2、御見解に関する解説

(1)国際連盟への幻滅 ―― 人種平等案の否決

 第1次世界大戦の講和会議はパリ郊外のベルサイユで開かれ、大正8(1919)年6月、ベルサイユ条約が締結された。
 講和会議は英・米・仏・伊・日の5列強を中心に進められた。
 いよいよわが国も世界の一流国の仲間入りすることが出来た、と国民はこの事実に感激したのである。
 ところがこの講和会議の最中、そうした国民感情の高揚に水を差すような事件が発生した。
 日本側は国際連盟における人種平等案提出したが、日本移民問題を抱える英・米の反対により否決されたのである。
 この事件を指して、昭和天皇は「第1次世界大戦後の講和会議に於て、我が国代表によりて主張せられたる人種平等に関する日本国民の叫びは列強の容るる所とならず」と御指摘になられているのである。
 これを受けてわが国の牧野全権は「小官はさらに、少なくとも連盟規約の前文に、各国民の平等と公正な待遇を与えるという主義を認める一句を挿入すべきである――と委員会において提議し、多数の賛成を得たにもかかわらず、全会一致に至らなかったとの理由をもって否決された。ある国民に対して、平等と公平の待遇を与えないというのが国際連盟の原則となるならば、それはその国民に対して、異様な感想を与えるであろうことは、明らかであります。そして将来、当然の理として、連盟加盟国の国際関係を律するという正義と公平の主義なるものに対しても、彼らの信念を動揺させる惧れなしとしません。」と国際連盟が日本に提出した人種平等案を否決したことに対する遺憾の意を表明した。
 日本国内では、第1次大戦後、米英両国によって主導された国際協調主義への深刻な不信感が生まれたことは言うまでもない。
 米英が主導する第1次大戦の戦後体制とは結局白人優位の現状の体制を維持するための方便ではないのか、有色人種たる日本は果たしてその中で名誉ある地位を占めることが出来るのかとの疑問である。
 こうした欧米への不信感は深刻で、日本内部には将来の対米戦を予想しての軍事戦略の必要や欧米本位の現在の世界秩序の打破こそが日本の使命であるとする有力な政治路線が誕生することになる。
 世界との協調によって日本の進路を決定しようとの明治以来の外交路線が国民的支持を受け続けることが出来なくなった背景には、この事件から受けた日本人の無言の教訓があった。

(2)米国排日移民法の成立

 昭和天皇は「黄白の差別観は世界の各地の残存し」と御指摘になられているが、その1つの事例として対日不信を国民レベルで憤激にした事件が続いて起こった。
 米国における1924年排日移民法の成立である。
 その発端は、カリフォルニア州排日協会が組織された大正8(1919)年にさかのぼることができる。
 この排日協会発足の目標は、

イ、 日本人の借地権を奪うこと
ロ、 写真結婚、婦人の渡米を禁ずること
ハ、 立法手段によって、日本人移民を禁止すること
ニ、 日本人に永久帰化権を与えないこと
ホ、 米国において生まれた日本人に市民権を与えないこと

に、置かれた。
 排日協会の活動を受けてカリフォルニア州では排日運動が活発化し、「外国人土地所有禁止法」ほか各種の排日法が成立するに至った。
 昭和天皇が「加州移民拒否」とされているのは、これら一連のカリフォルニア1州における排日運動を指しておられるのであろう。
 日本政府の抗議内容を国務長官がカリフォルニア州知事に示したところ、知事は「アジア苦力は奴隷の一種にして、当州は永久に禁止する所なり」と答えて、平然たるものであったという。
 こうした排日機運はカリフォルニア1州にと止まらず全米各地に広がり、大正13(1924)年には、ついに連邦議会で前述の排日移民法が可決されるに至ったのである。
 米国の排日問題は、当然のことながら日本国内でも大問題となり、国民は激昂し、新聞は連日のように米国を攻撃した。
 日米戦争の可能性まで現実問題として国民の間では交わされるに至ったのである。
 第1次世界大戦後、世界政治の指導国が英国から米国に移ったことは誰の目にも明らかとなり、しかもその米国では排日運動が激化している状況は、白人指導国米国に対して、有色人種の日本が対決しなければならない、との国民感情を芽生えさせる結果となったのである。

(上)大正13年7月1日排日移民法施行を伝える東京朝日新聞 排日法が成立すると新聞各紙は激しく米国を攻撃し、米国非難の国民大会が相次いで開催された。排日法施行が伝えられるとアメリカ商品不買運動も起こった。 (上)カリフォルニア州の排日土地法にともなって作られたポスター 日本人移民は米国国内では微々たる存在でしかなかったにもかかわらず、激しい排斥運動が沸き起こった。当時の米国内における頑なな、排他的人種差別の風潮がうかがえる。

