作り話・南京大虐殺の数的研究』上杉千年
全貌社刊『ゼンボウ』平成4年6月〜10月号より要約



 南京安全区国際委員会が難民区を設置

 昭和12年(1937)7月7日に北平(北京)郊外の廬溝橋事件に端を発する北支事変が発生した。そして、8月9日に上海海軍特別陸戦隊大山勇夫中尉などが支那の保安隊に殺害され、8月13日より支那軍が攻撃を開始し、第2次上海事変となる。ここに、9月2日に「支那事変」(戦後は日中戦争とも呼称)と改称す。
 そして、11月17日には明治36年制定の戦時大本営令を廃止し、事変にも適用される新大本営令を公布し、20日に宮中に大本営が設置された。支那側は、南京の中国国民党(蒋介石)と延安の中国共産党とが8月23日に第2次国共合作を成立させた。

首都南京を攻略

 我が軍は、北支那方面軍(軍司令官寺内寿一大将)のもと第1軍(3箇師団)・第2軍(3箇師団)・軍直(2箇師団)と上海派遣軍(軍司令官松井石根大将)の6箇師団の計14箇師団を派遣した。
 上海派遣軍は、苦戦を強いられたので、10月20日に第10軍(軍司令官柳川平助中将)の3箇師団を増派した。第10軍が11月5日に杭州湾北岸に上陸すると11月7日には支那軍は総退却を開始した。
 そして、11月7日には上海派遣軍と第10軍とを編合指揮するため中支那方面軍(軍司令官松井大将)を設け、上海派遣軍司令官には朝香宮鳩彦中将が親補さる。勝に乗じた第10軍は、11月19日に「独断南京追撃敢行」を開始し、中支那方面軍も軍中央もこれを追認することになり、昭和12年12月1日に「海軍ト共同シテ敵国首都南京ヲ攻略スベシ」との奉勅伝宣命令が下達された。 南京空襲は12月2日より始まり我が軍が前進すると南京衛戊軍司令長官唐生智(とうせいち)は、南京城の城門を6日夕刻に閉鎖した。そして、南京城の周辺は「空室清野作戦」という民家等の焼き払いの狂宴が実施された。7日には蒋介石総統・宋美齢婦人等が脱出し、8日には南京市長馬超俊も脱出した。 我が軍は、12月9日に空より降伏の『勧告文』を散布し、その回答を10日正午に中山路句容道上にて受領するとしたが、支那軍の軍使は出現しなかった。ここに、10日午後南京城への総攻撃が下命された。12日夕刻に唐司令官は「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」と命令して、自らはひそかに揚子江北岸に逃亡した。そして、12月13日に南京城は我が軍の占領するところとなる。そして、12月17日に入場式を 、18日に城内飛行場で合同慰霊祭を挙行した。

南京の残留市民は難民区に収容・保護

 南京戦が近づくと南京市に残留した外国人のうち15人が、上海戦の折りにフランス人宣教師ジャキーノ神父が我が軍の承認した「難民地区」を上海南市に設定して良民を保護した先例にならって、「南京安全区国際委員会」(委員長・ドイツ人H・D・ラーベ、シーメンス社員。書記長・アメリカ人ルイズ・S・C・スマイス、金陵大学教授)を結成し、南京市の西北方にあたる地区に「南京安全区」という難民区を設定した。 事務所は、12月1日に開設して、昭和13年2月14日に中支那方面軍などの戦闘序列が解かれ、新司令官に畑俊六大将が親補されたのにともなって、2月18日に「南京国際救済委員会」と改称して活動を続けた。 尚、年末より準備されていた自治委員会の発会式が1月1日午後1時に鼓楼広場で行われ、各収容所より動員された約1千人が参加している。 さて、馬南京市長は、12月1日に全市民に難民区への非難を命じ、米3万担(たん)(3000トン)・麦1万担(1000トン)・金10万両を預託するとした。そして、8日朝に正式に避難命令を出して、残留市民が収容された。


支那側も国際連盟に南京大虐殺をアピールせず

 我が国で「南京大虐殺事件」と呼称される事件を支那側は「南京大屠殺事件」と称し、昭和61年江東門に建設された記念館も「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」という。 この「屠殺」とは、動物を殺してこれを支解(手脚を切断してばらばらにする)し、食肉として食膳に供する意がある。「屠城」といえば、城に立て籠った老若男女をみな殺しにして、体をばらばらに切断して、その肉を煮て食うことを意味する。
 清朝が明朝を滅ぼした折りの『揚州十日記』『嘉定屠城記』には、この屠殺の凄惨が記述されている。従って、支那人の歴史感覚をもってすると降伏勧告を拒絶して戦い敗北した南京は、夷敵日軍により「屠城」されたと盲信することはさけられない。
 それは、南京よりはなれている者、時が経過すればする程に増幅するのである。さて、この「南京大屠殺事件」について当時の支那の2つの政権と国際連盟はどう認識していたのであろうか?

