満州国建国と国際連盟脱退

 我が国は満州事変に至らざるを得なかった事情について、欧米諸国からの理解と支持を得るべく、国際連盟による事変調査団派遣を進んで提案した。
 ところがアメリカは、「世界諸国民にとって企図された平和諸条約の権威に対する脅威である」(スチムソン国務長官)との判断に立ち、また国際連盟派遣のリットン調査団も満州事変を日本の自衛行動と認めず満州国の独立を否定した報告書をまとめるに至った。
 ここにおいて我が国は満州国を承認し、国際連盟を脱退するか、あるいはリットン報告書を受け入れて満州国を否認するかの選択を問われることとなった。
 ワシントン体制の維持か満州国の承認かの選択を迫られた我が国は、満州問題の解決の方法として、最終的に満州国承認という手段を選択した。
 なぜアメリカや国際連盟の主張を否定し、換言すれば欧米協調路線を捨てても独自の道を歩むことを我が国を選択したのか。
 この判断の背景には以下のごとき理由が挙げられる。すなわち

(1)  我が国では幣原(しではら)外相が推進した欧米協調外交の下、欧米諸国及び中国との友好関係を維持しながら満州権益の擁護(ようご)を図ろうとした。
 ところが中国側はこうした日本の態度を弱腰と判断し、中国において最大の権益を有してきたイギリスよりも日本を権益回収のターゲットとして優先させ、排外ナショナリズムの目標とするようになり、他の列強もこうした中国の動きを支援した。
 我が国が国家の生命線と受けとめていた満州権益は、中国及び英米ソ3国による攻撃を受けた。
 この過程において欧米との協調を優先させるワシントン体制のままでは、我が国にとって満州権益防衛のための有効な手段を打てないことが明らかとなった。
(2)  そもそも満州権益に対する様々な攻撃を阻止し平和安定を確保できなかった原因の1つには、満州において責任ある政権の所在が不明確であることであった。
 なぜならば中国本土には、南京に国民党の蒋政権があり満州をも含めた中国全土の支配権を唱えていたが、一方満州は軍閥(ぐんばつ)の1つである張政権が事実上支配するところであった。
 このため我が国は、中国側の排日運動を取り締まり満州権益を擁護するためには国民党政府と張政権の両方を交渉相手にしなければならなかった。
 両者とも満州における排日行動にともなう暴動や事件を取り締まり民生を安定させるといった統治者としての責任を果たす事には熱意を持たず、責任を互いになすりつけた。
 それゆえに、満州において責任ある政府を確立し、治安の安定、経済混乱の解消をはかるため、新しい国家のシステムを確立することが急務となったのである。
(3)  満州と中国本土とは満州人の王朝であった清が中国本土を支配した結果、あたかも一体であるかのようなイメージがあったが、歴史的には万里の長城で隔てられた別々の国であった。
 ところが満州を地盤としていた張作霖が中国本土をも支配しようとしての野望から中国本土をめぐる政争に介入したり、逆に中国本土を支配する国民党と張作霖の子の学良が接近して、満州に国民党の勢力を浸透させるなどの結果、満州は中国本土の政治情勢と無関係ではあり得なくなり、満州の平和と安定が損なわれるようになった。
 これを阻止し満州を安定させるには、中国本土から満州を政治的に分離独立させる必要があった。
 これは満州人が強く望むところだったので、満州事変の勃発後各地の満州人有力者から独立を求める声明が発せられたのである。
(4)  また、当時ソ連がシベリア鉄道の複線化などによって着々と極東ソ連軍の軍備を強大化させていた。
 ソ連コミンテルンによる満州の共産化を阻止し、かつソ連の南下に対するアジアの防波堤になる使命を自覚していた日本としては、満州地域に関して日本が防衛の責任を果たし得る国家システムを早急に作り上げなければならなかった。
昭和7(1932)年2月、満州各省の代表が一同に会した巨頭会議。満州事変を契機にして各地に独立政権樹立を求める声が高まり、満州国建国が実現した。

 かくして満州事変は、独立した新しい国家システムを満州において確立する運動、すなわち満州国建国を構想したものとなったのである。
 そして我が国政府は日本の立場に無理解な欧米との協調路線よりも、現実の満州情勢に最も適合していると判断された満州国承認の道を選択したのである。
 我が国の外交路線に対抗して、アメリカは、それまで国家として承認することを拒否してきたソ連との国交を樹立した。
 すなわちルーズベルト政権は日本を牽制(けんせい)するための手段として、日本と国境を接するソ連との提携強化に乗り出したのである。
 これ以降、満州問題をめぐって、欧米の理解と支持の下に満州国を維持発展させることを断念した日本は「帝国は他国が認めると否とに拘(かか)わらず、自己の東亜における使命を守るために、全力を尽くさざるを得ざるに至れり」(広田外相)、「日本は諸外国に対しては、常に友好関係の維持増進につとめているのはいうまでもないが、東亜における平和及び秩序を維持するためには、日本の責任において単独になすことは、当然の帰結」(天羽外務省情報部長のいわゆる天羽声明の一節)であるとして、東アジアの政治情勢においてアジア問題を日本独自で解決しようとする独自路線を歩むこととなった。
 この結果、中国・ソ連との提携によって日本を封じ込めようとするアメリカとの対立構図が露になっていったのである。
 ここに日本の外交路線の変化、すなわち欧米協調路線からアジア独自路線への展開が始まるのである。


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