぱいだった。日本人にとって処刑は戦争かも知れないが、私には殺人に見えた」という内容の記事である。
 
 第3回目は4月18日で、事件から4ヶ月も経た後のことであり、むごたらしい強姦の話と、少年の語る処刑の話であるが、これもまたどこかの新聞報道のダイジェストである。
 反日的な「タイム」は、日本が敗れた台児荘の戦争で中国を絶賛し、日本の悪口を書いている。
 
 「タイム」によれば支那事変は最大の海外のニュースである。
 「タイム」の
海外ニュースのトップ記事は毎号のように日中戦争である。
 
 その意味でこの年(1937年)の「時の人」には蒋介石夫妻を表紙に登場させている。
 その「タイム」でさえも、南京に大虐殺があったとか、罪もない女子供や武器を捨てた兵士を何万何十万も殺したなどといったニュースもなければ、また日本軍隊の非人道性を非難するような論説も解説記事もない。
 
 もう一度くり返して申し上げる。
 当時最も反日意識が濃厚であった世界の代表的な米・英の新聞・雑誌に掲載された南京の状況は以上見てきた通りである。
 
 決して「当時ナンキン・アトロシティーズとして海外にセンセイションを巻き起こし諸外国から非難をあびた・・・・」というようなことは絶対にないのである。
 すなわち、藤原彰氏の言うような「おびただしい数の日本軍の残虐行為の報道が世界をかけめぐった」などということは、まったくの虚妄である。

(3) 外人記者団の南京戦跡視察

 米・英・仏など先進国のマスコミにいわゆる南京事件なるものが、ほとんど取り上げられなかったのは、そのような事実はなかったからである。その例証を上げよう。
 事件の翌年(昭和13年)夏、上海の外人記者クラブが南京戦跡視察を申し出てきた。
 
 軍はそれにOKを与えた。彼ら15、6名の記者は飛行機をチャーターして南京にやって来た。
 そのスケジュール一切彼らが立案したものである。
 
 説明は南京の報道部員があたった。
 彼らは「難民区跡」の病院や捕虜収容所をはじめ、激戦地を訪ねた。このとき一行と共にこれらの各地を回ったのが、当時同盟の南京特派記者の小山武夫氏(のち中日ドラゴンズ社長、東京・品川区在住)である。
 
 小山氏はその時の模様を詳しく文章にして(写真と共に)筆者に下さった。
 要約すると日支両軍の戦闘状況や彼我の犠牲者数、戦後の治安状況、俘虜の問題など、相当突っ込んだ質問がとび、彼ら同士も想像をたくましくして、いろいろ語り合っていたが、今日問題になっている俘虜の大量殺害や一般市民に対する“虐殺”に類する質問や話題は全くなかった。
 
 つまり外人記者同士の間にさえそのような噂すらなかったというのである。
 一行は、紫金山、中山陵、中華門、雨花台、下関、江東門さらに足を伸ばして湯水鎮、幕府山などを巡視した。だが、“大虐殺”の話など質問さえでなかったと小山氏は言う。
 
 上海駐在の各国新聞・通信社の
より抜きの特派員が15、6名のうち揃って硝煙なまなましい南京戦の戦場を視察したのである。
 その視察の期間中“虐殺”問題は話題にものらなかったという。
 
 米・英・仏等の新聞や雑誌に、南京虐殺事件を見ないのも当然である。
 小山氏は、さらにこう言う。
 
 「だいいち13年春から3年以上も南京に駐在し、取材に当たっていた私が、ついにそういった風聞さえ聞いていないんですからネ。あればどこかで何かをきくはずですよネ」
 私は“南京虐殺”など信じていませんと小山氏は言い切る。
 
 なお松井大将は、南京陥落後上海で外人記者団と2度会見しているが、この席でも今日伝えられるいわゆる南京アトロシティーに関する質問は何ら受けておらず、またパネー号事件やレディバード号事件で米・英の軍司令官等に謝罪し、懇談しているが、その席上でも話題に上っていないという。
 大将は宣誓口供書の中で、南京に一般中国人の殺害や捕虜の大量殺害事件があったと聞いたのは、終戦後米軍がそのような放送をしていると聞いたので驚き、部下を呼んで調査せしめたと述べている(別項参照)。


※この文章は謙光社刊「南京事件の総括」田中正明著を引用させて頂いてます。

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