中共軍の観念的な認識

 中共軍の南京事件についての当時の認識を紹介するものに井上久士著『南京事件と中国共産党』(『南京事件を考える』大月書店・昭和62年刊に所収)がある。
 中共側の刊行物で南京事件に最初に言及したのは、武漢で刊行の週刊誌『群衆』(昭和13年1月1日刊)の「短評」欄の『人類のともに斥けるべき敵国の暴行』の文中に、〈南京・上海沿線、とりわけ南京市の大虐殺は、人類有史以来空前未曾有の血なまぐさい残虐な獣行記録〉と記述している。この外3〜4の記述がマスコミに記述されている。
 そして、延安方面では『新中華報』(昭和14年2月より党機関紙となる)が昭和13年6月になって始めて事件に言及している。その中で、〈本年1月までで、長江下流一帯で敵に惨殺された同胞は30万人に達した〉とある。要するに、ここに引用する代表的2例に示す如く「屠城」に伴う歴史的感覚に依存している報道である。従って、大虐殺派の井上久士の結語も、〈当時の中国共産党は、「南京大虐殺」が中国各地の日本軍による数多くの残虐事件のなかでもきわだって突出したできごとであるとの認識は希薄であった。・・・そのため、それ以後の日中戦争期間、「南京大虐殺」について直接言及されることは多くなかった。〉としている。 

国民政府も国際連盟に提訴せず

 中国国民党の蒋介石政府は、国際連盟第18回総会(昭和12年8月13日〜10月6日)に北支事変を提訴している。ついで、第100回国際連盟理事会(昭和13年1月26日より)・第101回国際連盟理事会(同年5月9日より)が開催された。この折りにもさまざまな我が軍の軍事行動についての非難を訴えている。しかし、「南京大虐殺」に関係する事例は全く存在しなかった。 支那政府が提訴しなかった理由は、軍政部長何応欽将軍の全国代表者会議への「軍事報告」(昭和12年7月より13年2月まで)の中にも「南京大虐殺」に関係する記述が皆無であることよりみても納得できるところであると、田中正明著『南京事件の総括』(謙光社刊)が詳記している。 尚、マスコミ報道についてみると、南京戦には我が国のプレスマン約120人が参加している。又、大宅壮一、木村毅、林芙美子、石川達三などが陥落後入城しているが、誰一人として南京虐殺を報道していない。このことは、阿羅健一著『聞き書 南京事件』(図書出版社刊)に詳しい。 特に注目すべき証言がある。それは、『長江の水 天をうち―上海東亜同文書院大学第34期生通訳従軍記―』(平成5年 同期会刊)の「編集後記」が〈南京事件関 する報道やマスコミに対して大きな疑問を持ったことだけは確かである。〉としていることである。 即ち、通訳従軍学生も見聞していないというのである。


外国人記者の便衣兵処刑報道

 昭和12年(1937年)12月10日に外国人ジャーナリストの多くは外交団とともに南京を退却し、11日夕方には数人がアメリカ砲艦バネー号(12日午後に南京より50キロ上流の揚子江で我が軍の誤爆で沈没)で脱出した。従って、13日の南京陥落を目撃したのは、ニューヨーク・タイムズのティルマン・ダーディン、シカゴ・デイリー・ニュースのアーチボール・スチール、AP通信のマクダニエル、ロイター通信のスミス、パラマウント・ニュースのアーサー・メンケンの5人である。15日にはアメリカ砲艦オアフ号で上海へ下っている。 ダーディンによると、南京よりニュースを送信する手段がなかったので乗船したという。『南京事件資料集・第1巻』(青木書店刊)によると、ダーディンは、〈占領後の南京に3日ほど滞在した間は、市内を回ることができました。いたるところに日本軍を見ましたが、私をとがめる者は誰もいませんでした。〉と証言している。

