4、強化される対中援助体制

米国の軍事援助の実態

 諸記録を総合すると、米国は、開戦前にすでに1億7千万ドルの巨額にのぼる援助を行っていた。
 とりわけ米国の対中軍事援助の眼目は、中国空軍の育成である。
 米国は、秘密裡(ひみつり)に中国国民党政府と契約して、飛行場建設、飛行士の訓練も含めて全面的に指導していたのである。その成果は早くも昭和8(1933)年11月12日の中国空軍における第1回演習の実施として現れている。
 これについてペック米総領事は「米国の観点からもこの壮大なる光景は特別の意味がある。参加艦艇はすべて米国製であり、参加飛行士はすべて米国仕込みである」と発言し、その成果を誇っているほどであった。
 さらに日支事変の勃発後には、慢性的な財政難にあえぐ中国国民党政府が日本と妥協し、満州国を認めることがないよう、継戦能力維持のために資金援助、武器援助を実施しているのである。
 それも交戦国への武器援助を禁止した中立法をすり抜けるために、当初は中国政府所有の銀を相場以上で購入したり、資金を経済援助名目(すなわち非軍事目的)で供与して、それを中国政府が武器代金に当てるのを黙認するなどの方法を取っていたのである。
 日米開戦後には、更に巨額の援助が行われている。
 試みにその主なものを年表によって示すと次のような事例がある。

昭和 2(1927)年
7月25日  張作霖、米国資本を背景に満鉄併行線の1つ打通線を満鉄併行線敷設禁止協定(対華21箇条の1つ)を無視して完成。
9月  満鉄併行線の1つ、奉海線が、米国からレール、英国から車両を輸入して完成する。
昭和 6(1931)年
 米国は、張学良軍の対日軍備充実のための、年間戦車100台、飛行機数10台、弾丸100万発の生産能力のある兵器工場建設を援助。
 更に米国は、総額2千600万ドルに及ぶ資金援助を3年間で行うことを決定。
昭和 8(1933)年
8月 米国農務省が8千万ドルの小麦と綿花借款を南京の国民政府に与える。
昭和 9(1934)年
2月17日 中国広東空軍司令部と米航空機器公司との間で、米国の援助による空軍3年計画契約交渉が行われていることが明らかになる。
2月20日 米国の借款により、米軍用機購入と米海軍予備将校の指導を条件として、福州およびアモイに飛行場を建設。
昭和 14(1939)年
9月 米国輸出入銀行が中国国際貿易委員会に対して4千500万ドルの資金援助を行う。
昭和 15(1940)年
3月30日 米国は、蒋政権に対する2千万ドルの資金援助を発表。
9月25日 米国、中国への追加の資金援助として2千500万ドル供与を発表。
11月30日 ルーズベルト大統領は、蒋介石に1億ドルの資金援助と50機の新式戦闘機を送ることを約束。1億ドルのうち2500万ドルは、中国の航空計画及び地上兵器部品の購入のために使用された。
昭和 16(1941)年
2月 米、P-40B戦闘機、100機の対支援助を決定。その不足する装備武器と弾薬150万発については、大統領命令で米陸軍基地から直接補給された。
4月15日 パウリー米インターコンチネント社社長が中国との間で航空機パイロットの米国義勇団に関する条約を結び、259名のパイロットを中国に派遣することとなった。
4月22日 米国陸軍省、中国に引渡し得る軍需品リスト(4千510万ドル相当)を提示。
5月6日 ルーズベルト大統領、中国向けのトラック300台の2週間以内のビルマ・ラングーン向け出荷を承認。また4934万ドル相当の軍需物資の中国供与を決定。
7月23日 米国統合委員会、軍事使節団派遣と米志願兵による中国からの日本軍爆撃を目的としてB-17、500機の対支派遣を決定。この統合委員会での確認事項は次のようなものであった。
イ、中国及びその周辺地域又は海域で作戦中の日本軍に有効な反撃を加えるため、第一陣として269機の戦闘機と66機の爆撃機を装備すること。
ロ、米国は中国人の飛行及び航空機整備の訓練のための手段を提供すること。
ハ、米国によって与えられた大量の兵器の適切な使用について助言を与えるため、米国は、軍事使節団を中国に派遣すべきこと

 開戦後には、17億2330万ドルという莫大な援助を行い、日米戦争と日中戦争の両方を戦わざるを得ない局面に日本を追い込んだのである。

昭和 17(1942)年
米国、総計3億ドルの対中援助を行う。
昭和 18(1943)年
米国、総計5930万ドル相当の対中援助を行う。
昭和 19(1944)年
米国、総計1億50万ドル相当の対中援助を行う。
秋、米国、OSS(現在のCIA)局長代理ドノバンを中国に派遣し、トラック2千台、ジープ200台を供与。また大量のスパイ用の必要機材を与える。
昭和 20(1945)年
米国、総計12億6330万ドル(邦貨約53億9430万円=現在換算6兆2736億円)相当の対中援助を行う。

 こうした巨額の軍事援助を通して、中国の蒋政権は米国への依存を深め、米国の軍事援助抜きでは政権の存在も危ういほどになっていったのである。
 これが崩壊寸前の蒋政権が継続し得たゆえんである。
 ここに日中の戦争が泥沼化し、終わりなき戦いとなった最大の要因があるのである。

援蒋ルートと我が国の対応

 昭和12(1937)年7月に勃発した支那事変の推移は、翌年末までには、首都南京はじめ、主要貿易都市、工業都市を日本が押さえたことにより、中国独自では継戦は不可能な状態となっていた。
 従って、日中関係の和平が回復してもおかしくないのだが、それがそうならなかったのは、これまで述べてきたように、米・ソが「対日戦継続を条件」に武器・資金援助を行ったからである。
 そしてこの蒋介石政権に対する武器援助のために確保された輸送ルートが、いわゆる援蒋ルートと称されたのである。
 援蒋ルートには、フランス植民地経由の仏印ルート緒及び英国植民地経由のビルマルートがあった。
 わが国にとって、支那事変を解決するためには、蒋政権の継戦能力を維持させている軍事援助ルートを断つことは作戦上不可欠である。
 そこでわが国は、支那事変勃発直後から、支那沿岸を封鎖して、蒋政権向けの軍事物資の流入を遮断していた。
 しかし、ビルマルート、仏印ルートが健在で、ここから大量の軍事物資が輸送され続けた。
 このためわが国は、英仏両国軍事物資の輸送禁絶を外交ルートで交渉したり、中国側の軍事援助物資の輸送拠点である広東、南寧を攻略したり、輸送ルートを爆撃するなどの軍事作戦を実施したりしたが、いずれも十分な効果が挙がらなかった。
 そこで英仏領内を軍事占領して援助ルートを実力で遮断することが不可避であると判断したわが国は、フランス政府との外交交渉によって、北部仏印への軍事進駐を含む対中国作戦への仏印側の協力を取り付けた。
 また英国に迫ってビルマルートを閉鎖させることに成功したのである。
 これに対して、日中間の和平をのぞまない米国のルーズベルト大統領は、英国の対日妥協を撤回させて援蒋ルートを再開させ、また日本に対して鉄・くず鉄に関する実質的輸出禁止措置をとった。
 その上で日本側が過激な行動をとれば、直ちに日米間の貿易を全面禁止することとし、またハワイ―フィリピン、南太平洋のサモア―蘭印(オランダ領東インド)の2つの航路の警備の実施を、海軍長官に指示しているのである。


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