(3)日英同盟の廃棄

 昭和天皇が皇太子として初めての御外遊で英国を訪問され英国王室および英国国民との親善を深められ、かつ昭和天皇が崩御にいたるまでそのことを懐かしく思われていたことは良く知られた事実である。
 当時の日本にとっては、日英の同盟による絆は、外交戦略の基本原則と考えられていた。
 であればこそ昭和天皇は「私が英国を訪問して相互の親善に努力したにも拘わらず、その直後に於て日英同盟は廃棄せられ」と無念の御言葉を述べられたのであろう。
 しかし20年間にわたり日英両国のアジア政策の基本として重要な役割を果たしてきた日英同盟が廃棄されたのは、日英間の利害の衝突のためではない。
 中国における覇権掌握を妨害する最大要因との判断を持つ米国の圧力に英国側が屈したからであった。
 日英同盟は、1921年12月13日、日英米仏間に4国条約が締結されることとなったため、自動的に廃止された形となっているのだが、このことについて、会議の米国全権の1人であるロッジ上院外交委員長は「4国条約の主要目的は日英同盟の終了である。日英同盟はアメリカの極東及び太平洋に対する関係における最も危険な因子であった」と演説して、米国の勝利を誇っていることからも米国側の狙いは明らかであろう。
 なぜ米国にとって日英同盟の廃棄が必要とされたのであろうか。
 この点について示唆を与えてくれるのが、1921年6月30日、英国首相ロイド・ジョージが英自治領諸国代表たちに日英同盟の存在意義を語るために行った、「中国がアメリカの大手を振って歩ける国にならないように、そしてアメリカが中国貿易の全利益を占めないようにすることが重要である」という発言である。
 ロイド・ジョージによれば日英同盟の存在が米国の中国進出を抑制してきたというのである。
 であればこそ米国は日英間を離反させることに努力を傾注したことになる。
 このため、この同盟廃棄問題をワシントン会議で討議することを渋る英国に対しては、米国側から様々な圧力が加えられた。
 例えば英国の駐米大使ゲッデスは、ヒューズ米国国務長官の「もしアメリカが、自分には何も求めず、ただイギリスを救うために戦争(第1次世界大戦)に突入しなかったら、そして(金切り声を挙げる)勝たなかったら、貴方はここでイギリスを代表して話してなどはいないだろう、どこであろうと話してなどはいないであろう。イギリスは、全然話すことなどできないであろう。話しているのは、その声が聞こえるのはカイザーなのだ。それなのに貴方は、日本に対する義務について話している。」との発言をカーゾン英国外相に報告している。
 いかに日英同盟廃棄問題が、米国にとって最重要課題であったかが理解出来る。
 結局、英国は米国の圧力に折れ、日英同盟の廃棄が決定した訳である。
 その際、英本土に根強かった同盟存続論をねじ伏せたのは、英連邦を構成する有力国でありながら、経済・安全保障の両面で米国との結びつきが強まっていたカナダが反対したからである。
 連邦の結束維持を英国は優先せざるを得なかったため、英国は同盟廃棄を決断した訳である。
 この同盟廃棄問題は第1次大戦後顕著となった世界的なパクス=ブリタニアからパクス=アメリカーナへの趨勢(すうせい)の中で、英連邦諸国の本国離反、極東における米国の進出、英国の退勢をはっきりと印象づけている。

(4)ワシントン海軍軍縮条約

 日米両国の戦争は、広い太平洋を舞台に海軍が主役となる戦争である。
 このため日米関係が険悪化していった第1次世界大戦前後から、日米両国は互いに相手国を仮想敵国として戦略を練った。
 その1つの現われが、米国が大戦前後から世界最大の海軍力構築を目指して建造計画に着手しかつ強力な太平洋艦隊を編成したことである。
 この米国海軍大拡張計画に国防上の不安を抱いた日本は、対抗上戦艦8、巡洋艦8を基幹とする八八艦隊編成計画に着手せざるを得なかった。
 ワシントン会議では、英米日の建造競争に歯止めをかけるために海軍軍備制限に関する条約が米国の提案によって検討されたが、米国は英国との協調によって、日本海軍が国防上の責任を負える限界としていた対米7割を下回る対米6割のラインに押し止めることに成功した。
 すなわち主力艦に関する制限が設けられた。
 その比率は主力艦については、米18隻・50万650トン、英22隻・58万450トン、日10隻・30万1320トンとする、航空母艦については保有トン数の最大限を米・英各13万5千トン、日8万千トンとすることで決着した。
 このため日本の八八艦隊編成計画は破棄を余儀なくされたのである。
 軍縮、平和の名目は麗(うるわ)しいが、当時の米国の全体的な対日戦略の厳しさを合わせて考えるならば、明らかに米国の意図はこうした理想と異なったところにあったと言わざるを得ない。
 米国の政略により、いわば戦わずして日本は軍艦を沈められた訳である。
 しかも次回のロンドン軍縮会議における補助艦制限問題でも、日本は不利な条件を飲ませられた。
 まさに昭和天皇が言われる通り「軍備縮小に関する列国の対日圧迫は年に月に強化」されていったのである。