NYタイムズ、ダーディン記者報道

 ダーディンは、アメリカ砲艦オアフ号より12月17日に発信し、NYタイムズは12月18日に掲載した。その中で注目すべきものは次の如くである。 〈安全区の中のある建物からは、400人の男性が逮捕された。彼らは50人ずつ数珠繋ぎに縛りあげられ、小銃兵や機関銃兵の隊列にはさまれて、処刑場に連行されて行った。上海行の船に乗船する間際に、記者はバンドで200人の男性が処刑されるのを目撃した。〉 この情景は、スティール記者も同時に目撃している。それは、〈われわれ一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして300人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。〉〈それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景である。〉としている。 
 この悲劇は、我が軍がNYタイムズ上海支局長ハレット・アベントの報道にある如く、〈中国軍の安全区退去が遅々としていたにもかかわらず、日本軍は地区内を攻撃しなかった。迷い弾が少々落下し、数名が死んだだけ〉であった程に難民区を保護した。それに対して支那兵は便衣兵(私服に変装した兵)となって潜入したことに起因する。
 この便衣兵は、〈戦時重犯罪の下に、死刑、もしくは死刑に近き重刑に処せられるのが、戦時公法の認むる一般の慣例〉(信夫淳平『上海戦と国際法』)である。そこで、12月14日より16日にかけて第9師団歩兵第7連隊(金沢市)が掃討作戦を実行し、揚子江岸の下関にて処刑した。
 この掃討作戦が難民区に恐怖心と混乱を発生させ、かつ、その処刑をオープンに実施したのが外国人記者に目撃された。これが、南京大虐殺の噂の根源となる。 
 又、ダーディンは、12月22日発航空便で発送し、昭和13年1月9日のNYタイムズ掲載によると、〈少なくとも3万3千人を数える兵力の殲滅を許した。この数は南京防衛軍のおよそ3分の2にあたり、このうち2万人が処刑されたものと思われる。〉としている。しかし、この記事の文尾では、〈日本軍の死傷者は、おそらく総計千人を数え、中国兵は3千から5千人、もしくはそれより多いかもしれない。〉とある。

シカゴ・デイリー・ニュース、スティール記者報道

 スティールは、砲艦オアフ号より12月15日に発信し、シカゴ・デイリー・ニュースは12月15日(カナダ日付)に掲載し、世界での第1信となる。 この中で注目すべき記事は、〈陸上の通路は日本軍のために断たれていたので、中国軍は下関門を通って長江に殺到した。門はたちまち詰まってしまった。今日この門を通ったとき、5フィート(約1.5メートルのこと)の厚さの死体の上をやむなく車を走らせた。〉とある。この惨状も南京大虐殺の証拠とする者もいる。(『南京事件資料集・第1巻』を利用)


ドイツ人の虐殺報告の怪

 昭和11年(1936)11月25日に「コミンテルンの破壊的工作に対する共同防衛を目的とする協定」(通称・日独防共協定)が結ばれ翌12年11月6日に日独伊三国防共協定が成立した。
 しかし、ドイツが対日提携に傾斜してくるのは昭和13年にリッペントロップが外相になってからという。即ち、南京戦当時は日独友好は表面的な現象であった。

独大使館ローゼンの虐殺3万体報告の怪

 『朝日新聞』は平成2年12月18日(火)に『「南京大虐殺」に詳細資料 独外交官の報告発見』の報道を行った。その中で「港に3万の処理死体漂着」の報告書あり、読者は矢張「大虐殺」ありの感を深くした。
 この記事は、旧東ドイツ国立中央文書館(現在、ドイツ連邦公文書館ポツダム支所)で共同通信社が発見したもので、ドイツ大使館ローゼン政務書記官よりドイツ外務省への報告書の紹介である。
 問題の昭和13年2〜3月の南京の状況を「3月4日付」で報告している文章は、〈1。紅卍字会(宗教的な慈善団体)が大量の死体の埋葬を少しずつ進めている。郊外の下関港には大量処刑された約3万体の死体が流れ着いており、紅卍字会は毎日5百〜6百体を共同埋葬墓地に埋葬している。〉というものである。
 この報告書の前文に、〈1、2月および3月初めに南京とその周辺の状況は一応安定した。〉と記述している如く、この当時にいかなる形態でも大量の「死体」の発生の可能性は絶無である。
 「約3万体の死体」という数字は、当時、風聞として流布されていた可能性は存在する。それは、『大阪朝日新聞』(昭和13年4月16日「北支版」)の“南京便り”に、〈紅卍字会と自治委員会と日本山妙法寺に属するわが僧侶らが手を握って片づけ始めた。〉そして、〈城内で1793体、城外で30311体を片づけた。約1万1千円の入費となっている。〉この処理数は3月23日頃までのものである。偕行社『南京戦史』(平成元年11月刊)も「戦死 約3万人。生存者約3万人。撃滅処断 約1万6千人」と結論しているが、アメリカのダーディン記者も昭和12年12月22日上海発で、〈少なくとも3万3千人を数える兵力の殲滅を許した。〉(NYタイムズ。昭和13年1月9日)と報道している。 以上の如く、「約3万体の死体」の風聞にもとずく誤報といえる。

