『戦争論』訂正箇所の詳細について

 『戦争論』の部分的な間違いに対する問い合わせが多数寄せられましたのでその点について発表したいと思います。

・経緯について・・・

 平成2004(平成16)年春か夏?頃に『よしりん企画』、時浦さんに『戦争論』の間違いが一部ある事を伝えてましたが、詳細については2005(平成17)年5月に初めてFAXで送付し・・・その後、時浦さんが6月8日号『SAPIO』、62ページ欄外にてその事を発表されました。
 上記の根拠となる資料を提示します。


『戦争論』168ページ掲載写真について

 この写真は1927(昭和2)年『4・12クーデター』時に撮影されたものです。
 参考文献、平成12(2000)年6月刊行『ロストゼネレーション』(毎日新聞社刊)より
※「清党」とは蒋介石軍が北伐の最中に行った上海「共産党」勢力の一掃を目的とした弾圧行為の事を言う。


『戦争論』169〜170ページ掲載写真について

この刑は清朝時代に行われていた処刑方法で、站籠(たんろう)あるいは立枷(たてかせ)と呼ばれていた。
この方法は首枷(くびかせ)の変種で、中国の処刑の一種である。「図説中国酷刑史」(徳間書店刊)より
この写真は1905(明治38)年に(なぜか)絵葉書として街中で売られており、横浜宛てに送られていたものも存在しています。


 以上の点を考えて『戦争論』で描かれていたように、昭和12(1937)年、第二次上海事変で殺害された日本人や、日本兵であるとは言えず、168ページの写真は、昭和2(1927)年に処刑された中国人。
 下段の写真は清朝末期に中国国内で処刑された可能性の高い罪人の可能性が高い。
 
 つまりこれが日本人であるとは言えないし、日本兵である可能性もほとんど無いと結論づける事が出来る。

 ちなみにすでに『戦争論』のこの部分に改定は済ませており、第46版には経緯が書かれています。(文:松尾一郎)