動機が見当たらない事件


 南京事件を語る上で最も重要な要因であるにも関わらず、今までほとんど論じられて無いものがある。
 それは、なぜこのような事件が起ったのか?という動機や原因についてである。
 
 通常このような大量殺害事件には、必ず動機や原因が存在しており、充分論じられていても良いはずなのだが、その点についてなぜか関連書上において追求されるどころか、論じられてもいないのである。
 東京裁判においても、その明白な動機については全く検証されていないのである。
 
 だが最近、敗戦直後の昭和二十(一九四五)年十二月から放送が行われ、GHQのラジオ宣伝放送であった『真相箱』のドラマ台本について記した、櫻井よしこ『「真相箱」の呪縛を解く』(小学館)の中で簡単ではあるが、南京事件の動機について紹介されている。
 
 『我が軍(作者注・日本軍)が南京城壁に攻撃を集中したのは、昭和十二年十二月七日でありました。これより早く上海の中国軍から手痛い抵抗を蒙った日本軍は、その1週間後その恨みを一時に破裂させ、怒涛の如く南京市内に殺到したのであります。』
 
 つまり、上海での戦いにおいて中国軍の抵抗が思いのほか強固だったので、日本軍が南京では復讐の為に、虐殺を行ったと述べているのである。
 
 正直、この理由については、首を傾げざるを得ない。
 上海戦は確かに厳しい戦いであった。
 
 日本軍の四万人にも及ぶ死傷者数は、日露戦争の激戦地であった旅順要塞攻撃での死傷者に匹敵する。
 だが、戦闘が厳かったからといって、必ずしも虐殺に至る動機や原因となるだろうか。
 
 そうであるなら日露戦争の戦いにおいて、至るところで虐殺が起きていても不思議では無いはずであるし、その様な事実も一切無く、さらに日本軍は太平洋戦争においても昭和十二年八月に始まる第二次上海事変に相当、もしくはそれ以上に苦しい戦いが幾度もあったが、虐殺事件は南京以外では、一切起きていないのである。
 つまりこの根拠は、余りにも不可思議な理由であるとしか考え様が無い。
 
 さらに上海で苦しんだのであれば、上海から虐殺事件が始まっていても不思議では無いはずが、それが約百キロも離れた南京で一ヶ月後に突如として爆発的に起きたのである。
 日本軍は南京攻略戦とほぼ同時期の十二月十日に、南京より揚子江上流に位置する蕪湖においても攻略戦を行っているが、ここではなぜか虐殺事件は一切起きていないのである。
 
 これらの部隊は、上海戦を同じく南京攻略部隊と共に戦っており、条件としては全く同じであるにも関わらず、蕪湖では南京でのような虐殺事件は一切無く、これはやはり不自然としか言い様が無い。
 『真相箱』の台本を書いた人物は、どうも私には南京事件のために無理矢理に理由を作ったのか、もしくは本質的に軍隊そのものを理解出来ていないのではないか。
 
 本来、軍隊の目的は戦争において戦術を用いて “勝利する事”であり、敵兵を殺戮する事が目的では無いのである。
 無論、戦争に勝つためには敵兵士に立ち向かい、武力で圧倒する事が必要ではあるが、これは戦勝のための目的達成の一手段(戦術)であり、必ずしも相手を殺戮する事が第一の目的では無いのである。
 
 戦争や戦闘に勝利する為には、武器を用いて戦う必要が無い場合もあり、宣伝工作によって降伏勧告を促すという手段(戦術)もあるのである。
 日本軍が南京で虐殺を行う事は、戦術どころか戦略上必要性は全く無く、この虐殺によって日本軍は何ら得るモノは無いはずである。
 
 実際、この様な虐殺行為を行えば、その後の日本軍による占領政策は途端に失敗することは目に見え、住民による激しい抵抗を受ける事となったであろう。
 ところが、日本は南京陥落後から敗戦までの、七年半もの長期に渡って南京や各地を占領している。
 