難民区委員長ラーベの市民5〜6万人虐殺報告の怪

 『朝日新聞』は平成8年12月8日(日)に南京安全区国際委員会(難民区)委員長であったドイツ・シーメンス社員ジョン・ラーベの『南京の惨状詳細にヒトラーに報告書』との報道を行った。その中で「非戦闘員死者 5〜6万人と推定」と、根拠を示すことなく記述していると紹介している。そして、宇都宮大学教授笠原十九司は、〈大虐殺の存在を裏付けるものだ。・・・信頼性は高い。〉と評価している。 ところが、『毎日新聞』は、12月12日ニューヨーク発信として、〈罪もない数千人の民間人が殺された〉とあるとし、〈米国内の研究者らは「ラーベ氏は6万人の中国人の命を救った」と推定している。〉とも紹介している。又、『産経新聞』(大阪版・平成9年3月17日号)は、〈遺体数について確認できたのは、中国赤十字員が調べた中国兵3万人だけだった。〉と記述しているという具合であって、マスコミ報道だけでは報告書・日記の正体は全く不明である。 尚、難民区よりの日本兵の非行報告をみると、殺人49人にすぎない。又、東京裁判の折に提出されたラーベの昭和13年1月14日付の上海総事宛の文書には、〈数千人ノ無辜ノ市民ヲ残虐ナル方法ニ依ッテ殺害シ 〉とある。 以上の如く、市民「5〜6万人」被害は信憑性のない話であることは確実である。


東京裁判の南京暴虐事件判決の怪

「真相箱」で洗脳

 明星大学教授高橋史朗著『米軍「日本人洗脳計画」五十年の大成果』(『新潮45』平成7年2月号)が指摘する如く、アメリカ占領は、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(日本が行った戦争についての罪悪感を日本人に植え付けるための宣伝計画)を樹立した。そして、この計画に従って、NHKラジオは、昭和21年のある日曜日夜8時より「真相箱」という番組で、「日本軍が南京で行った暴行についてその真相をお話下さい」という質問に答えて、〈この南京の大虐殺こそ、近代史上稀に見る凄惨なもので、実に2万名が惨殺されたのであります。南京城内の各街路は、数週間にわたり惨死者の流した血に彩られ、またバラバラに散乱した死体で街全体が覆われたのであります。この間血に狂った日本兵士らは、非戦闘員を捕らえ手当たり次第に殺戮、略奪を逞しくし、また語ることもはばかる暴行を敢て致しました。〉(連合国最高司令部民間情報教育局編『真相箱―太平洋戦争の政治・外交・陸海空戦の真相』コズモ出版社。昭和21年刊)という解答を放送している。 この放送を聴いた元東京日日新聞(現・毎日新聞)・南京戦従軍カメラマン佐藤振壽は、陥落直後の南 京市街を撮影し本社に送信していた者にとってはこのウソっぱち放送に激怒したということが藤岡信勝著『「南京事件」の真実とは(3)』(明治図書『社会科教育』平成7年6月号)に詳記してある。

バナナのタタキ売り式、東京裁判の判決

 連合軍は、従来の戦時国際法には存在しない「平和に対する罪」「人道に対する罪」を追加した『ニュルンベルグ国際軍事裁判所条例』をつくってナチス・ドイツを裁いた。この『条例』を引用して『極東国際軍事裁判所条例』を作成して東京裁判を実施した。 「南京暴虐事件」(判決呼称)に対する検察側文書である『南京地方法院検察処敵人罪行調査報告』は、「被殺害者確数 30万人」としている。この数字は、昭和58年刊行の中共側の『侵華日軍南京大屠殺史料専輯』にも継承されている。それは、〈1937年12月13日、日本侵略軍は南京を侵略占領し、南京の人民に対して6週間におよぶ人事を絶する悲惨な大虐殺を行った。無辜(むこ)の我が同胞で、集団殺戮(さつりく)に会い、死体を焼かれて痕跡をとどめなかった者は19万人以上に達し、また個別分散的に虐殺され、死体が慈善団体の手で埋葬された者は15万以上、死者総計は計30余万人に達した。〉(『証言・南京大虐殺』青木書店刊)と要約してある。 さて、この南京事件に対する判決をみると、同一事件に対して2つの虐殺人数を示している。昭和23年11月11日朗読の「南京暴虐事件」では、〈日本軍が 占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上であったことが示されている。これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実によって証明されている。〉と判決した。 そして、昭和23年11月12日朗読の「松井石根」中支那方面軍司令官には、「6〜7週間の期間において、何千という婦人が強姦され、10万以上の人々が殺害され、〉と判決し、訴因55(軍隊並ニ俘虜及ビ一般人ニ対スル条約・保證尊守ノ責任無視ニヨル戦争法規違反)のみで有罪としたのである。 そして、同年12月23日「皇太子殿下誕生日」の7人の絞首刑に含めた。(『南京大残虐事件資料集第1巻』青木書店刊) 東京裁判は、ドイツのユダヤ虐殺に相当するものとして南京大虐殺事件を設定したもので、松井大将の有罪は既定の事実であった。 従って、被虐殺人数の確定はどうでもよいことであったのだろう。


