5、米国の本格参戦に向けた対日圧力

米国による経済圧迫強化

 当時米国は、東南アジア植民地の中でも、蘭印を重要視していた。
 というのも、日本が蘭印を占領すれば、日本の戦力が充実し米国からの物資をほとんど輸入せずとも中国を制圧できることが明らかであるし、あるいは欧州大戦において対独劣勢にある英国が継戦し得るためにも蘭印のゴムやスズといった資源が不可欠と見なしていたからである。
 ところが、オランダおよびフランスがドイツに席巻された状態で日本が北部仏印進駐を行ったため、米国はこれを日本による蘭印占領の第一歩と見なし、危機感を募らせたのである。
 なぜならば、米国の対日経済圧迫戦略への挑戦と受けとめられたからである。
 すなわち米国は、対日戦略をオレンジ作戦という名称でかねて研究してきたが、昭和13(1938)年に策定された新オレンジ計画では、明確に対日圧迫戦略依存していた石油に置かれていた。
 蘭印はその石油の宝庫でもあったからである。
 新オレンジ作戦に基づいて翌14年の陸海軍統合会議で策定されたレインボー計画では、石油禁輸をイギリス、オランダにも強く求めるなど、対日圧迫は計画的かつ着実におしすすめることとされた。
 その第一歩は、昭和13年1月の航空機及びその部品に対するモーラル・エンパーゴ(道義的禁輸)同年2月の対日クレジット供与停止であった。

南部仏印インドシナ、サイゴンに上陸した日本海軍陸戦隊 当初、日本軍は米国の援蒋ルート遮断のため北部仏印に進駐したのだが、さらに米国は対日経済圧迫に踏み切ったため、日本は石油資源を求めて、仏政府と交渉、南印に進駐したのである。

 翌昭和14年(1939)年12月には、日本に対して航空機用のガソリンを禁輸するモーラル・エンパーゴが発動された。
 更に昭和15(1940)年8月には、より低品質のハイオクタン航空ガソリン、9月にはくず鉄の対日前面禁輸、12月には鉄鉱や一定の鉄鉱製品の前面禁輸、昭和16(1941)年1月には銅、亜鉛、ニッケル、2月にはラジウム、ウラニウムの禁輸に踏み切るなど対日禁輸を真綿で首を締めるようにじわじわと進めたのである。
 対日経済制裁を段階的に強化していった米国側の意図は「日本を脅かす唯一の道は、日本に何も与えないことである」とスチムソン陸軍長官の発言、「日本が三国同盟から離脱し、南進もせず、中国と泥沼戦争をつづける枠内で、必要最小限度の石油を供給する」といったルーズベルト大統領の発言に代表されるように、経済制裁によって日本を戦わずして屈服させることにあった。
 しかしこの経済圧迫戦略は、必要最小限の石油を供給するといっても、日本が本当に必要とする航空機ガソリンは与えないのであるから、困った日本が石油を求めて行動を起こすことは十分予測出来たはずである。
 実は本音としては、日本側が行動を起こせるだけの必要最小限の石油を日本に持たせた上で日本の行動を待っていたとも考えられるのである。

死活求めた日本の南部仏印進駐

 日本は、米国に代わる石油供給源を求めようとし、蘭印政府と昭和15(1940)年7月から交渉を始めた。
 ところが蘭印政府は既に米国政府から対日圧迫の協力を求められており、日本へは強硬姿勢を貫いた。
 一方米国側は、日本と蘭印間で交渉が行われている最中に、日本軍侵入の際にはすべての油田を破壊する命令を現地米総領事が出し、米陸軍も80機の戦闘機を派遣した。
 これに対抗して、わが国は、戦略物資の宝庫とされた南部仏印が、米英に保障占領される事態を予防するために南部仏印への進駐に踏み切った。
 日本の前面屈服か戦争かを求めていた米国にとって、この南部仏印進駐とその後に予想される蘭印進駐によって日本が国力を回復し、米国の経済制裁に自力で回復できる状態になることは絶対に避けなければならない事態であった。
 そこで米軍は、石油の全面禁輸、日本資産の凍結という報復手段によって直ちに応じた。
 しかも南米産油国からの輸入を防ぐためパナマ運河も閉鎖したのである。
 米国には、この行為が日米戦争につながるとの認識は当然明確にあった。

ハル・ノート

日本軍のハワイ真珠湾攻撃で撃沈される米海軍戦艦 米国は、日本にとって到底受け入れざる条件を提示したため、日米交渉は決裂。ついに日本は対米開戦を決意した。

 昭和16(1941)年になると、先に紹介したように大統領秘密命令で中国側に米空軍軍人を義勇軍という名目の下に大量の飛行機と共に投入した。
 この事実は、日本の真珠湾攻撃以前に、米軍が中国への武器援助を通して、支那事変に介入するのみならず、実質的に参戦していたことを如実に示しているのである。
 しかしながら、米国政府の意図はどうあれ、米国国民は世界大戦への参加を拒否していた。
 ルーズベルト大統領は、米国国民を絶対に戦争に巻き込まないことを繰り返して宣伝して大統領選挙を戦い3選を果たしていた。
 しかしその一方ではチャーチルとの間で米国の参戦を約束していたのである。
 「(米国民との)約束を公然と破らずに、チャーチルと結んだアメリカをヨーロッパ戦争に介入させる約束を果たすただ1つの方法は、ドイツか日本を挑発してアメリカに戦争をしかけさせることであると、にらんでいた。・・・・日本は、その存在を危険にさらさずに後退できないまでに、あまりにも深く日中事変に介入していた。アメリカは、日本が面目をつぶさない限り現に保持している地点から撤退できない、という妥協の余地のまったくない提案を日本側におしつけた。」(ウェデマイヤー回想録)
 かくして日本を全く絶対絶命の状態に追い詰めた米国は、いよいよハル・ノートを提出して、わが国に満州も含めた中国大陸全土からの撤兵を要求してきた。
 米国が、ついにその長年の極東政策の目標であった満州獲得の本音を持ち出したのである。
 勿論わが国としては到底受け入れることのできるはずのない条件であった。
 「自存自衛」のため、わが国はやむを得ず大東亜戦争開戦を決意せざるを得なかったのである。


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