 無論、全く抵抗が無かったとは言わないが、むしろ平然としていた。
 こういった点一つ見ても、南京事件は不思議な事件であり、軍事的戦略・戦術上、余りにも不自然に感じざるを得ない点が多すぎるのである。
 
 さらに南京における一般市民や捕虜に対する殺害について考察してみようと思う。
 ところで数十年前から『理由無き犯罪』だとか『動機無き殺人事件』と報道される事件が多発している。
 
 現在では、これら事件が『快楽殺人』等といった動機(理由・原因)が存在している事が判明している。
 この『快楽殺人』というのは殺人を行うことで一種の悦楽感を得る事を言い、常人には理解し難いが一部の殺人者の中には、この様な特殊な心理を持っている人物が存在しているようである。
 
 しかしながら、これはあくまで多くの犯罪者の中でもホンの一部であり、この様な心理を持っている事自体、ごくまれな事である。
 南京事件当時、日本兵の多くがこのような異常心理の持ち主であった可能性はほとんど無い。
 
 仮に南京に駐屯する日本軍兵士が、このような異常心理の持ち主ばかりであったとするならば、すでに上海戦や南京へ進撃する途中から虐殺が始まっていただろうし、南京事件後もこのような虐殺事件が各地の戦場で起きていてもおかしくないはずだが、一切そのような事は起きていないのである。
 時折、南京事件の発生後、軍部がその再発に神経を尖らせていたという主張もあるが、一度暴走した兵士を厳罰に処せずに、暴虐行為を治められる可能があるとは考え難い。
 
 ここで歴史上有名な数例の虐殺事件について、その動機と原因について考えてみたいと考える。
 第二次大戦時に起きた事件でポーランドの『カチンの森虐殺事件』での動機は、ソ連占領に伴い占領政策に支障をきたす恐れのあるポーランド人将校の数千人を、ソ連(現ロシア)軍が殺害した事件であった。
 
 一九七〇年代のカンボジアでは、二百万人もの人々が虐殺され(『カンボジア大虐殺』)ている。
 当時のポルポト政権は、中国の文化大革命の影響を受け、過去の断絶、文明(文化)そのものの破壊と社会慣習の継続性を断とうと、共産主義お得意の権力闘と相まって虐殺(粛清)を行った。
 
 一九九四年のアフリカのルワンダでは民族(部族)対立によって虐殺が行われた。(『ルワンダ虐殺事件』)
 だがこれらの事件の中で、やはり歴史上最も有名なものは、ナチス・ドイツによるユダヤ人の民族浄化(ジェノサイド)であろうと思われる。(『ユダヤ民族抹殺事件』)
 
 このナチスによる虐殺は南京事件とよく比べられるが、実際には両事件の政治的背景や状況は全く異なっており、当時のドイツ社会における宗教的偏見、ユダヤ人に対する根本的差別がドイツ社会には存在しており、ヒトラー率いるナチスの政策によってユダヤ民族抹殺計画が作成され実行されていったのである。
 一方、南京事件は戦争途中で起きたとされる事件であり、ナチスのユダヤ人抹殺の様な計画され、実行されたもので無い事は、東京裁判においても証明されている。
 
 さらに日本政府は当時、一貫して人種平等を国際社会へと訴えていたのである。
 日本政府や日本軍にとって、中国人を虐殺する理由も必要性も、政治的背景も無かったのである。
 
 このように、ナチスによるユダヤ民族抹殺事件と南京事件を同一視する事自体適当で無いと言える。
 これら数例の歴史上における虐殺事件を検証しても、動機や原因が明白に存在しており、命令し実行を行った証拠や資料も数多く存在し、疑う余地が無い事が分かる。
 