南京戦犯軍事法廷4人を銃殺刑

 中華民国政府(蒋介石総統)は、南京戦犯軍事法廷(昭和20年11月6日成立)で「南京大虐殺事件」(支那側の呼称)の関与者として4人を起訴し有罪とした。

第6師団長、谷壽夫中将冤罪で死刑

 中支那方面軍は、2箇軍よりなる。上海派遣軍(朝香宮鳩彦王中将)は、京都第16師団(中島今朝吾中将)・金沢第9師団(吉住良輔中将)、宇都宮第114師団(末松茂治中将)・熊本第6師団(谷壽夫中将)を基幹とする。 この親補職の中で中島中将等が死亡していたため不運にも谷中将が戦犯代表として指名された。『証言・南京大虐殺』(青木書店刊)によると、昭和21年12月21日に、第3回の調査・訊問をおこない、四百余人の証人を出して、1937年12月13日から21日に至る中華門付近での谷壽夫部隊の犯罪事実を実証した。 そして、昭和21年12月31日に正式に起訴し、昭和22年2月6日から8日にかけての公判で証人80余人が証言した。 3月10日に死刑判決をし、4月26日に銃殺刑となる。この谷部隊の犯罪行為を証言した無数の南京市民は占領時にはいなかった。谷中将の『申弁書』(昭和22年1月15日)によると、〈中華門付近は激戦地域なりし為め、被告の部隊入城の際、住民は既に戦禍を避くる為め、他地域に非難しあり。残存者皆無にして我師団は空屋に宿営せり。従がって我将兵により迫害を受くる対象となる住民は皆無なりき。・・・ 被告の部隊が蕪湖へ転進する迄には復帰せるを認めず、〉とある。 要するに、支那式のリンチ裁判で100%無実の谷中将は有罪とされたのである。

田中軍吉大尉、300人斬りで死刑

 熊本第6師団―歩兵第36師団(牛島満少将)―歩兵第45連隊(竹下義晴大佐)の第3大隊(小原重孝少佐)の第12中隊長田中軍吉大尉は、山中峯太郎編『皇兵』(昭和15年11月 同盟出版刊)に記載されている300人斬りの武勇談を根拠にして、昭和22年12月18日に死刑の判決を受けた。 

百人斬り競争で、2人の少尉が死刑

 第16師団(中島今朝吾中将)―歩兵第19旅団(草場辰巳少尉)―歩兵第9連隊(片桐護郎大佐)の第3大隊(冨山武雄少佐)所属の大隊副官野田毅少尉と歩兵砲小隊長向井敏明少尉は、『東京日日新聞』(現・毎日新聞)の浅海一男記者等による「百人斬り競争!」(見出し)という昭和12年11月30日の記事にはじまる武勇談記事(11月30日・12月4日・6日・13日)を理由に昭和22年12月18日に死刑の判決を受けた。 さて、この武勇伝の真偽は論ずるまでもなく全くの「作り話」である。野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲小隊長で白兵戦とは全く無縁であり、かつ、日本刀で多人数の殺傷は不可能である。 そこで、向井少尉の実弟猛は兄敏明の指示により浅海記者を訪問し上申書の執筆を依頼した。しかし、〈肝心の部分を書いてくれないのです。浅海さんに書いて頂いたのは、(1)同記事に記載されてある事実は、向井、野田両氏より聞き取って記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません。 (2)両氏の行為は決して住民、捕虜に対する残虐行為ではありません。・・・〉(鈴木明著『「南京事件」のまぼろし』文春文庫95〜96貢)というものがあっ た。即ち、「作り話」であることは絶対に認めなかったのである。 こうした時局便棄主義の浅海記者とマスコミにより野田・向井の2人は死刑に処せられたのである。そして、浅海は、戦後も毎日新聞の大記者として活動した。定年退職後は毛沢東一辺倒・文化大革命礼賛の日中友好促進派として数冊の本を刊行している。


大虐殺派教祖、洞富雄の「市民7〜8万、
軍民あわせて20万人以上」説の崩壊

 南京大虐殺派の教祖的存在の元早大教授、洞富雄は、その著『決定版 南京大虐殺』(徳間書店。初版昭和57年12月。4版昭和62年5月刊)で、「市民7〜8万・軍民あわせて20万人以上」(145貢・152貢)としている。この被虐殺人数が最も権威あるものとして歴史教科書にも昭和59年度使用本より登場してきた。

