ソ連及び中国共産党の動き

(1)中国国民党と中国共産党の連合(第1次国共合作)

 ソ連・コミンテルンの対中国政策はロシア革命直後から中国国民に対する宥和(ゆうわ)政策として始まった。
 すなわち大正8(1919)年にソ連政府は中国政府に対し、それまで中国と結んだ一切の協約を廃棄し、東支鉄道及び、満州の鉱山、森林、金鉱など一切を中国へ返還する協議にはいるという第1次カラハン宣言を発し、大正9(1920)年には、領土ほか一切を中国に還付し、中国における治外法権を撤廃し、東支鉄道の運行に関する新条約を締結することを提示した第2次カラハン宣言を発した。
 これによって中国国民の間には親ソ意識が生まれ、大正10(1921)年には中国共産党が結成されたのである。
 一方、袁世凱(えんせいがい)の北京政府から追放された中国国民党の孫文は広東に政府を樹立すると、中国共産党と連携を深め第1次国共合作を行った。
 ソ連は広東国民政府に最高顧問としてボロヂンを送り、その他150名の軍事顧問などを派遣して、政治経済軍事の各分野を変革していった。
 また大正13(1924)年に中国国民党は、ソ連共産党の組織を模倣(もほう)した国民党の新組織を形成し、第1次全国代表大会を広東で開催した。
 この大会において、孫文は「民主主義は共産主義を包含している」と演説し、イデオロギーの上でも共産主義を受容した発言をしている。
 第1次国共合作後、広東政府は国民党及び共産党からなる国民革命軍を組織し、北方軍閥を討伐するため、大正15(1926)年に「北伐」を開始し、岳州、漢口、九江などの主要都市を次々に占領して北京に迫った。
 この過程で革命士官学校は共産化され共産主義者が多数輩出することとなった。
 また国民党中央執行委員として毛沢東ら共産党員13名が就任し国民党内部に影響力を拡大した。
 反共を標榜(ひょうぼう)していた蒋介石も、北伐軍総司令官に就任する時には「中国革命は正に彼の第三インターナショナル(コミンテルン)の指導を受くべし」と言っているほどである。
 また、大正13(1924)年から昭和2(1927)年までに、ソ連が広東政府に、小銃約23万丁、大砲100門及び飛行弾薬を送り、さらに毎年300ルーブル強の資金を提供したと言われる。


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