昭和天皇のご見解 ―大東亜戦争の遠因について

 木下道雄「側近日誌」より

 第1次大戦後の講和会議に於て、我が国代表によりて主張せられたる人種平等に関する日本国民の叫びは列強の容るる所とならず(1)、黄白の差別観は世界の各地に残存し、かの加州移民拒否(2)の如き、又豪州の白豪主義の如きは、我に相当の発展力を有しながら、しかも国土狭小にして人口の過剰と物資の不足とに悩む日本国民をして憤激せしむるに充分なものであった。
 のみならず、私が英国を訪問して相互の親善に努力したにも拘わらず、その直後に於て日英同盟は廃棄せられ(3)、又軍備縮小に関する列国の対日圧迫(4)は、年に月に強化し、青島は還付を強いられ(5)、かつ支那に於ける排日教育は列国の弱者に対する同情の下にその根底頗る固く(6)、為に日支の関係は悪化の一途をたどるの外なきに至った。
 しこうして、この国際的悪条件に対処すべき我が国の政治力は政党腐敗の結果、漸く衰弱の相を呈し、もはや政党者の手に政治を委せていては国家の前途危うしという感が国民大衆の間に広く浸潤しつつあった。
 かかる国家の危機に際しては、国民の心気はは自ら鳴動するものである。
 この情勢に乗じ、国民の不満を負うて立ち上がったのであるから、たとえ軍の中心勢力たる小壮客気の者達が手段を選ばざる無謀を敢てすることがあっても、これを抑止するということは難事中の難事であった。
 なぜならば、これら無謀な行動も国家の窮状打開という愛国的行動と一脈相通ずるかの観を呈していたからである。
 私はこれら無謀な行動が招来すべき結果に付て、非常に憂慮したが故に、機会ある毎に軍の首脳者に諭すところがあったが、下剋上の風潮流行し、首脳者の訓戒も部下に徹底しない、さればといって私自身直接に下級将校を面諭することは軍の指揮統率の上からいって許されること・・・・[以下不明]


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