慈善団体埋葬数「15万5千体」の「作り話」

 洞は、『決定版 南京大虐殺』に続いて『南京大虐殺の証明』(朝日新聞社。昭和61年3月刊)でも再説しているが如く、〈紅卍字会と崇善堂の両埋葬隊が南京城内外に散在もしくは埋葬している遺棄死体を埋葬した際の記録内容の信憑性を信じているので、その合わせて15万5000余体埋葬という数字をもとにして、南京城の内外で死亡した中国軍民の数を約20万人と推定し、その大半は被虐殺者であった。〉(154貢)としている。 しかし、この慈善団体の埋葬表は、信用性がないことは上杉千年著『作り話・南京大虐殺の数的研究』(『ゼンボウ』平成4年6月号)で紹介した。それは、紅卍字会南京分会救援隊埋葬班埋葬死体数統計表』(『南京大残虐事件資料集・第1巻』青木書店刊。378〜380貢)の「城内 1793体」と「城外 41278体」の「統計 43071体」のうち、「城外」の昭和12年12月28日の「男 6468体」は水増しである。このことは、板倉由明著『南京事件批判』(『月曜評論』昭和61年3月24日号)で詳細に立証してある。 又、崇善堂の『崇善堂埋葬隊埋葬死体数統計表』(『資料集・第1巻』376〜378貢)の「城内分 7 548体」(12月26日〜昭和13年4月8日までの埋葬数)と「城外分 104718体」(4月7日〜5月1日までの処理数)の「総計 112266体」のうち、「城外分」は全くの「作り話」である。「城内分」にしても信憑性は存在しない。このことは阿羅健一著『架空だった南京大虐殺の証拠―謎の「崇善堂」とその実態』(産経新聞『正論』昭和60年10月号)に紹介されている。 即ち、埋葬の実態は、『大阪朝日新聞』(昭和13年4月16日「北支版」)の「南京便り」には、〈紅卍字会と自治委員会と日本妙法寺に属するわが僧侶らが手を握って片づけ始めた。〉とあり。そして、〈城内で1793体、城外で30311体を片づけた。約1万1千円の入費となっている。・・・しかもなお城外の山のかげなどに相当数残っているので、さらに8千円ほど出して・・・〉埋葬する必要性ありとしている。 このように、マスコミ報道と紅卍字会統計表は、「城内分」で一致し、「城外分」で水増し分を除くとほぼ近似する。即ち、崇善堂の単独活動の余地は存在しない。

「市民7〜8万人」の被害人数の「作り話」

 洞は、『決定版 南京大虐殺』で歩兵第30旅団長佐々木到一少将の12月24日より翌13年1月5日までの城内粛清の査問により、〈掃討戦と便衣兵狩りとが終わった後の南京には、25万人にちかい市民が居住していたものと推測される。日本軍の南京攻撃が開始されたとき、城内に残留していた市民の数は35万ないし30万人あったと言われている。とすれば、その差10万人ないし5万人が被虐殺者ということになる。〉(150〜151貢)そこで、〈市民の犠牲者数を10万人と推算するのは、あるいはやや大量にすぎるかもしれない。それは7万人ないし8万人とみるべきであろうか。〉(152貢)という。 洞の根拠は、米大使館アチソン書記の昭和12年11月27日発信電文に、〈市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っている〉(『南京事件資料集アメリカ編』90貢)によるのであろうが、南京城閉鎖は12月6日頃で尚脱出可能であった。従って、占領時の市民数は難民区委員会報告の20万人である。


大虐殺派リーダー笠原十九司の
「市民6万、軍人8万人」説の崩壊

 南京大虐殺派のリーダー的な存在の宇都宮大学教授笠原十九司は、南京戦における被虐殺人数を市民と軍人に区分して示している。
 その説は、南京戦研究家板倉由明(在横浜)により『軍事史学』等で批判されても今日広く支持されている。たとえば、俵 義文著『「慰安婦」問題と教科書攻撃』(高文研刊。平成9年6月20日)でも紹介されている。その理由は、笠原十九司とその一派は、板倉批判論に全く反応せず黙殺し、台風の過ぎ去るのを待つ戦法をとっているので、一般の大虐殺派支持の人々の耳目にはとどかないからである。

最初は「市民6万、軍人6万」説

 笠原十九司は、南京戦当時の昭和12年12月15日に上海に脱出するまで南京に残留していた『ニューヨーク・タイムズ』特派員であったF・T・ダーディンを昭和61年9月15日に訪問した折りに、南京事件の犠牲者数について自説を紹介している。 それは、〈中国兵の捕虜の殺害も虐殺と考えて、中国兵で虐殺されたものが6万、それに民間人で虐殺されたものが約6万と、おおよその推測ですが。〉(『南京事件資料集』556貢。青木書店平成4年10月刊)としている。 この説の具体的な根拠を示す笠原論文は、不敏にして知らない。