 しかしながら南京事件では動機や原因が全く不明で、日本軍が中国人一般市民や兵士を、南京で大量虐殺を行う理由が全く存在しておらず、虐殺を命令した命令書も無ければ、実行を行った者、それを裏付ける明白な一次史料すら何一つ存在していないのである。
 いや、むしろ事実は、虐殺とは全く逆であると考えて良いのである。
 
 この事を裏付ける様に、南京攻略戦を行った司令官松井石根大将は、昭和十二年八月十三日に起きた第二次上海事変での、日本軍増援派遣に伴い兵に対して次の訓示を行っている。
 「上海附近の戦闘は専ら我らに挑戦する敵軍の戡定を旨とし、支那官民に対しては努めて之を宣撫、愛護すること」と訓示している。
 つまり、中国人民を積極的に保護せよと述べているのである。
 
 さらに戦場が上海から南京へと移り、南京攻略戦を前にして再度「南京城攻略要領」を全兵士に徹底している。
 内容を要約すると、南京における日本軍の名誉を考えて行動せよ、外国権益を保護し文化的財産を保護し、違法行為を行ったものは厳罰とするというものであった。
 
 その上、さらに松井大将自身は次の言葉を、末端兵士に至るまで伝え命じたのである。
 
 「南京は中国の首都である(中略)特に敵軍といえども抗戦意志を失いたる者及び一般官民に対しては寛容慈悲の態度を取り之を宣撫愛護せよ(ひらがな作者)」
 このように南京攻略戦を指揮し行った松井司令官は、戦争にはつきものの犯罪行為であった、略奪、強姦などの犯罪行為を厳しく戒めていたのである。
 
 ましてや南京事件のような数万、数十万人もの虐殺を行う場合については、一人で実行ができるようなものでは決して無い。
 裏付けるように南京戦に参加した歩兵第二十連隊第三中隊長であった森英生氏が偕行社『証言による南京戦史(8)』で次の様に述べている。
 『大虐殺といえば、一中隊長や大隊長などが、恣意で実行できるものではない。必ず計画者、発令者、命令の伝達者、実行者があるはず。たとえ、極秘裏にやったとしても、必ずもれて噂となったはずですが、そのような組織的、計画的な残虐行為が行われたという噂は、四十余日にわたる南京駐留間、その後一年間の中隊長在任中も、一度も聞いておりません。』
 
 このように当時、南京戦に参加し、その後駐屯していた日本兵は唯一人、虐殺命令を受けておらず、実行した者すら存在していないのである。
 むしろその当時、中国軍兵士は戦いに敗れると服を着替え(便衣)一般市民に紛れ込み、日本兵に対してゲリラ(便衣)戦術を行っていた。
 
 一九三八年一月十日『ライフ』にあるように、そうした混乱の中で、一般市民が被害を受けた事は可能性として考えられる。
 だが、日本軍はゲリラ戦術を取る中国軍の敗残兵を中国人立会いのもと、摘出して国際法に準じて処刑を行っている。
 
 この時に、もしかすると一般市民が巻き添えを食ったかも知れない、だがこの責任はむしろ中国軍側にあり、処刑については国際法に順じて正当なものであった。
 さらに中国軍によるゲリラ戦術による日本側の被害も、それほど多くは無く、日本軍が集団行為として虐殺を行う動機があるとすれば、必ず心理的にも、戦闘的にも追い詰められていなければ起り得ないはずである。
 
 むしろ南京における日本軍は、陥落後には市民生活を保護し、治安を回復させた事で、当時の南京市民に歓迎されていた様子がうかがえる。
 この様子は、陥落直後を取材した各新聞記者達などのレポート、写真に詳しい。
 
 このように南京事件では、日本軍が数十万人という大量虐殺を行う動機や、原因について全く無く、それどころか実行者、命令者すら全く存在しておらず、この事件の動機については全く不自然であるとしか言い様が無い。


※この文章は松尾一郎著『プロパガンダ戦「南京事件」』(光人社刊)を引用しています。

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