あとがきにかえて

 本パンフレットにおいては、様々な角度から米国の戦前の極東外交を総括してきた。
 ここまで改めてまとめ直して見ると、米国が中国全土を含むアジアの制覇を目指し、その第1段階として日本の満州権益への介入を繰り返し試みた。
 その手段として重要視されたのが、満州諸鉄道中立化計画に代表される直接介入ではなく、第1に中国の反日ナショナリズムを育成しこれを代理者として日本とぶつからせる、第2に明治以来の日英同盟の廃棄を始めとする日本の国際的地位を保障していた様々な基盤を堀り崩す外交戦略の展開という間接介入の方法であった。
 米国がこの基本戦略をトータルな形で展開し始めたのは、実に第1次大戦からであった。
 そういう意味では、昭和史を理解するには、大正年間のワシントン会議前夜からの日米関係から始めなければならない。
 まさに昭和天皇の御指摘になられたように、大東亜戦争の遠因は、この時代における米国の露骨な対日圧迫政策とこれに対する日本側の不信にある。
 昭和史とは、この確立された米国の極東政策を中心に対立を深めた日米関係が破局に向かって驀進(ばくしん)していった歴史であったと言うことができよう。
 すなわち、満州を国防上の生命線と考えた日本は、それを守るためには武力発動をも辞さない覚悟を世界に示した。
 ところが、米国は、日本を共産主義ソ連の南下からアジアを守る安定勢力としてではなく、アジアの侵略者と見る立場から中国側への軍事援助と対日経済制裁という手段によって日本を屈服させようとしたのである。
 日本さえ中国大陸から駆逐(くちく)すれば、アジアに平和が回復し米国はその中で商業的利益を独占できると考えたからである。
 この両者の亀裂は、欧州大戦の勃発とともに更にエスカレートして行く。
 米国の識者の中には、日本の立場に理解を示し、このまま米国の政策を変更しなければついには日米戦争に至るとの警告を行った者もいたが、こうした声は米国外交には反映されることがなかった。
 中国側への軍事援助を増大させながら、一方では日本に対する経済制裁を次第に強化していったのである。
 米国に代わる戦略物資の安定供給先を求める日本は、南部仏印に進駐し、一方米国はひそかに中国戦線への空軍派遣に踏み切り、次いで石油の全面禁輸政策を発動したのである。
 こうして日本を圧迫して戦争に引きずりだした米国は、日本駆逐という所期の目的を達成した。
 ところが、そうなれば競争相手のなくなったアジアでの商業的利益を独占できるとの米国の目論見(もくろみ)は外れ、米国はそれまで非難していた日本と同じく、共産主義の伸張に対抗するために武力の発動に踏み切らざるを得なくなったのである。
 ここに至って、初めて米国は戦前の自らの政策を独善的であったとする悔根と日本の立場への同情の念が生まれてきたと言ってよい。
 このアジアにおける共産主義との対決によって若者の血を流す体験をすることによって、米国は戦前の自らの外交がいかに現実を無視した観念的なものであったか、その結果日本の正当な主張を無視して国際的安定を損ねたかを知るようになった。
 この戦後の米国の立場と同様の立場にあった日本への米国側の理解の芽を、日米共通の歴史認識の基盤とすることは、真の日米の相互信頼関係樹立のために不可欠であろう。
 なぜなら、今日の日米関係の中で生じてきている日米間の相互不信関係への何よりの教訓となると思われるからである。
 その意味で、これまで放置されてきた感のある米国側の戦争責任を明らかにしようとする本パンフレットの試みが、昭和史についての正しい共通認識確立の一助ともなれば幸いである。
 平成3年11月20日


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