(6)盧溝橋事件の原因をつくった中国共産党

 昭和11(1936)年、反日傾向が高まる中で、上海では日本人経営の紡績会社において、中国人労働者約1万人がストライキを行った。
 ストライキが激化したのをみた紡績連合会は、その背後に共産勢力があるとして取り締まりを依頼し、上海総領事も抗日救国会の指導者8名の逮捕、各大学共産党分子の取り締まり、暴行犯人の逮捕を国民党政府に正式に要求した。
 さらに、燕京(えんきょう)大学、清華大学、北京大学、東北大学などで、共産党系の学生が「日本帝国主義打倒」などのスローガンを掲げて1万人のデモ行進を行い(12・9運動)、警察と衝突して流血の惨事となる事件が起こった。
 そのような反日攻勢がかけられる中で、彭徳懐(ほうとくかい)、林彪(りんぴょう)が指揮する共産軍主力2万余の軍隊が山西省に進攻し、河北省に駐留していた日本軍に接近するという事態が生じ、情勢は緊迫していった。
 以上のような状況の中、昭和12(1937)年7月7日夜、盧溝橋北方約1キロの龍王廟全面地区において、日本軍が射撃をうけたことに端を発する「盧溝橋事件」が勃発した。
 この事件を起こした責任の所在については様々な議論があるが、

(1) 事件当時は国民党に所属していたが、事件後中国共産党員となった金振中は「私は、盧溝橋に至る(到着する)や、ただちに戦闘態勢を予期する兵力配置を行った。比較的強力な第11中隊を鉄橋東方地区及びその北方の回龍廟(龍王廟)にかけての一帯に、・・・配置し」、さらに射撃許可まで出していたと回想している。
(2) 盧溝橋事件の僅か数時間後に、中国共産党が中央委員会をもって「・・・われらは進攻する日本軍に対して断固攻撃を加えるとともに、新たな大事変に即応する準備を急ぐよう要求する。・・・武装して北平(北京)、天津、華北を防衛しよう・・・」という通電を全国に発している。
事件の真相が明らかとなっていなかった時点で、このような通電を発し得たという事は、中国共産党が盧溝橋事件に明確に関与し、戦略的な意図が充分にあったと考えられる。
(3) 北京の米海軍武官がワシントン海軍作戦司令部に、「信頼スベキ情報ニヨレバ、第29軍宗哲元麾下(きか)ノ一部ノ不穏分子ハ現地協定ニアキタラズ今夜七時ヲ期シ、日本軍ニ対シ攻撃ヲ開始スルコトアルベシ」という暗号電文を発した。
この電文は7月11日午後2時に埼玉県大和田の海軍受信所にて傍受されていた。
これは、盧溝橋事件を意図的拡大しようとした勢力があったことを証明するものである。
(4) 昭和25(1950)年12月9日付けの人民日報において、劉少奇が「「12・9」運動が保持していた学生大衆革命運動の情熱と積み重ねられた革命の力量が1937年の「7・7」にまで至っている。これが全国抗戦の新局面となった。」と述べているが、この一文は昭和10(1935)年より勃興(ぼっこう)した中国共産党の指導する学生運動が盧溝橋事件(「7・7」)にいたるまで持続し、盧溝橋事件に深く関与していた事を示すものである。
(5) これら劉少奇発言を裏付けるものとして、「7・7事変(盧溝橋事件)は劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以(も)って党中央の指令を実行したもので、これによってわが党を滅亡させようと第6次反共戦を準備していた蒋介石南京反動政府は、世界有数の精強を誇る日本陸軍と戦わざるを得なくなった。その結果、滅亡したのは中国共産党ではなく蒋介石南京反動政府と日本帝国主義であった。」(ポケット版中国人民革命軍総政治部発行「初級事務戦士政治課本」)がある。

 以上の諸点を見れば、盧溝橋事件は、排日事件を頻発(ひんぱつ)させ、西安事件によって抗日戦線を形成してきた中国共産党が、日本との戦争を行うべく、戦略的な突出を行い、国共一体となって、抗日戦を切り開いて行く状況を作ろうとして起こした事件と見るべきである。


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