ワシントン会議(左上)と軍縮条約によって沈められる軍艦「津軽」 極東・太平洋地域の平和、安定と大国の軍縮を名目とした国際会議であったが、その実は提唱国である米国のいわゆる”日本たたき”であった。

(5)青島(チンタオ)還付

 昭和天皇が米国による対日圧力の一事例として挙げておられる「青島還付」とは、次のような事情を指している。
 すなわち第1次世界大戦において日英同盟に基づいて対独参戦した日本は、ドイツが中国から租借していた極東の拠点青島を攻撃占領した。
 ベルサイユ講和会議では、このドイツ租借地を日本が継承することになったのであるが、この会議中から自らも対独参戦した戦勝国であるとして直接返還の主張を行ったのが中国全権団である。
 この中国の主張は、実際に戦っていないものには権利なしとする列強の容(い)れるところとならず、青島に代表されるドイツの山東権益は日本が継承することとなり、中国側は講和条約への署名を拒否することで抗議の意志を示した。
 ところが中国側は、ワシントン会議でもこの問題を議題にしようとした。
 中国側の覚書作成には米国のランシング、ライシュなど米国の国務長官、駐支公使経験者が加わっていることに明らかなように、事実上この中国側の要求は米中共同作戦によるものであった。
 結局日本はワシントン会議とは別に、中国と直接交渉を行い、大正11(1922)年2月に結ばれた、山東懸案解決に関する条約によって6ヶ月以内の還付が決定したのである。
 これによって日本人3万人が居住しかつ1億5千万の巨費を投資した青島が失われたのみならず、中国側に米国の力を利用した外国権益回収運動の有効性を確信させることとなったのである。
 この間米国、中国の動きについてワシントン会議における英国代表リッデルは「米国人はシナとの友好関係を作ることには、海軍問題以上に熱心であった。その理由は、シナを米国商品に対する最大市場であると見ていたからである。パリ講和会議でウイルソンは、大いにシナのために戦った。・・・・・ワシントン会議ではシナは大もてであった。シナ側の主張は、米国人がこれを立案したものである。そしてシナ人は、米国にとり入るためにあらゆる努力を払った。」と記している。

(6)支那の反日教育

 第1章で指摘したように、米国の対アジア戦略の柱の1つは、中国の反日ナショナリズムの育成におかれていた。
 その具体的な手段が米国系の教育機関による反日教育の徹底であった。
 昭和天皇が、「支那に於(お)ける排日教育は列国の弱者に対する同情の下にその根底頗(すこぶ)る固く」とはこのことを御指摘になられているものと思われる。
 すなわち米国は、対中圧倒的優位を占めるに至り、しかもその重点は教育事業に置かれた。
 政府及びキリスト教新教各派による広範囲な教育事業の結果、多くの親米的指導者を生み出すに至った。
 革命後の中国に勃興したナショナリズムを担った政府、言論界の指導者たちの特徴として、外国がえりことにアメリカ帰りのニューリーダーの多さが挙げられる。
 宋子文(ハーバード大、コロンビア大)、宋慶齢・美齢(ウェルズリー大)、孫科(カリフォルニア大、コロンビア大)ら中国国民党幹部がその中でも有名である。
 彼らは自らが親米的であると共にその友人、知人を通じて米国の政財界有力者とのつながりを深め、米国の極東情勢が反日・親中国に傾く上で大きな影響力を及ぼした。
 宣教師たち自身も繰り返し、米本国に対して、中国への日本の圧力を取り除き、新米的な統一国家が誕生すれば、中国市場は米国にとり魅力あるものになる、との通信を行っていたのである。
 それゆえ、中国の大学の多くでは親米色の強い教育が留学帰りの教授らによって行われると共に、米国系の多くの英字紙、漢字紙が発行されて言論界に影響力を及ぼしたのである。
 このように中国の言論、教育界は共産党イデオロギーの流入が活発になるまでは、ほとんど米国の影響下にあったといっても過言ではない。
 従って、中国では米中の反日提携が進められる中で徹底的な反日教育が行われるに至った。
 しかも国民党が共産党との協力に踏み切り、共産イデオロギーが中国にもたらされてくると、ことに中国の大学生は一層過激な反日運動に走るようになり、奉天で反日2万人集会を開くなど日本の満州権益回収要求の先頭に立つにいたったのである。


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