「市民6万、軍人8万」説、大々的に紹介

 しかし、その後は、昭和62年12月に第2回の目の南京事件日中学術交流会(南京市歴史学会の協力)での成果をまとめた『南京防衛軍の崩壊から虐殺まで』(『南京大虐殺の現場へ』所収。朝日新聞社。昭和63年12月刊)の中で、江蘇省中国現代史学会秘書長、孫宅巍が中国第二歴史襠案(公文書)館にある史料調査の結果として報告した「虐殺された中国兵士の概数」が「最も参考」になるとして紹介している。 それは、〈南京防衛約15万人のうち、最終的に蒋介石のもとに戻って来たのは約5万人である。残った10万人の中で、約1万人が抵抗の中で犠牲になった戦死者である。 抵抗の中で戦死した兵士は虐殺の中に入れたくない。あと1万人たらずが撤退のさい逃亡兵となって脱出したと考えられる。残りの8万余の銃を捨てた兵士が、敗残兵、投降兵、捕虜として虐殺されたことになる。〉というものである。 この説をさらに、『南京防衛戦と中国軍』(『南京大虐殺の研究』所収。晩聲社平成4年5月刊)という8万余人の兵士が犠牲になったというのも納得のいく数である。〉と支持しているのである。

笠原=孫説の水増し兵力数を板倉由明が暴露す

 笠原説は、孫 宅巍説であるが、この説は、「総兵力数を15万人」としている。ところが、板倉由明は、『「南京事件」の数的研究』(軍事史学会編『軍事史学』平成2年6月号所収)という論文によって、南京戦当時の南京衛戊司令長官部参謀処第1科長・譚 道平著『南京衛戊戦史話』(東南文化出版社。昭和21年刊)によって、孫=笠原説を完全に粉碎してしまった。 それは、譚参謀は、南京防衛軍の総兵力を、「戦闘兵 49000人。雑兵 32000人、総兵力 81000人」と計算している。そして、総兵力の行方について、「損失 36000人、保存 44500人、総計81000人」としている。 この譚参謀の総兵力8万1千人に1.85倍したものが孫=笠原説の総兵力15万人説であることを詳細に論証した。 笠原は、平成6年9月刊行の『アジアの中の日本軍』(大月書店刊)の中でも全く板倉説に言及せず、自説の紹介に固執している。そして、〈被虐殺者数の実態の解明に迫るためには、逆に「数の問題」の結論に性急にこだわらず〉と逃げの一手である。 「数の問題」を問題にしたのは彼等であることを忘れてもらっては困る。


『朝日新聞』も“転向”
中間派、秦 郁彦の「軍民4万人」支持

 南京大虐殺派を保護・育成してきたのが『朝日新聞』である。特に、朝日新聞記者本多勝一の『中国の旅』(昭和46年8月末から12月まで連載)・『南京への道』(昭和59年4月から10月に『朝日ジャーナル』連載等をまとめる)は大きな影響を与えた。
 又、誤報・偽報は多々あり、昭和59年10月31日に『これが毒ガス作戦だ』という写真を一橋大学教授藤原 彰のコメントまで付して報道した。ところが、毎日新聞社刊『決定版昭和史』(第9巻116貢)に収録の煙幕であったからお笑いである。
 次に、昭和59年8月4日・夕刊の『日記と写真もあった=南京大虐殺』の報道は、都城歩兵33連隊の元上等兵の遺品より発見されたものという。ところが、南京大虐殺の「悲惨さ写した3枚」の写真は昭和6年頃満州で売られていた「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」写真であった。
 こうした『朝日新聞』『毎日新聞』の報道より国民は南京大虐殺を信ずるようになってきた。

『朝日新聞』大虐殺説否定し、中間派秦説支持に“転向” 

 平成3年1月19日の『朝日新聞・夕刊』の「窓―論説委員室から―」欄で、南京事件について、拓大教授、秦 郁彦説の、〈被害者は4万人前後と推定している(中公新書『南京事件』。〉を支持している。
 そして、富山歩兵35連隊の第1大隊本部書記・軍曹野村吾朗の『朝日』社説(平成3年1月3日付)への質問状(1月27日付)への2月2日付の回答(1月3日付社説筆者)でも、〈30万という数が正しいとは思いません。『窓』で紹介した中公新書『南京事件』の見方が、現時点では妥当ではないかと考えます。〉と明言している。 即ち、『朝日新聞』は、自ら保育してきた大虐殺派を否定し、中間派秦説支持に“転向表明”を行ったのである。

論争の対象となる中間派、秦 郁彦の「軍民4万人」

 拓大教授(現・日大教授)秦 郁彦の『南京事件』(中公新書・昭和61年2月25日刊)は、〈南京守兵の総数も、ベースを揃えるため、日本軍が推定し台湾公刊戦史が認める10万を採用〉(211貢)している。この日本側とは、上海派遣軍参謀長飯沼 守少将日記の、〈敵ハ約20コ師10万人ニシテ派遣軍各師団ノ撃滅シタル数ハ約5万、海軍及第10軍ノ撃滅シタル数約3万、2万ハ散乱シタルモノ如キモ〉(12月17日)等を指すのであろう。 さて、秦の『表6 南京守備軍の行方考察』(211貢)は、A 戦死者 53900人〈『東京日日新聞』昭和12年12月27日の「敵の遺棄死体53874」によるとしている。〉 B 捕らわれて殺害 30000人〈秦作成の表による。〉 C 生存捕虜 10500人〈『朝日新聞』昭和12年12月29日の「捕虜1万5百」によるとしている。〉 D 脱出成功 5600人  そして、「B 捕らわれて殺害3万人」についての内訳は、『表5 捕らわれて殺害された中国兵の推計』(210貢)は、次の如し。 

