(2)中国共産党の武装革命による中国の中南部地域支配(ソヴィエト政府樹立とソヴィエト化)

 中国共産党は大正14(1925)年には中華全国総工会(共産党中心の労働組合)を組織し、経済闘争を政治闘争に成長転化させる目標(1926年コミンテルン決議)をもってストライキを敢行した。
 上海で始まったストライキには15、6万人の労働者が加わり、全市にわたる示威運動を展開し、激昂(げっこう)した群衆が警官と衝突し多数の死傷者がでる暴動(5・30事件)となった。
 このストライキは漢口、南京、九江、重慶、北京、天津の全国各地に及んだが、この様子を日本外務省亜細亜局は「外国人経営ノ工場は全国ニ亘(ワタ)リテ殆ンド例外ナク罷業(ストライキ)ニ逢ヒ」と報告している。
 さらに5・30事件はソ連・コミンテルンの指導のもとに行われ、その闘争資金としてソ連領事館より43万ドルの出資があったことも同亜細亜局は報告している。
 コミンテルンの指令により中国共産党は、昭和2(1927)年、武装暴動を決議し、最初のソヴィエト政府を広東省に樹立した。
 ソヴィエト政府が樹立された状況とは、独特の法律、軍隊及び政府の下に、内政局、教育局、郵便電信局、交通局などの政府組織を形成することである。
 ここでは住民は厳重に統制され、組織に抵抗すれば殺害されるため、住民はいやおうなく共産軍に従わねばならない状況であった(リットン調査団報告による)。
 それについては外務省東亜局も「政権成立後ハ農兵民衆ノ名ノ下ニ実際ニ於テハ共産党ノ独裁政治」が行われたと報告している。
 下記はソヴィエト政府樹立状況を示したものである。

昭和2(1927)年、 広東省の海豊・陸豊にソヴィエト政府を樹立(農民暴動による革命)
      同年、 広東省ソヴィエト政府を樹立(仙頭付近で農民暴動を起こし、広東を武装占領して政府を樹立)
昭和5(1930)年、 広西省百色にソヴィエト政府を樹立。
      同年、 江西省ソヴィエト政府を樹立。
      同年、 広西の竜州と福建省竜厳にソヴィエト政府を樹立。
      同年、 11月に毛沢東らは、以上の地域を統合する中心政府として、ソヴィエト中央臨時政府を端金に樹立した。

 以上のようなソヴィエト政府樹立に当たって、共産軍の蛮行は残虐を極めた。
 国民党の何応欽(かおうきん)の報告によれば、江西省で虐殺されたものが18万6千人、放逐されたものが210万人、家屋の焼かれたものが10万戸以上に及んだ。
 その他ソヴィエト化された地域は、

(1) 武漢三鎮以外の湖北省全地域(湖北省各県の様子を外務省亜細亜局は「紅軍ニ占領セラレタル区域ハ三十一県ニ亘(わた)リ被占領区域避難民ハ三百十三萬九千餘人」に上がった、と報告した。)
(2) 福建省西部各県
(3) 広西省西部のほとんどの地域
(4) 湖南省東南西部
(5) 河南省南部
(6) 安徽省北部各県
(7) 江蘇省数県

 共産主義が最大勢力を誇った時には、9つのソヴィエト区と400のソヴィエト県、30万の共産軍(農兵を含むと60万から200万)の勢力であったと言われる。
 地図が示すように、中国の中南部一帯はことごとく共産化されたのである。


次のページへ