(3)蒋介石の共産軍討伐と防共自治委員会の設立

 第1次国共合作後、余りに激しい中国の共産化状況に脅威を感じた蒋介石は、昭和4(1929)年から昭和7(1932)年にかけて三次にわたる共産軍討伐を行った。
 だが、この討伐戦はいずれも失敗に終わった。
 この間、アメリカは、昭和8(1933)年8月に米国農務省が8千万ドルの小麦と綿花借款を南京の国民政府に与え、さらに昭和9(1934)年2月に中国広東軍司令部と米航空公司との間で米軍の援助による空軍3年計画契約交渉を行い、米軍用機購入と米海軍予備将校の指導をもとに、福州およびアモイに米国は飛行場を建設している。
 かくして実力を蓄えた蒋介石は、第4次共産軍討伐に乗り出し、中国中南部の共産軍に攻撃を加え、昭和8(1933)年には第5次討伐を敢行し、江西省端金に対する経済封鎖によって共産勢力を駆逐し、昭和9(1934)年12月に、ようやく共産党政府及び共産軍主力を端金より追放したのである。
 この討伐戦によって、共産軍は華北の延安まで撤退を余儀なくされたが、ここにおいて共産軍は華北を中心とする中国農紅軍革命委員会を設立し、華北一帯を共産化するべく共産遊撃区を構築していった。
 共産軍の遊撃区(昭和10年現在)は、

(1) 北京・天津を除く河北省全域、
(2) チャハル省と綏遠省の省境地域、
(3) 山西省の西部地域、
(4) 山東省北西地域

 に及んだ。
 国民党政府が共産党討伐に全力を尽くしていた間は、排日事件も余り起こらなかったのであるが、共産党が延安に拠点を移して華北一帯に共産遊撃区の構築に乗り出した時期から、排日事件が再び頻発(ひんぱつ)するようになったため、日本政府は、昭和10(1935)年10月に広田3原則を発して、支那における排日状況の解決をはかった。
 その概要は、

(1) 中国側で排日言動を取り締まるとともに、日華両国は相互独立の尊重と和親協力関係の増進に努める。
(2) 中国側で満州国を承認し、日満華の新関係の樹立をめざし経済的文化的提携を結ぶ。
(3) 北支一帯における共産主義の脅威を排除するという見地にたって国民党政府と日本との合作を行う。

 というものであり、共産主義の脅威を除去して、中国と友好関係を結ぶことを目的としたものであった。
 それは共産党討伐を推進していた蒋介石とも利害の一致するところと考えたからである。
 これにより、日本は、排日テロ事件防止のために国民党との合意のもとに、「冀察(きさつ)(河北省とチャハル省)政務委員会」を成立させることになった。
 この時期には対共産主義政策において、日本政府と国民党政府の間にはそのような関係が成立していたのである。


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