◇13師団    8千人  幕府山
◇歩33連隊   3千人  下 関
◇9師団     7千人  安全区
◇16師団    2千人  安全区 
◇16師団    2千人  城外
◇114師団   1千人  中華門
◇6師団     3千人  水亜門
◇歩38連隊   2千人
◇3師団     1千人
◇軍直属部隊  1千人
  計       3万人 

 この秦説は、戦死者、生存捕虜をマスコミに依存し、不法殺害を戦闘詳報などにより集計したため、「脱出成功 5600人」と過少になりすぎていることである。 しかし、不法殺害の根拠を示してあるので論争対象となりうる。又、市民被害は、スマイス博士『南京地区における戦争被害』が示す2万3千人の2分の1(1万2千人)か3分の1(8千人)を日本軍の責任とす。但、秦の死者数は農村部の人数であって、「市部」を含有していないというミスあり。


事件派・偕行社『南京戦史』の
「撃滅処断兵1万6千人」説

 南京事件の数的研究は、最初に板倉由明著『南京事件の数字的研究 3』(全貌社刊『ゼンボウ』昭和60年4月号)で「捕らわれて殺害された兵士」を1万6千人とし、そのうち、不法殺害を2分の1の8千人とした。次いで、秦郁彦著『南京事件』(中公新書。昭和61年2月刊)の3万人説が紹介された。 そして、偕行社刊『南京戦史』(平成元年11月3日刊)が出現した。本書は、南京戦参加将校畝本正巳編『証言による「南京戦史」』(偕行社刊『偕行』。昭和59年4月号〜翌年2月号)を核として編集されたものである。ここに、『朝日新聞』(平成3年1月19日)すら大虐殺派否定の“転向表明”をするに至った。 この『南京戦史』こそ、南京事件の大虐殺派、中間派につぐ事件派の代表的な著作と言える。

撃滅処断 16000人

 南京衛戊軍の行方について、次の如く分析・集計している。    

◇戦死者    約30000人
◇生存者    約30000人
  内 訳
1、渡江成功  約15000人
2、陸路突破  約 3000人
3、収 容    約 6200人
4、釈 放    約 3000人
5、逃 亡    約 3000人
◇撃滅処断   約16000人

 これは、捕虜・敗残兵・便衣兵を撃滅もしくは処断した実数を推定したものである。戦時国際法に照らした不法殺害の実数を推定したものではない。

市民被害は『スマイス調査団』の「15760人」とす

 市民殺害は、スマイス博士『南京地区における戦争被害』によって、南京市部では6600人(死者2400人。拉致4200人)を、江寧県の被殺者9160人を採り、合計15760人とする。 この市民被害は、支那兵と日本兵によるものである。『南京戦史』は日本軍の責任の割合については言及してない。

南京市部で殺された人数『難民区報告』49人『スマイス調査』2400人

 南京安全区国際委員会は、昭和12年12月13日から翌13年2月9日まで日本兵の暴行について日本大使館へ公文書(61通。非行行為425件)で報告している。これは、『南京大残虐事件資料集 第2巻』(青木書店刊)に収録されている。これを、板倉由明著『「南京大虐殺数」の数字的研究(2)』(『ゼンボウ』昭和59年10月号)の分類表によってみると、◇殺人 49人 ◇傷害 44件 ◇連行し(作業用・便衣兵と誤認)390人・多数1件・数名2件・ ◇強姦 361人・多数3件・数名6件 ◇略奪その他170件とある。 このように「殺人 49人」と僅少なのは、日本軍が南京占領の翌日には難民区に歩哨を立て監視・保護したことによる。 次に、金陵大学教授ルイス・S・C・スマイス博士は、戦災被害調査を実施し『南京地区における戦争被害』報告書(『南京大残虐事件資料集 2巻』所収)を昭和13年6月に提出している。 これによると、南京市内の人的被害は、◇軍事行動(爆撃等)による死亡 850人 ◇兵士の暴行による死亡 2400人 ◇原因不明の死亡 150人である。又、◇拉致されたもの 4200人である。 又、農村部(4県半)の ◇殺されたものの総数 26870人(病気死亡者を差し引いたJ ・ロッシング・バッグ教授修正値では23000人戸となる。)である。このうち、南京事件の該当県の江寧県分は9160人(バッグ修正値7544人)である。 即ち、スマイス調査による南京事件の人的被害は最大で、市部の死亡2400人と拉致4200人である。そして、江寧県の7544人であり、この加害者は日支両軍による。この両者の合計は14144人である。


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