はじめに

 我が国は日露戦争において、日英同盟によるイギリスの支援、及びアメリカの調停によって、明治38(1905)年にロシアに勝利しポーツマス条約を締結した。
 その結果、日本はロシアの南下を阻止するとともに南満州に権益を確保することとなった。
 すなわち日本は、ロシアより旅順を・大連そして南満州における約1千キロの鉄道(南満州鉄道)及びその付属地における経済権益を確保したのである。
 この鉄道は、日本の安全保障とも密接なかかわりがあった。
 その後、大正10(1921)年11月、アメリカのワシントンにおいて、中国及び太平洋における安全保障問題を討議するためにワシントン会議が開催された。
 このワシントン会議では主力艦の制限及び太平洋島嶼(とうしょ)等の現状維持を約した「海軍軍備制限に関する条約」(ワシントン軍縮条約)、太平洋に関する紛議を、日本、イギリス、アメリカ、フランスの4国が相互に協力して対処することを約した。
 いわゆる「4ヶ国条約」、中国の主権の尊重、独立及び領土的行政的保全、中国に関する全ての国々の商業及び工業に対する機会均等を約した、いわゆる中国に関する「9ヶ国条約」が締結するに至った。
 海軍軍縮条約では、戦艦などの主力艦に関して日本海軍が国防上の責任を負えるとしてきた対アメリカ比率7割のラインを下回る6割となり、アメリカ海軍に対して著しい劣勢を強いられることとなった。
 また、日本は4ヶ国条約の締結と引き換えにそれまで日本外交の主柱であった日英同盟の廃棄を余儀なくされた。
 さらに新たに締結された9ヶ国には、締結国間での解釈の相違が生じた場合の具体的解決法が明示されず、かつ中国自身の条約尊重義務が規定されていなかったため、我が国の満州権益に対する中国側の不当な攻撃を解決することにおいて大きな問題を残した。
 またこの会議を契機として、アメリカが仲介して行われた日本と中国との交渉で、日本の租借地である青島を中国に返還することとなった。
 このように我が国にとっては不利な条件が含まれた体制であったにもかかわらず、日本がこのワシントン体制を支持したのは、列強の有する中国大陸における権益の現状維持が条約締結の前提となっていたからである。
 従って当然我が国の満州権益についても否定されておらず、こうした条約をアメリカが加わった形で締結すればアメリカが満州権益を公式に認めたことになると判断したからである。
 当時の内田康哉(こうさい)外相は欧米協調によって満州権益を維持することができると判断していた。
 その後満州事変の際に再び外相となって、満州事変と満州国建国を強く支持することになるが、この時点では、欧米協調路線が危機に瀕(ひん)することによってワシントン体制も満州権益を守る体制ではなくなったと判断したのである。
 この内田外相の考えの変化の中にこそワシントン体制下におけるアジア情勢の推移を見ることができるのではないだろうか。
 この推移について次に検証していきたい。


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